2021年5月17日月曜日

20210517 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 梶田昭著「医学の歴史」 pp.123-126より抜粋

株式会社講談社刊 講談社学術文庫 梶田昭著「医学の歴史」

pp.123-126より抜粋

ISBN-10 : 4061596144
ISBN-13 : 978-4061596146

 周王朝は、前八世紀の中頃から名目の存在になり、前三世紀中頃、秦に滅ぼされるまで群雄が割拠する春秋戦国時代が続いた。諸侯の間を遊説して歩く諸子百家が現れたのがこの時代で、孔子も孟子もその中に姿を見せるし、扁鵲のような遍歴医もいた。この時代の文献に鍼灸治療が現れる(山田慶児)。いくつか例を拾ってみよう。

「孟子」離婁上篇に「今の王たらんと欲する者は、なお七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むるがごときなり」。七年越しの病に、たった三年した乾かしていない艾を使うとは何事、「仁」は即効薬ではないぞ、というのである。孟子は前三七二~前二八九年の人。「荘子」雑篇の盗跖篇では孔子が、「病い無くして自ら灸するものなり」、この自分は余計なことをして痛い目にあう愚か者だった、こういって嘆く。孔子は孟子と同時代人であった。しかし、「荘子」の外篇、雑篇は後世に加えられたものらしい。

 この二つから見ると、孟子も孔子も灸を知っていたのである。もっともこのどちらも、実際に灸を据えた話ではない。

鍼療法については「春秋左氏伝」(「左伝」)に記載がある。

「左伝」成公十年(前五八一)に、病膏盲に入る話がある。晋公の病床に招かれた医師が、「この病気は治療できない。膏の上、盲の下は灸も使えず、鍼も届かず、薬も効きません」と診断する。膏は心臓の下、盲は横隔膜の上と解釈されており、つまり「体のいちばん奥深いところ」である。

 山田慶児によると、中国医学の特徴は、「第一に、鍼灸という特異な治療法が発達したこと、第二に、この鍼灸療法と結びついて医学理論が形成されていったこと、第三に、鍼灸医学とともに生まれた理論が薬物療法を中心とする医学の全体系の基礎理論へと発展していった」(中国医学の起源)岩波書店、1999)ことである。そうして「鍼灸を推力とする中国医学の形成過程は、戦国時代(前四○三~前二二一)から後漢(二五~二二〇)にかけて進行」した。

鍼灸医学は最初の理論体系として「黄帝内経」(「素問」と「霊枢」)と黄帝八十一難経」(「難経」を持っている。いずれも後漢末(二〇〇年前後)に成立した。「黄帝内経」のうち、「素問」が医学の基礎理論、つまり生理学乃至一般病理学であり、「霊枢」に鍼灸の理論がある。

 薬物療法(湯液)の古典は「傷寒雑病論」(「傷寒論」と「金匱要略」である。これらは張仲景(二世紀の人)の著である。

 ほかに「神農本草経」がある。これは「本草」といって、薬用植物学の書物であり、神仙思想、つまり道教の色彩が強い。 

 これらも「黄帝内経」とほぼ同じ時期に成立した。漢代は戦国の百花斉放が実を結び、中国文明の基礎があらゆる方面で作り上げられた時期である。医学もその一つであった。

 小川鼎三「医学の歴史」(中公新書、一九六四)はおおよそ次のようにいう。-「内経」の医学(つまり鍼灸医学)は黄河流域の北方民族のものであった。中国北部は不毛の地が多くて薬用とすべき植物は少ないので、鍼灸のような物理的な刺激療法が用いられたのであろう。これに対して、張仲景の「傷寒論」は南方の揚子江(長江)付近に発達した医学なのである。

 中国の地理的風土と文明・思想については、岡倉天心(「茶の本」第三章、岩波文庫、一九六一)の興味深い解釈を聞こう。

 道教は、・・・南方シナ精神の個人的傾向を表していて、儒教という姿で現れている北方シナの社会思想とは対比的に相違があるということである。中国はその広漠たることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江と黄河はそれぞれ地中海とバルト海である。幾世紀かの統一を経た今日でも南方シナはその思想、信仰が北方の同胞と異なること、ラテン民族がチュートン民族とこれを異にすると同様である。

