2024年5月19日日曜日

20240519 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.37-39より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.37-39より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

ロシアは自由民主主義の代替モデルを現に提示しているが、このモデルは首尾一貫した政治的イデオロギーではない。むしろそれは、少数の寡頭制支配者が国の富と権力の大半を独占し、それからマスメディアを統制して自らの活動を隠し、支配を強固にする政治的慣行だ。民主主義は、「すべての人を一時、一部の人をつねに騙すことはできるが、すべての人をつねに騙すことはできない」というエイブラハム・リンカーンの原理に基づいている。もし政府が腐敗していて、人々の生活を向上させられなければ、いずれ多くの国民がそれに気づいて、政権を交代させる。だが政府がマスメディアを統制すれば、リンカーンの論理を崩れる。国民が真実に気づけなくなるからだ。寡頭制政権はマスメディアの独占を通して、失態をすべて他者のせいにすることを繰り返し、外部の脅威(それが実在のものであれ架空のものであれ)へと注意を逸らすことができる。

 そのような寡頭制の下で暮らしていると、医療や汚染といった退屈な事柄に優先する、何かしらの危機が絶えず存在するかのように思いこまされる。国家が外部からの侵略や極悪非道な破壊活動に直面していたら、病院の混雑や河川の汚染を気に病む暇がある人などいるだろうか?腐敗した寡頭制政権は、次から次へと危機をでっち上げ、いつまでも支配を続けることができる。

 もっとも、この寡頭性モデルは実際に耐久性があるとはいえ、それに魅力を感じる人はいない。自らのビジョンを誇らしげに詳しく語る他のイデオロギーとは違い、寡頭制の支配者たちは自らの慣行を誇りに思っておらず、他のイデオロギーを隠れ蓑に使う傾向がある。たとえば、ロシアは民主主義国家を装い、指導部は寡頭制ではなくロシアのナショナリズムと東方正教会の価値観への忠誠を公言する。フランスとイギリスの右翼の過激派は、ロシアの支援を仰いでプーチンを礼賛してもおかしくないが、彼らを支持する有権者でさえ、実際にロシアのモデルをコピーしたような国には住みたくないだろうー腐敗が蔓延し、各種のサービスは機能せず、法の支配は絵空事で、信じられないほど不平等な国には。見方によっては、ロシアは世界でも指折りの不平等な国で、富の八七パーセントが一〇パーセントの富裕層の手に集中しているという。フランスの右派の政党「国民連合」を支持する労働者階級の人々のどれだけが、この富の分布のパターンを自国で真似たいと望むだろう?

 人間は足を使って投票する。私は世界を旅して回る間に多くの国で、アメリカやドイツ、カナダ、オーストラリアに移住したいという、おびただしい数の人に出会ってきた。中国や日本に移り住みたいという人も何人かいた。だが、ロシアへの移民を夢見ている人には、まだ一人も会ったためしがない。


20240518 株式会社国書刊行会刊 井上文則著「天を相手にする: 評伝 宮崎市定」pp.125-128より抜粋

株式会社国書刊行会刊 井上文則著「天を相手にする: 評伝 宮崎市定」pp.125-128より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4336062765
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4336062765

昭和七年一月十八日、前年に起こった満州事変を受けて、反日感情が広まる中、上海において日蓮宗の僧侶が中国人に襲われて死傷する事件が起こり、これがきっかけとなり、二十八日には日中両軍は武力衝突に至った。これが第一次上海事変である。現地駐留の日本軍は苦戦したため、二月二日に犬養内閣は、第九師団と混成第二十四旅団を派兵したが、これらの部隊も苦戦した。そのため、犬養内閣はさらに二月二十三日に第十一師団と第十四師団を増派することに決めた。そして、この十四師団こそ宮崎の属する宇都宮師団に他ならなかった。

 増派の決定がなされた翌二十四日に、宮崎には電報で召集がかかった。軍服をはじめ軍装一式の準備がなかった宮崎は、その日のうちに急ぎ調達に京都市内南部の伏見に行った。翌二十五日の早朝には、父市蔵が召集令状をもって京都に来た。宮崎は、同日午後一時には京都を出立。まだ満一歳にならない娘を残しての出征である。東京の上野駅では、飯島忠夫と、その女婿窪田潔夫妻が宮崎を見送った。

