2017年6月24日土曜日

20170623 其2 岩波書店刊 トーマス・マン著『魔の山』上巻pp.268-270より抜粋引用

岩波書店刊 トーマス・マン著『魔の山』上巻pp.268-270より抜粋引用
ISBN-10: 4003243366
ISBN-13: 978-4003243367
『ハンス・カストルプはそのときあいにく頭がぼんやりとしていたし、「ベルクホーフ」の六品の昼食で有機体がてんやわんやであったが、セテムブリーニが法の一般原理を「自由と進歩の源泉」と呼んだ意味を理解しようとつとめた。

ハンス・カストルプはそれまで進歩を十九世紀における起重装置の進歩というようなものに理解してきた。

それにまた、彼はセテムブリーニ氏がそういうものを軽蔑しないこと、祖父のセテムブリーニもまた軽蔑しなかったことを感じた。
イタリア人は二人の祖国であるドイツにたいして、封建制度の甲冑をがらくたに一変させた火薬、そして印刷術がその国で発明されたという理由から、ふかい尊敬を表明した。印刷術は思想の民主的普及、いいかえると、民主的思想の普及を可能にしたからであった。

そういう点で、そして過去の問題にするかぎり、イタリア人はドイツをたたえたが、しかし、ほかの民族が迷信と奴隷状態に沈淪しているときに、まっさきに啓蒙、教養、自由の旗をひるがえした彼の祖国イタリアに、栄冠が当然あたえられるべきであるとした。

従兄弟が彼と山腹のベンチのそばで初めて出会ったときにわかったとおり、彼はハンス・カストルプの専門である工学と交運を重要視していたが、それは工学と交運そのものを重要視していたというよりも、この二つが人間の倫理的完成にたいして持つ意義を重要視していたのであった。

―彼は二つにそういう意義をみとめることをためらわないと言明した。

彼によると、工学は自然をつぎつぎと征服し、連絡をつけ、道路網と電信網を完成し、それによって風土的差別を克服し、諸民族を相互に接近させ相互の親睦を促進させ、相互の人間的協調の道をひらき、諸民族の偏見を打破し、最後には人類全体の融合統一を実現させる上に、もっとも信頼できる手段であった、人類は暗黒、恐怖、憎悪から出発して、光輝ある道を前進し向上して、融和、内面的光明、親善、幸福という最後の目標に向かうのであって、この途上で工学はもっとも有効な推進力であるそうであった。

セテムブリーニ氏はそう話しながら、ハンス・カストルプがこれまではなれあっているものとのみ考えていた二つのカテゴリーを一息に一括して、工学と倫理性!といった。

それから彼はほんとうにキリスト教の救世主についてしゃべりはじめ、キリストが最初に平等と融合の原理を啓示し、つづいて印刷術がその原理の普及をいちじるしく押し進め、ついにフランス革命がそれを法律へ高めたのだといった。

セテムブリーニはそれをたいへん明快なぴちぴちした言葉で話したが、ハンス・カストルプは漠然とした理由からではあったが、その話をひどく混乱した話のように感じた。』

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