 北方黄河の流域と南方揚子江流域が、前者は「内経」医学、後者は「傷寒論」医学を生んだ。それがバルト海と地中海の沿岸に相当する、と考えると、私たちの想像は大いに刺激され、イメージがふくらむ。


2021年5月15日土曜日

20210515 昨日の続き「誤配」・「セレンディピィティ」への見解の微妙な変化

昨日の投稿記事はまた、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。さて、この記事では「誤配」および「セレンディピィティ」について書きましたが、私自身のこれまでを省みますと「セレンディピィティ」はともかく「誤配」については少なくなかったように思われます・・。

とりわけ、2010年の指導教員(師匠)の退職は、これまでにも何度か書きましたが、まさに私にとっては「誤配」としてしか認識出来ないものであり、これにより、その後の私の生き方は大きく変化したと云えます。いや、私のみならず、当時の研究室におられた方々皆の人生も大きく変わったと云えます。

当時、同じ研究室におられた先輩院生で、その後、首都圏にて開業された先生がいますが、この方と話していますと、毎度ではありませんが、度々「あれで人生変わったなぁ・・。」といったハナシになります。しかし、ここ直近の数年においては、それ以前とくらべ、その後に、あまり後悔や恨み言とはならずに「まあ、考えてみると、納得は出来ないにしても、あれはあれで仕方がなくて、また、そうしたことがあったからこそ、お互いに色々な経験が出来たとも云えるのかもしれないな・・。」といった方向にハナシが流れていくことが多くなったと云えます・・。(案外、こうした経緯については、同業である大学などの教育研究機関さまよりも、関連会社さま、専門書出版社さまなどの方が、深いところから御存知であることが多いように思われます・・。)

ともあれ、師匠が退職された後は、以前にも少しだけ触れましたが、さまざまな出来事があり、くわえて、歯科医師ではない私などは、学位取得後も、生きるために、色々なことを行うことになりましたが、そうした時に助けてくださったのは、同じ研究室におられた先生方、また、変わらずに勉強会に誘ってくださり、(ほぼ)夜通しの議論をした文系院時代の先生、友人の方々でした・・。

そして、そうした紆余曲折の経緯があり、どうにか現在に至っていると云えますが、これはその期間全体を通じ眺めてみますと、幸運を基調とした「セレンディピィティ」と認識出来るものではなく、未だに全体としては幸運ではなく、凹みの要素の方が強いと云えるのですが、それでも、さきに述べましたように、以前と比べますと、いくらかは前向きになりつつあるようにも感じられるのです・・。他方で、私が前向きになることに対して、否定的な見解を持たれる方々もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、能動的(前向き)な活動と云えるブログ記事の作成、投稿は、どうにか5年以上続けることができていますので、今しばらく6年間の更新、そして当面の目標である1600記事への到達までは、そうした見解を保留して頂ければと願うところです。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。











2021年5月14日金曜日

20210514 あってもなくても問題ないブログで意味があること・・「誤配」と「セレンディピィティ」

 今回の記事投稿によって総投稿記事が1530に到達します。また、さきの1525記事の投稿からは書籍からの引用部を記事として充ててきましたが、おかげさまで、これらの閲覧者数も思いのほかに伸びています。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、それらの中で、一つでも興味を惹かれるものがありましたら幸いと云えます。

そして、本日もまたさきほどまで書籍からの引用を記事としようと考えていましたが、ある程度は自身の文章での記事作成を行わないと、文章作成の腕が鈍るのではないかと思い、また、今回の記事投稿によって、1530に到達し、多少は区切りが良いと思われることから、自身の文章にて記事を作成することにした次第です・・。

さて「自身の文章にて」と書いてはみましたが、実際、このように書き進めてみても、今現在に至るまで特に記事の主題は思い浮かばず、ここにきて、キーボード上の両手は、何やら突如として動きが鈍くなりましたが、それでも、この辺りまで書き進めることが出来たのであれば、とりあえず、どうにか先も書き進めることが出来るように思われます・・。

