2023年2月6日月曜日

20230206 中央公論新社刊 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著 清水富雄・飯塚勝久・飯塚勝久訳「モナドロジー・形而上学叙説 」pp.14-17より抜粋

中央公論新社刊 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著 清水富雄・飯塚勝久・飯塚勝久訳「モナドロジー・形而上学叙説 」pp.14-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600746
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600745

ドイツが30年戦争の線から立ちなおるには、ほとんど1世紀を要した。この時代のドイツの惨状は、同時代の記録によると、たとえば人口は四分の三を失い、家畜類や財貨の損失はさらにはるかに大で、農業はもとの状態に回復するのに、ある地方では2世紀を要し、大多数の商業中心地は亡び、政治団体はあらゆる悪徳が蔓延していた。これらのすべては30年戦争に帰せられた。

 今日では、かかる状況記述には誇張があると言われ、第一に、ドイツは1618年にすでに破壊の途上にあったこと、第二に当代の記録はかならずしもそのまま信頼しがたいことが指摘されている。君主たちは金融上の義務を避けるために、諸国の損害を言いたて、市民は税をまぬがれるために、すべて自国の状態をどぎつい極彩色で描いているという。たとえばスペイン政府に対して書かれた損害表には、ある地方では破壊された村の数が存在の知られている総数以上になっている。人口の減少もある程度までは一時的な移住によるものがあり、社会的にも破壊よりは移転による。

 しかし、誇張があるにしても真実がないわけではない。人口の四分の三を失ったか、あるいはそれほどの率でなかったかにかかわりなく、それ以前にも以後にもドイツの歴史が経験しなかった全般的な災厄であったことは事実であり、挽回しがたい災厄という実感が一般的に広がっていたことはたしかである。すくなくとも戦後のドイツ再建の仕事に直面した人々には、これが一般的印象であったであろう。

 スウェーデン軍だけでも約2000の城、18000の村、1500以上の町を破壊した、バイエルンは18000の家族と900の村を失った。ボヘミアは6分の5の村と4分の3の人口を失った、とそれぞれ主張した。ユルテムベルグでは住民の6分の1に、ナッサウでは5分の1に、ヘンネベルグでは3分の1に、ヴォルヘンビュッテルは8分の1に、マグデブルグでは10分の1に、オルミッツでは15分の1以下に減少した、という当代の記述は、伝説であるとしても、モンテーヌ将軍はナッサウで「自分自身の目で見たのでなかったら、一地方がかくも荒らされ得るものとは信じなかったであろう」と述べている。(ウェッジウッド「30年戦争」1957)。

哲学者の課題ー再統合

 しかし、戦争の直接の損害より根本的に重大であったのは、社会秩序の崩壊、権威や宗教の不断の変化動揺、それがもたらした社会の解体である。これがまさに思想家の直面する問題であり、これの再建、復興が思想家の避けがたい課題となる。われわれの哲学者ライプニッツがあえて講壇の生活を捨て、広い世間に出て活動することを意欲した動機には、かかる背景が想定されてよいであろう。この課題は哲学と宗教と政治にまたがる。具体的には、分裂対立した宗教的信条の再統一、再統合、それにつながる政治的問題である。

 これを根本的に基礎づけることは哲学の使命である。これらいっさいにわたるものが、ライプニッツがみずからに課した問題である。彼の哲学が志向するものはこれなしには理解しがたいであろう。「永遠の相のものに」人間と世界を観想することを説いたスピノザが、「神学・政治論」「国家論」を書かざるを得なかったのも、同一の哲学的使命感によるであろう。しかし、それをいかなる哲学にもとめるかは、哲学者がいかなる人間であるかによって決定される。

 ライプニッツの遠大な世界史的活動は、マインツ選帝侯に仕えることによってまずその端緒を見いだした。これ以後ライプニッツの活動には、全生涯を通じて、常に宗教、政治、哲学・科学が内面的に相交錯しており、それらがずれも独立分離していないことが彼の全活動の根本的性格である。そして、それが常に世界的規模において、「普遍的universal」な見地において行われることが、もっとも性格的なところである。