 宮崎は、深夜十二時ごろに宇都宮に着いた。雪が降っていた。翌朝、二尺ほど積もった雪の中を輜重大隊の兵営に出勤し、馬廠長に任じられた。馬廠とは、軍馬の管理をするところである。しかし、実際には、時代は既に自動車の時代となっており、物資を輸送する馬はなく、将校用の馬しかなかった。馬廠には六十名の隊員がおり、宮崎はその指揮官になった。六十名の隊員は、「多く群馬、栃木、長野県下の農民が始めて狩り出された者で、素朴で忍耐強い。この部隊を率いてなら、一戦争戦えそうという頼母しさがあった」。なお、輜重大隊は、五個中隊と馬廠からなっており、中隊は人員百二十名で、馬廠の倍であったが、馬廠は中隊と同格に扱われ、馬廠長は幹部会議に中隊長と共に出席することになっていた。三月六日、十四師団は盛大な市民の見送りの中、宇都宮を出立した。

 八日、京都駅を通過、ここで宮崎は、同僚や三高生の見送りを受けた。京大の羽田亨、矢野仁一も来ていた。この時、前章で述べたように羽田は、小川琢治から軍刀を借りて来て宮崎に手渡した。これは市上に軍刀が払底して手に入らなかったためである。小川は、古刀剣の研究でも有名で、宮崎に貸し与えられた軍刀も宗正の銘を持つ備前刀の名刀であった。軍刀には、「従軍行 送宮崎文学士応召従軍」と題する次のような漢詩も添えられていた。

江南飛雪未催春 江南雪を飛して未だ春を催さず

浪雑鼓声圧滬浜 浪は鼓声を雑えて滬浜を圧す

投筆従軍吾老矣 筆を投じて軍に従うには吾老いたり

羨君徇国我忘身 羨む君が国に徇いて身を忘れんと欲するを

なお、小川の次男は中国古代史の貝塚茂樹、三男はあのノーベル賞をとった湯川秀樹である。三高生のひとりとして、この場にいた青山光二は、この時の様子を次のように記録している。「確か昭和七年、私が三年生のとき、宮崎教授に召集令状がきた。第一次上海事変が始まった年てあり、満州事変は前年九月すでに火蓋を切っていた。宮崎教授が現役訓練をうけた陸軍将校であるのを私たちは知らなかった。というより、知って意外に思った。まったくの学者肌で、陸軍軍人といった風格はどこにもなかったからである。
 誰が云いだしたのか、宮崎教授が原隊へ向けて出発される日、生徒一同が京都駅に集まって歓送しようということになった。

 当日、京都駅ホームは、手に手に赤い旗を持った三百人を越える三高生で文字通り埋まった。赤い旗は応援団の備品で、夏の対一高戦のとき全校生による応援団が用いたもの。野球やボートレースの応援に、一高は白、三高は赤の幟や応援旗をそろえて威勢を張った。
「宮崎教授、ばんざい」
の声が、駅のホームをどよもし、下り列車のブリッジに立った軍装の宮崎教授は、挙手の礼を返している。
 宮崎教授、当時三十一歳。陸軍尉官の軍服に革長靴、革のベルトに軍刀を吊った姿はいかにも凛々しいが、平素おとなしすぎて、どことなくジジムサイ感じさえする風貌が、凛々しい軍装で一変するというわけには行かず、むしろ軍装がイタにつかぬおもむきさえ見てとれるのが気の毒、というより、こういう人物が戦場へ引っ張りだす国家というものが、そのとき理不尽に思えてならなかった。
’’紅萌ゆる’’を合唱する声が起こっている。召集されて戦場へおもむく教授の、たしか第一号ということもあったかもしれないが、やはり、学生のあいだで宮崎教授は人気があったのだろう。京都駅に三百人もの生徒が集まって見送るというのは、かなり異常なことだった。レジスタンスというほどの気分はなかったが、集まった学生のあいだに、
ー宮崎さん、むだ死にせずに、生きて帰ってきてください。
という、声にならない声がわだかまっていたのは、たぶん事実だった。そんなことを宮崎教授にじっさいに云った学生もいたような気がする。
発車のベルが鳴り、学生たちは旗を振って、’’紅萌ゆる’’を合唱していた。

