2017年11月3日金曜日

20171103 大和王権成立の時期について

『我が国の古代史において最大の問題とされるものは統一王権成立の時期であると云える。
しかも、その背後には歴史学的問題と同様、現今の思想的問題をも連想、示唆させるという意味において、一層この問題を(精確に)扱うことを困難にさせる。
すなわちそれは、記紀に書かれている神話、伝説をどのように認識するかという問題であるとも云える。
この問題について一つの足掛かりとなる考え方とは、山本七平によると富永仲基、内藤湖南などが述べた『古代の神話、伝説とは古い時代に向かって徐々に発達していくという加上の原則』であると考える。

それはある地方を中心として発達した政権(王権)が、成長し周囲のクニグニを征服していく時、そのクニグニの神話、伝説が征服した王権に輸入され、それが歴史的事実として述べられ、そして信じられていくということであるのだが、征服した王権の歴史とは、ある時代以降は比較的明瞭であるため、征服されたクニグニの神話、伝説とはその間に割り込ませることが困難となる。

それ故、それら神話、伝説を自らの歴史の遡った方へつけ加えていくといった傾向である。

たとえばヤマト王権と出雲との関係とは、ヤマト王権側には日本武尊の出雲健征伐という比較的歴史に近い段階の伝説の形にて伝承されているが、これが出雲では大国主の国譲り伝説として残っている(要はヤマト王権の出雲征服)。

おそらくこれは出雲がヤマト王権に完全に服属、同化された時期に出雲から大和へ齎されたのであろうが、さきの理由から、これはその時代においては置き場所がなく、歴史から遡った神代の話として記紀に収められたのではないかと考えられる。

ともあれ、そうした理由により、記紀の神代の話とは畿内を中心としないで地方、辺縁地域における神話、伝説を以ってより多く(比率的に)充たされているのではないかと考える。

また、多少の疑問もまたあるが、ヤマト王権が次第にその勢力範囲を西方に拡張した際にもっとも頑強に抵抗したのが九州の諸部族であり、我が国におけるこうした構図とは明治維新あるいは西南戦争に至るまで幾たびか繰り返されているのかもしれない。

彼ら九州の諸部族とは当時の先進地域であった朝鮮半島と早くから交易し、進んだ大陸文化を我が国に広く輸入紹介した功労者であり、また、まさに倭の真髄であるのだが、おそらくはその文化の先進者であったことがかえって仇をなし、文化的には後進地域であったヤマト王権に制圧・併呑されてしまったのではないかと考えられる。

それはあたかも北方の遊牧騎馬民族により幾度も征服された中国、同じく古代ギリシャ諸都市国家群から北方蛮族と見做されたマケドニア、あるいはドイツ諸那から東方の辺境国とされたプロイセンとの関係とも幾分類似した歴史的構図が示されるのではないかと考える。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』








2017年11月2日木曜日

20171102 我が国の青銅製祭器の様相から

さきにも少し述べたが、我が国における青銅製祭器のなかで、特に我が国において特有と考えられるものが銅鐸である。

多くの場合、銅鐸はその出土に際し伴出物なく孤立し、しかも工事などの際に偶然見出されることが多い。

また、それら形状の多くは、我が国にて独特のものであり、周辺諸国に同じ形状のものがなかったことから、これを説明するため一種の仮説が立てられた。

それは現在の日本民族の祖先が渡来する以前の民族、原住民が作製したものであり、彼らが滅亡する際に、この青銅器を土中に埋め、侵入者に発見されることを避け、逃走したというものである。

しかしその後、銅鐸が他の青銅製祭器(銅剣、銅矛、銅戈など)および弥生式土器と一緒に出土、発見されたことから、銅鐸も我々の先祖が作製した弥生式文化事物の一つとして認識されるようになり、またその祖型とは中国、朝鮮半島における楽器の一種である編鐘(へんしょう)あるいは家畜の首にぶら下げる鐸(さなぎ)であるといった理解が為されるようになり、銅鐸もまたその祖型とは他の同時期の文化的事物と同様、中国、朝鮮半島より齎されたものと認識されるに至った。

