2015年10月14日水曜日

加藤周一著「日本人とは何か」講談社刊pp.19-22より抜粋

われわれは何を望むか。それはまだ形をなしていないと私はいった。これは事実の問題であって、それ以上何をつけ加えていうこともない。
われわれは何を望み得るか。これは可能性の問題であって、私は私なりに意見をいうことができるだろう。
私の意見はさしあたって二つである。

第一、過去の日本人は、一方で造形的な感受性と趣味の鋭敏さを実証し、他方で工業技術の発展に能力を示した。
しかしその二つのものを結び合わせることはできなかった。多分われわれはその結合を望むことができるだろう。
われわれを勇気づける徴候は、すでに建築の一部にあらわれている。そこでは鉄やコンクリートで建てる技術と、伝統的な美的感受性とが融和している(ただし伝統的な感受性との融和であって、木造建築の形との融和ではない。木造建築の形がコンクリートの材料と融和するはずのないことは、わかりきっている。融和するはずのないものを無理にむすびつくった世にもぶざまな建築の典型的な例は、東京九段のその名も軍人会館という怪物である)。建築の成功は、たとえ小部分での成功のようにみえても、おそらくその意味するところが大きい。なぜなら建築はそこで人間が働き暮らす場所であり、またすべての造形美術の母体でもあるからだ(彫刻はその柱や欄間から、絵画はその壁から、次第に独立して出て来たものにすぎない)。すべての創造的な時代は、何よりもまずその建築に時代精神の形を見出していた。
たとえば紀元前五世紀のギリシャ、紀元後八世紀の日本、十二世紀のフランス等。
建築が精神の問題でなくなったのは、現代的な病のいちばん重い症状の一つである。
建築に調和を発見するということは、おそらく、単に日本の問題であるばかりなく、現代の世界の問題の核心にも触れているのである。
第二、過去の日本人は開国によって近代的な国家をつくりあげることに成功したが、それは技術的な開国であり、つくりあげた国家は技術的に近代的であったにすぎない。
十九世紀半ばの技術的(物質的)な開国に対し、現在二十世紀の半ばに、おそらくわれわれは思想的でもなく日本歴史の上ではじめて明瞭に人権を保証した憲法である。
人権宣言のいまだ嘗てなかった社会で西洋の近代思想を問題にするのは、極端にいえば学者の道楽にすぎなかった。
ところが思想は他の何であり得るとしても本来道楽の対象ではあり得ないはずのものにはならないだろう。
現にこの鎖国は、外国思想との交渉の問題になるよりもはるかに手まえで日本人の精神的構造そのものにおける鎖国的特徴としてあらわれていた。
今はその詳細に立ち入ることはできない。
しかしとにかく戦前の日本に育った日本人のほとんどすべてには共通のある精神的特徴がある。
その特徴を簡単にいえば、まず心理的な段階では、閉鎖的であること、思想的な段階では、ものの考え方の普遍的でないことである。
思想的な段階では話が面倒になる(という意味は、決して問題があいまいだということではないが)。
心理的な段階では、たとえば外国で何年間か日本人旅行者の反応を観察すると、容易に話がはっきりする。
一定年齢以上の日本人旅行者の反応と、著しくちがっている。しかもその特殊性は、性別、教養、知能の程度、個人的な性格の差などとは、おどろくべきことに、ほとんど全く関係していない。そうではなくて、ただ精神的鎖国の結末と関係しているのである。
若い日本人にそういう特殊な反応がほとんどないのは、単に若さの問題ではなく、育ってきた環境の閉鎖性が少なくとも心理的には崩れはじめているからであろう。
私は精神的鎖国の原則が、すでに憲法で崩れ、その心理的影響が、青年において崩れはじめていると結論したいと思う。
しかしもちろんその結論から、思想的開国までゆくのは遠い道である。人権宣言にもとづく憲法とおそらくは生活様式の推移から来る心理的な開放性、―この二つの条件だけから、精神的開国にのぞむときに、われわれを勇気づける現実的な根拠にはなり得る。そしてすでに現れはじめているそのような条件を維持し、拡大し、われわれの望みを空想に終わらせないためには、どうしても平和が必要だということになる。
戦争、戦争の準備、戦争を予定した措置のすべては、人権を冒す最大の理由であり、多かれ少なかれ民主主義をその原理において侵害するものである。
そのことに疑の余地はない。
その意味でわれわれは平和を望むことができるだろうし、その理由は単に原爆の被害が忘れられないということばかりではなく、日本の軍国主義的権力の人権に対する加害が忘れられぬということでもあり得るだろう。
人権に対する加害は同時に精神的鎖国を導く。ところが開国の必要は、外国の思想の輸入などということとは全く無関係に、偉大な地方的文化にして普遍的な価値の世界へ引き入れるかという望み以外のものではない。
日本人とは何か―さしあたって何であるかわからぬ。
しかしやがて技術文明のなかに人間的な感覚の「形」を導き入れるという重大で決定的な仕事に熱心なあまり、平和をねがわずにはいられない一国民になり得るでもあろう国民である。われわれはそのような歴史を負い、今も活気にみち、自分の能力のほんとうの使いみちを探しているのだ。

