2022年12月25日日曜日

20221224 株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋

株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480075283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480075284

 ここで、停戦交渉の行き詰まりをもたらしたブチャでの出来事について簡単に述べておきたい。

 前述した3月25日のロシア軍撤退表明後、ブチャを奪還したウクライナ軍が目にしたのは、酸鼻を極める虐殺の痕であった。後ろ手に縛られた拷問の跡だらけの遺体、性的暴行を受けたとおぼしき裸の女性の遺体、下水溝に投げ込まれた遺体ー街は陰惨な姿の遺体で埋め尽くされ、中心部の教会や町のはずれには集団墓地が作られていた。いずれも、ロシアによる戦争犯罪の明白な証拠であった。

国際社会はともかくとして、筆者自身がこの光景にショックを受けたといえばナイーヴとの謗りは免れまい。二度のチェチェン戦争でロシア軍がどれほどの非人道行為を働いたか、2015年に始まったシリアへの軍事介入でロシア航空宇宙軍の無差別爆撃がどれほどの殺戮をもたらしたかを、ロシア軍事研究を生業とする筆者はよく知っていたからである。2月以降のウクライナに対する侵略においても、ロシア軍は全くすることなく市街地に無差別爆撃を加えてきた。

 それでも、この情景はやはりショッキングであった。しかも殺害されたブチャの住民たちは、戦闘の巻添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの住民たちは、戦闘の巻き添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの占領自体はほど無血で行われたものの、虐殺、性的暴行、略奪はその後に始まったのである。そこには何の軍事的合理性もなかた。

 全くの言いがかり、酔った兵士の狼藉、ただの気まぐれによって人々は暴行され、犯され、殺されたいった(真野・三木、2022年5月5日、国末、竹花、2022年4月14日)。ウクライナ軍に協力している見なした人々を組織的に拷問。処刑していたこともわかっている(Peuchot,2022.4.5.)。

 今回の戦争に関しては「ウクライナを無垢の絶対的善として描くだけでよいのか、ロシアは絶対悪なのか」といった議論が度々提起されてきた。この主張を筆者は一概に否定するものではない。

 第一章で描いたように、ゼレンスキーは正義のヒーローではないし、ウクライナという国家自体も深刻な腐敗など多くの問題を抱えている。また、ウクライナ軍も戦争犯罪(捕虜の虐待やこれを晒し者にあうることなど)や住民の巻き添え被害とは無縁ではなく、これらの点はそれぞれに検証され、批判の対象とされるべきだろう。

 しかし、ブチャやその他多くの占領地域(ロシア軍の戦争犯罪はブチャに限られたものではなく、むしろ氷山の一角であった)にける振る舞いは、どう考えてみても「悪」と呼ぶほかないだろう。さらに言えば、今回の戦争はロシアによるウクライナへの侵略戦争であり、この点においてもロシアは明確に国際的な規範を犯している、これらの点を無視して、ロシアにもウクライナにも同程度に非がある、と論じるならば、それは客観性を装った悪しき相対主義でしかないのではないか。また、相対的に論じるというのなら、戦争犯罪や腐敗がより深刻なのはロシアであるが、これらの事情を以てロシアが外国の軍事侵攻を受けてもしかたないのだということにはなるまい。

 ちなみに、ブチャの虐殺を、ロシア政府は「挑発」と呼んでいる(例えば前述したプーチンの4月12日発現)。つまり、虐殺や拷問や性的暴行はウクライナ軍がブチャを奪還した「後」に起こった出来事であり、ロシアに罪を着せるために仕組まれたものだという主張である。

 だが、ブチャ事件が明るみに出た後、米国の衛星画像サービス企業Maxarが同地上空の衛星画像を公開し、路上の遺体や集団墓地はロシア軍占領当時に出現したことを暴露した。宇宙からの眼を現地住民の証言と照らし合わせて考えるならば、ロシア側の主張には全く信憑性がないことは明らかであろう。