ここ数日間は、主に新書からの引用にて、中国、そして同国の伝統的な特産品のひとつである茶について扱いましたが、そこから本日は、この茶から敷衍して、中国地域内で特産品に相違があるのと同様、伝統的な医療についても、地域的な相違があることを言及した記述を充てようと考えていました。さらには、それとも関連して、地域における鉱工業や、それを基盤とした軍事組織の相違などについても、いくらか関連した記述を見出すことが出来るのではないかと考えていましたが、そうしたなかで、こうした自身の手による記事を挟むことにより、計画通りの記事作成とはならずに、ある種の「誤配」のようなものが生じ、さらに違った面白い方向に進んで行くのではないかとも思われるのです。

あるいは、こうしたことを事後的には「セレンディピィティ」と云うのかもしれませんが、ともあれ、こうしたブログのような、いわば「あってもなくても特に問題がない営み」においては、まさに、そうした「誤配」を敢えて忍ばせることに「問題がない」なりの意味が認められるのではないかと思われるのです・・。

もしくは、少し大きく見ますと、当ブログがいくつかの偶然によって2015年に始まり、現在、この文章の作成にまで至っていることも、まさに「誤配」や「セレンディピィティ」の賜物であり、またさらに、そこが今現在において当ブログの「問題がない」なりの意味であり、そして、さらに続けることにより、その後において、あるいはその意味や重さも変わってくることもあるのではないかと思われるのです・・。

ともあれ、ここまで書いてみますと、昨日までの「茶」の記事との時代背景の近似(16世紀半ば~17世紀初頭)、あるいは同じ嗜好品であるといった関連からか、芥川龍之介による「煙草と悪魔」という短編が思い出されてきました。あの短編もまた、解釈によれば「誤配」と「セレンディピィティ」について扱った話とも云えますので・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。そして、今後もまた、どうぞよろしくお願いいたします!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設


一般社団法人大学支援機構

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20210513 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

イギリス人が最初に茶に言及しているのは。日本の平戸へ来航したイギリス東インド会社の駐在員R・ウィッカムが、ミヤコの同会社駐在員に宛てた1615年6月27日付の手紙であって、そのなかで彼は、ミヤコから良質の茶を一壺送って欲しいと述べている。

 オランダ人についで、イギリス人も日本を通じて茶を知るようになったということは興味深い。だから当時は、今日のように福建語系の「ティ」と発音せずに、「チャ」または「チャ」に近い「チョオ」と発音していた。しかも彼らにとって「チャ」といえば、日本の抹茶つまり茶葉を粉末にしたものに熱湯を注いで飲むことを意味したようである。このことはさきに述べたマンデルスロが「東インド旅行記」の中でものべていたことである。それでは、いつごろからイギリス人は茶のことを「ティ」と呼ぶようになったのか。だいたいそれは1644年以後のことではないかと思われる。というのは、この年イギリス商人が厦門(アモイ)に拠点を築き、ここで中国人から直接福建語の「テー」を知りtoe→teaになってゆくのである。だから1671年に出版された「英語用語解」(グロサリ)にはまだchaという綴りで表されていた。

 ところで、いつから茶がイギリスに入ってきたか。正確なところはわからない。しかしオランダ、フランス、ドイツへ入ったのとほぼ同じころ、すなわち1630年代中頃にオランダをつうじてイギリスへも入ったと考えておいてよいだろう。ただイギリスで茶が一般的に市販されたのはかなり後の1657年、トーマス・ギャラウェイというロンドンのタバコ商でコーヒー・ハウス店主が、茶の葉を売り出し、店で茶を飲ませたのが最初であるといわれる。買ったのは上流階級であったから、値段もベラ棒に高く、一ポンド(重量)で6~10ポンドという高価な値がついていた。コーヒー・ハウスで茶が売られたといえば、ちょっと奇妙にきこえるかもしれないが、じつはコーヒーの方が茶よりも数年早く販売されていたからで、舶来の珍奇な飲み物としては、コーヒーも茶も大したちがいはなかったから、一足さきにできていたコーヒー・ハウスで茶が売り出されたのである。

 コーヒー・ハウスはいまのクラブの前身で、商人や貴族の社交場であり、海外貿易にたずさわる商人をはじめあらゆる階層の人たちが、入場料一ペンス、一杯二ペンスのコーヒーや茶を飲みながら論じあい語りあった情報交換センターであった。それは17世紀後半から18世紀はじめが最盛期であった。コーヒー・ハウスから新聞・週刊誌などのジャーナリズムや、文筆によって生計をたてる人びと、また文壇なるものも生まれたし、さらにはかの王立科学院もここから生まれた。