(「現代倫理講座」筑摩書房1958)
日本人とは何か (講談社学術文庫)
ISBN-10: 4061580515
ISBN-13: 978-4061580510

加藤周一著「日本人とは何か」講談社刊pp.113-117より抜粋20151012

私は過去五六年の間、なかば西ヨーロッパで、なかば東京でくらし、彼我の知識階級の関心の対象には、目立った違いがほとんどないという印象をうけた(同じ対象を扱い方には、むろん多少の違いがあるが、それもヨーロッパ諸国相互の間での違いが、日本との違いよりも常に大きいとは限らない)。しかし唯一の例外は、宗教とそれに関連した問題に対する態度である。
日本では知識階級の無関心が著しい。
ということはあらゆる個人的接触の機会に経験したし、また日刊新聞を含む一般ジャーナリズムの上でも、容易に指摘することができる。
一方外国人にとっての日本は―といっても、日本に特殊な関心を持つ例外的な少数にとってということになるが―伝統的な仏教文化と「天皇制という軍国主義的な宗教」によって知られる国である。
そのことと、日本の知識階級の宗教問題に対する無関心とは、著しい対照をなしている。
しかも宗教的問題に対する関心が西欧の知識階級にくらべて、日本の知識階級には少ないというだけでなく、宗教的感情または信仰そのものについても日本の大衆は宗教の影響をうけることが少ない、ということが日本人の観察者のほとんどすべてによって強調されてきたのである。
観察の大部分は統計によらず、観察者自身の個人的経験により、たとえば文部省の「宗教年鑑」に見られる各教団届出信徒教の示すものとは、まったく別の微妙な問題を語っている。信徒総数は、その大部分が習慣による純粋に形式的所属を表しているに過ぎない。同様に仏壇の有無、葬式の仏式か否かは、仏教の信仰と殆どまったく関係がないだろう。
神前結婚は、大部分の男女にとって神道との何等の精神的関係をも意味しない。
そういう条件のもとで、宗教の儀礼的な面を統計的に扱っても、その結果は大衆の宗教感情、その政治・道徳・文化等への影響について、殆ど何ものも教えない、従って日本側の信頼すべき個人的な観察者が、現在の日本人は信仰が薄い、宗教から何等の重大な精神的影響を受けていない、と考える点で誰も一致しているということは、注目すべき事実なのである。一方外国人の側には、今の日本人の心理について、少なくとも宗教に関する限り、殆どすべて一致した誤解がある。
すなわち、日本人は今も宗教的感情に豊かで、宗教の影響が日本人の文化や生活に少いはずはないと考えているのだ。
彼我の意見の相違が、日本に関してこれ程確然と分かれている例はおそらく他にないだろう。問題が微妙で、長い生活を通してでなければ容易に捉え難いからかもしれない。
たとえば宮沢俊義氏は、カトリック教徒田中耕太郎氏の最高裁判所長就任が、日本で殆ど問題にされなかったということにレモン・アロン氏がおどろいたということ、またキリスト教徒の片山哲氏が総理大臣になった時、そのことに注目したのが占領軍司令部だけで日本側では誰も注意しなかったということなど二三の例を挙げて、大臣や「最高裁判所長官が神道であろうと仏教であろうと回教であろうと、キリスト教であろうと・・大部分の日本人はその点に何の関心も持たない」といっている(「日本文化通信」一九五六年四月)。
また桑原武夫氏は中谷宇吉郎氏との対談で、「日本の自由過剰」を制限するために、宗教を持ち出すということについて、「しかし日本人はもとから宗教心がないんですからね。
これを復活さそうなんといっても、無理だと思います」といっている。「日本人はもとから宗教心がない」という言葉は、大衆との広い接触を持ち、多くの問題について判断の正確な桑原氏の口から、全く気軽に、特別の検討を必要としないで意見として、自然に出てくることのできるものなのである(「文藝春秋」一九五六年八月号)。

