2023年2月1日水曜日

20230201 朝日新聞出版刊 木村誠著「大学大崩壊」pp.108-113より抜粋

朝日新聞出版刊 木村誠著「大学大崩壊」pp.108-113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022737905
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022737908

問題は人文科学系の大学院生である。同じ文系でも社会科学分野の法・経済などと違って、企業勤務に直接的に必要な知識や専門性を持たないため、どうしても民間企業よりも教育研究方面を希望する人が多い。しかし、少子化が進み児童生徒が少なくなっていくので、高校や中学の教員需要は、将来もそれほど高くない。

 結局は大学の教員や研究職を希望するが、何度も触れているように、大学での研究職・教員のポジションは減っており、就職への道も狭くなっている。ポスドク問題や大学での非常勤講師の増加が、それを裏付けている。

 文部科学省が、1996年から2000年の5年間で、「世界水準の研究を支える競争的環境のサポーターとして1万人の博士号取得者を創出」するための「ポスドク1万人支援計画」を打ち出した。そのため期限付きで雇用する必要があるので資金を大学や研究機関に配分した。すなわちポスドクは研究力を世界水準に上げるための、研究に専念できる任期付き要員だったのである。

 ところがポスドクは、正規の大学教員に就くまでの仮の不安定な立場という認識が世間に広がった。実際に大学の教員や研究者というポストを手に入れる者は多くはなかった。さまよえるポスドクの誕生だ。最近は40代以上のポスドクも出てきている。

 ここにもやはり若者の進路を配慮する視点が欠けている。

 最近、文部科学省が大学改革実行プランや高等教育無償化、あるいは後述する専門職大学などでしきりに推奨する実務家教員の登用も、大学院ルートから大学教員を目ざす者、ポスドクも含めて、大学教員への就職の間口を狭める要因になっている。

大学院重点化の流れの中で、大学側も、自校の印象アップのためにコストのあまりかからない文系大学院の新増設に走ったケースがあることも否定できない。あるい私立大学の学長が「大学院を作ってやっと一般の大学入りをした。やはり大学院がないとね」と述べていた。

 文系の研究に情熱を傾ける有能な若手研究者の、大学だけでなく研究機関などでポジションを与えることは、日本の文化や学問にとっても重要である。

悲惨なポスドクと人文系博士の経済状況

 ポスドクを多く生みだした任期付き雇用問題は、若手研究者を中心に日本の大学院に深刻な影響を落としている。

 第一に、大学における正規の教育研究者のポジション(働き場所や職務上の地位)間の流動性が非常に低下している。具体的には大学間の人事交流も少なくなってきている。既存の教員がその座にしがみついている。定年にならないと、常勤で無期雇用の大学教員はなかなか辞めない。他大学にもそのポストが少なくなってきているからだ。新学部や新学科ができても、学内の正規教員の横滑りや、実務家教員や他大学の定年教授が新採用で補充される。新たな常勤ポストがポスドクなどに用意されるケースは多くない。国立大学に限っても、図表11「40歳未満教員の雇用状況」を見てもわかるように、2007年から2016年の10年間で任期なし教員が激減し、それぞれの割合が逆転している。

 2点目に待遇の問題も大きい。熱意のある若手研究者の多くは給料も少なく、社会的な立場が不安定な状況にある。図表12「博士の年間所得」を見てみよう。大学卒と修士を含む大学院卒とを比べると、所得は一般に大学院卒のほうが高い。ところが博士を見ると、500万円以上も多いが、300万円未満の層が大学院卒平均より多くなり、大学卒でも4.2%しかいない100万円未満がなんと9.3%もいるのである。生活保護水準の場合、都市の1級地で単身なら月間7万9000円の生活扶助の他に住宅補助も付くので、年間100万円を超える。それ以下の大学院修了者が1割弱もいるのである。博士間の所得格差が広がっているのだ。

 また、この調査は「収入なし」を除いている。すなわち無職無収入の博士はカウントされていない。前掲図表10(106~107ページ)「大学院修了者の進路状況」によれば、博士課程修了者全員がポスドクというわけではないが、バイトを含めた就職・進学以外の者と不詳・死亡を合計すると、人文・社会科学系では、なんと40%を超えている。研究力強化どころか「博士大失業時代」なのだ。