2022年12月23日金曜日

20221222 株式会社KADOKAWA刊 増田俊也著「七帝柔道記」 pp.215-218より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 増田俊也著「七帝柔道記」
pp.215-218より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041103428
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041103425

 私が紹介すると、和泉さんがいつもの目つきでじろじろと峠を見た。

「あんた一年目かいね?」

「あ、はい」

峠が一歩下がった。

「座りんさい。これ食いんさい」

和泉さんがホッケの開きなどを指して「後藤君、峠君にビールを持ってきちゃってくれ」と言った。後藤さんは「はあい」とご機嫌で言って、水鉄砲で口に焼酎を発射しながらテントの裏に回り、缶ビールを持ってきた。峠が不安そうに座った。

「いま、やきそば焼いてあげるから」

私は言って奥に入り、やきそばを二つ作った。峠のぶんにはキャベツや豚肉をたっぷり入れてやった。さすがに詐欺的やきそばは悪いと思った。

やきそばを持ってテーブルに戻ると、峠が嬉しそうに私を見上げた。

和泉さんが腹を抱えて笑っていた。

「この峠君、偽カイセイじゃのうて本物の開成じゃ言いよるんよ。あんたと一緒じゃけ、おかしゅうて。うちの本間なんて偽ガオカじゃけえの」

 松浦さんが和泉さんの肩を叩いて「増田、唯信のこのバカ笑いなんとかしてやってくれんか」と言った。

「クソトシがなに言いよる、年寄りのくせしてからに」

和泉さんが急に真面目な顔になって松浦さんの肩を力いっぱい拳で殴り、立ち上がって松浦さんの背中側から裸絞めをかけた。松浦さんは「苦しい苦しい」としばらく笑っていたが、そのうち本当に絞まってきたようで地面に転がってもがきだした。そして必死になって絞めを外し、逆に和泉さんを横四方で抑え込んだ。今度は和泉さんが大暴れしてそれを外し「年寄りの横四方は甘いのう」と言って、体中についた土を払いながら椅子に座った。

「誰が年寄りだ。このフラレ男が」

 松浦さんがそう言って立ち上がると和泉さんが言い返した。

「あんたの方がフラレ男きゃないか。五回はフラレとるであんた。増田君、あんた知っとるかね。トシ、入部したときパンチパーマで来たんで」

 そしてまたかかかと大笑いしだした。

「おかしいと思わんか、二浪でパンチパーマで耳が潰れとるんで。そんなやつが新入生で来たんで。カラオケ行ったら「黒の舟唄」歌うけえの。わしゃ、おかしゅうておかしゅうて」

 そこに末岡さんが両手に袋を提げてやってきた。

「おお、みんな頑張ってるか」

「なにしに来たん、この風邪男は」

和泉さんがまた真面目な顔になって末岡さんを見上げた。

「一年目の激励に決まっとるやろが」

そう言って袋から大きな箱をいくつか出して開いた。正本の梅ジャンが何人分か入っていた。

風邪男が来たらみんなに風邪が伝染ってしまうじゃないか」

和泉さんが怒った口調で言った。

末岡さんが笑いながら和泉さんを見た。

うるさいやつやな。早よ広島帰って寺継いで坊主になれや」

うるさいのはあんたじゃ。南海のくせしてからに。なんで清風の下に南海じゃいうてつけにゃならんのじゃ」

末岡さんは大阪の南海清風高校出身だった。なにが面白いのか和泉さんは末岡さんを「風邪男」の他に「南海」とも呼んでいた。松浦さんに「年寄りのトシという渾名をつけているように、和泉さんの渾名の付け方には法則がなかった。飛雄馬のことは「ボッコバケツ」と呼んでいた。和泉さんによるとバケツに棒を突き刺したような顔だからだそうだ。広島弁で棒のことをボッコというらしい。

 その和泉さんの後ろでは後藤さんが水鉄砲で焼酎を飲み続けていた。


2022年12月21日水曜日

20221221 ダイアモンド社刊 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳 【エッセンシャル版】「イノベーションと起業家精神」pp.86-87より抜粋