銅鐸の出土分布は西日本に集中し、近畿、四国東半、瀬戸内、山陰に特に多いと云える。

また、この時代においては、後の古墳時代ほどではないにしても、実用的利器の素材としてはより有用な鉄を用いることも珍しくはなかったことから、実用的利器の素材として青銅とは、あまり重要でなかったものと考えられる。

これは九州北部を中心として四国西半、瀬戸内、山陰にて発見、出土される銅剣、銅矛においても同様のことが云える。

それ故、これら青銅祭器とは、中国、朝鮮半島から九州北部を経て主に西日本の弥生式文化圏へ伝播していったのであるが、それとほぼ時を同じくして鉄器文化もまた同様の経路にて伝来し、そこで利器素材としての価値を失った青銅とは祭器を主とした用途にしたものと考えられている。

ともあれ、一般的な世界史時代区分にて考えると、石器時代に次いで青銅器時代そして鉄器時代へと移行あるいは進化していくのだが、我が国の歴史において特徴的であることは青銅器と鉄器がほぼ同時に中国、朝鮮半島より齎されたということであると云える。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在まで列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

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20171101 縄文時代の土器文化から、その先の時代の流れについて

縄文時代の名称由来となったものは、同時代の土器文様からであるが、この時代とは、それ以降の弥生時代~現代に至るまでの年数の数倍の期間を持ち、当然ながら、その草創期(紀元前14000~13000年頃)と晩期(紀元前600~500頃)の文化の間には著しい差異があると云える。

この時代名称の由来となった縄文式土器についてであるが、概して古いものであればあるほど粗い胎土によって厚ぼったく作られ、また器の形状は浅く、そしてその焼成温度は充分に高温でなく、煤けて黒く、全体的に焼成不十分といった印象を受ける。

そして、時代が下るに伴い、器の形状が深くなり、厚さも薄手となり、器辺縁に立体性のある繁縟的な装飾を施す造形技術に対し、ある種の深い精神性(知性)をも看取されるまでに至る。

こうして縄文土器とは、その段階における最高の技術水準まで到達した。

とはいえ、それらが器として用いられた時代とは、狩猟・漁撈に「より」大きな比重を置いていた・基軸としていた社会であり、そうしたことは他の同時代の他の出土物によっても理解される。

また、この繁縟的な装飾が施された縄文式土器が出土するのは主に東日本、特に関東甲信越地域を中心としており、その技術水準が最高潮に達したともいえる火焔式土器が登場した縄文時代中~後期(紀元前4000~3000年頃)における西日本地域では、主に芋栽培といった食用植物の栽培を伴う民俗文化が徐々に根付き、そしてそれが列島各地に広く伝播・定着し、さらに後の時代に齎される新たな陸稲栽培を伴う民俗文化の混淆を可能ならしめたと云える。

しかしながら、食用植物の栽培を伴う民俗文化とは、単元的な起源経路を持つものではなく、おそらく複数の流れがあったものと考えられるが、同時にそれらはある程度までは限定可能であり、それらの主たる最初の受容地域とは、当然であるとは云え、ユーラシア大陸東端(中国、朝鮮半島)に最も近い九州島であったものと考える。

そして、この図式とは、さらに後に列島に齎され、以降の我が国生活文化を一変させる働きを持った水稲耕作を含むものにおいても概ね同様であり、その主となる舞台もまた九州島北部であった。

とはいえ、水稲耕作とは、さきにも述べたように、その起源とは中国南部の長江(揚子江)中下流域にあるとされ、その意味から、どちらかというと南方的要素が強い文化ではあるのだが、我が国にそれが伝来されるに際し、主に朝鮮半島南部を介し九州島北部へといった経路を通ったものと考えられる。

