2017年9月27日水曜日

20170927 総閲覧者数25万人到達 輪読会から思ったこと・・やはり本当の文系は少ないのでは?★★★

本日ついさきほど、記事の閲覧状況を確認してみますと、これまでの閲覧者総数が25万人に到達していました。

おそらく明日あたりになるのではないかと考えていたのですが、意外にも早い25万人への到達に少し驚いています(笑)。

ともあれ、これまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
そして今後とも、どうぞよろしくお願いします。

さて、別件ではありますが、先日より読み進めている著作(下巻)は本日帰宅時の電車内での読書にて読了に至りました。乗車後間もなく浜松町あたりから読み始め、丁度神田駅を出発するあたりで読み終えましたが、電車内といった状況でもあることからか、あまり感慨など湧かず、そのまま秋葉原にて乗り換え、あとがき、訳者あとがきまで読み進めました・・。

それはともかく、この著作が大変面白く思われたことから、さらに原著にて読んでみたいという興味が生じ、ついさきほどアマゾンにて調べてみたところペーパーバックの古本でしたら、そこまで高価ではないことから購入することにしました・・。

最近は、こうした洋書を読むといった鍛錬もしくは趣味を自身に課していないことから、おそらく相当苦労するであろうと思われますが、とりあえずは読んでみようと思います・・(苦笑)。

そのことから、ある程度強制力のある英論文輪読会のようなものもまた、他律的ではあれ、それなりに大きな意味・価値があったのではないかとも思われます・・(学生時代の部活動のように・・)。

またさらに、そのように考えてみますと、私は文系・理系(歯系)双方を経験させて頂きましたが、その何れにおいても、輪読会が為されていたことが思い起こされます。

そうしますと、この輪読会という形式とは、学科による分離以前の思いのほかに古くから続いている伝統であるのか、はたまた、ただ単に自然発生的にて最も適切な複数による勉強・知識伝授の手法であったのかもしれません・・(多分両方であると思われるのだが・・。)。

そして、そこからの個人的見解ですが
、文系・歯系での輪読会は、現在の自身に対し、少なからぬ影響を与えているのではないかと思われるのです・・。
おそらく、そのような生きた学問の場にて得た知恵・知識とは、なかなか忘れることがないものと思われます。
(一種のOJTに近いのでは?)

その意味においても、昨日のブログ記事にて述べた『我が国には本当の文系は少なく、そうであるならば、文系分野に仕方なく進んでしまったという学生を減少させ、他方で各大学の医療・介護学分野を拡充するのが適切ではなかかと考えるのです・・(それぞれの学ぶ環境の時代に合わせた整備調整と考えれば良いと考えます。)。』

特に強い興味・関心に導かれることなく純粋な文系分野に進むよりも医療・介護分野にて一生ものとなる普遍的な人体に関する知識を、職務にて必要なものとして学ぶことの方が男女共、社会にとっても意義深いのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、もちろん最終的には個人の意志に拠るのですが・・。

あるいは、本当に好きであり続けるのであれば、純粋な文系分野の知識とは、多少年齢を重ねても挽回出来るといった性質があるのではないかと思われます・・。

また、ここからはいくらか偏見的な色彩が強くなりますが、今後、我が国のある程度伝統のある大・中規模大学は、近隣の小規模医療・介護系専門学校を吸収し、さらに近隣、もしくは同学内の医学部・医科大学、歯学部・歯科大学および、それらの併設・附属病院等の医療機関との連携関係を強化する方向に進むのが良いと考えますが、如何でしょうか?

もちろんそれは文系を軽視するからではなく、現在の文系・理系(医療・介護含む)の学生数比率とは戦後の団塊の世代の学部学生数によって錯覚させられていますが、実際のところの文系は、そこまで多くないのではと思われますのです・・(しかし、そういえば介護分野は厳密には理系に含まれるのであろうか・・?あるいは、そういった分類自体あまり意味はないのかもしれません。それでも、やはり文系らしさ、理系らしさといったものは厳然と存在するとも思えますが・・)。

ともあれ、この政策により、現在大学での文系分野にて教職に就かれている方々には特に有意且つ不利益な変化はなく、むしろ、学生数の(政策による)減少に伴う相対的な職務の軽減により、より多くの著述・研究活動等に注力することが可能になるのではないかと思われるのですが、こちらも如何でしょうか?

今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」

















2017年9月26日火曜日

20170926 やはり多少おかしい方が文章を書くには良いのかもしれません・・?

