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2022年8月16日火曜日

20220816 中央公論新社刊 中公クラシックス 柳田国男著「明治大正史」世相篇 pp.63-65より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 柳田国男著「明治大正史」世相篇
pp.63-65より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600134
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600134

 「白米が白くなり過ぎた主な原因は、鮨米の誘惑であったように考えて居る人がある。しかし、米の飯はわれわれの理想の行止りであった故に、強いてこの上の奢りを企てようとすれば、それを白くでもして見る他はなかったろう。実際またよく磨がれた米の飯は美しいものであった。それが害だということに心つかぬ限り自然に白くなるには手本も要しなかったと思う。もっとも、鮓米だ酒造米だと称して、むやみに杵の数を多く当て始めた時代が、ちょうど房州砂が盛んに売れ、飯の白いのを賞玩する風習の起りであったことも事実だから、まるまる関係がなかったともいい切れない。いずれにせよ寿司が今日のようになったのは変遷であって、決して明治以前からの、今のとおりおものを食っていたのではないのである。

 鮓の変遷だけは幸いにまだ各地の実例が伝わって居るために、単なる比較によって容易にその経路を窺うことができる。他の多くの食品においては、もはやこれほど忠実に以前の慣習を残して居る地方はないのである。鮓は「土佐日記」にすでに見えて居るごとく、最初はただ魚類を保存する方法の一つであった。単にその方法の最も巧妙にして、また贅沢なるものというに過ぎなかった。海川の獲物はしばしば豊富に過ぎて、一回の消費に剰る場合があった。これを遠くの人に販ごうという考えのなかったころから、貯えて他日の用に備えようとする念慮は起り易かった。その簡便なる方法には干魚があって、もとはこれ一つが運送に適していた。塩物は多分その臭味を防ぐために、次に発明せられた改良であったろうが、これも加減が覚えにくく、また概して元の味を割引しなければならなかった。鮓だけはひとりその発酵する力によって、別に新たなる風味、香気をつけ加えたのである。いわゆる鶚鮓の昔話が全国に流布して居るのを見ると、もとは偶然の発見に基づくものかも知れぬが、少なくとも飯をその保存に利用したのは考案の結果であった。現在はすでに地方の技術となり、あるいはただ二、三の旧家の口伝に属して、詳細を知ることもできぬが、最初は魚と殻類との自然の酸によって、久しきを経てようやく熟するを待ったことだけは明らかである。

 それが醸造酢の外部からの供給によって、寿司の製法はここに一変した。早鮓という名前はまずこれに向かって与えられたかと思うが、後にいま一段と迅速なる作り方が現れたために、この分はもう古風になろうとして居る。現在の巻き鮓・握り鮓は、いわば米の飯の一種の食法であって、その趣向はむしろ握り飯の方に近いようである。これが簡便と新しい趣味とによって、全国を風靡したのは面白い事実であるが、少なくとも鮓の製法の改良とはいうことができなかった。鮓の要件は馴れるという点にあった。外から酢を注いで味をつけるようになってからも、これまであったものは漬けると称して、器を詰め込み押し石を載せ、何日かの日数を重ねて米と魚との変質するを待ったのである。それが普通の飯や膾とくらべて、どれだけの養分と消化力の相異があるかは、調べて見た人がまだいないというのみで、とにかく二者は食品としてはまったく別のものであった。民族の嗜好は永い間の習慣によって、容易に改めることができぬという説は、日本には必ずしも当てはまらぬことが多い。都市はむしろ新奇なる物の味を、次から次へと尋ねて行く傾向をもって居るが、ことに専門の飲食店が、これを日々の商品として取り扱うようになると、その変化が急速なようである。鮓は古い言葉だから、これこそは固有であろうと思っていると、もう知らぬ間に内容の方がちがってしまって、なまじいに元の名を相続したばかりに、かえって前に存したものを忘れさせて居る。衣食住の現在の仕来りの中には、これに似た例はまだいろいろある。」

2021年10月23日土曜日

20211023 中央公論新社刊 佐々木高明著「照葉樹林文化とは何か」 pp.44-48より抜粋

中央公論新社刊 佐々木高明著「照葉樹林文化とは何か」
pp.44-48より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121019210
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121019219