 このことからも知られるように、コーヒー・ハウスはイギリスの知的生産力の発展にきわめて大きな役割を果たした。最初のコーヒー・ハウスが1650年オクスフォードにできて以来、その数は急速に増加し、1683年のロンドンには、コーヒー・ハウスが約300軒もあったといわれている。コーヒー・ハウスのすべてが茶を扱っていたわけではないことはいうまでもないが、茶に関してはとくに有名であったのが「ギャラウェイ」である。「ギャラウェイ」はシティのロンバード街とコーンヒル通りに挟まれた裏通りエクスチェイジ・アレイの一角、今日バークレー銀行になっている場所であった。

 「ギャラウェイ」で売られた茶は、病気の予防と治療にとくに効くというので有名であったが、店主は1660年、片面刷りのポスターに茶の効用を記して茶の宣伝広告をはじめた。このポスターは近世イギリス広告史の草分けを飾る意味においても、重要な意味をもつものである。同時に茶に関する最初のポスターである意味でも注目すべきものである。

 現在のポスターは、簡単明瞭、一目瞭然を旨としているが、当時のものは紙面いっぱいにくどくどと効能を書き並べているのが特徴で、いまここに全文を翻訳するのはいたずらに紙面をとるだけでわずらわしい。だから要点だけの紹介にとどめるが、広告文は茶に関する一般的紹介にあたる前半と、茶の特効を記した後半の二つの部分から成っている。

 まず前半において、「茶は、古い歴史とすぐれた知能で有名な諸国民(注・・中国及び日本を指す)の間では、しばしばその重さの二倍の銀と交換されている。茶からつくられる飲み物は高い評価をうけており、これら東洋諸国へ旅行した各国の知識人の間で、茶の性質に関する調査が行われてきた。あらゆる方法で厳密に検査した結果、茶を飲めば完全に健康を保って驚くほど長生きができると、識者たちは茶の利用を勧めているのである」とした。

 後半の部分では、茶の適応症として、精力増進、頭痛、不眠、胆石、倦怠、胃弱、食欲不振、健忘症、壊血病、肺炎、下痢、風邪など十四の症状をあげている。今日のわれわれからみれば、誇大広告もいいところであるが、当時のイギリス人にとって中国や日本はすぐれた文化をもった神秘的な先進国で、茶はまさにその代表的な文化にほかならなかった。だから金持連中はもとより、誰もがいくら高い代価を支払っても、東洋の霊験あらたかな神秘的飲み物を手に入れたいと思ったであろう。当時イギリスをはじめヨーロッパ各国にほぼ同時に入ってきた舶来の飲み物として、チョコレート、コーヒー、茶の三種があるが、くすりとしての効果からいえば、カフェインの含有量の多いコーヒーの方がナルコティックスの作用が大きく、覚醒剤としての効果では茶に決してヒケをとらなかったであろうにもかかわらず、茶だけがこんなにヨーロッパ人にもてはやされたのは、彼等の東洋文化に対するコンプレックスからきているのである。茶には760年頃に書かれた陸羽の「茶経」から、日本の「茶の湯」を中心とする芸能文化、さらに茶碗、茶器などの美術工芸品から茶の入れ方、飲み方、マナーにいたるまで、長い歴史的伝統文化の輝きがある。これに対してチョコレートやコーヒーにはこうした文化の背景がない。少なくとも彼らのコンプレックスをかきたてる文化の重みに欠けていたという点が、茶と根本的に異なる点である。ついでにいえば、イギリス近代史はまさにこのコンプレックスから出発し、東洋のすぐれた文化・物産の模倣、製造、ついには東洋への攻撃的進出というかたちで展開してゆくのである。

2021年5月12日水曜日

20210512 中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」pp.374-378より抜粋

中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」

pp.374-378より抜粋

ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

 広東に近いマカオは明代、ポルトガルの海上勢力のはなやかなころ建設された植民地であり、はじめ地方官との了解の下に借地して商館を設けたのであったが、いつの間にか、それがポルトガルの領土のように変化した。オランダがかつてこの地を奪おうとして成功せず、最後までポルトガルの植民地として残り、清朝に入っても中国沿岸における唯一のヨーロッパ人居留地であった。ヨーロッパ人は広東にきて貿易することを認められたが、家族をともなって定住することは許されなかったので、貿易が終わるとマカオへ引き上げなければならなかった。