現在読んでいる著作も余すところ50頁を切りました。
おそらく今日、明日中に読了に至るのではないかと思われます。
そして、この著作を読み終えることにより、通史的な著作をほぼ、たて続けにて読んだことになりますが、こうした著作とは分類としては一体どのようになるのでしょうか?

それぞれ巻末に参考・引用文献が載せられておりますので単に物語・小説といった分類でもないのでしょうが、その一方で、我が国の一般的な学術論文(文系・理系を問わず)などともまた、かなり異なっていると思われますので、こうした著作の明確な分類とは、未だよく分からず読んでいるといったところです(脱線し、さらに誤解を招くかもしれませんが、おそらく我が国においては本当の文系とは、かなりの少数派ではないかと考えます。それは法律・会計といった実学系とされる文系ともまた本質的に異なるのではないかと思われます。もとい、それ故、私見としては(特に今後)我が国の文系の多くを医療・介護といった実学系の学問と混淆あるいは振り替えてみても、大きな問題は生じないのではと考えます。むしろ人体に関する普遍的知識をより多くの学生(国民)が得ることは民度、文化水準の向上に寄与するものと考えます。)。

とはいえ、こうした著作とは物語・小説に比べ、明らかに読み進めるのに時間を要し、時にはネットを用い、分からないコトバの意味を調べつつ読むといったことも度々ありますので、たとえますと、船によって通常の海原を航海するのと、氷の張った海を砕氷船にて進むのと似通った相違があるとも云えるのです・・。

また、そのように、ある程度苦労して読了した著作であれば、その達成感もなかなかのものであり、さらには、読む際に調べたコトバの意味も多少は増え、少しは賢くなったような錯覚をもおぼえるに至るのです・・(笑)。

とはいえ、この『コトバの意味も多少は増え』に関して、より詳細に考えてみますと、それは一回の読書にて調べて『知った』コトバとは、本当の意味で『知った』という意味ではなく、未だそれは消極的なものであり、実際に自身が何かを能動的に書く段において、そのコトバはまだ運用し得る段階にまでは達していなかこつが殆どです・・。

その後、類似した内容の他著作を読み続けていく間に、そのコトバの意味が自身のなかで重層的、立体的なものとして理解され、そうしてはじめて自身の書く文章において、そのコトバを運用し得るまでになるのです・・。

おそらく自身とは、なかなか簡単には自信を持つことが出来ない性分であるのでしょうが、その性分とは、この読書においてもまた影響しているのかもしれません・・(苦笑)。

またそれは、実験に用いる試料の数においても、一連のブログ記事の数においても、何かしら似通った、通底するものがあるのではないかとも思われるのです・・(笑)。

また、それはコトバを変えれば『執拗』といったことにもなるのでしょうが、自身の性分におけるそうしたいわゆる『暗部』に関してもまた、未だよく分からず書き続けている次第ではありますが、自身は何かしら(強い)思い込みを抱えているのでしょうか、あるいはまた、何かしら強い不安を抱えているのでしょうか・・(苦笑)?

しかしながら、そうした自身の持つどこかしら(多分)おかしい部分(こそ)が、これまで自身が行い、そしてどうにか出来た(あまり普通とは云えない)ことがらの主たる駆動源であるとするならば(おそらくそうであろう)それはそのまま放置しておいた方が面白いのではないかとも思われます・・(笑)。

とはいえ、この一連のブログ記事における750記事程度とは、未だ到底『普通』の域を出ていないのですが・・(笑)。

何れにしましても、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。




2017年9月25日月曜日

20170925 『事実を言語を以って精確に表現することが第一義』ではあるのですが・・

本日の首都圏は日中、割合と気温が上昇し、若干汗ばむような陽気でした。
とはいえ、ついさきほどまで、特に大きな音は聞こえないものの、北の方の空では稲光の明滅らしきものが見える状態が続いていました。

さて、昨日は休日ということもあってか、当日投稿分記事の閲覧者数は意外と伸び、投稿翌日の現在において50となっていました。
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます!