 大学院重点化導入の目的を「若手研究者の育成」としていながら、博士号取得者に対する社会の受け入れ体制ができていない。進路は大学に限らず、研究所やシンクタンクといった選択肢もあるが、修学分野によっては受け皿の大きさに差がある。

 最近、大企業でも一部の理工系の博士課程修了者の雇用を拡大する動きが出ているが限定的である。ましてや、文系博士へのニーズは低いままだ。

 この状況では、トップクラスの優秀な若手気研究者は海外へ職を求め、知の流出がさらに加速するであろう。日本の大学の研究力は、崩壊への下り坂をたどることになる。

2023年1月30日月曜日

20230130 昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】

先日、奈良県奈良市の富雄丸山古墳より新たに出土した長大な蛇行剣、そして大型の楯型銅鏡から、古墳時代に関する蔵書を何冊かあたり、興味深いと思われた記述をいくつか引用記事として作成しました。また、これらについては、さらに、いくつかの引用記事を作成出来るストックも得ました。そして本日も、同題材にて引用記事を作成しようと考えていましたが、昨日、ツイッターでのリツイート、連携投稿へ頂いた反応にて興味深いと思われたことがあったため、本日は、さきに予定していた引用記事の作成を控え、こちらを題材として記事作成をしたいと思います。

かねてより関与させて頂いている共同研究で、月一回、恒例にて開催の共同研究の打合せがあり、これに参加させて頂いております。そこには歯学・工学の研究者と工学系大学院生、そして臨床歯科医師、企業の担当者さま等が参加されています。打合せの後は、これまた恒例で研究者の先生方と大学院生と私とで、共同研究の現状についての見解や、今後の希望や展望などを打ち解けた雰囲気で話し合うのですが、以前に、その中で工学系院生の方と、読んでいる小説の話題となり、私が増田俊也著「七帝柔道記」を紹介させて頂いたところ、前回の打合せ後の話し合いで、彼がこの著作を入手されたことを聞かされました・・。

他方で、以前に私はこの著作から引用記事を作成・投稿していました。そして、さきの出来事を契機として、この引用記事をあらためてツイッターに連携投稿し、さらに、これと関連する興味深いネット記事を返信、引用リツイートしたところ、しばらく経って「何と!」著者ご本人である増田俊也先生から引用リツイートをして頂きました。

これまで、ツイッターやSNSなどで、これに類する出来事は数少ないながらも何度かはありましたが、今回のことについては、やはり驚くに値することであり、また、それは、さきに述べた院生の方とのやり取りや、以前に投稿した引用記事が起点となっていると云えます。

これをさらに遡りますと、以前、2017年の5月に、当著作を少し取り上げたブログ記事を作成・投稿していました。そこから、私が当著作を知ったのは6年ほど前であったことが思い出されました。そして、当著作を知ったきっかけを思い起こしてみますと、これもまた、文系院生時代からの友人との会話であったことが思い出されました。

この友人は、修士課程修了後、「七帝柔道記」の舞台となった大学の大学院博士課程に進み、さらに、研究と同時に柔道ではありませんが、体育会運動部に入部して、部活動にも積極的に参加していました。

そして、この友人との、おそらくは電話での会話にて「この作品が面白いよ!」と聞かされて購入した経緯となりますが、こうした書籍を巡る「縁」のようなものが、SNSなどの進化したネット環境よって生じたということは、以前ではなかったと思われることから、何やら、良い意味での「不思議さ」のようなものが感じられた次第です。

とはいえ、同時にそこから、ここ最近では、こうした書籍を話題とした会話があまり出来ないでいる現実をも思い出され、おそらく、そうしたことは、当ブログ記事作成などに対しても何らかの影響があるのではないかと思われます。しかし一方で、おかげさまにて当記事の投稿により、総投稿記事数は1942に至り、先日投稿のブログ記事にて述べた「1月中に1940記事までの到達を目指す」は達成していました。そして、さらに58記事の投稿により、当面の目標である2000記事に到達することが出来るわけですが、引続き、引用記事、独白形式の記事、そして【架空の話】等の形式を問わず、今しばらく記事作成を続けたいと考えています。なかでも【架空の話】については、さらに続きを作成したいため、しばらく経ちましたら、また自然に作成することが出来るのではないかと思っていますが、さてどうなるでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













20230129 株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋

株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4166600362
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166600366