 広東における貿易は厳重な政府の統制の下に置かれた。西洋人の貿易の相手は、行商とよぶ特許商人に限られ、十三行の名があったが、この十三行商は同時に西洋人の広東滞在間の宿舎を提供した。広東の外国貿易が隆盛になるにつて行商は巨富を積み、その宿舎は豪壮な西洋式に建築されて、中国人に驚異の眼をみはらせた。

 イギリスの東インド会社がインドで覇権を獲得すると、マカオを通じてイギリスの対中国貿易が盛大になった。もっともイギリスは浙江省寧波付近に独自の根拠地を獲得しようとしたが、清朝の弾圧にあって果さず、やむなくその貿易を広東に限らなければならなくなったのである。そしてイギリスが海上を制圧し、本国の工業と植民地の資源をあわせて大産業国となると、ポルトガルが絶好の位置にマカオをもっているにもかかわらず、広東貿易でイギリスが首位を占めるようになった。そしてイギリスが中国にたいするヨーロッパ貿易の指導権を掌握するようになると、それとともに、ヨーロッパ人全体に代わって貿易方法改善の責任を負わねばならなくなった。

 中国政府の厳重な外国貿易統制、ことに行商の独占権はもっとも外国商人に不便さを感じさせた。貿易の利益は行商の独占するところとなり、さらに中国官憲にも多大の贈与を行わなければならなかった。事実、行商の一人である伍氏などは、十九世紀初頭において世界最大の富豪といわれたほどである。西洋商人と行商との間に紛争が起きても、マカオ駐在の外国官吏は中国官憲と対等の交渉を行う権利はなく、中国人民と同じ立場でわずかに歎願書を提出することが認められているにすぎなかった。

 イギリスがインドでフランスを圧倒して覇権を握った後十年、イギリス国王の特派使節マカートニーは乾隆帝のもとに派遣されて、貿易方法の改善を提議しようとした。ところが乾隆帝はこれを、イギリス王が新しく朝貢国の列に加わろうと申し込んだものと解し、その忠誠をたたえる褒詞を与えて引きさがらせた。中国の皇帝が夷狄の臣下にたいし、朝儀において寛容な措置をとってまで拝謁したのは、莫大な恩恵を施したものと思っていた。ついでナポレオン戦争の終了後、イギリスはアマーストを嘉慶帝のもとに派遣して交渉を開こうとしたが、この時清朝は謁見の際にあくまでも朝貢使として三跪九叩頭の礼を行うことを強要したので、アマーストは北京に入りながら、謁見も行わず憤然として退去したのであった。

 いろいろの不便や屈辱をこうむりながら、イギリスその他のヨーロッパ諸国が広東貿易を見切ることができなかったのは、中国には独自の特産品があったからである。なかでも中国茶は急激にヨーロッパおよび植民地に普及し、日常飲料として欠くことのできない商品となっており、貿易上の利益だけでなくこれに課する消費税が政府収入の中で巨額を占めていたことは、それがアメリカ合衆国の独立戦争の一原因になったことによって知られよう。

 イギリスの東インド会社は対中貿易においては、つねに輸入超過であり、中国の茶、絹等を購うために莫大な現銀を支払わなければならなかった。この現銀が清朝乾隆時代の全盛を現出させた原動力となって働いたことは注意すべき事実である。そこでイギリスはインドに産する綿花をもって中国貿易に対する見返り品としたが、勤勉な中国労働者はこの綿花をもって綿布を織って再輸出し、かえって大きな利益をあげることができた。これが十九世紀初頭における広東貿易の大勢であったが、まもなくヨーロッパ産業革命の波は東アジアにおし寄せて、この形勢を逆転させる時がきた。