2024年5月17日金曜日

20240516 株式会社筑摩書房刊 アレクシス・ド トクヴィル 著 小山 勉 訳「旧体制と大革命」pp.231-232より抜粋

株式会社筑摩書房刊 アレクシス・ド トクヴィル 著 小山 勉 訳「旧体制と大革命」pp.231-232より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480083960
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480083968

人間を差別し、階級の区別を強調する方法はいろいろあるが、税の不平等はその最たるものである。それはきわめて有害なうえ、階級間の乖離を生み出し、この不平等と乖離をともに、いわば治癒不能にしかねないからだ。税の不平等がもたらす結果を見れば、その理由がわかるだろう。ブルジョアと田舎貴族とが、もはや同じ税を払う義務がないとすれば、課税基準と徴税こそが、年ごとに階級の差を鮮明に浮かび上がらせることになるだろう。特権者ならだれでも、民衆と混同されないほうが実際大いに得策だと考えて、ひとり孤立するために新たな努力を惜しまない。

 公共の問題は、ほとんどが税に始まり税に終るものばかりだから、ブルジョアと田舎貴族の納税義務が平等でなければ、両階級が一緒に審議をしたり、共通の要求や意識をもつ理由はもはやない。いわば行動をともにする契機も意図もなくなったなら、両階級をわざわざ分離しておく必要もない。

 バークは、フランスの古い制度を実際よりも美しく描写してみせた。彼はそのなかで、わが国の貴族制度に好意を抱きつつ、ブルジョアたちはある官職を取得することによって容易に爵位を得ることができる、と主張している。彼には、それがイギリスの開かれたアリストクラシー(上流階級)と類似の現象と思われたようである。確かにルイ十一世は。授爵を増加した。これは、貴族の地位を低下させる措置だった。その後の歴代国王も、金を得るために惜しみなく爵位を与えた。ネッケルによれば、当時貴族の爵位を得るための官職の数は四〇〇〇にも達していた、という。これは、ヨーロッパのどの国にも見られない事態だった。バークが指摘したフランスとイギリスの類似点は、むしろ誤解に基づくものにほかならなかった。


以下Geminiによって生成された要旨になります。

税の不平等は、階級間の関係を悪化させ、階級を分断・乖離させる要因となる。

  • ブルジョアと田舎貴族が異なる税率を負担すると、課税基準と徴税が階級差を明確化し、特権階級が民衆と混同されるのを避けるようになる。
  • 公共問題は税金に関連していることが多いが、両階級の納税義務が平等でない場合、共通の利益や意識を持つことができなくなり、協力する必要性がなくなる。

バークは、フランスの貴族制度がイギリスの上流階級に似ていると誤解していた。

  • フランスでは、ルイ十一世以降の王が金儲けのために爵位を乱発し、貴族の地位を低下させた。
  • イギリスでは、ブルジョアは官職を取得することで爵位を得ることができたが、フランスとは異なり、貴族の地位を低下させるものではなかった。


2024年5月15日水曜日

20240514 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.163‐165より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.163‐165より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

三島 それで僕はね、こないだ自衛隊なんかにも行って軍人によく言ったんだよ。「きみたちいまのうちにうんと一流の芸術を読んでおくれ。どれが一流で、どれが三流かということをよく読んでおいてくれ。いまだに吉川英治を一流の文学と思っているようじゃだめだぞ。

 それできみらはね、僕らはきみらの将来におそれているけど、もしきみらが権力を持って、言論統制なんか始める時代がきてみろ。君らのまわりに集まってくるのは二流か三流の文士で、自分の原稿を載せてくれなかった総合雑誌をつぶして、自分をいい気な顔して見下していた流行作家を密告してやる。あいつは女のおっぱいの話を書いたから、あの本は出しちゃいかんぞ、というように密告して歩く。きみたちが判断がつかなきゃ、そういうやつの言うことをほんとだと思うだろう。おんなじばかなことを繰り返すんだよ。僕は、きみたちが、あの時代と同じにバカだと思わないけど、いまのうちに目をみがいておいてくれなきゃしょうがないじゃないか。そして一流のものだけ残して、二流から五流のものはきみたちがたたきつぶせばいいんだ」そこは言い過ぎ(笑)。