 彼が君主に仕えたのは、経済的に独立でなく、しかしスピノザのようにつつましい孤独な思索者たることに満足せず、世間の中で活動することを意欲したからではあるが、より根本的な動機としては、偉大な君主をとおして自己の大志を実現しようとしたのであろう。彼の全生涯を見ると、かならずしも一国一君主に隷属した忠実な廷臣ではない。それゆえ、彼の天才を洞察することのできた君主には信頼されたが、これを理解し得ない君主には白眼視された。結局、真に彼を用いる英邁な大国の君主に出会うことのできなかったのは彼の悲運であった。彼の真の理解者・共感者は宮廷の貴婦人だけであった。

2023年2月5日日曜日

20230205 株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」 pp.279-282より抜粋

株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」
pp.279-282より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4344986830
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4344986831

日本の大学は工学部が強いと思われているが、強いのは、古いタイプの工学部だ。例えば、機械工学だと、世界100位以内の大学数は4校になる(東大20位、東工大43位、京大52位、東北大72位)。コンピューターサイエンスに比べて、数も多くなるし、順位も上がる。

 機械工学は、1980年代頃までの世界で重要だった学科だ。日本では、それが、いまでも工学部の中で大きな勢力になっていることが分かる。そして、これは、現実の日本産業で、自動車産業が強いことと対応している。 

 しかし、第6章でみたように、自動車産業は大きな技術革新に直面している。とりわけ重要なのは、自動運転が進展し、自動車においてもコンピューターサイエンスの重要性が増すことだ。そのような世界において、日本の自動車産業が対応できるかどうか、大いに疑問だ。

 日本が目指すべき目標として、コンピューターサイエンスの分野で世界ランキング上位100校に入る大学数の日本シェアを、日本のGDPシェア(5.9%)と同程度にすることが考えられる。そのためには、上位100校に入る日本の大学数を6校にする必要がある。いまの2校に比べて3倍にする必要がある。

 このようにして初めて、他国と同じ水準の研究・教育水準を、コンピューターサイエンスの分野で実現できるようになる。

*新しい資本主義には「大学改革」が不可欠

政府は、2022年6月、「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)を閣議決定した。岸田文雄首相が掲げる「人への投資」に重点を置き、3年間で4000億円を投じる。デジタルなど成長分野への労働移動を促すという。「新しい資本主義」は岸田政権の成長戦略の看板になる。

 しかし、大学教育が右に見たような状況では、人材面で世界水準になることは望めない。日本では、とりわけデジタル人材が不足していると言われるが、十分な教育を大学がしていなければ、人材が育つはずがない。大学ファンドの構想もあるが、金だけ出したところで、研究や教育が進むわけではない。

 また、巨額の補助金を出して、台湾の半導体メーカーTSMCの工場を熊本に誘致するが、ここで生産するのは、10年くらい前の技術を用いた半導体だ。こうした補助金をいくら出しても、最先端半導体には追い付かない。このように、いま考えられている方策では、展望は開けない。

 日本の産業を発展させるためには、基盤となる研究開発と専門的人材の育成を行う必要がある。日本が世界水準に追い付くには、大学での研究教育を根本から組み直すことが不可欠なのだ。

大学教育の状況は、未来を映し出す鏡だ。右に述べたような状況を根本的に改革しない限り、日本に未来は開けない。


20230204 「将来のビジョン」と今年の目標について・・

ここ最近は、当ブロガーでのブログ記事作成のほかに、いくつかの文章を作成させて頂いておりますが、それらはあまり大きく取り上げられるような性質のものではなりません。しかし、そうした仕事も、おそらくは当ブログの継続的な記事作成があったからこそ、どうにか出来ているのではないかと思われるのです。

また、ここ最近どのような偶然か「将来のビジョンは?」という問いを、異なる場所にて何度か受ける機会がありました。そのような問いに接し、そして考えてみますと、現在の私には「明確なビジョン」が無いようにも思われるのです。