ダイアモンド社刊 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳
【エッセンシャル版】「イノベーションと起業家精神」pp.86-87より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478066507
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478066508

必要な知識のすべてが用意されない限り、知識によるイノベーションは時期尚早であって、失敗は必然である。イノベーションが行われるのは、ほとんどの場合、必要なもろもろの要素が既知のものとして利用できるようになり、どこかで使われるようになったときである。1865年から75年にかけてのユニバーサル・バンクがそうだったし、第二次世界大戦後のコンピュータがそうだった。

 もちろん、イノベーションを行おうとする者が、欠落した部分を認識し、自らそれを生み出すこともある。ジョゼフ・ピューリッツァー、アドルフ・オクス、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、近代的な広告を生み出すうえで主役を演じた。そこから、今日われわれがメディアと呼ぶもの、すなわち情報と広告の結合としてのマスコミが生れた。ライト兄弟も知識の欠落、特に数学的な理論の欠落を認識し、自ら風洞をつくって実験することによって欠落していた知識を手に入れた。

 このように、知識によるイノベーションは、そのために必要な知識のすべてが出そろうまでは行われない。それまでは死産に終わる。

 例えば、当時飛行機の発明者となることが期待されていたサミュエル・ラングレーは、科学者としてライト兄弟よりもはるかに力量があった。しかも当時、アメリカ最高の科学研究機関だったワシントンのスミソニアン研究所の責任者として、アメリカ中の科学的資源を利用できる立場だった。

 しかし彼は、すでに開発されていたガソリンエンジンを無視し、蒸気エンジンにこだわった。そのため彼の飛行機は、飛ぶことはできてもエンジンが重すぎて何も積むことができなかった。パイロットさえ乗せられなかった。実用的な飛行機をつくるには力学とガソリンエンジンの結合が必要だった。

すべての知識が結合するまでは、知識によるイノベーションのリードタイムは始まりさえしない。

2022年12月20日火曜日

20221220 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋 ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

しかし、このような中で1850年代末に入ると、反動の濃霧はようやくうすれ出し、19世紀前半以来の現状変革の諸運動は諸国において次第に復活して動きはじめるのである。その点で特に注目すべきものは、イタリアおよびドイツ地方における民族的統一運動の進展であった。前者はサルディニア王国の中心として、後者はプロイセン王国を中心として行われることになったが、しかも、両者はその過程において幾つかの民族解放戦争をひき起こしつつ、それらを通して進展することになった。

 そもそも、ウィーン会議以後19世紀前半期においては、バルカン半島を除くヨーロッパは久しきにわたって平和が保たれてきた。ヨーロッパにかくも長く平和が維持されたのは、1494年以来未だかつてなかったといわれている。それは一つには、ウィーン会議前後において将来の国際平和の永続が願望された既述の諸事情がその後維持したことに起因するといってよい。しかし、1848年にいたってプロイセンとデンマークがシュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)問題で戦火を交え、またサルディニアがイタリアの民族的統一を意図してオーストリアに宣戦するに及んで、久しきにわたって保たれてきたヨーロッパのこの平和も遂に破れたのであった。そして、その後1854年から56年にかけてクリミア戦争(Crimean War)が行われたが、それはヨーロッパ史上ナポレオン戦争以後で最大の戦争であった。ところで、このクリミア戦争の惨害は久しきにわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパの人心に深い印象を与えた。そして、この戦争に終止符をうつことになったパリ平和会議(1856年)は、このような人心を背景として、次のような言葉を含む議定書を採択したのであった、「各全権委員会は各自の政府の名において以下のごとき希望を表明することを躊躇しない。すなわち、重大な紛争に陥った国家は、武器をとるに先だち事情の許すかぎり友邦に斡旋を求めることが望ましい。各全権委員はこの会議に列していない諸国もまたこの議定書の精神に同意することを希望するものである」。