しかしながら、以前より時折書いていることではありますが、ここに至ってもなお、よく分からないことは、これまでのブログ記事が一体どういった方々に読まれているかということです・・。

これを多少なりとも理解出来るならば、もう少し(自分なりに)サービス精神を発揮し、それに合わせた文章を書くことを試みてみようかとも考えてみることが度々あるのですが・・(笑)。

しかし、そうしたことは、あとでよくよく考えてみますと、作成者が能動的にブログ記事作成に臨んできた場合においては、とりわけ、そうした迎合とも認識され得る態度は避けた方が良いのではないかとも思われるのです・・。

それは、自身のブログ記事作成の持続可能性の保持のために。
このことは、特に自身においては、少なからず痛い目にあって理解出来たのではないかと考えています・・(苦笑)。

また、そのように考えてみますと、これまで作成してきた記事を読んでくださっている方々とは、そうした自身の危なっかしい性質をご理解されているのではないかと思われることもあるのです・・(苦笑)。

おそらく、これも一種の自意識過剰でしょうが、しかし、ここで多少開き直り気味のことを述べさせて頂きますと、多少なりとも自意識過剰気味にでもなっていないと、こうした一種の精神的露出狂とも評し得る、公開を前提としたブログ記事作成(の継続)などは出来ないのではないかと思われるのです・・(苦笑)。

つまり、少なくとも、こうしてブログ記事を書いていて、さらにそれが興に乗っている時とは、ある意味、自身は『世間体』といったものから(完全にではないにしても)解放されているのではなかかということになります・・(笑)。

しかしながら、それと同時に、ここで極めて重要であると思われることは、そうした『世間体』から解放されている状態でありながらも、心のどこかで『世間体・常識・礼儀・良心』といった、自身の放埓な思考の奔流を制御するものが作用しているということ(無意識の意識・自身への信頼?)なのです・・。

私見とはなりますが、案外とこれが難しいのではないかと思われます・・。

特に、周囲のある事物に対し、何らかの評価を含む言説を述べる際において・・(それは一般的な意味での『自制』ともまた多少異なると思われます)。

その点について、特に現代の理系学問分野においては、事実を言語を以って精確に表現することが第一義とされますので、さきに述べたような種類の文章作成の際の困難さが少ないのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

それでも、ここで強く思うことは、この『事実を言語を以って精確に表現することが第一義』とは、実は理系のみならず、どの学問分野においてもそれが(探求に基づく)学問であるならば、大事にされることであるように思われるのですが・・。

そして、これに対しての価値の払い方、対応とは、我々人間生来の(知的)好奇心・探求心に対し、少なからぬ影響をもたらすのではなかかとも思われるのです(我々日本人とは、まさしくこのことに対して関心が薄い、あるいは何か他の感覚の洗練に、より重きを置いているのではないかとも思われることが度々あります・・。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。



20170924 読書をする上において重要と思われる感覚・シンクロ化(共感性の一種?)

かなり久しぶりに昨日分の閲覧者数は500を大幅に上回りました。また、同様に昨日投稿分の記事もまた、おかげさまで投稿翌日にしては多くの方々(37)に読んで頂けました。
 これらを読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。
 さて、先日来より読んでいる著作(下巻)も半分以上までに至り、おそらく近日中に読了となるのではないかと思われます。
 また、当著作下巻においては特に面白いと思われる記述が頻出することから、今後読了に至った後も折を見て、さらに再読、三読を試みようと考えています・・。
 ともあれ、こうした俯瞰的な視点からの歴史を扱う著作とは、その書かれている内容が、自身が既知のある具体的な歴史の流れ、出来事に沿っている、適合、類似していると考えられる場合、勝手に何かしら新たな発見をしたような幾分高揚としたものを感じさせます・・(笑)。
 また逆に、それが自身の知っているそれと合致しない、相反する場合は、それはそれで、疑問が生じ、赤ペンにて当該記述部に横線を書き、そこに「?」そして合致しない、相反する既知の具体例を書き込んだりといったことになります。
 そのように考えてみますと、こうした著作をある程度の精読するうえにおいて、大事であると思われることは、書かれている内容およびその文脈の流れを、ある程度精確に理解しつつ読み進めているといった継続的な実感であり、これは毎回著作を手に取り読みはじめ、しばらく経つと、何となくそうした感じになっているようなものではないかと考えます。