アヘン戦争と南京条約

 広東を中心とする中国の紡績工業は、手工業的なものにすぎなかったので、イギリスのランカシャ機業が発達するとたちまちこれに圧倒されてしまった。これとともに、イギリス東インド会社が対中国貿易品として新しく輸出しはじめたアヘンは、中国人の嗜好になって急激に需要が増大した。アヘンは健康に害があるので、嘉慶年間に中国政府はしばしば禁令を出してアヘン販売を禁止したが、沿海の人民はイギリス商人と密貿易を行い、これを内地に転売するための秘密結社が勢力勢力をのばし、政府はさらにこれを取り締まるために苦心を払わなければならなかった。やがてアヘンの盛行は従来の貿易関係を逆転させ、銀塊は年々多量にアヘン購入のために流出し、中国内部には深刻な不況がおとずれ、多数の失業者を出し、このことはますます密貿易者の活躍をうながす結果を招いた。

 道光年間、政府はふたたびアヘンの禁令を厳重にしたが、中国人民を取り締まるだけでは実効をあげにくいことを悟り、広東に渡来する外国人にも禁令を及ぼそうとした。ここに林則徐の強硬手段によるアヘン商人弾圧となったが、その結果、不幸にしてイギリスとの戦争に発展し、清朝は破れて和を請わねばならなくなった。

 これまで清朝は中国だけでなく、全世界の皇帝であると自任し、中国の外国貿易は、物資が貧弱でひとりだちできない夷狄朝貢国にたいする恩恵であると自負していた。ところがこの政策を実施するにあたって乾隆帝の時には優になしえたことであっても、道光帝の時にはすでにとうていできなくなっていた世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は清朝側における実力衰微のためばかりでなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命とがあいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことからきているのであった。蒸気機関によって航行するイギリス軍艦はたやすく中国沿岸に集結され、その大砲は中国の砲台を沈黙させ、イギリス艦隊は揚子江を遮断して、中国南部より中国北部へ送る穀物輸送の途を断つことができた。半身不随となった清朝は、イギリスの提出する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである。(1842年)

 南京条約は香港をイギリスに割譲することを約したが、ここにおいて広東湾外には、西方のマカオにたいして東方に香港が自由港として開かれ、イギリスの努力・経営によって、しだいにマカオの繁栄を奪い、イギリスの商権を極東に推進する根拠地となった。日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商条約を締結して開国したのは、これより十年後であり、アヘン戦争の結果を考慮することがあってのことであった。

2021年5月11日火曜日

20210511 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.119-124より抜粋

 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」

pp.119-124より抜粋

ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018


革命は過去との激しい断絶を伴うから、革命を正当化したり、否定することは自然な反応であるだろう。しかし、そうすることによって革命は道義的賞賛と道義的非難のもやのなかに包まれてしまうのだ。だから、われわれは革命のイデオロギー的判断、とくに道義的色彩の濃い判断を、避けなくてはならない。そうすれば、革命がその国の力を飛躍的に増大させるという、単純な事実が浮かび上がってくるだろう。フランス革命はフランスの力を、ロシア革命はロシアの力を、飛躍的に増大させたのであった。中国革命も同じような視点から見なくてはならない。

 もちろん、近代の革命は普遍的な原理の上に立っているから、革命の原理が国際政治に強い衝撃を与えるという面もたしかに存在する。しかし、われわれは普遍的な原理そのものが与える衝撃と、その普遍的原理を現実の政治・経済的体制として具体化した国家が与える衝撃とを混同してはならないのだ。革命の衝撃と普通考えられているものはこの二つの混合物なのであり、それを混同することかた、革命に対する誤った対応が生まれてくるのである。

 共産主義革命の場合にも、普遍的原理であるマルクス主義が与える衝撃と、それを体現した国家、ソ連が与える衝撃とは、質的にも量的にも異なっている。前者の場合には、思想は思想の論理で動いている。しかし、思想が力の組織である国家の原理となるや否や、思想の論理に加えて、権力の論理が作用し始め、それが次第に支配的になっていくのである。革命の衝撃がこのような構造を持つものである場合、外交の扱うべき側面は疑いもなく後者である。外交の基本的な任務は、力の組織としての国家間の関係を調整することだからである。したがって、ソ連革命についても、資本主義と社会主義が対立している間は真の平和はないと、そのイデオロギーが考えていることよりも、そのイデオロギーを体現した国家ソ連が、巨大な重工業を作り上げ、ロケット部門においてアメリカと激しく競争しているという事実、中東欧諸国をその支配下に置き、その経済統合にかなり成功してきたという事実、そして、重工業の発達と対照的に、消費財部門は貧弱で、とくに農業部門は完全に行詰っているという事実の方が、ソ連の対外政策を現実に動かすより重要な要因となっているのである。