おそらく東シナ海を渡り直接中国南部から九州島中南部へ齎されたものも単発的には複数存在したのであろうが、それが在来社会と混淆し、変化を齎し、新たな生活文化を形成するという段階にまでは至らなかったものと考えられる。

そして、こうした流れとは、水稲耕作とほぼ同時代に我が国に齎され、それは弥生時代に盛行する各種青銅製祭器の出土分布を見ることによって概括的な理解が得られるのではないかと考える。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

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2017年10月31日火曜日

20171031 ①~⑤それぞれの種族・民俗文化の歴史的関係について

これまでに5つの民俗文化を述べてみたが、もちろん、これはある程度仮説的なものであり、さらにまた、それらのみが我が国文化の基層を構成したものであるという意味でもない。

はじめに述べた①母系的・秘密結社的・芋栽培-狩猟民文化の我が国への伝来は縄文時代中期以後(後期)に置いたが、無論、それ以前にも何らかの民俗文化が列島に存在していたのであるが、それについては知識不足でもあることから、ここでは触れない。

ともあれ、この①母系的・秘密結社的・芋栽培-狩猟民文化は伝来以降、日本列島に広く拡散伝播し、また同時期の土器(縄文)においても、それぞれの地域的特徴が看取出来るものの、同時に繁縟的といった縄文土器一般における共通した意味合い、要素をも付与したとのではないかと考える。

そしてその後、縄文時代末期になると②母系的・陸稲栽培-狩猟民文化が伝来し、これが①を含む在来文化に加わり混淆し、そして日本列島西部を主として徐々に農耕文化的様相へと変貌していった。

さらにその後、弥生時代に入った紀元前4~5世紀頃になると、大陸での戦乱の影響により、中国南部の江南地方(呉・越)より④男性的・年齢階梯制的・水稲耕作-漁撈民文化そしてそれとほぼ時代を同じくして朝鮮半島を経て③父系的・「ハラ」氏族的-狩猟・飼畜民文化が列島に流入し、①と②を含む在来文化の混淆にて形成された、ある程度農耕への比重を持つ文化の上に③、④の文化が加わり、交流、混淆し、次の時代への胎動をもたらす弥生時代の社会が成立した。

とはいえ、もちろんここで述べた①~④それぞれ文化の交流、混淆の様相とは多種多様であり、また、それらの様相こそが我が国の多彩な背景を持つ地域民族文化の基層、マトリックスとなったと云える。

具体的には、縄文時代以来の狩猟採集と共に母系的畑作農耕を主たる基盤とする種族文化は主に内陸地域へ、新たに伝来した水稲耕作を主たる基盤とする種族文化は概して河川下流域、海岸付近へと居住するといった様相である。

そして、弥生時代も末期に近づいた頃に至ると水稲耕作を基盤とした酋長(首長)が治めるクニが各地に少なからず存在していた。

こうしたクニグニの成立の背後には共通して③、④の父系的農耕種族の文化要素が(ある程度)強く作用したのではないかと思われる。

また、この時代より言語的にはアルタイ語系の言語が徐々に浸透し、支配的言語となりつつあったのではないかと考える。

ともあれ、こうした様相、状況を示していた弥生時代末期~古墳時代初期の我が国に⑤の天孫族が朝鮮半島より渡来し、父権的・支配者文化、支配体制を持ち込むこととなる。

この天孫族は在来の諸種族、クニグニを征服し、大和にそれまでよりも巨大な国(大和王権)を建てた。この大和王権の政治支配は徐々に確立され、支配領域は拡大し、在来諸種族はその独立性、独自性を喪失し、漸次、この大和王権社会に組み込まれていくことになる。

それらは王権社会内部にて階層化し、農民、漁民、手工業者あるいは奴婢といった被支配層となり、またさらに支配種族自身も諸族としての独立性を喪失し、そして王朝制が確立するに至った。