昨年であれば、いくつかの目標を立てていましたが、全てではありませんが、それらのいくつかは周囲の皆様のおかげにより、どうにか叶いつつある方向に進んでおります。

そして「将来のビジョンは?」をさらに具体的にして「今年のビジョンはと?」と考えてみますと、またJrec-inなどのサイトを閲覧、応募して、月に何日か勤務のパートタイムにて西南日本にある医療介護系あるいは、それら学科をメインとした大学の職に就きたいと思っています。

希望する職務の内容は、教養科目の講義、大学独自の興味深い取組みなどの取材そしてその発信、あるいは首都圏での就職を希望する学生さんへの情報提供などの就職支援活動などであれば(どうにか)出来るのではないかと思われます。

また、言い換えますと、その職種に就き、西南日本と首都圏との往来を重ねることにより、また徐々に、生気を取り戻すことが出来るのではないかと思われるのです。そのためにまたJrec-inなどの閲覧を始めようと思いますが、同時に、上述職務内容にて西南日本在の大学の求人が出ることは、かなり稀であると思われますので、あるいは当ブログを読んで頂いておられる方々で「少し頭がおかしいかもしれないけれど、こんなヒトがいるよ。」と関係される方々に御周知頂き、さらにおススメして頂けましたら、大変ありがたいです。

しかし、そうした職務内容についても、たしかに重要ではありますが、あるいはそれよりも、より重要であるのは「実入り」の具合(額)であるのかもしれません・・。そして、そのように考えてみますと、私はあまり多くの額を稼ぐ技能や才能が乏しいのではないかと思われるのですが、しかし同時に、それだけが大事なものではないとも思われますので、私としては、当ブログは未だ、直接的に金銭的な利益をもたらしてくれているわけではないものの、しかし、こうした、いわば独自の取組みとは「きっかけ」になるものであると云えますので、当面の目標としている2000記事到達までは、どうにか続けたいと考えています。そして、その後については、未だ明言は出来ませんが、やはりまた何かしらの文章を作成し続けるのではないかと思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。











2023年2月2日木曜日

20230202 株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」 pp130-133より抜粋

株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」
pp130-133より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006001665
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006001667

倭五王に代表される「河内王朝」の時代は、さきにふれた古墳時代の時代区分からすると、仁徳陵は前期であったが、倭五王の時代の前に前Ⅳ期が訪れ、墳丘がしだいに縮小化し、同時に横穴式石室への歩みよりがはじまる。前方後円墳・前方後方墳のほか、円墳・方墳についても同様の傾向が次第に顕著なものとなる。この墳丘の縮小化した事実は、古墳のもつ意味が変化してきて、外観のもっていた意味がしだいにうすれてきたことを意味しているが、その反面に横穴式石室という新しい葬法が採用されて、古墳の内容にふかい意味が附せられるようになってきたのであった。

 この横穴式石室という葬法は、前Ⅰ期いらいの竪穴式石室とは著しく異なったもので、朝鮮半島からもたらされた大陸の墓制であった。横穴式石室は、遺骸をおさめる玄室とそこに運び入れるための通路である羨道とを連接させた石積の石室であり、墳丘の横側に羨門をひらくところから、その名が生れた。この傾向は前Ⅳ期の石室・石棺に複雑な変化をもたらし、竪穴式石室なかに家形石棺を安置する例も見出されるが、一般に従来の舟形石棺が古式の家形石棺へと転化する傾向を示し、後期に於ける家形石棺の盛行に引きつがれる。また副葬品にしても、宝器的財物や鏡の副葬が次第に減少し、むしろ馬具が普及し、須恵器の副葬がはじまるという。

 この前Ⅳ期を過渡期として、後期に入れば、その特徴は横穴式石室の普及という内部構造の大きな変化であった。そしてその時期は、後Ⅰ期が六世紀前半、後Ⅱ期が六世紀後半から七世紀前半に推定されている。この間、古墳の築造が急速に拡大し、いわゆる群集墳の時代をむかえるのである。このような後期の発展は、かつての族長層のものから個人のものへ、古墳の主体の変化をしめしてきたことを物語っているし、それと同時に、人間が死後の世界について前期とは異なったいっそう深い認識をもつようになってきたことを教えている。そしてそのような古墳に関する認識の変化に対応して、古墳の築造技術が著しく進歩してきたということを考えさせるであろう。そしてその背景には、やはり古墳を生みだす社会全般の大きな発展をみなければならない。石器時代の装制である屈葬・抱石葬などの形式のなかにも、その時代の人間のこころのうごきをのぞきみ、高塚古墳を営む場合の意匠にも、その時代の支配者の精神をみることができるように、ここにあげた後期古墳にも、その背景が考えられねばならない。