また殊に仏教国日本の「坊主ども」について、三好達治氏は「もうとっくの昔に無意味な存在となりきっている」と断定する。金龍山浅草寺が堂宇を新築し、「仏教浄土さながらの象徴的聖域とやら何やら」といっても、「法主以下誰もそれを信じていないのがまるまる見とおしである」。
しかも、誰も信じていないのは金龍山浅草寺だけではなく、「全国津々浦々百万の実例がおよそ大同小異である」というのだ(「文學界」一九五六年八月号)。仏教の知識階級への影響に至っては、零に等しい。アーノルド・トインビー、吉川幸次郎両氏の対談には次のような問答がある。トインビー氏「・・・学生が仏教を信じないというのでしたが、仏教の教えによる無意識的な影響も受けてはいないということでしょうか」吉川氏「無意識的にも日本の大学の学生は仏教の影響を受けていないと思います」(「中央公論」一九五六年十二月号)。法律学者も詩人も仏文学の専門家も中国文学者もこの点においては、おそらく日本に関する他の問題について大いに意見を異にするであろうにもかかわらず、まったく一致している。
田舎ではどうか。
きだみのる氏は「部落には宗教はない。宗教の屍があるだけだ」と断定し、次のような注目すべき観察をした。
それは村のお彼岸会であり、檀家たちがお経を聞き、読経料二百円ずつ出した後で、きだみのる氏が住職や総代たちと酒を飲んだ時に考えたことである。
「彼岸の今日の儀式、費用、それらはすべて今日の部落の生活の現実に対して何の意味も持ってはいない。
住職も部落の連中も懲罪の場としての地獄も亡霊の存在も信じていはしない。
住職は生活のためにそれを信じている振りをしているかも知れない。しかも他のものは全く意味をもたない伝統の歯車のまにまにこのような儀式を行っているのだ」と(「群像」一九五六年十一月号)。
田舎では、仏教も天皇崇拝も、まだほんとうに生きているという考えは、日本人の観察者の中にも少なくない。
しかし、そういう観察者の大部分は都会の住人であって、部落の人々にとってはよそ者である。
部落の事情をほんとうに理解することがむずかしいのは、外国人にとって日本の事情を理解することが困難なのと似ているかもしれない。
外からの観察者にとっては、田舎に宗教がみえ、内からの観察者にとっては宗教の屍がみえる。
ということは、田舎には都会よりも、宗教殊にその信仰ではなく、その儀式的な面がよく保存されているということなのであろう。「住職は生活のためにそれを信じている振りをしているかもしれない。」―ときだみのる氏はいう。
それを見破るためには、氏のように長い間部落に住みこむ必要があるだろう。
調査票を配布して、回答を集めるやり方で、それを見破るのは、むづかしい。

ところが政治・社会・文化現象の全体にとって、宗教が何らかの影響をもつか、もたぬか、もつとすればどういう影響であるかは、信じているのか、信じているふりをしているのかということによって、決定的に左右されるはずである。しかもそれだけではなく、この信じるのでもない、信じないでもない、「信じるふりをする」という態度のうちには、宗教と関連しての日本的なものの典型があらわれているかもしれないのである。

「日本人とは何か」
「日本人とは何か」
ISBN-10: 4061580515
ISBN-13: 978-4061580510
加藤周一






2015年10月13日火曜日

20151013 谷川健一著「日本の神々」岩波書店刊(セヂ(霊威)についての記述)pp.30-32より抜粋

谷川健一著「魔の系譜」講談社学術文庫刊 (巫女についての記述) pp.136-138より抜粋と併せて読んでみてください。

南島で顕著に見られるのはセヂと呼ばれる霊威である。
奄美や沖縄ではよく、「女は男よりもセヂが高い」という。
それは女は男よりも神に近いという意味である。
また「あの娘はサー高か生まりだ。」ともいう。
サーはセヂのことで、霊威の高い娘で、将来、神女(ノロ)になったり、神占いをする素質がある、という意味である。
こうした例から見ると、霊威は本来、その人に備わっているように見られがちであるが、そうではない。

小さい時、よく予言の的中していた娘が、長ずるにしたがって、当らなくなることが多いが、それはセヂが去ったのである。つまりセヂは固有の霊威ではなく、外部から付着する霊威である。

琉球王国の最高位の神女である聞得大君(きこえおおきみ)の就任式である御新下り(あらおり)は、斎場御嶽(せいふぁうたき)で行われる。

その儀式では、外間(ほかま)ノロが、聞得大君の頭に王冠をのせて「聞得大君の御セヂ」(チフィジンミウシヂ)と唱え、神前に供えた洗米三粒を、聞得大君の頭にのせて、神名をたてまつる。

このときからニルヤセヂ(ニライカナイの神の霊威)が聞得大君に宿ることになり、大君は地上の神となる。
これが聞得大君の就任式のセヂつけの行事である。これは天皇霊が付着してはじめて天皇の資格を得るというのと同じ意味を持っている。

仲原善忠は「おもろそうし」に登場するセヂという語を分析している(「セヂ(霊力)の信仰について」)。
それによると、セヂを謡った「おもろ」は八十首もあり、つぎがカミ六十首、テダ五十首、テルカワ三十首の順序となっている。

このうちカミという語の大部分は巫女を指す。
またテダはもともと太陽のことであるが、国王、地方の領主、貴人などの比喩である。
テルカワは太陽を指し、人間を呼ぶことはないと仲原は言う。そこでとりわけセヂの信仰がずば抜けていることがわかる。

霊剣を「セヂまつるぎ」、神泊を「セヂあら神泊」、霊門を「セヂまさる門口」、霊社を「セヂ高杜」などと呼んでいる。
セヂがつくことで、剣も港も門も杜も違った存在に変化する。