奈良盆地は、地形的・地理的には大きく三つの地域に分けられる。それは周囲の山地から流出した河川が北から南へ流れる盆地北半の「曾布」の地と、川が南から北へ流れる南半分のうち、最も低地部を流れる飛鳥川ないし曾我川を境にその東方の「やまと:の地と、その西方の「葛城」の地である(図14)。これら「やまと」、葛城、曾布の地域にはそれぞれ大規模な古墳がみられるが、少なくとも古墳時代前初期の出現期古墳は「やまと」の地にしかみられず、この時期にはさらに河内を含む大和川水系では「やまと」の覇権が確立していたことを示すものであろうことは、すでに前章で述べたとおりである。

 このうち曾布の地域やその周辺では、「やまと」との境に近い天理市北部の和邇の地の南に、後漢の中平(184~189)の年号銘をもつ鉄剣を出した東大寺古墳(墳丘長140メートル)を盟主とする東大寺古墳群がある。また奈良市西部の富雄には、三面以上の鏡やさまざまな石製品を出した大円墳の富雄丸山古墳(径86メートル)がある。これらはいずれも前期でも新しい段階のもので、しかも地域的には曾布の周辺地域であって、これらを佐紀古墳群の前進勢力と考えるのはむつかしい。

 このように佐紀古墳群へのヤマトの王墓の移動は、まさに突然の出来事であり、その歴史的意味を解くことは容易ではない。この問題にちては、このあと中期になるとヤマトの王墓はさらに大阪平野の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動するが、そうした王墓の移動の問題全体のなかで検討することにしたい。

2023年1月29日日曜日

20230129 株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」 pp101-102より抜粋

株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006001665
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006001667

前方後円墳の形式を「楯」の意匠として考えた最初の人は、誰あろう浜田耕作博士であった。昭和11年8月のことである。博士は、前方後円墳の形式の発達を概観した上で、一種の宗教的意義を有し、九州などの古墳の表飾にしばしば現れてくる楯の形がここに移入されたのではないかと推定し、その論拠として大和生駒郡にある成務天皇・神功皇后の二陵の陵号が狭城盾列池後陵、狭城盾列池上陵とあることから、この盾列という地名が、両陵はじめそのほかの前方後円墳の群列する状態が宛然楯を並べた様に見えるところから名づけられたものとしたのである。実際にこの地名は、盾列里・盾列池とも関連して決して新しいものではなく、「延喜式」はもとより「日本書紀」にも成務天皇・神功皇后については「狭城盾列陵」に葬ると見え、「古事記」もまた成務天皇の陵は「沙紀之多他也那美」にありと記しているのである。この盾列という地名は、さきの久米歌についてみても、

盾並めて 伊那佐の山の

木の間ゆも い行き目守らひ

戦へば 我は飢ぬ

島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね

とあって、「楯並めて」は原文に「多多那米弖」とよんでいる。これは「戦へば」が「楯交ふ」に由来していて、やはり多多加閇婆」とよんでいることに相応じているのである。楯は射に対応するきわめて重要な武器であったのであった。浜田博士は、さらに古代の宗教的儀礼の表飾となった各種の楯を図示して、その形状を説明し、とくに筑前桂川古墳の表飾のそれが、上部は円く彎曲し、両側が中央においてややすぼまり、前方後円墳と相似することも指摘している。

 この説は、しかし浜田博士以後、これを正しくうけつぐ人がなく、小林行雄博士がその著「古墳の話」に、それも諸説の一つとして列挙された程度で、ほとんど30年余かえりみられることがなかった。しかしこの「楯」の背景にこれからのべるような服属儀礼を考慮するとき、単なる形状の相似ということだけではなく、その形状の意味がより積極的なものとなるであろう。

20230128 株式会社東京堂出版刊 大塚初重 小林三郎 熊野正也 編著「日本古墳大辞典」 p.544より抜粋

株式会社東京堂出版刊 大塚初重 小林三郎 熊野正也 編著「日本古墳大辞典」
p.544より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490102607
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490102604

