2023年1月23日月曜日

20230123 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」pp.144-147より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

ゲームやネットは、物語の伝達に適さないかわりに、コミュニケーションの拡張に適している。

 ゲームの特徴について参考になるのは、メディア・プロデュ―サーの桝山寛の議論である。彼は2001年の「テレビゲーム文化論」において、コンピュータ・ゲームの本質を、コンピュータがプレイヤーの「相手をしてくれる」こと、すなわちユーザーとシステムのコミュニケーションに求めている。桝山によれば、ゲームの魅力において、コンテンツ(物語や世界観)の役割は実は相対的に小さい。彼は、その象徴的な例を、1999年に発売され、社会現象になったペットロボットに見ている。ペットロボットはなにもコンテンツを伝えないが、「遊び相手」になることでユーザーに喜びを与えてくれる。桝山はこの喜びこそがゲームの本質だと主張し、コミュニケーション・ロボットにゲームの未来を見た。

 同型の指摘はネットに対しても行われている。たとえば、社会学者の北田暁大は、2005年の「嗤う日本の「ナショナリズム」」やそのほかの著作においては、コミュニケーションの内容より、むしろコミュニケーションの事実そのものが大きな役割を果たすと分析している。

 北田によれば、その特徴がもっとも強く現れたのが、2000年代に隆盛を迎えた匿名掲示板「2ちゃんねる」である。よく知られるように、2ちゃんねるでは多くのユーザーが情報を交換するのではなく、だれかと繋がりたいために、すなわちコミュニケーションそのもののために投稿を繰り返している。北田はそれを「(繋がり)の社会性」と呼び、従来の社会性と区別している。北田自身は触れていないが、2000年代半ばのSNSの成功は、「(繋がり)の社会性」の強さをあらためて証明した事例と言えるだろう。ペットロボットのユーザーと同じく、2ちゃんねるやSNSを前にしたユーザーは、自分の行為(書きこみ)に対してだれかが反応を返してくれる、その喜びだけで十分に満足してしまう。

 出版やテレビは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくては、メディアとして成立しない。しかし、ゲームやネットは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくても、コミュニケーションのプラットフォームさえ整備すれば、メディアとして大きく成長することができるのだ。

コミュニケーション志向メディアの生みだす物語

 ところでここで興味深いのは、コミュニケーション志向メディアは、それそのものは物語の伝達に適さないにもかかわらず、コミュニケーションの副産物として実に多くの物語を生み出すことである。前述のように、「ゲームのような小説」の台頭は、テーブルトーク・ロールプレイングゲームのシステムが、無数の物語を、しかも効率よく生みだすからこそ可能になった。

 ネットも同じように多くの物語を生みだしている。現在の読者にとってもっともわかりやすい例は、2004年に出版され、ベストセラーとなった「電車男」だろう。よく知られるように、この小説は特定の作家をもたない。「電車男」の「コンテンツ」は、2004年の3月から5月まで、2ちゃんねるのあるスレッドに集まった書きこみの集積でしかない。「電車男」という「物語」は、匿名のコミュニケーションの副産物として、たまたま生み落とされたものである。

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