セヂは人の媒介によるものだけではない。
それ自体の働きによって特定の場所にとどまる。
沖縄のウタキや拝所はセヂがついてはじめて神聖なものになる。

このようにセジはそれが付着したものを神聖化する霊力を持っているが、「その本質に於いて何等合理性を持たず、人格的規範を伴はぬために倫理的道徳的色彩を帯びず、特に低級な迷信の巣となるかと思へば、高級宗教とも結合する可能性がある」ということを仲原は力説する。

この言葉はタマ、サチ、イツなどの外来魂の性格を知る上で参考になる。

仲原によると「おもろさうし」の中で、セヂと同義語と見られる言葉に、セまたはケがある。聞得大君の別名であるセダカコは「セヂ高い人」の意であり、「気高き人」であるという。後者は日本全土でも使われている言葉である。
「おもろさうし」には、「セヂ勝て ケオ添て」とか「セやろ ケある」など、セヂまたはその略である「セ」が「ケ」と対句になっている例が見られる。とすれば、セヂと対応するケもマナ(メラネシア語で、非人格的、超自然的な力の観念。あらゆるものに付着し、伝移する)の一種と見なすべきである。
折口信夫はセヂ、スヂ、シヂなどはマナ信仰に見られるような守護霊であると述べている。(沖縄方言ではセジもスヂもシヂと発音している。)

さきに述べたように、本土では食物をケというが、これはケという外来魂が付着した食物を身体に入れることで活力や威力をつけることに由来する。

それに引きかえて物に付着したケの活力が破裂して、むき出しになることがハレである。

そうなることからハレには日頃許されない狼藉も許される。

祭りや一揆の打ちこわしなどはハレの日の行動である。

ハレとケとは異なる倫理と価値に支配される。

晴着に対する褻着(けぎ)というように、地味で目立たない服装が普段着とされたが、ケは物に活力を与える外来の霊威であるからだ。ケに常(ふだん)という意味が強調されるのは、ハレと対応する形でなされるからで、本来の意味ではない。

このケを物に内在するエネルギーと解し、それが枯れるからケガレ(気枯れ)であるとするのは不当である。

ケが付着すると物は活力をおび、そのケが離れることがケガレ(気離れ)であり、エネルギーがなくなる。その極点は死である。


20151013 谷川健一著「魔の系譜」講談社学術文庫刊 (巫女についての記述) pp.136-138より抜粋

谷川健一著「日本の神々」岩波書店刊(セヂ(霊威)についての記述)pp.30-32より抜粋 と併せて読んでみてください。

玉と魂が同音同義であることはことわるまでもない。私がこんど石垣市で会った、「火の神」という神人(かみんちゅ)は89歳の高齢とはみえない若々しさを保っていた。和服姿の老婆は、首に真珠の首飾りと金色のネックレスをかけていて、それが少しも不自然ではなかった。首や手足に玉を纒くということは悪霊を除けて、自分の魂を強くまもることにほかならぬ。竹富島で見せてもらったツカサ(巫女)の七つ道具の中にも勾玉があった。



こうして神人(かみんちゅ)の身につける玉は、悪霊を除けると同時に、高い霊威を他人につける役割を果たした。さきに述べたユタが私に語った「ふつうの人よりセジが高い」という、そのセジが霊威である。このセジは巫女の権威でもあり能力でもあるのだが、それを身につけるために、蚊や糠子にさされ、さいなまれて3ヶ月もつづく山ごもりの苦行をしなければならない苦しみが、「おもろそうし」に散見して謡われる。


それにつけても思い出されるのは、私がこんど会った「八重山の大阿母」と呼ばれる巫女である。大阿母は枢要な土地の女神官に与えられたものであり、久米島には君南風(きみはえ)アムシラレ、宮古には宮古島大阿母があった。

八重山大阿母は八重山の巫女組織の頂点に立つということになろう。



彼女は石垣島の中央にそびえる於茂登岳で山ごもりを繰り返し、そのために今はひどい神経痛に悩まされていた。苦行によって心身を痛めつけ、そのあげく巫女は高いセジを身に着け、それを他人に頒ち与えることができるまでにいたるのだ。


折口信夫によると、魂をしずめるには二通りあって、遊離した自分の魂をもとの身体にしずめるのと、外来魂のセジ(霊威)を身につけるのとがある。遊離した魂をしずめるにはまじないでも済むが、外来魂を身に付けるには、霊威をもった巫女をとおす他ない。

そこで折口の文章には「みたまのふゆ」という語がしきりにあらわれてくる。これは、折口学でももっとも重要なものの一つであると私は考える。(くわしくは折口信夫全集第三巻「大嘗祭の本義」をみよ)