 しかし、その後の歴史の進行は、パリ会議の以上のような希望の表明も一片の空文にすぎないことを証拠だてるに終わった。すなわち、クリミア戦争の後、イタリアおよびドイツの民族的統一を目標とした民族解放戦争が次々に爆発することになった。

2022年12月11日日曜日

20221211 【空想】新たな医療介護系専門職大学の立地について

ここ最近寒くなってきたためであるのか、先日少し体調を崩してしまい、直近数日間はブログ記事作成はしませんでした。とはいえ、先日述べた目標である「年内での1920記事到達(±5程度)」を達成するためには、さらなる記事作成を要します。また、以前にも述べました通り、引用記事にて、あと10数記事作成して1920記事まで到達することも可能ではありますが、さらに先もあることから、ここは自らの文章による記事作成にて進めた方が良いと考えました・・。現在は特にスランプでもなく、単に体調が万全ではない程度であり、作成を始めれば、どうにか波に乗ることは出来るであろうと踏んで始めた次第ですが、はじめの勢いにて、この程度まで作成することが出来れば、とりあえずは及第であると云えます。

さて、以前に何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、今後、高齢化が進む社会への対応にくわえ、国際的な競争力向上のためにも、我が国は、その国民性とも云える此岸的性質を善導して、英語あるいは中国語を用いることが出来る、より多くの医療介護専門職の養成を行うことが効果的な施策であると考えます。

とはいえ、既存のそれら専門職の養成機関である大学や専門職大学や専門学校が、軒並み、新たな学部や学科を新設することが可能であるかと考えますと、それは困難であると思われます。そこで、ツイッターで私の固定ツイートにて述べている「半官半民での学費が安価な医療介護専門職大学の新設」が(もう少し)検討されても良いのではないかと思われるのです・・。

そして、ここからは空想になりますが「では、その専門職大学は何処に設置するのか?」と考えてみますと、先ずは学費を安価にするため、教員の多くは、若手の成りたての研究者と、一度、定年退職をされた大学研究者・臨床家の先生方に就いて頂くのが良く、またその立地は、国内の比較的温暖で温泉があり、また近隣に学生の臨床実習のための医療・介護施設が既にある場所が適当ではないかと思われます。

そうしますと、その具体的な候補としては、静岡県東部の伊豆地域と、南紀白浜を含む紀伊半島南部地域が挙げられるのではないかと思われます。これら地域のうち伊豆地域では既に医療系学部がいくつか点在しておりますが、それらの大学にて養成を行っていない専門職の養成であれば、地域的にも、既存大学側としても、あまり問題はないと思われます。むしろ、進学先の候補ともなる地元の高校生にとっては喜ばしいことであると思われます。またもう一方の南紀地域は、私自身がそこで何年間か在住した経験から、この地域は近代以降より高等教育機関が乏しく、大都市圏と云える大阪に比較的近く、県庁所在地がある和歌山市以南では、たしか中紀の御坊市に和歌山工業高等専門学校が立地するのみであったと記憶しています。

くわえて、古くからの温泉地である南紀白浜に隣接する自治体の一つが紀伊田辺であるのですが、この紀伊田辺はあまり多く聞くことはない地名であるかもしれませんが、江戸期においては、徳川御三家の一つ紀州徳川家の御附家老である安藤氏が治める3万8千石の城下町であり、また近代以降においては、我が国が誇る博物学者である南方熊楠(和歌山市出身)が後半生を研究活動をしつつ過ごした場所でもあります。

つまり、その仔細な地域の精神的背景は未だ明確には分かりませんが、私の感覚として、当時の紀伊田辺は、あまり大きくない地方の街としては立派な書店がいくつかあり、また城下町の一つの特徴と云える地域にある老舗の和菓子店(織豊期以降の武家文化と茶道には親和性があり、そして茶道があれば和菓子店が必要となる)もあり、ありきたりな表現となってしまいますが「古き良き日本」がいまだ遺っている地域であると云えます。