 とはいえ、その間に自身の感性、頭脳にどのような変化が生じているのかは、分かりませんが、おそらく言語にて、そこで生じている変化を表現しますと、それは著作文体と自身(読者)の感性、頭脳とのシンクロ化といったところではないかと思われます。
 そして、人によりシンクロ化のし易い著作、分野、言語などといったものに傾向があるのでしょうが、こうしたものの柔軟性を鍛えるには、さきのブログ記事にても書きましたが、やはりある程度若いうちの方が良いのではないかと思われます・・。
 ある程度の年齢に至り、それまで全く関わることのなかった、いわゆるシンクロ化のされ難い文体が主流の世界にて生きて行こうとすることは、余程の必要性および覚悟がない以外は出来るだけ避けた方が良いのではないかと考えます。
 その意味において、自身はかなり稀有な経験を経ることが出来たのではないかと思うところではありますが、おそらくそれと同時に何かしらを得る機会も少なからず失ってきたのではないかとも思うことが度々あります・・(苦笑)。
 また、それはさておき、自身の書いているこの文章とは、ある程度広汎にシンクロ化されるような文体といったものを保持しているのでしょうか・・?
 あまり他者からの評価を気にしないで書いているつもりではありますが、こうしたことを多少書き連ねておりますと不思議なことに『人の振り見て』で自身のこともまた気になってくるものです・・(笑)。
 ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
 昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そしてその後の復興を祈念しています。









2017年9月23日土曜日

20170923 目標への到達によって得られるもの・失うもの・・

A「特筆するようなことでもありませんが、先日の750記事到達以降も変わらぬ調子にてブログ記事を作成しておりますが、そうしますと、おそらく11月半ば頃に800記事まで無事に到達することが出来る目算が立ちます。
そうしましたら、しばらく記事作成を休止してみたいと考えております・・。
そこに特に大きな理由はなく、単なる休息です。

また、800記事に到達した後、しばらくしますと、その次の目標もまた、現実のものとしてイメージすることが出来るようになるのではと考えます。

以前もブログ記事にて書きましたが、かねてより私はそのようにして目標としたものに到達してきました(もちろん到達出来なかったものも多々ありますが)。

それは具体的には、実験に基づく学会発表、さらにはその延長線上ともいえる学位もまたそのように、にじり寄るようにして、まさしくどうにかこうにかやってきました・・。

その間、技巧的なことは行いませんでしたが、それでも、実際にそれら目標(表立っては目標とはしないものの、やはり内心においては強く存在するといえる・・)に到達してみますと、やはり到達の前と後では、何かしら自身が少なからず変化していると思われることがあるのです・・(苦笑)。

そして、困ったことに、そこで認められる変化とは、往々にして自身にとってはあまり嬉しいものではないことが多いのです・・(苦笑)。

そのようなことから、また往々にして『ああ、実のところ自身は未だこの到達された目標に対して見あっている人間ではないのかもしれない・・』といった反省的な感覚をおぼえるに至り、そしてまた、何といいますか、その達せられた目標により得られた感覚を自身内面に静置せられ、一体化されるように、それに見合う人間に為すべく、何かしら創造的とされる活動への衝動が生じるのではないかととも思われます・・(苦笑)。

あるいは別の視点としては、根源的ともいえる力強い創造性・バイタリティー・勢いなどは学位取得以前の方が明らかに強かったようにも思われるのです・・。

また、私見ではありますが、学位取得とは一種の『去勢』にも近いような意味合いがあるのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?

たしかラカンがどこかで述べていた『人は父性的なるものにより『去勢』されることによって、はじめて「語る存在」になる』とは、あるいはそれと類似した意味合いがあるのかもしれません・・。

ともあれ、その意味において、たしかに、これまで継続的に作成した一連のブログ記事とは、そうした側面(創造への衝動)があるといえます・・。

また、この文章を作成し続けるといった行為とは、その先の変化が如何なるものであったとしても、全く役に立たないということは少ないのではないかとも思われます。

とはいえ、もとより、このブログ記事の作成とは、未来における功利的な目標のみのためにて行っているわけでもないのですが・・(苦笑)。

そして、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等といった大規模自然災害により被災された地域における諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」