要するに折口は、「マナ」にあたる「セジ」を他人につくことをみとめているのである。そしてそれを司るものが巫女であった。巫女が霊威を王にささげることもできたが、そのセジをもって悪用することもないではなかった。たとえば、後宮の神女たちが神託と称して、尚宣威を廃し、尚真王を位につけたのがそれである。尚真の母が、セジの力にかこつけた策だったとされている。


また島津侵入に対して巫女たちが謡っている呪詛が「おもろそうし」に出ているが、それは呪詛の烈しさをおもわせずにはおかないきびしい叙事詩である。

つまり外来魂は他人の身体に著いて、その人間の魂をつよめもすれば、またその魂を害し、くさらせることもできるのである。


かぐや姫の物語 「天人の音楽」



折口信夫

尚宣威

尚真王

魔の系譜 (講談社学術文庫)

ノロ

小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.274-279より抜粋

高き屋に
登りて見れば
煙立つ 民の竈は
にぎはひにけり

                           仁徳天皇  

およそ三百年近く前のこと、イギリス東印度会社の船隊を率いて日本を訪れたジョン・セーリス船長は、大都市大阪について次のように書いた。

大阪は大変大きな町である。
城壁に囲まれたロンドンの市内と同じくらい広く、テムズ川ほどの川幅の川が流れ、高さのある立派な木造の橋がたくさんかかっている。
立派な家もあるが、その数は多くない。大阪は日本の主要な海港の一つである。素晴らしく大きく堅固な城郭も擁している。

十七世紀の大阪についてセーリス船長の述べたことは、ほとんどそのまま、現在の大阪にも当てはまる。
今日でも大阪は大都市であり、日本の主要な海港の一つであるし、西洋の見方による「立派な家」も建っている。
「テムズ川ほどの川幅の川」、すなわち淀川には、「立派な木造の橋」(今では鉄鋼や石でできた橋もあるが)がたくさんかかっている。
また秀吉が漢時代の要塞の造りにならって築いたという「素晴らしく大きく堅固な」大阪城もあって、今も軍事工学者の驚嘆の的になっている。
もっとも、高い櫓はなくなり、豪壮な本丸の御殿も一八六八年に焼失してしまったが―。

大阪は二千五百年余の歴史を持ち、日本でも最も古い都の一つに数えられる。
現在の名は、大きな川の高台という意味の「大江の坂」が縮められたもので、せいぜい十五世紀以降の呼び名と考えられている。
それ以前は難波(なにわ)とよばれていた。日本の存在がヨーロッパに知られる何世紀も前から、大阪はこの国の商業、経済の一大中心地であったし、それは今も変わっていないのである。
長い封建時代を通じて大阪の商人は、日本全国の大名諸侯にとっての銀行業者、貸し方の役目をしてきた。
諸侯のもとに納められた米を金銀に交換したり、軍資金を用立てたり―。
何マイルにもわたって立ち並ぶ大阪商人の耐火性の蔵の中には、全国の穀物、綿、絹などが蓄えられていたのである。
秀吉は大阪を軍事上の根拠地としたが、慎重で抜け目のない家康は、この町を恐れ、経済力のある富豪達の富を減らす必要があると考えた。

一八九六年現在の大阪は、広大な面積と約六十七万の人口を持っている。
広さと人口の上からは日本第二の都市とされるが、最近大隈伯がその演説でも述べたように、金融、工業、商業面では今でも東京を凌いでいるのである。
実際、堺、兵庫、神戸などは大阪の外港にすぎず、中でも神戸は近年めざましく発展を遂げて、横浜以上の港に成長しつつある。
大阪という町はすぐれて商才を持つ人間を日本全国から引き寄せる力があるので、神戸はいずれ外国貿易の第一港になるであろうと、日本人、外国人ともに確信を持って予言している。
現在のところ、大阪における輸出入取引きは、年間約一億二千万ドルで、国内の取引も莫大な額にのぼる。
誰もが買いたいと思うような品物は、ほとんどすべて大阪で作られているし、また、快適な暮らしを営んでいる家庭で、その家具、調度、備品に大阪の工業が全く寄与していないような住居は、日本国中探してもほとんど存在しないであろう。
これは恐らく、東京のできるずっと以前からのことと思われる。
「出船千艘、入船千艘」という繰り返しのある古い歌が残っているが、その歌のできた頃、港に入るのは平底の帆船ばかりであったに違いない。今日では、蒸気船も来れば、外洋航路用の様々の大型船も来る。
波止場に沿って人力車に乗って行くと、船のマストと煙突が、どこまでも果てしなく続いて行くのかと思われるほど、何マイルにもわたってずらりと並んだ光景を目にすることができるであろう。
もっとも、太平洋航路の定期船やヨーロッパからの郵便船などは、喫水が深すぎて入港できず、大阪向けの積み荷を神戸におろしているのだが、幾つかの汽船会社も擁している、この活気に満ちた都市大阪は、千六百万ドルの費用をかけての港の改修工事を現在計画中である。
人口二百万、年間の外国貿易高三億ドル以上―今後半世紀の間に大阪がそんな都市に成長することは、決して実現不可能な夢ではない。
大阪が大きな商業組合の中心であることは、今さら言うまでもないことである。
ここには四百以上の商事会社がある。紡績会社の本社もあり、その工場では、一日二十四時間のうち二十三時間をわずか一度の交替で操業し続け、一錘当りの製糸量は英国の工場の二倍、ボンベイの工場の三十から四十パーセント増しとなっている。