 モチの次にスシの原型と考えられるナレズシが、やはり照葉樹林対とその周辺に次々と分布していることに注目してみよう。

 ナレズシは、日本では琵琶湖のフナズシによくその原型が残っているが、魚を開いて腹をきれいに掃除して塩をふり、その魚の切り身と炊いたり蒸したりした飯とを交互に重ねて、甕や桶の中に漬け込んだものである。半年ひど置いておくと飯が乳酸発酵してどろどろになるが、乳酸発酵で雑菌の繁殖が抑えられて、魚や肉の保存食となる。このようなナレズシをアッサムのシロンの露天市で、カーシー族の女性が売っているのをみかけたことがある。一包み買って開くと異臭が強く鼻をついて困ったほどだった。

 知られているかぎり、このカーシー族のものを西の端としてナレズシは点々とそれから東方に分布している。タイの中北部やラオスなどでは、川魚に塩をして、それと飯を交互に漬け込むナレズシが広く分布し、中国でも華南や江南地方の照葉樹林帯に住む少数民族のもとでは、今もナレズシをつくる慣行が広く残っている。私も貴州省東南部のミャオ族やヤオ族、トン族のところでナレズシが、今も盛んにつくられていることを確認している。(次頁のコラム参照)。このほか、カンボジアや北ボルネオ、あるいはフィリピンのルソン島など、照葉樹林帯以外の東南アジアの地域にもその分布が広がっているが、ナレズシの中心はあくまで照葉樹林帯とその周辺地域である。

 石毛直道氏はその著「魚醤とナレズシの研究」(1990年)の中で、塩をした魚に加熱した穀物(コメあるいはアワ)を混ぜて乳酸発酵させたナレズシは、魚醤(魚に塩を加えて発酵させた食品)に米飯が加わったものと考え、その起源は魚醤の利用のもっとも盛んなラオスと東北タイ一帯の水田耕作地帯と考えている。しかし、中国の湖南省(湘西のミャオ族)や台湾山地、中部日本(静岡県大井川上流域や岐阜県根尾川上上流域など)や朝鮮半島など、照葉樹林帯の周辺部には米飯ではなくアワ飯を使う古いタイプのナレズシが点々と分布している。そうしたことから、私はむしろナレズシは長江中・上流域の照葉樹林帯のアワを主作物とする焼畑地帯で起源して照葉樹林にまず拡がり、東南アジアへはドンソン文化の稲作などとともに南下したのではないかと考えている。いずれにしても、その起源について確定的なことはまだわからない。

コラム ミャオ族のナレズシ

中国・貴州省東南部のミャオ族の間では、今でもナレズシづくりが盛んである。そこでは、まず魚の腹を裂き、内臓を捨て、塩を魚の腹にすり込む。その魚の切り身を囲炉裏の上の火棚で半月ほどいぶしながら乾かす。その後、蒸したモチゴメに塩やトウガラシを混ぜ、それを魚の腹につめこみ、その魚の切り身を専用の密閉式の甕(48頁の写真参照)の中につめこんで密閉し、3~6カ月ほど発酵させる。魚は河川でとれる川魚を用いることもあるが、今は水田で養魚したコイやフナを用いることが多いという。

 凌純声氏らが戦前(1930年)に調査した湖南省西部のミャオ族では、軽く鍋の中で加熱処理した魚に塩を加え、数日間天日で乾かし、(炊くか蒸すかした)アワとよく混ぜて密閉した甕の中に1カ月ほど漬け込んだナレズシが盛んにつくられていた。また魚肉のほか、牛肉やブタ肉も塩をしたあと、コメの粉と混ぜて甕の中に密閉して発酵させて食べたという。

 また同じ貴州省のトン族やヤオ族では直径40~50センチほどの木桶の底に蒸したモチゴメを敷き詰め、その上に塩をした生の魚の切り身をびっしりと並べ、さらにその上に蒸し米と魚の切り身を交互に積み重ね、最後に蓋をしてその上に大きな重しを置く、というやり方でナレズシを今もつくっているという。このように加熱や燻製などの前処理をほとんど行わず、甕でなく木桶に漬け込むトン族やヤオ族のやり方や湖南省のミャオ族のコメでなくアワを用いる調理法などは、ナレズシづくりの古い形式をよく伝えるものとみることができる。