 中国の場合も、この事情は基本的に同様である。したがって、われわれの視点は、力の組織としての国家、中共が中国共産革命によってどのように変わったかということに集められなくてはならないのである。

 そのように考えた場合、中共革命のもっとも重要な意義は、中国が民族革命を行うための組織的な基礎を、何回かの失敗のあとに与えたことにある。中国における民族国家の形成と産業革命、すなわち、一般に近代化と言われている現象が軌道にのるまでは、きわめて困難な、そして長期間にわたる過程が必要であった。その理由は中国の広大さと中国の伝統的な政治構造のゆるやかさにある。

 すなわち、中国には文明圏はあったが、近代的な意味での民族国家は存在しなかった。中国の一般民衆の政治に対する意識は、「日出デテ耕シ、日入リテヤスム、井ヲ鑿ッテ飲ミ、田ヲ耕シテ食ウ、帝力、我ニ於テ何カアランヤ」という有名な言葉に現れている通り、無関心の一語に尽きた。その無関心の上に皇帝を頂点とする官僚機構が表面的に乗っかっていたのであり、その最下端は県吏であって、村落まで及んでいなかった。そして、官僚制と村落の一般民衆とを結んでいたのは、土紳と呼ばれる富農階級であって、彼らが地方の実権を握っていたのである。この地方分権が清朝末に至って、皇帝の権力が弱まるとともにますます強まり、ついに軍閥の時代においてその極に達したことは周知の通りである。

 このように権力構造をそのままにしておいてなされた近代化の試みが失敗したのは不思議ではない。それは西洋文明の輸入のはやい海岸線沿いと揚子江沿岸に、外国資本を借り入れ作られた工場などを生み出したにとどまった。新しく作られた工場は中国の家族制度と結び付いて閥族化していったし、どちらにしても、海岸地帯の工業化は内陸の大多数の中国国民と密接に結びついてはいなかった。国民党の指導者としての蒋介石の業績を評価することはむつかしいし、とくに彼がこの地方の権力構造に手を触れようとしたかどうかについては意見が分かれている。しかし、いずれにしても、日本が中国に侵略を開始したときには、地方の権力構造は変わっていなかったのである。

 しかし、日本軍とのゲリラ戦を通じて、毛沢東の率いる中国共産党は農村に基礎を置く軍隊を作ることに成功した。毛沢東は日本が降伏したときには、百万の軍隊を指揮していたが、それは中国の歴史上最初の、村落に根を下した権力の組織であったのである。それが、いわば根なし草の蒋介石の軍隊を破ったのは当然であった。第二次世界大戦終了当時、中共が世界第四位の軍隊を持っていたことは見逃しえない事実である。こうして、中国の北部において生まれた権力の組織的な基礎は内戦における中共の勝利によって、全中国に拡大された。それによってはじめて、中国は近代的な意味における民族国家となったのであり、産業革命を強力に推進することができるようになったのである。

 この事実は、力の闘争である国際政治における中国の位置を理解する上にきわめて重要である。国家の力を構成するものは、表面的には軍事力や経済力に見える。しかし、その基礎をなすものは民族国家という形の、組織的な基礎なのである。近代の国際関係の歴史をきわめて巨視的に見るならば、権力に、広範で強力な組織的な基礎を与えることに成功した国が強大化して行ったことが理解されるであろう。その意味で、近代史は民族主義の勝利の歴史なのである。

 近代初頭のヨーロッパにおける強国、スペイン、フランス、イギリスはすべて、その地理的・歴史的条件から、民族国家の形成にいち早く成功した国であった。そして、この三つの国が十七世紀かた十八世紀にかけて権力闘争の主役となり、やがてスペインは脱落し、イギリスとフランスがその他の王朝国家をまじえて、長期にわたる権力闘争を展開したのであった。この権力闘争は一八一五年のウィーン会議において均衡を見出したが、それはある意味で民族主義と王政との均衡であった。フランスとイギリスそれ自身が、民族主義の原則によって貫かれたものはなかったのである。