世界の大都市はその住民にそれぞれ独特の性格を与えるものと考えられているが、日本においても、大阪の人はほとんど一目見ればそれとわかると言われている。
私が思うに、首都東京の人の性格は大阪人に比べて特徴が際立っていないようだ。
それはちょうど、アメリカでもニューヨークやボストンの人よりシカゴの人の方が見分けやすいのに似ている。
大阪の人間は呑込みが早く、エネルギッシュで、時勢に決して遅れを取らぬ、あるいは流行の少し先を行く雰囲気さえ漂わせているが、これは商工業界での相互競争の結果と見て良い。
何しろ商売上の経験にかけては、大阪の商工業人は首都東京の競争相手よりはるかに長い伝統を受継いでいるのである。
得意店回りの外交員としての大阪人の優秀さに定評がある理由の一つは、おそらくここに存在するのであろう。
彼らは近代的な日本人で、幾つかのタイプが目につく。
例えば汽車や汽船などでの旅行中に、一緒に少し話をした後でもなお、どこの国の人なのか決めかねるような、一人の紳士と偶然知り合いになることがあるかもしれない。
その紳士はきわめて趣味の良い、上質で最新の洋服を着こなし、英語、フランス語、ドイツ語のいずれを用いても同じように立派に話ができる。
礼儀作法も申し分ないが、それと同時に、どんな人物を前にしても相手に順応する能力を備えているだろう。
ヨーロッパも知っているし、こちらが訪ねたことのあるような極東の各地については勿論のこと、名前さえ聞いたこともないような土地についても驚くほどの情報を提供してくれる。
また日本に関してならば、この紳士は各地方の特産物に詳しく、その由来や他と比較しての長所まですべて心得ているのだ。
顔立ちも感じが良い。
鼻筋が通り、場合によっては幾らか鷲鼻で、口元は豊かな黒の口ひげにおおわれており、この顔の持ち主が東洋人であることを思い出させるのは、わずかに瞼のみである。
―と、大体以上に述べたような人物が、大阪の販売外交員一八九六年型とでも言うべき一タイプであり、日本の平均的小役人とは王子と家来ほどの差が見られる。
この同じ人物にもし大阪で出会ったとしたら、恐らく彼は和服を、それを高尚な趣味がなくてはできないような洗練された様子で着こなしているに違いない。
その姿は、日本人と言うよりも、むしろ変装したスペイン人かイタリア人のように見えるのである。

生産、流通の中心地として知られる大阪のことであるから、きっと日本の都市の中でも最も近代的で、日本的特色の最も少ない都市であろうと想像される向きもあろうが、事実は全く反対である。
日本の大都市で大阪ほど洋服姿の少ない都市は稀だし、大阪ほど人々の着物が魅力的で町並みの美しいところはない。

大阪は流行を生む所と考えられている。
そして現在の流行では、様々の色が用いられるという好ましい傾向が見られる。
私が初めて日本に来た頃、男性の服装は濃い色、中でも紺色が主流であったので、男性が集まるとそこには大抵この色の集団が出来上がったものだった。

日本の心

日本の心

  • ISBN-10: 4061589385
  • ISBN-13: 978-4061589384


  • 小泉八雲

    平川祐弘

    小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.209-212より抜粋

    大きさはいかようであれ、純神道風の社殿の建築はみなすべて同じ古風な様式に則っている。
    典型的な神社の社殿は、塗料を用いない、白木で出来た長方形の窓のない建物で、前へ深く突き出た急勾配の屋根がついている。正面は切妻の壁で、いつも閉ざされたきりで開いたことのない扉の上の部分は木製の格子作りとなっている。それは通常、直角に交叉する木格子をしっかりと組み合わせたものである。たいていの場合、建造物は地面よりも多少上に、木の柱で持ち上げられている。前方から見ると屋根の尖ったこの正面全体は奇妙である。兜の面頬ににた隙間があり、切妻の角の上に梁が奇怪な形をして突出していて、ヨーロッパから来た旅行者には屋根窓の中にある種のゴチック的な形態を思い起こさせる。
    人工的な着色はいっさい施されていない。自然木(たいていは檜であるが)は、日光や雨風にさらされて、自然の灰色に変っている。それは表面がそれだけ外気にさらされたかによるが、樺の木の樹皮の銀色を帯びた明るい色調から玄武岩の暗灰色にいたるまでの幅である。そのような形と色をした、田舎にぽつんと孤立した社は、建具師の拵えたものというより、その土地の一風物のような感じがする。岩や木が自然と密接に結びついているのと同じくらい自然と密接に結びついた田舎の姿という感じがする。その土地の原始時代の神であった大地神the Earth-God の顕示として存在するにいたったなにか、という感じがするのである。
    なぜある種の建築の形態を見る人の心中に不思議な、この世のものならぬ気持を呼び起すのか、その問題について私はいつか理論づけしてみたいと思う。