 それは、何であろうか。一口にいえば、つぎに説こうとする内乱、名づけて継体・欽明朝の内乱というべき、六世紀初期の大きな社会的変動であった。そのなかで、族長を中心とし、族長の高塚を営造することに意味を見出した氏族共同体の体制はくずれ去ってしまったのである。そのあとには、多数に分解した家父長制家族層が現われ、彼らの手によって、新しい意味を帯びた古墳が形式は前方後円墳であろうと前方後方であろうと、また方墳であろうと円墳であろうと、自由につくり出されてきたのであった。この内乱機のなかで、人々が直面したものは、戦争にともなう死の問題であった。これまでも石器時代人はそれなりに死を考え、霊魂への恐れを感じとってきたが、人々はここで各自じしんのこととして死を考えざるを得なくなったのである。朝鮮の戦争、筑紫の叛乱、そのために数多くの人々が死んだ。死が、決して他人事ではなく、自分の事となったのが、この内乱期であろう。

 当時の人々が死後の世界を考えるに至って、葬法もまた変化せざるを得なくなったのである。横穴式石室は、羨道という通路をもった一つの個室であり、家形石棺が暗示しているように一つの家屋であった。そして、馬具と須恵器が副葬品の主体をなすように、死後における行動と生活もまた準備されねばなかったのである。のちにふれるように、日本の神話は、継体・欽明朝の内乱期に誕生したと思われるが、「古事記」上巻の黄泉国の叙述は、先人たちによって説き尽されているように、弉冉二神が「千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて」の問答の伝承の底に、横穴式古墳の構造を考えないわけにはいかない。羨門をふさぐ巨石を中に置くことによって、内と外との死と生との対立・抗争として、この話をとらえることができる。黄泉国という発想が、横穴式石室ののちに生まれたことを、何よりも雄弁に物語っているであろう。

2023年2月1日水曜日

20230201 朝日新聞出版刊 木村誠著「大学大崩壊」pp.108-113より抜粋

朝日新聞出版刊 木村誠著「大学大崩壊」pp.108-113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022737905
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022737908

問題は人文科学系の大学院生である。同じ文系でも社会科学分野の法・経済などと違って、企業勤務に直接的に必要な知識や専門性を持たないため、どうしても民間企業よりも教育研究方面を希望する人が多い。しかし、少子化が進み児童生徒が少なくなっていくので、高校や中学の教員需要は、将来もそれほど高くない。

 結局は大学の教員や研究職を希望するが、何度も触れているように、大学での研究職・教員のポジションは減っており、就職への道も狭くなっている。ポスドク問題や大学での非常勤講師の増加が、それを裏付けている。

 文部科学省が、1996年から2000年の5年間で、「世界水準の研究を支える競争的環境のサポーターとして1万人の博士号取得者を創出」するための「ポスドク1万人支援計画」を打ち出した。そのため期限付きで雇用する必要があるので資金を大学や研究機関に配分した。すなわちポスドクは研究力を世界水準に上げるための、研究に専念できる任期付き要員だったのである。

 ところがポスドクは、正規の大学教員に就くまでの仮の不安定な立場という認識が世間に広がった。実際に大学の教員や研究者というポストを手に入れる者は多くはなかった。さまよえるポスドクの誕生だ。最近は40代以上のポスドクも出てきている。

 ここにもやはり若者の進路を配慮する視点が欠けている。

 最近、文部科学省が大学改革実行プランや高等教育無償化、あるいは後述する専門職大学などでしきりに推奨する実務家教員の登用も、大学院ルートから大学教員を目ざす者、ポスドクも含めて、大学教員への就職の間口を狭める要因になっている。