富雄丸山古墳

奈良県奈良市大和田町丸山の丘陵頂上に立地する径86m、高さ10.5m(東側)を測る円墳で、墳裾には葺石が施され、墳頂より埴輪片(円筒・家形・盾等)が出土している。内部主体は割竹型木棺を安置した粘土槨で、2段に掘られた土壙(南北10.6m、東西約6.4m、深さ1.35mの段目の壙内に、南北8.45m、東西3.9m、深さ2.1mの2段目の墓壙がある)の底面は溝がめぐり、円礫が敷かれ、灰白色粘土を敷きつめている。この粘土床は厚さ0.4mあり、まわりは円礫を詰めている。木棺は粘土床の痕跡から、長さ6.9m以下の規模と推定された。一部盗掘を受けていたが、副葬品の埋置状態を知ることができた。副葬品としては碧玉製管玉5・鍬形石片・鍬形石製品1・鉄剣片・鉄刀片・鉄鏃・棒状鉄製品・鉄鑓、鉄製農・工具(斧1・鉇1・鍬先2・鎌1・刀子3・鋸形製品1・鑿・錐状製品・ヤス)、短甲片1・巴形銅器1・筒型銅製品1・銅鏃9・不明銅製品があり、鍬形石片は京都国立博物館蔵の重要文化財「伝富雄丸山古墳出土品」の鍬形石と一致し、これらの一括試料は本古墳出土品として確認された。伝富雄丸山古墳出土品を列挙してみると、鏡3(四神四獣鏡・神獣獣帯鏡・盤龍画像鏡)・有鉤銅釧1・銅板2・玉類(碧玉製勾玉・棗玉・管玉・滑石製臼玉)・碧玉製盒子4・鍬形石2・琴柱形石製品12・石製模造品(刀子6・斧頭9・鑿1・鉇1)がある。副葬品の石製品、鉄製品に特色があり、また有鉤釧は弥生時代に多い。内部主体の粘土槨の構造等、古式の要素をもつ本古墳は前方後円形を採らずに円形を用いた点に、今後の研究課題を残すものである。築造年代は4世紀末葉と考えられている。

〔文献〕久野久雄・泉森皎「富雄丸山古墳ー奈良県大和田町富雄丸山古墳群発掘調査報告」奈良県文化財調査報告書19、1973、奈良県教育委員会。

2023年1月23日月曜日

20230123 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」pp.144-147より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

ゲームやネットは、物語の伝達に適さないかわりに、コミュニケーションの拡張に適している。

 ゲームの特徴について参考になるのは、メディア・プロデュ―サーの桝山寛の議論である。彼は2001年の「テレビゲーム文化論」において、コンピュータ・ゲームの本質を、コンピュータがプレイヤーの「相手をしてくれる」こと、すなわちユーザーとシステムのコミュニケーションに求めている。桝山によれば、ゲームの魅力において、コンテンツ(物語や世界観)の役割は実は相対的に小さい。彼は、その象徴的な例を、1999年に発売され、社会現象になったペットロボットに見ている。ペットロボットはなにもコンテンツを伝えないが、「遊び相手」になることでユーザーに喜びを与えてくれる。桝山はこの喜びこそがゲームの本質だと主張し、コミュニケーション・ロボットにゲームの未来を見た。

 同型の指摘はネットに対しても行われている。たとえば、社会学者の北田暁大は、2005年の「嗤う日本の「ナショナリズム」」やそのほかの著作においては、コミュニケーションの内容より、むしろコミュニケーションの事実そのものが大きな役割を果たすと分析している。

 北田によれば、その特徴がもっとも強く現れたのが、2000年代に隆盛を迎えた匿名掲示板「2ちゃんねる」である。よく知られるように、2ちゃんねるでは多くのユーザーが情報を交換するのではなく、だれかと繋がりたいために、すなわちコミュニケーションそのもののために投稿を繰り返している。北田はそれを「(繋がり)の社会性」と呼び、従来の社会性と区別している。北田自身は触れていないが、2000年代半ばのSNSの成功は、「(繋がり)の社会性」の強さをあらためて証明した事例と言えるだろう。ペットロボットのユーザーと同じく、2ちゃんねるやSNSを前にしたユーザーは、自分の行為(書きこみ)に対してだれかが反応を返してくれる、その喜びだけで十分に満足してしまう。

 出版やテレビは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくては、メディアとして成立しない。しかし、ゲームやネットは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくても、コミュニケーションのプラットフォームさえ整備すれば、メディアとして大きく成長することができるのだ。