20170922 通史的著作を読んでいて思ったこと・・点描のようにして

A「昨日分投稿記事はおかげさまで投稿翌日にしては割合多くの方々(37)に読んで頂けました。

そして、当記事にて書いた現在読み進めている著作に関しての私見ですが、これは下巻に入ってからの方が面白いことがより多く書かれているように思います。

あるいは、自身がこれまでに関心を持ってきた分野に近い分野での記述がより多かったからであるかもしれませんが・・(笑)。

また、そのことから、世評において高い評価を得ている著作の全てを忌諱することもないと理解しました・・(苦笑)。

そしてまた、未だ読了に至っておりませんが、これまでに読んだ内容から、この著作とは名著と評しても良いのではないかと思われました。

そのことから、もしかすると、今後しばらくはまた通史的な著作を読み続けることになるかもしれません・・(笑)。

そういえば、以前にも通史を扱った著作を集中的に読んでいた時期が幾度かあり、それはそれで面倒であり、且つ時間を要するものでした。

しかし、現在になり考えてみますと、そうした時期が大変重要であったようにも思われるのです。

これは間違いを伴う偏見であるかもしれませんが、数巻セットの通史的著作を全巻三種類ほどを読みこなし、その内容を概ね把握し、文章の作成、議論の際にその記述内容を的確を運用することが可能であるならば、文系学問分野の修士のレベルぐらいには達しているのではないかと思われますが如何でしょうか?(とはいえ、この『三種類ほど』というのがクセモノであり、数巻セット三種類を読みこなし、その内容を概ね把握し、さらに論述、口述において適宜運用可能な状態に至るまでは、おそらくその数倍~十倍以上の読書、精読が必要になる・・。)。

さらにもう一つ別の私感となりますが、こうした通史的著作をも含め、概ね共通した内容・主題を扱う異なった著作を複数読むことにより、一つ一つの著作にて得た認識が増え、点描のようにして、自身の脳あるいは精神に、その内容が転写、より深く認識される(インカーネーション)のではないかとも思われます。

そして、ここまで書いていて思うことは、そうした作業とは、現在においては全く出来ないということではありませんが、同時にやはり、若いうち(しかし若すぎてもダメでしょう20代~30代前半迄が最も具合が良いのでは?)の方がより多く吸収し、そして比較的容易に身に着けることが出来るのではなかかということです・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念しています。」
















2017年9月21日木曜日

20170921 再現可能性の重視・一つの西欧文化の特徴・我が国における理系学問分野について

先日来より読んでいる著作は下巻に入り100頁ほどまで進みました。このあたりになりますと、さきの章にあった宗教から、さらに進み、科学技術およびそれを基礎として発展する武力といったことに(より)焦点が当てられています。

このことは他の通史的な著作においても数多く述べられていることではありますが、表現、言い回し、論法を変えた文章にて読んでみますと、なかなか新鮮に感じられるものです。

さて、そうした著作において共通して述べられていることは『西暦1500年あるいは16世紀あたりまでは西欧とは、世界の片隅にある(どちらかというと辺鄙な)一地域であり、またその科学技術、文化とは総じて同時代の中東、中国などと比べ遥かに立ち遅れていた。しかしながら、その西欧文化が2~3世紀のちに世界他地域の文化を席捲あるいは支配し得るまでに強大となった。そして、その主たる要因とは、元々西欧発祥ではない伝来されたさまざまな利器を分解、それら機能の原理を要素毎に言語を以って普遍的に理解し、以って利器の数多くの複製および更なる改良を可能ならしめ、そして、それを軍隊が広範に装備したことに因る。』といったところです。そして、その具現化された典型が銃器であるのですが、こうした流れにおいて極めて重要であるのが、主に理系学問分野での主たる概念と評し得る『再現可能性』といえます。
この『再現可能性』に対し、西欧社会とは、かなりこだわる性質を持っているようであり、あるいはその傾向とは『執拗』と評しても良いのではないかと思われます・・。
また、ここまで書いており不図思い出されたのは、みすず書房刊 マックス・ヴェーバー著の「宗教社会学論選」という著作のおそらく冒頭部付近において『楽曲の楽譜への表記・記述を以って、楽曲の再現可能性を為し得たのは西欧文化のみである』といった記述です。この記述部が今日の学術研究レヴェルにおいて厳密に史実であるかどうかは別としても、少なくとも、さきに述べた抽出された通史的内容とはある程度の親和性があるのではないかと考えます。
そのように考えてみますと、今日我々の社会一般において『理系』的として分類されるあらゆる事物・アイコン・性質とは、その殆ど全てが西欧文化に直接的起源を持つものであり、またその文化の背景には、ある種(彼らなりの)戦闘的で猛々しい、武力への渇望といった要素が潜んでいるのではないかとも思われるのです・・(それは西欧諸言語の言霊でしょうか?)。
そして、それは論文和訳調あるいは理系文章的表現とも云える、一種決然的、断定的な文言がかっこいいとされるような価値観、風潮が認められる、ここ最近の我が国社会であるからこそ、よりそのように(強く)感じるのかもしれませんが、さて如何でしょうか・・(笑)?

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。