福田 いや、そのくらい言い過ぎた方がいいよ。文武両道というのは、日本の何か美徳のように言ってたけどね、これは少なくとも明治以後は離れる一方だね。

三島 これがどうしてもくっつかなきゃいけないんですよ。絶対くっつかなきゃいけない。つまり全然原理の違うものというのを見ないで、くっつけようとするでしょう。それは政治と芸術論、政治と文学論の左翼の連中の一番甘いとこ。くっつけようとする。くっつけないために両方持ってなきゃいかん。両方の原理を自分がしっかり握っていなくてはいけないと思いますね。武の原理って危険ですからね。そのために死ぬことだってあるかもわからない。文のために死ぬことはあまりないけれども、武のほうはそのためにいつか死ぬか解らないんだ。それでも両方持っていなきゃいけない。僕は絶対そう思うね。

福田 だけど、ある意味で言うと、明治以後もそうだけれども、日本というのは、平和・安定の時代に入るとね、どうしても離れるという傾向があるんだな。

三島 あるね。元禄時代もそうだ。

福田 平安時代もそうでしょう。だからそれはある意味で、明治以後の近代化、西洋化によって起った現象だけじゃなくてね、日本はもともとそういう要素があるんだよ。ところが、昔はそれでいいですよ。いまは夷狄とつき合っているんでしょう。西洋人みたいな。それなのに、日本の文化は、ことにそういうふうに文武を分けて育てたもろさを持っていますから、なおのこと武を片手に持たなきゃだめだということを感ずるんだよ。

三島 全く同感だ。ソヴィエトがこのくらい理解してくれていると思わなかった(笑)。

福田 あんた中共じゃないんですか(笑)。これは日ソ会談じゃなくて、中ソ会談らしいぞ。

三島 やっぱり話し合いは必要だ。だけど、文武両道なんということは、いまの一般インテリに言うと、フフンてなもんだね。

福田 そうだね。

三島 あの中にどういう原理が入っているか、ああいう考えの中にどういう現代の知識人の根本的な問題が入っているかということは、みんな本当に考えていないと僕は思うな。

福田 いま三島さんが自衛隊の人に説いたのとおなじことを、やっぱりいまの政治家や官僚にも説きたいよ。

2024年5月14日火曜日

20240513 記憶の索引になるものについて:南紀での生活から

昨日の投稿記事で述べたように、これまで102記事作成して、現在、休止中である【架空の話】の続編を作成したいと考えていますが、それと同時に当ブログ作成の一つの大きな契機となった「南紀での在住」についても述べたいと考えていますので、今回は「南紀での在住」について述べます。

これまで、南紀について扱った記事は比較的多く、記事文中に「南紀」という言葉が含まれる記事は100以上はあると思われます。そのため「まだ書くことがあるのか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、こうしたことは面白いもので記事を作成していますと、またどこからか、その当時の新たな記憶が想起されてくるのです。

しかし、そうした記憶は毎回の記事作成時に想起されるわけではなく少なからず、重複した記憶に基づいて作成したものもあります。とはいえ、たとえ重複した記憶に基づいていても、そこで記憶を文章化して、ある程度明瞭にしておかないと、それと関連するものとして、新たな記憶もまた想起され難くなるものと考えます。

そのために性懲りもなく、また新たにブログ記事を作成しているのですが、そのネタ探しとして、既投稿のブログ記事を読み、そこからブログ記事の題材となる新たな記憶が想起されるということも度々あります。そうしたことから、当ブログが自らの記憶の索引のような役割を果たしているとも云えます。

あるいは換言しますと、これは自らの記憶を外部化または即自的なままの記憶を対自化する作業であるとも云えます。そして、そうした行為を(どうにかであれ)9年近く継続していますと、それを行う私の内面にも何らかの変化が生じるのではないかとも思われ、また、そうした変化とは、遅々とした漸進的なものであるためなのか、かねてより関心は持っているものの、それを実感することは、以前にも述べた通り、ありません・・。