 しかし、やがて民族主義の第二の波が、産業革命と結びついて起こってくる。そして、きわめて多数の国民を参加させながら、民族主義的感情と、進歩したテクノロジーによって国家の統一を保つことが可能になったのであった。それは国家権力を飛躍的に増大させることになった。そして、その結果として力の不均衡が起ってきたのである。

 まず、民族主義と産業主義を結びつけることに成功した国と、それを行っていない国との間にいちじるしい力の不均衡が生ずる。それは、帝国主義を生む基本的原因となった。そのころ福沢諭吉は、西洋文明をとり入れなければ国の独立を保つことはできないと主張し、古い伝統を固守する中国と朝鮮については、「我国は隣国の開明を持て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」として「脱亜論」を唱えた。それは福沢を批判する材料とされてきたが、しかし、福沢が当時の世界における力の不均衡とその原因を正しく捉えており、いわばやむをえない方法として「脱亜論」を主張したことに注目するとき、明治の日本が置かれていた立場の困難性と悲劇性を示すものと考えるべきではないだろうか。

2021年5月10日月曜日

20210510 左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」pp.190-192より抜粋

 左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」

pp.190-192より抜粋

ISBN-10 : 4865281029
ISBN-13 : 978-4865281026

小作小説「神聖喜劇」の中で、私は、日本軍隊について(延いては日本国家一般について)、「累々たる無責任な体系、膨大な責任不在の機構」というようなことを書いた。また、小作エッセイ「俗情との結託」の中で、私は、日本軍隊について、「その真意においては、決して「特殊の境涯」でも「別世界」でもなく、最も濃密かつ圧縮的に日本の半封建的絶対主義性・帝国主義反動性を実現せる典型的な国家の部分であって、しかも爾余の社会と密接な内面的連関性を持てる「地帯」であった。」と書いた。すなわち、それは、「日本軍隊が、掛けても「真空地帯」などではなく、日本の国家および社会の圧縮典型である。」という意味である。「俗情との結託」なり「神聖喜劇」なりの「新日本文学」誌上発表時、私は全然知らなかったが、丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」(岩波書店1946年「世界」所収)の中に、やはり日本軍隊に関する「累々たる無責任の体型、膨大な責任不存在の機構」を読んでいなかったこと、その類の言表の存在を知らなかったことを、言語表現公表者として、たいそう不行き届きにかえりみ思った。日本国家一般を「累々たつ無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」と把握することは、君主制否定ならびに共和制樹立の具現を切望することにほかならぬ。戦後の一時期、この「切望」は適えられるかにみえた。しかし、それは、事実として適えられなかった。それどころか、なかんずくここ数年来、日本国家一般は、戦争前・戦争中なみの「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」に堕しつつある。

 ところで、原水爆開発後の今日、人類の存続的・繁栄的な未来は、「国家の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使と」を「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことの上にしかあり得ない。日本国家・社会が戦争前・戦争中なみの「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」に堕することは、人類の滅亡的・衰退的な成り行きを用意することになる。いま言われている「グローバリゼーション」のいかがわしい正体は、これであり、先述「切望」の成就こそが、真正の「グローバリゼーション」なのである。

「丸山眞男 自由について/七つの問答(聞き手、鶴見俊輔/北沢恒彦/塩沢由典)」は、昨年(2005年)7月、編集グループSUREから刊行せられた。その中で、丸山眞男は、「セクトなんかだって、二つしか言葉を知らない。「異議なし」と「ナンセンス」ですよ。悲しいかな、これもやっぱり満場一致制です。「異議なし」のはずないんですよ。ほんとうなら、人間が集まれば異議があるほうが当り前でしょ。だから、ぼくは日本の無責任体制ってのを自分が論じたもの(「超国家主義の論理と心理」)について、あらためて近ごろ、自己批判してるの。あそこでは、これを戦争中の病理現象と見たけれども、実際はそうじゃなくて、もっと根が深い。」と語っている。

 決して「真空地帯」ではない日本軍隊の日常生活現実(「知りません」禁止。「忘れました」強制)から演繹した私の「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」は、むろん毛ほども「これを戦争中の病理現象」と見立ててはいなかった。そこに、丸山眞男と私との異同が、実存する。

 いずれにせよ、日本国家一般に関する「君主制否定ならびに共和政樹立の切望」は、依然として日本平民の絶大な課題・当為である。