大学院重点化の流れの中で、大学側も、自校の印象アップのためにコストのあまりかからない文系大学院の新増設に走ったケースがあることも否定できない。あるい私立大学の学長が「大学院を作ってやっと一般の大学入りをした。やはり大学院がないとね」と述べていた。

 文系の研究に情熱を傾ける有能な若手研究者の、大学だけでなく研究機関などでポジションを与えることは、日本の文化や学問にとっても重要である。

悲惨なポスドクと人文系博士の経済状況

 ポスドクを多く生みだした任期付き雇用問題は、若手研究者を中心に日本の大学院に深刻な影響を落としている。

 第一に、大学における正規の教育研究者のポジション(働き場所や職務上の地位)間の流動性が非常に低下している。具体的には大学間の人事交流も少なくなってきている。既存の教員がその座にしがみついている。定年にならないと、常勤で無期雇用の大学教員はなかなか辞めない。他大学にもそのポストが少なくなってきているからだ。新学部や新学科ができても、学内の正規教員の横滑りや、実務家教員や他大学の定年教授が新採用で補充される。新たな常勤ポストがポスドクなどに用意されるケースは多くない。国立大学に限っても、図表11「40歳未満教員の雇用状況」を見てもわかるように、2007年から2016年の10年間で任期なし教員が激減し、それぞれの割合が逆転している。

 2点目に待遇の問題も大きい。熱意のある若手研究者の多くは給料も少なく、社会的な立場が不安定な状況にある。図表12「博士の年間所得」を見てみよう。大学卒と修士を含む大学院卒とを比べると、所得は一般に大学院卒のほうが高い。ところが博士を見ると、500万円以上も多いが、300万円未満の層が大学院卒平均より多くなり、大学卒でも4.2%しかいない100万円未満がなんと9.3%もいるのである。生活保護水準の場合、都市の1級地で単身なら月間7万9000円の生活扶助の他に住宅補助も付くので、年間100万円を超える。それ以下の大学院修了者が1割弱もいるのである。博士間の所得格差が広がっているのだ。

 また、この調査は「収入なし」を除いている。すなわち無職無収入の博士はカウントされていない。前掲図表10(106~107ページ)「大学院修了者の進路状況」によれば、博士課程修了者全員がポスドクというわけではないが、バイトを含めた就職・進学以外の者と不詳・死亡を合計すると、人文・社会科学系では、なんと40%を超えている。研究力強化どころか「博士大失業時代」なのだ。

 大学院重点化導入の目的を「若手研究者の育成」としていながら、博士号取得者に対する社会の受け入れ体制ができていない。進路は大学に限らず、研究所やシンクタンクといった選択肢もあるが、修学分野によっては受け皿の大きさに差がある。

 最近、大企業でも一部の理工系の博士課程修了者の雇用を拡大する動きが出ているが限定的である。ましてや、文系博士へのニーズは低いままだ。

 この状況では、トップクラスの優秀な若手気研究者は海外へ職を求め、知の流出がさらに加速するであろう。日本の大学の研究力は、崩壊への下り坂をたどることになる。

2023年1月30日月曜日

20230130 昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】

先日、奈良県奈良市の富雄丸山古墳より新たに出土した長大な蛇行剣、そして大型の楯型銅鏡から、古墳時代に関する蔵書を何冊かあたり、興味深いと思われた記述をいくつか引用記事として作成しました。また、これらについては、さらに、いくつかの引用記事を作成出来るストックも得ました。そして本日も、同題材にて引用記事を作成しようと考えていましたが、昨日、ツイッターでのリツイート、連携投稿へ頂いた反応にて興味深いと思われたことがあったため、本日は、さきに予定していた引用記事の作成を控え、こちらを題材として記事作成をしたいと思います。

かねてより関与させて頂いている共同研究で、月一回、恒例にて開催の共同研究の打合せがあり、これに参加させて頂いております。そこには歯学・工学の研究者と工学系大学院生、そして臨床歯科医師、企業の担当者さま等が参加されています。打合せの後は、これまた恒例で研究者の先生方と大学院生と私とで、共同研究の現状についての見解や、今後の希望や展望などを打ち解けた雰囲気で話し合うのですが、以前に、その中で工学系院生の方と、読んでいる小説の話題となり、私が増田俊也著「七帝柔道記」を紹介させて頂いたところ、前回の打合せ後の話し合いで、彼がこの著作を入手されたことを聞かされました・・。