さて、話を南紀に戻しますと、私は千葉県市川市の出身ではあるのですが、転勤により南紀に赴任するまでは北海道に2年間在住して、また、それ以前は、千葉県市川市と都内とを往復する生活を送っていました。つまり、まがりなりにも首都圏文化の中で生まれ育ったと云うことは出来ます。そして、首都圏の在住の方の多くがそうであるように、首都圏の文化全般が最も優れたものであることを疑うことはありませんでした。

そうした価値観での南紀への転勤は、当初、それなりに落ち込むものでしたが、転勤しますと4月の南紀の自然の薫りが濃厚な大気の中で徐々に感覚が変化して、当地の歴史文化や自然風土などに能動的な興味を抱くようになったのですが、この興味の深化の過程においては書籍などの活字媒体が重要になると思われるのです。

つまり、ある地域に住み、当地の歴史文化や自然風土に興味を持ったとしても、当初からヒアリングなどにより知見を蓄積することは困難であり、まず最初に地域についての文脈・コンテクストを感覚的なものとして理解する必要があると考えます。そして、その際に重要であるのが、さきに述べた関連する書籍を読み、自分なりの認識や理解をある程度明晰化することです。そして、その先に、さきに述べたヒアリングなどの活動などがはじめて意味を持ち得るのだと考えます。

その点について考えてみますと、私は最初の赴任地であった北海道札幌市では、初めての社会人経験であるため余裕がなかったのか、地域の歴史文化などを扱った著作を読むことはありませんでした。ともあれ、そうした経験を2年間経て南紀白浜に転勤しますと、先ずは、その南方的とも云える横溢な自然環境に圧倒されました。当初は、以前にも述べたように、自然の薫りが濃厚な大気や雨の降り方などから「ここは本当に日本なのか?」と感じることも多々ありましたが、次第に、この南紀は、都市圏から離れいくらか鄙びてはいるものの、遺跡や古い言い伝えやそれを示す碑などが少なからずあり、またそれらは首都圏でのさまざまな史跡・遺構などとはどうも趣が異なるのです。南紀のそれらの多くからは、何といいますか、その存在から主張が感じられるのです・・。

そして、そうした主張があると思われることから関連書籍を入手しようと思うに至るわけですが、ここで私が幸運であったのは、当時、アマゾンのサービスが一般的になっていたことです。もちろん、北に隣接する田辺市には当時、比較的大きな書店がいくつかあり、しばしば書籍も購入させて頂きましたが、当時刊行されたばかりであったロバート・グレーヴスによる「この私、クラウディウス」はアマゾンを通じて購入して、合川ダムへの釣行の際に持参して、一人レンタルボートの上で釣りをしつつ読み、また読みつつ釣りをしていたことが想起されます。

また、この合川ダムへの釣行の際には、釣った魚(ブラック・バス)を記録するために、これまた当時一般化しつつあったデジカメを購入、持参していましたが、しばしば魚でなく風景なども撮影することもあり、そこで撮影した風景画像を当時定期購読していた日本版「ナショナル ジオグラフィック」誌のデジカメ写真コンテストに応募して、どうしたわけか佳作として入選しました。そして、それと同時期に還暦近くであった伯父に博士号が授与されました。その祝賀会のために帰郷しましたが、当時は、その11年後に自分が分野こそ違え、同じ学位を取得することになるとは全く考えていませんでした。

しかし同時に、漠然とながら、大学院に進学したいとは考えていましたので、何と云いますか、そうした「夢」とは、実現に向けて実際に動き出してみますと、徐々にそこに至るまでに要する経路が明瞭になってくるといった性質があるように思われます。

ともあれ、南紀についてはまだ書きたいことがありますので、また別の機会に書いてみたいと思います。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。














2024年5月13日月曜日

20240512 【架空の話】再開のための準備・整理

先日の鹿児島訪問から本日まで、当ブログが読まれているのか、あるいは単なる偶然であるのか不明ですが、複数の方との会話にて、現在休止中の「架空の話」を想起させる話題になりました。また、私としても「架空の話」の続編は作成したいと考えていましたので、タイミングも良いと考え、今回の投稿記事は「架空の話」再開のための準備に充てます。