コミュニケーション志向メディアの生みだす物語

 ところでここで興味深いのは、コミュニケーション志向メディアは、それそのものは物語の伝達に適さないにもかかわらず、コミュニケーションの副産物として実に多くの物語を生み出すことである。前述のように、「ゲームのような小説」の台頭は、テーブルトーク・ロールプレイングゲームのシステムが、無数の物語を、しかも効率よく生みだすからこそ可能になった。

 ネットも同じように多くの物語を生みだしている。現在の読者にとってもっともわかりやすい例は、2004年に出版され、ベストセラーとなった「電車男」だろう。よく知られるように、この小説は特定の作家をもたない。「電車男」の「コンテンツ」は、2004年の3月から5月まで、2ちゃんねるのあるスレッドに集まった書きこみの集積でしかない。「電車男」という「物語」は、匿名のコミュニケーションの副産物として、たまたま生み落とされたものである。

20230122 以前書けなかったことが書けるようになる変化について「文体の獲得?」

南紀白浜在住であった頃の地理感覚を思い出してみますと、在住している西牟婁郡白浜町から、北隣の紀伊田辺市の中心街までは、自動車で20分程度の距離であり、ホテル勤務の日勤後や夜勤明けなどに度々行っていました。他方、南の方の椿温泉や上富田町については、当時、月に何度か出向いていたダム湖への釣行の際に通っていましたが、そこを目的として訪れたことは、あまりありませんでした。

また、隣接する紀伊田辺市から、さらに北方に位置するのが日高郡みなべ町であり、南紀白浜から北へ10㎞行くと紀伊田辺市、そして、そこからさらに10㎞北へ行くとみなべ町といった感覚でした。このみなべ町は、私がこれまで度々ブログ記事題材として扱った「銅鐸」の出土が目立つ地域でもあり、紀伊半島西南部を東から西に流れる南部川流域河口域の、決して広いとはいえない平野部から少し離れた里山の周辺にて、これまでに計6個の大型、高装飾の近畿式銅鐸が出土しています。

これら6個のみなべ町で出土した銅鐸のうちの一つで、出土した地域の名を冠した「雨乞い山銅鐸」と云うものがありますが、その名称から、その出土地域は、後代においても雨乞い祭祀を行っていた場所であると考えるのが妥当と思われますが、他方で、銅鐸がそこに埋納された、おそらくは西暦200年頃でしょうか、そこから1700年近く経った同じ場所においても、雨乞いなどの祭祀が行われていたことには、その間を貫く、土着の価値観、観念のようなものがあったのではないかとも思われるのです・・。

ともあれ、みなべ町は、現在では南高梅の産地として知られ、現在からもう少し経った2月半ばの頃に、町を南北に走る国道42号線を自動車で通り、窓を開けますと、何とも芳しい大気の薫りがするのです。和歌山県の大気の薫りは、季節や場所によって異なりますが、全てに共通していることは、私見ですが「自然の薫りが濃厚」であることです。県庁所在地の和歌山市も、他地域から訪問して翌朝起床して外に出ますと、南紀白浜とは異なるものの、後背の山々から運ばれた薫りであるのか、そこから「濃厚な自然」を感じさせられ、目が覚めるような感覚があると思われます。

さて、さきの、みなべ町の銅鐸の出土地が、後代に至っても(雨乞いなどの)祭祀を執り行う場所であったこととを貫通する、ある種の観念があるとすれば、それは文章化出来るはずであると思われるのですが、残念ながら、そうしたことは現在の私では困難と云えます・・。

しかし、私としては、そうしたことこそ、当ブログのような文章作成を通じて自然と出来る様になっていくのではないかと思われるのです・・。

これは、最近になって実感することですが、以前は文章化出来なかったものの重要と思われる、さまざまな様相を文章として著すことが出来た時は、やはり、それなりに嬉しいものがあり、あるいは、これを続けることにより、さらに文章化することが可能な様相といったものが徐々に増えていくのではないかとも思われるのです。

また、そのように考えていますと、これまでに当ブログにて何度か扱った「文体の獲得」は、もう少し具体的に考えてみますと、前述のような大抵の様相を自分なりに記すことが出来る様になった状態を指すのではないかとも思われるのです・・。

そしてまた、そうした変化を引き起こす一つの要素が、前述の「地域の濃厚な自然」ではないかと思われるのですが、しかし、実際のところ、そこには何らかの科学的根拠といったものはあるのでしょうか・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。