こうした地域と高等教育機関である大学との相性は、おそらく、少なくとも悪いものではなく、また、さきに述べましたとおり、中紀の御坊以南に高等教育機関が存在しない県南部は、そうした新たな試みとなる高等教育機関を設けるのに適切な立地であると思われるのです。

さらに、この紀伊田辺と類似した背景(紀州徳川家の御附家老云々)を持つのが紀伊半島南部の東側に立地する新宮市です。こちらは街の規模としては紀伊田辺の半分以下となっていますが、田辺市は以前に周辺自治体との大規模な合併がありましたので、その主要な市街地部の規模としては、紀伊田辺と新宮では、大きくは変わらないかもしれません。

ともあれ、そのようなこともあり、新宮にも、そうした高等教育機関を設けても良いのではないかとも思われましたが、ちなみに、こちらは少し南に行ったところに南紀勝浦温泉があります。

勉強や研究を終えた学生や教員が気軽に温泉に浸かりに行くことが出来るような自然環境と市街地とのバランスが取れて、そして、古来からの土着の優れた文化が生きている地域に新たな試みとしての医療介護系専門職大学を設置するのは、我が国の高等教育にとっては良い効果を齎すのではないかと私には思われるのですが、さて実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


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~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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2022年12月8日木曜日

20221207 類似する主旨の既投稿ブログ記事があっても特に気に留めない理由

 1000記事到達以前に作成、投稿したブログ記事を読んでみますと、文章的には練れていないと思われるものの、そこに書かれている考え方の向性やアイデアが現在にまで繋がっていることが理解出来ます。端的には、最近投稿のブログ記事の論旨も以前に投稿した当ブログ記事を読んでいくと、それと同様とまでは行かなくとも、かなり類似した内容の記事を看取することが出来るように思われます・・。

しかし、であるからといって、もはやブログ記事の作成には新奇性はなく、継続しても無意味であるということにはならないと考えます。多くの作業に云えることですが、作業の初期においては多少大雑把であろうと、とりあえず多くの量を扱うことが大事になります。そしてその手法にて大雑把にて出来るところまでいくと、徐々に作業を慎重に行い、そして最後の完成に至るまで進めるといった流れとなります。

そこから敷衍しますと、当ブログは1000記事を過ぎて、現在(どうにか)1900記事にまで至ることが出来ました。体感からしますと、この1000記事から1900記事までの期間のブログ記事作成は、当初から1000記事作成までの2倍とまでは行きませんが、少なくとも、それ以上の作成上の苦労はあったと云えます・・。ともあれ、その中で(どうにか)継続して、つい先日1900記事に到達しても、達成感や高揚はなく、またそこから引き続いて記事作成を行い、現在の目標としては年内にて1920記事への到達を目指しています。

その意味にて1000記事到達を折り返し地点として考えてみますと、今現在、実感はないものの、締めくくりと云える1900記事から2000記事への到達に至るまでは、これまでとはまた異なった感じのスランプが訪れるのでしょうか・・。幸い今現在、スランプとまでは行かない状態ですが、私の場合、スランプの多くは3、4日間継続して引用記事を作成しますと、多少良くなる傾向があることが、ここ最近(ようやく)分かりました。引用記事は、労力が多い割にあまり意味がなく「読めば分かる」であろうとお考えかもしれませんが、キーボードにて書籍にある文章を入力しますと、その過程で、その内容の理解が以前よりも深まり、そしてまた、その記述内容が比較的記憶に残るようになります。そしてツイッターなどで流れてきたツイートに、内容的に関連があり面白そうな以前に作成したブログ記事を投稿することは、私としては、それなりに面白く、また知的な営みであると思っています。

あるいは当ブログで今後(どうにか)2000記事まで到達出来ましたら、その次は引用記事を主体として、ある程度の期間、記事作成を行ってみたいとも考えています。引用記事のみで1000記事継続して、適宜それらを連携投稿してみるのも、それなりに面白く、また何か新たな発見もあるかもしれません。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2022年12月6日火曜日