他方で、以前に私はこの著作から引用記事を作成・投稿していました。そして、さきの出来事を契機として、この引用記事をあらためてツイッターに連携投稿し、さらに、これと関連する興味深いネット記事を返信、引用リツイートしたところ、しばらく経って「何と!」著者ご本人である増田俊也先生から引用リツイートをして頂きました。

これまで、ツイッターやSNSなどで、これに類する出来事は数少ないながらも何度かはありましたが、今回のことについては、やはり驚くに値することであり、また、それは、さきに述べた院生の方とのやり取りや、以前に投稿した引用記事が起点となっていると云えます。

これをさらに遡りますと、以前、2017年の5月に、当著作を少し取り上げたブログ記事を作成・投稿していました。そこから、私が当著作を知ったのは6年ほど前であったことが思い出されました。そして、当著作を知ったきっかけを思い起こしてみますと、これもまた、文系院生時代からの友人との会話であったことが思い出されました。

この友人は、修士課程修了後、「七帝柔道記」の舞台となった大学の大学院博士課程に進み、さらに、研究と同時に柔道ではありませんが、体育会運動部に入部して、部活動にも積極的に参加していました。

そして、この友人との、おそらくは電話での会話にて「この作品が面白いよ!」と聞かされて購入した経緯となりますが、こうした書籍を巡る「縁」のようなものが、SNSなどの進化したネット環境よって生じたということは、以前ではなかったと思われることから、何やら、良い意味での「不思議さ」のようなものが感じられた次第です。

とはいえ、同時にそこから、ここ最近では、こうした書籍を話題とした会話があまり出来ないでいる現実をも思い出され、おそらく、そうしたことは、当ブログ記事作成などに対しても何らかの影響があるのではないかと思われます。しかし一方で、おかげさまにて当記事の投稿により、総投稿記事数は1942に至り、先日投稿のブログ記事にて述べた「1月中に1940記事までの到達を目指す」は達成していました。そして、さらに58記事の投稿により、当面の目標である2000記事に到達することが出来るわけですが、引続き、引用記事、独白形式の記事、そして【架空の話】等の形式を問わず、今しばらく記事作成を続けたいと考えています。なかでも【架空の話】については、さらに続きを作成したいため、しばらく経ちましたら、また自然に作成することが出来るのではないかと思っていますが、さてどうなるでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













20230129 株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋

株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4166600362
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166600366

奈良盆地は、地形的・地理的には大きく三つの地域に分けられる。それは周囲の山地から流出した河川が北から南へ流れる盆地北半の「曾布」の地と、川が南から北へ流れる南半分のうち、最も低地部を流れる飛鳥川ないし曾我川を境にその東方の「やまと:の地と、その西方の「葛城」の地である(図14)。これら「やまと」、葛城、曾布の地域にはそれぞれ大規模な古墳がみられるが、少なくとも古墳時代前初期の出現期古墳は「やまと」の地にしかみられず、この時期にはさらに河内を含む大和川水系では「やまと」の覇権が確立していたことを示すものであろうことは、すでに前章で述べたとおりである。

 このうち曾布の地域やその周辺では、「やまと」との境に近い天理市北部の和邇の地の南に、後漢の中平(184~189)の年号銘をもつ鉄剣を出した東大寺古墳(墳丘長140メートル)を盟主とする東大寺古墳群がある。また奈良市西部の富雄には、三面以上の鏡やさまざまな石製品を出した大円墳の富雄丸山古墳(径86メートル)がある。これらはいずれも前期でも新しい段階のもので、しかも地域的には曾布の周辺地域であって、これらを佐紀古墳群の前進勢力と考えるのはむつかしい。

 このように佐紀古墳群へのヤマトの王墓の移動は、まさに突然の出来事であり、その歴史的意味を解くことは容易ではない。この問題にちては、このあと中期になるとヤマトの王墓はさらに大阪平野の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動するが、そうした王墓の移動の問題全体のなかで検討することにしたい。