    いま差しあたり言えることは、神道建築はそのような感情を呼びさます、ということだけである。そしてその感情は、神社と接する機会がふえればふえるほど、減るどころか逆に増大する。そして民間信仰のことをいろいろ知るにつれ、その感情はどうもますます強くなる。こうした奇妙な建築物の形を言葉で十分描き尽くすためには英語は語彙が不足している。ましてやこうした奇妙な形が作り出す不思議な印象を人に伝えるだけの言葉はないといっていい。

    私達西洋人がtemple とかshrineとかいう英語を使っておおまかに英訳している神道上の言葉は、実際は翻訳不可能なものである。私がそういう意味は、日本人がそうした言葉に結びついている観念や含蓄は、そうした翻訳では伝達不可能だ、という意味である。

    神のいわゆる「やしろ」は、語の古典的な意味におけるtempleであるよりは、「死者の霊の出入りする部屋」haunted room とか「霊の部屋」spirit-chamberとか「霊の家」ghost-houseと呼ぶべきだろう。というのも大神ではない多くの神々は実際は霊ghostだからである。

    多くの神々は立派な武人や英雄や統治者や人の師で、何百年何千年前に生き、愛し、そして死んだ人々の霊なのである。私はこんな風に考える。神道の宮とか社がもつ不思議な性格についてなにか漠然とした観念を西洋人に伝える際には、宮とか社とかをshrineとかtempleとかいう言葉で訳すよりもghost-houseと訳した方が意味がよく伝わるのではないか。というのは宮とか社とかには、あの永遠の薄暗がりの中に御本体といっても象徴とかおしるし―おしるしといっても多分紙でできたなにかであろう―以上に実体的なものはなにも蔵されてはいないからである。

    そして面頬に似た正面の背後にあるこの空虚な空間こそいかなる物質的なるものにもまして暗示的・示唆的な空間である。
    そして何千年もの長きにわたって何百万人という人々がこうした社の前で自分たちの中の偉大な死者たちを崇拝してきたこと、そしてこうした社の建築の中には目にこそ見えね意識のある人が住んでいると一民族のすべてがいまなお信じ続けていること、そうした事実を読者もよく考えるなら、こうした信仰を不合理ときめつけることがいかに難しいことかおわかりのことかと思う。

    それどころか、こうした考え方に対する西洋的反撥にもかかわらず―またそうした体験について後になって勝手な事をなんと言おうと、言うまいと、ともかく読者自身、神社の社頭に立てば、こうした可能性に対して恭しい敬意の態度を一瞬取らざるを得なくなる。単に冷淡に理屈をこねてみても、そうそう反対の態度を取れるものではない。

    読者も御承知のように世の中には見えもせず、聞こえもせず、感ぜられる実体が沢山ある。そうしたものは力として存在する。それは恐るべき力として存在する。
    それにまた読者は四千万の国民の信仰を―その信仰が読者自身の身辺に空気のごとく揺れ動く時、それを愚弄することはできない。

    読者は大気が読者の肉体的存在に圧力を加えているのと同じようにその信仰が読者の精神的存在に圧力を加えていることを自覚しているからである。
    私自身についていえば、私は自分一人で神社の社頭に立つ時、自分がなにかにつかれているような感じを受ける。それだけにそこに目に見えず現れたものの知覚作用という可能性を考えずにはいられない。そしてそうなるとついこうした事も考えずにはいられない。畏れ多い話だがもし私自身がかりに神となり、石の獅子に護られ、聖なる杜の影の中、とある丘の上のどこか古い出雲の社に住んだならば、私はどのように感じるだろうか、私の知覚作用はその際どのようであろうか、と。

    2015年10月11日日曜日

    20150927 コトバの読み方について・・

    A「どうもお久し振りです。最近だいぶ涼しくなりましたがお元気でしょうか?」

    B「やあ、こっちはどうにか元気だよ。そういえば最近君のブログの投稿数が100になった様だね。時々君のブログを読んでいるけれど中には面白いものがあるね・・。それで20150707のブログを以前読んだけれども、ここに書かれていた騎射場と喜捨と八幡宮の関係はなかなか興味深いんじゃないかな・・。その後、たまたま尋ねてこられたその騎射場近くの大学で勤めていた知人に聞いてみたら「それは大変興味深く面白い視点ですね。」って云われたよ(笑)。」

    A「はあ、それはどうもありがとうございます。私もその件につきましては特に深く考えないで書いてしまいましたが、もしかしたら、これも初の指摘、発見であるのかもしれません。しかし、何れにしても今の私にとって、そういったことはあまり利するところはないのですが・・。」

