2022年6月6日月曜日

20220605 中央公論社刊 森 浩一編 日本の古代5 「前方後円墳の世紀」pp.122‐125より抜粋

中央公論社刊 森 浩一編 日本の古代5 「前方後円墳の世紀」pp.122‐125より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4124025386
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4124025385

きわめて率直な書き方をすると、私はいま、日本人は少なくとも二つの民族が混合した複合民族ではないかと考えている。その基盤となったのは縄文人であり、これはもともと東アジア南部に起源をもつ、原モンゴロイドともいうべき集団の系統と思われる。

 第二の構成要素は、主として弥生時代以降に渡来した集団で、直接には朝鮮半島を経由してきたが、彼らの源流は中国東北地方、あるいは東シベリアに分布する寒冷適応型の民族であったと思われる。

 もちろん、これらの渡来者もモンゴロイドに属し、またその遠い祖先は原モンゴロイドであったにはちがいないが、北方モンゴロイドは主としてウルム氷期(約7万~1万年前)に極寒の気候に適応し、原モンゴロイドとは異なる進化をとげた集団である。

 とくに2万5000年前から1万2000年ほど前は気温の低下が著しく、この期間に北方モンゴロイドの特徴が形成されたという可能性が強い。そこで、モンゴロイドの原型ともいうべき原モンゴロイドを古モンゴロイド、北方モンゴロイドを新モンゴロイドということもある。

 そうすると、日本人は原モンゴロイドと北方モンゴロイドとの二重構造によって形成されたと理解することができる。そして古墳時代は、まさにこの二つの集団が日本列島で混じりあい、政治・社会的には異文化との接触による摩擦が生じ、生物学的には混血が起った時代といえる。さらにこの時代に、現代に直接つながる日本文化、日本国家、そして日本人が形成されたと考えられるのである。

 まことに大ざっぱであるが、以上が私の仮説の概略である。以下、この仮説がその程度妥当なものかという点について、人骨の計測値を統計学的に分析しながら考えることにしよう。

【古墳人の研究史】
古墳人については、坪井正五郎(東大理学部・日本人類学創設者)が早くも「東京人類学会雑誌」第三巻(1888〔明治21〕年)に、足利古墳(栃木県足利市)で発掘された数体の合葬人骨の報告を掲載している。

 坪井は解剖学の専門家ではないが、それでも主な骨や歯の記載と計測を行い、さらにこの合葬骨が、15人、または少なくとも12人の成人からなることを明らかにした。

 その後、単発的な古墳人骨の報告はかなり多いが、ある程度まとまった資料による研究は、1938(昭和13)年に、城一郎氏(京大医学部)によって初めて行われた。

 城氏は、主として清野謙次(京大医学部)によって収集された古墳人骨60例あまりを資料として研究したが、その分布は大部分が西日本に偏っている。

 1957年には、島五郎および寺門之隆氏(大阪市立大医学部)が畿内古墳人を中心とする研究を行い、また1976年に、森沢佐歳(富山医科薬科大医学部)は全国的な古墳人の資料を集計して、古墳人の地域差を論じた。

 これとは別に、鈴木尚氏(東大理学部)は東京を中心とする古墳人の計測値を集計したが(1969年)、これらは主として横穴墓のものであり、また9世紀ころの人骨も含まれている。

 最近の研究成果として特筆すべきことは、池田次郎氏(京大理学部)の企画による二つのシンポジウムである。

 一つは1980年に長崎市で行われた「骨から見た日本人の起源」というシンポジウムであり、一つは1985年に福岡市で開催された「国家成立前後の日本人ー古墳時代人骨を中心にして」と題するシンポジウムである。

 前者では、永井昌文氏(九大医学部)が北九州出土の古墳時代人骨を中心として報告し、後者では、4名の研究者が地方別に分析結果を報告したのちに、池田氏がまとめを行った。

【人類史のなかで】
以上の流れをみると、資料の数は不充分とはいえ、日本の各地で発見例が増すにつれて研究も精密になってきたことがわかる。また古墳人は、発見例の多い縄文人と現代人とをつんがく中間的集団して、日本人の起源に関して常に重要視されてきたが、最近の傾向としては、日本人を一つの集団と考えるのではなく、地域差が重要視されるようになってきたことが特徴的である。

 私はすでに、日本人の地域差がその形成の過程を反映していることを強調してきたが、このような認識は、いまや日本人の起源に関心をもつ多くの研究者に共通するものとなった。とくに古墳人は、日本の激変期に生きていた集団であるだけに、同時代的な地域差のみならず、その前後の時代、ならびに日本の隣接地域との比較分析を行わなくては、実態をとらえることは不可能であろう。

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