2017年6月25日日曜日

20170624 かつて書いた修士論文草稿を偶然見つけて思ったこと・・『牟婁』について

2003年秋に至るまで数年在住した南紀において私は自転車、自動車を用い在住地域をそれなりに散策をした。

こうした折に自転車にて富田川支流のとある上流地域に迷い込んだことある。

ここでの雰囲気がコトバでは未だ上手く書くことが出来ないものの、とにかく何やら神聖?異様?なものであったことが強く印象に残り、後年、当地の大学院にて地域の歴史、文化に関する書籍、文献をやみくもに読んでいると、かつてその地域において、ある特異とも云える雨乞い祭祀が行われていたことを知った。

そこで「これには何かあるのではないか?」と自身の感覚を頼り、さらに研究を進めていると、これと類似した、あるいは同一の起源を持つを考えられる雨乞い祭祀が数少ないものの西日本~東海を中心に数例見出すことが出来た。

また、当雨乞い祭祀の歴史について調べてみると、面白いことに『続日本紀』そして『日本霊異記』から当雨乞い祭祀と強い関連性があると思われる記述、説話をいくつか見出すことが出来た。

そのことから、当雨乞い祭祀は奈良、平安時代以前より行われていたと考え得るのであるが、その起源については、分からず、なおも書籍、文献をあたっていると、戦前の朝鮮総督府が刊行した現地にて行われている雨乞い祭祀を含む祭祀全般について書かれた書籍を偶然、大学図書館にて見つけた。

この書籍によると当時、朝鮮半島においては古来より犠牲獣を用いる諸祭祀が我が国と比べ一般的ではあったものの、さきに述べた特異な雨乞い祭祀形態と同一起源であると判断可能な要素は多くは見出すことは出来なかった。

とはいえ、当書籍によると、傾向としては朝鮮半島南西部の全羅南道にある程度それらが集中していたと云い得る。

この全羅南道とは、我が国特有の古墳形状であるとされる前方後円墳(当地では5~6世紀築造とのこと)が集中して発見されている地域であることから、それらの間には何かしら共通する歴史的背景があるのではないかと考えられる。

ちなみにこの全羅南道とは、古代において百済、新羅と異なり、当時の倭国との関係がより深かったとされる任那に属する地域であったことから、むしろ、こうした関係性の指摘とは当然であるのかもしれないが・・。

また、さらに想像をたくましくすると継体朝の6世紀初頭において、当任那地域の西側が北隣の百済に割譲されるという事態があったことを日本書記が伝えているが、この時に割譲された(任那・全羅南道)地域の一つの地名に『牟婁』というものがあった。

この『牟婁』と同じ字を用いる地名は、日本書記あるいは、さきとは別の『日本霊異記』説話からも理解される通り、現在の和歌山県の紀伊田辺あたりから南紀一帯(田辺市、西・東牟婁郡あるいは南・北牟婁郡も含むか)を指すものであった。

そして、その地域の中でも、おそらく紀伊田辺周辺とは、古来より地域における中核的存在であったことが、その遺跡、遺物等の数量などから理解することが出来る。

この和歌山県の牟婁とさきの任那、全羅南道での古地名である牟婁とは、何かしら関係があるのではないかと考えることが出来るが、一つの仮説として、さきに書いた6世紀初頭の百済による任那割譲の際、百済よりも倭国にアイデンティティーを持つ集団が、その地を離れ、何らかの縁を辿り、対馬海峡を渡り、この地、南紀一帯に住むことになり、その地名を故地にちなんで牟婁にしたのではないかと考えられる。

そして、彼らが頼った縁とは、古代倭国の外交、外地(朝鮮半島)での軍事活動に多く携わったとされる紀伊国の豪族紀氏が関係しているのかもしれない・・。

以上はあくまでも想像ではありますが、同時にそこまで無理なハナシでもないように思われますが如何でしょうか・・?

今回もまた興味を持って読んでくださり、どうもありがとうございます・・。


昨2016
年、熊本、山陰東部、福島周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そしてその後の速やかな復興を祈念しています。」


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