これまで「架空の話」は102話まで作成しましたが、現在考えてみますと、われながら、よく100記事以上も作成出来たと思われます。しかし、それらの主たる作成期間は、新型コロナウィルスが流行して、緊急事態宣言などにより、外出もままならない時期に作成していたことが思い出されます。

そのため、一連の「架空の話」は、新型コロナ禍の所産であったとも云えます。また現時点にて「同じものを作成出来るのか?」と問われますと、それは困難であろうと思われます。つまり、新型コロナ禍のために制約された日常であったからこそ「架空の話」は作成出来たのだと云えます。そこから、たしかに、ある種の文章作成のためには、たとえ半ば強制ではあっても、自らを閉じ込めることは有効であると考えられます。しかしまた同時に「架空の話」の続きを作成するためには、また閉じ込めることが有効であるのかと考えてみますと、それは感覚的ではあるのですが、違うと思われます。それよりも、現在の102記事まで作成したハナシの経緯と現在の状況を再確認して認識することの方が重要であるように思われます。

そこで、今後の「架空の話」のスムーズな再開のためにも最新である「其の102」での内容および背景を要約しますと、これは、以前からの「東京訪問篇」の流れであり、K医療専門職大学の口腔保健工学科の実務家教員の選定のため、K大学歯学部歯科生体材料学研究室のS主任教授からの指示により、E先生(K医専大口腔保健工学科助教)と主人公(博士課程院生)が東京に赴き、彼の地で著名と聞く開業歯科医師CH先生が運営する歯科医院を訪問して、その規模、設備等に半ば圧倒され、さらに、同日夕刻過ぎからの理工学分野研究者との共同研究打合せにも同席することになり、その宴席の場面にて話が終わっていました。

その後の展開としては、Kに帰り、S教授に「CH先生が当学科の実務家教員として適任」との報告を行い、次にS教授が研究室で同意を得てから、E先生がCH先生に連絡をしてS教授との面談のための日程調整を行い、それと並行して、医専大の事務サイドにも実務家教員選定の進捗状況および、さきの展開の見込みについての報告を行い、次の動きに備え、そしてS教授が動き出す(東京訪問)といった流れになる予定です。

そういえば、これまた不思議なことに、さきの「実務家教員」について、ここ最近、複数分野の研究者の方との、それぞれ異なった場面での会話にて話題になりました。そして、それら会話から「実務家教員」は、当然ではあるのかもしれませんが、学部、学科によって、その定義や、その具体像が異なるように思われました。

医学・歯学分野においては、他の研究分野と比較してみますと、大学から個人運営の医療機関などに出て、そして、そこからまた研究機関や大学に勤務するといったことが普通にあり、そこから、比較的ルートが柔軟・多様と云えることから、その分野での「実務家教員」となるための基準は、正式には無いようでありながら、通常の教員に求められる基準に準じるものとすれば、内外に対して特に問題はないものと考えられるのですが、それについては実際の続編にて述べていきたいと思います。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年5月12日日曜日

20240511 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.182-184より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.182-184より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163646701
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163646701

占領下の言論統制やプレスコードの実態は不思議なほど一般に知られていない。マスコミ関係者がこの問題をとりあげると、必ず、例外的な犠牲者を表面に立て、自分はその陰にかくれて、自分たちは被害者であったという顔をする。それは虚偽である。本当の被害者は、弾圧されてつぶされた者である。存続し営業し、かつ宣撫班の役割を演じたのみならず、それによって逆に事業を拡張した者は、軍部と結託した戦時利得者であり、かつ戦後利得者であって、「虚報」戦意高揚記事という恐るべき害悪をまき散らし、語ることによって隠蔽するという言葉の機能を百パーセント駆使して「戦争の実態」を隠蔽し、正しい情報は何一つ提供せず、国民にすべてを誤認させたという点では、軍部と同様の、また時にはそれ以上の加害者である。占領下の言論統制やプレスコードという問題になると、この点の究明は避けるわけにはいかないが、細かい点は別の機会に譲るとして、多くの出版人が言うように「プレスコードのしめつけは東条時代よりひどかった」のは事実だろう。