20221206 中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義pp.120-124より抜粋

中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義
pp.120-124より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121027205
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121027207

司馬は1970年の三島事件についても、驚愕と嫌悪感をもって受け止めた。

11月25日、作家の三島由紀夫は主宰する「楯、東部方面総監・益田兼利陸将を椅子に縛って監禁した。三島はバルコニーで自衛官に向けて演説を行い、日本国憲法に縛られた戦後体制を打破すべく、決起を呼びかけた。結果的に自衛官の同調は得られず、三島は庁舎内で割腹自殺を遂げた。

 三島は右傾化した言動でも知られていたが、「潮騒」「憂国」「美徳のよろめき」など文学作品の評価が高く、ノーベル文学賞候補にも挙がっていた。それだけに、三島によるクーデター未遂事件とその最期は、社会に衝撃を与えた。新聞・雑誌でも、緊急特集が続々と組まれた。

 司馬は早くも、事件当日の「毎日新聞」(1970年11月26日)に、「異常な三島事件に接して」と題した論説を寄せている。司馬はその冒頭で、「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりにもなまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない」と陰鬱な心情を吐露しつつ、「ただこの死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」と記している(「歴史の中の日本」)。

 先に触れたように、司馬は新聞記者時代に金閣寺放火事件(1950年)を取材し、修行僧の宗門への不満があったことをスクープした。その事件を題材に取った三島の「金閣寺」(1956年)は、文壇で高い評価を獲得し、読売文学賞を受賞している。また、司馬の短編「人斬り以蔵」(1964年)を参考に制作された映画「人斬り」(五社英雄監督、69年)では、三島が薩摩藩刺客・田中新兵衛を演じた。そうした奇縁も、司馬が三島事件を重く受け止めることにつながったのかもしれない。

 司馬がこの論説のなかで強調するのは、「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」ということだった。

 思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実はなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰りかえして云う思想の栄光がある。(「歴史の中の日本」)

 しかし、三島は抽象的な「思想」「美」を現実の「政治」に結び付けようとした。その過程で道連れにされたのが、楯の会の青年たちだった。

 三島氏はここ数年、美という天上のものと政治という地上のものとを一つのものにする衝動を間断なくつづけていたために、その美の密室に他人を入りこまざるを得なくなった。楯の会のひとびとが、その「他人」である。

「天上のもの」を「政治という地上のもの」に結び付けることで、歯止めの利かない暴力が生み出される。その危うさを、司馬は三島事件のなかに読み込んでいた。

 司馬のこうした議論は、三島のライフコースとの相違をも反映していた。三島は1925年1月生まれであり、司馬の一学年下でしかなく、ともに戦中派世代に属している。だが、両者の歩みは大きく異なっていた。三島(本名・平岡公威)は農商務省官僚・広岡梓の長男として、東京四谷に生まれている。学習院初等科に入学し、高等科まで進んだ三島は、10代前半から小説執筆に目覚め、19歳で小説集「花ざかりの森」を刊行している。

 その後、東京帝国大学法学部に進み、戦場に駆り出されることのないまま終戦を迎え、卒業後は大蔵省に入省した。すでに「早熟の新人」として川端康成らから評価されていた三島は、一年足らずで大蔵省を退職し、文筆活動に専念する。以後、「仮面の告白」(1949年)、「潮騒」(54年)、「金閣寺」(56年)など次々と著し、早々に作家としての地位を確立した。

 こうした経歴は明らかに「一流」であり、「二流」のキャリアを歩んだ司馬に比べて、三島はそのすべての面でエリートだった。

 もっとも、エリートに対する司馬の幻滅が、三島事件の評価にどれほど投影されていたのかは定かではない。事件を評した「異常な三島事件に接して」にも、文学者・三島への敬意はあれ、三島のエリート性への言及はない。だが、司馬の三島事件への批判には、イデオロギーの過剰に対する嫌悪とともに、自らを疑うことのないエリートの威丈高さへの不快感を読み込むこともできるだろう。