    B「まあ、何れにしても書き続けるのは良いことだよ。多分君がブログで書いた事のなかに一つは新しい発見はあると思うよ。断言はできないけれどね・・。
    それはそうと最近私も小さいけれども面白い発見があってね、まあちょっと聞いてくれ給えよ。」

    A「ええ、それは是非お聞きしたいです。それで、その内容とは何ですか?」

    B「うん、最近色々な形で「太平記」を読んでいるのだけれど、知っているかもしれないけれど正中の変で幕府側に捕縛されて佐渡に流罪となり処刑された南朝方の公卿日野資朝の息子が、その仇を討ちに京都から佐渡に渡り、まあ、どうにかその仇の親類を討ち取り無事に船で渡海、逃亡するのだが、この息子の名前が「阿新」と書いて「くまわか」と読むのだよ。これは多分「阿」の字が「くま」で「新」の字が「わか」と読ませるのだと思うけれど、ここで面白いのは、今の時代では「阿」を「くま」と読むことは一般的ではないけれど、当時ではそういった読み方で通じていたということだろうね。そしてそうすると、最近ニュースで時折聞く熊本の「阿蘇」・「あそ」の読み方にこれを合わせてみると「くまそ」(熊襲)になるよね。これは当を得ているかどうか分からないけれども、いや、それ以前に元々の阿蘇の語源すら私は知らないけれど、なかなか面白くはないかね?」

    A「ええ、それは大変面白いですね!西日本、特に九州などでは古い文化が自然な形で残されていることがあり、時折「ハッ!」と気付かされることがあります。私が鹿児島在住の際に思ったことは多くありますが、先ほど御指摘頂いたブログの騎射場、喜捨そして八幡宮との関係以外で今すぐに思い出すのは、大隅半島の山、確か高隈山(たかくまやま)登山の際、途中にあった山小屋、休憩小屋のことです。これが確か「さしば小屋」と書いてありまして、当時の自分の研究分野が研究分野でしたので「さしば」に反応したのです。
    「なぜこれが「さしば」なのか?」という感じで(笑)。」

    B「うん、そこの場所で「さしば」は少しおかしいね。で、その意味は何だったんだい?」

    A「ええ、その後しばらくして偶然読んでいた金関丈夫著の「発掘から推理する」内の竹原古墳奥室の壁画の記述にて「さしば」という言葉を見つけたのです(前掲著作p.133を参照されたし)。この「さしば」とは、漢字で翳(実際書きながら)と書きまして、昔の偉い人の後ろでお付きの人がよく持っている大きな細長い団扇の様なものであり、日除けなどに使うものです。そして先ほどの高隈山の「さしば小屋」の「さしば」も意味合いで考えますと、おそらくこれが適当ではないかと思うのです。そして、この様な現在では日常生活にて使わない古い言葉を大隅半島などで見聞き、発見しますと、どうも面白いのです。
    しかし同時にそれはよく考えてみれば少しも不思議ではないのです。何故ならば、御承知とは思いますが、琉球、沖縄の言葉とは古い奈良時代頃迄の日本語が基にあると既に判っていることから、その伝播径路の途中である鹿児島において存在することはある意味当然なのです。」

    B「うん、なるほどねえ、今の推測はよくわかるよ。私も大分前だけれど伊波普猷の著作をいくつか読んだことがあったけれども、それらの中で琉球の言葉の語源についていくつか述べられていたけれど、それとも矛盾しないね。」

    A「ええ、琉球、沖縄のことでしたら、最近もう一つ面白いことを見つけました・・。
    昨今ニュースなどで時折聞きます沖縄の地名「辺野古」(へのこ)ですが、これはその音(へのこ)ですが、昔の日本語で男性のシンボル、陽の物を意味しまして、以前どこかで見聞きしたお裁きものの落語で出てきたのでぼんやりと憶えていました。また、この辺野古は地理的には大浦湾南側に突き出た半島状になっています。そして、その一方において半島の英語訳であるpeninsulaとは、もともとラテン語の尾、男性のシンボルを意味するpenisが語源です。そうしますと、この辺野古(へのこ)とは、偶然にもその語源においてラテン語、英語などの印欧語の半島の意味と共通している可能性が高いと思われるのです・・・。」

    B「うーん、そういうことを真面目に云われるとちょっと驚くけれども、これは確かに単なる下ネタ、笑い話として片付けられないね。うん、なかなか面白いね・・今度それを人に話してみてもいいかね?」

    A「ええ、是非お話してみてください。これは話し方で、結構評価が分かれる可能性がありますので、できるだけ真面目に話された方が良いかと思います・・。」

    B「やあ、どうもありがとう。それでも私も大勢を相手に説明したり書いたりする仕事は割合長くやってきたと思うから多分大丈夫だと思うよ・・。」

    A「ああ、これは失礼しました・・。」

    B「いや、気にしないでいいよ。それよりも面白い話をどうもありがとう。」