 この点、内務省や軍部の統制には、表むきは実にきつく、つまらぬことまでうるさく干渉するくせに、どこか幼稚なところがあった。「**は***である」で本が出せた時代などは、ソビエトや中国の言論統制と比較すれば、幼稚を通り越した間抜けさであろう。戦時中は非常にきびしくなったとはいえ、やはり、こういった間抜けがあった。戦前の伝説的ベストセラー「小島の春」の出版社社主、故長崎次郎氏からは、いろいろな教えをうけたが、以上の点で非常に面白い話をきいた。戦争中「小島の春」は実質的には発禁であった。再版したくても紙を配給してくれないので出版できない。今この本を読んでも、軍部がなぜこの本を発禁にしたか、だれにも理解できないであろう。どこを探しても軍部批判も戦争非難もあるわけではない。従って一種の感情的な「毛嫌い」とでもいう以外にないが、当時日赤の名誉総裁であった貞明皇后がこの本の愛読者で、「何とか再版できぬか」と、いろいろ骨を折られたが、それでも軍部が頑として拒否し、紙を配給せず、従ってどうしても再版できない。軍部にも戦争にも直接には何の関係もない愛生園の一ルポにも、これほど神経質なのだから、当時のマスコミが、軍部の一顰一笑にまで神経質に迎合しただけでなく、その結論をわれ勝ちに先取りして競争して掲載したとしても不思議ではない。しかしこれだけ統制しながら、抜けた点もある。というのは、「小島の春」は少部数だが再版できたのである。これは一つの美談であろう。しかし、その背後にあるものは、軍部に迎合すれば多量の紙を配給されて大出版社たり得、軍部ににらまれれば紙の配給をとめられて実質的に廃業に追いこまれて行くという当時の実態である。

 マックの統制はこれとは型が違ったらしい。神経症的な毛嫌いはなく、かつ、枠は一見大きいように見えたが、占領政策に障害ありと認めたものは、即座に出版を停止させ、抜け道は一切なかった。「野呂栄太郎全集」の中断は、それが理由だときいた。たかだか二千部三千部という、部数という面から見ればほとんど影響はあるまいと思われるものにまで直接的統制が及んだということは、新聞、放送は徹底的に統制されていた証拠といえるであろう。そしてこの、日本的な抜け道がないということが、「東条時代よりきつい」という印象の原因といえるであろう。そしてこの、日本的な抜け道がないということが、「東条時代よりきつい」という印象の原因であろうと思う。事実マックは、「私信」すら遠慮なく組織的に開封して点検した。こういうことは、戦争中の軍部も行わなかったし、日本軍の占領地でも全く行われなかったそうである。ほかの多くの例は除くが、あらゆる点から見てマックの言論統制が戦争中より徹底したものであるという古い出版人の意見は、妥当性があると私は思っている。ただ彼は軍部よりはるかに巧みであって、一般の人びとにはほとんどそれを感じさせず、「言論」が自由になったような錯覚を、統制した新聞を通じて、人びとに与えていたのである。そして今でも人びとは、この錯覚を抱きつづけている。民主主義と軍政の併存(?)は、実は、この錯覚の上に成り立った蜃気楼にすぎない。

 プレスコードによって情報源を統制してしまえば、あとは放っておいて「自由」に議論させればよい。そしてその議論を誘導して宣撫工作を進めればよいわけである。この点日本の新聞はすでに長い間実質的には「大日本帝国陸海軍・内地宣撫班」(と兵士たちは呼んだ)として、毛沢東が期待したような民衆の反戦蜂起を一度も起させなかったという立派な実績をもっており、宣撫能力はすでに実証ずみであった。これさえマック宣撫班に改編しておけば、占領軍に対する抵抗運動など起こるはずはない、と彼は信じていた。これは私の想像ではない。私にはっきりそう明言した米軍将校がいる。そしてそれはまさに、その通りになった。「史上最も成功した占領政策」という言葉は、非常な皮肉であり、同時にそれは、その体制がマックが来る以前から日本にあり、彼はそれにうまくのっかったことを示している。そしてこれは戦争中の軍部の位置をマックに置いてみれば明らかであろう。