以上の過程により大和王権内部社会の諸文化は、徐々に一様化、均質化の傾向を進み、かくして量的、質的にも一つの大きな文化共同体と称すべきものが形成され、またこれに伴い(より広域な)意識共同体も惹起され、ここに日本民族という新たな民族集団が発生するのである。

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2017年10月30日月曜日

20171030 『父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化』其の5

父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化
『この文化は日本列島に支配者王侯文化と国家支配体制を日本列島に齎した所謂『天孫族』を中心とした文化である。

この文化における社会構造の特徴とは、大家族・『ウジ』族・種族(小→大)というように、縦の三段に構成される構造を持っていることである。

『ウジ』は父系的親族ないし氏族組織で、おそらく外婚的であったと考えられる。
また、このコトバは古くはudiと発音され、朝鮮語のul(族)、蒙古語のuru-q(父系親族・同族)、トルコ語のuru(親戚)、ツングース語のur(息子)という語に連なり、アルタイ語系諸族の『父系の親族集団』を意味するコトバであった。

こうしたこと、およびその他の当民俗文化に含まれるとされる習俗について考え合わせると、この文化の起源とは北方アジアの騎馬民族のそれと本質的に同一であるように思われる。

くわえて、この民俗文化の宗教観における特徴とは、其の3にて述べたものとほぼ同様であり、神は天上にあって、人間界へは山頂、樹頂に降下して出現するといった、いわば垂直的な世界観、表象であると云える。

また、神道における樹木、樹枝、柱の重要性あるいは依代といった観念とは、全てこの垂直的な世界観を持つ信仰形態において固有であり、起源であったものと考える。

あるいはこうした世界観とは、その神話における主神タカミムスビ(別名 高木神)の名称によっても理解されるのではないかとも思われる。

ともあれ、この主神とは天孫族の主神であって、彼らにとって大きな意味を持つ中津国平定神話とは、この神を命令を下す最高神として物語り、そして、この神の命令により天孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が三種の神器を具して、配下の五伴緒(イツトモノオ)を随え、高千穂のクシフルの峰、あるいはソホリの峰に降臨したのであるが、これは古朝鮮の開国神話である檀君神話とまったく同系の神話である。

また、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)より三代のちの子孫である神倭伊波礼毘古命(カン-ヤマト-イワレヒコ)すなわち初代天皇である神武天皇が九州を出立し、対在来勢力との大阪、浪速での上陸戦に苦戦した結果、紀伊半島を周り、新宮付近より上陸し、大和盆地を目指す道中、昏睡してしまい進軍できなかった際に八咫烏(ヤタガラス)が現れ、先導し、めでたく大和盆地に至るという物語(神武東征)があるが、こうした内容を含む我が国のそれと類似した建国神話が遠くハンガリーのマジャール族にも存在する。

もちろん、これら双方の神話を直接に結び付けることは論外であるが、中央アジアの蒙古族、トルコ族の間には、王朝と猛禽との密接な関係を物語る話が少なからず見受けられることから考えると、双方神話の起源、根源とは、やはり中央アジア遊牧民の神話、伝承にあるのではないかと考える。

古代のユーラシア大陸東端においては、北方の遊牧民と南方に住む漢民族との抗争が繰り返されていたが、その過程においてかなりの数の遊牧民は、中国東北部、朝鮮半島にも侵入し、その際に在来土着の半農半猟のツングース系種族を征服し、配下としてある種の階層化された社会を形成していたのではないかと考える。そして、それらが徐々に小国家として発達していったものと思われる。

そして、この『半農半猟のツングース系種族』が先日の『其の3』にて述べたものと同系の民俗文化であったのではないかと考える。

小国家から拡大していく際に、この組織は流動性を増し、さらに軍隊化し、中国東北部からさらに朝鮮半島を南下し、さらには幾度かの波となって日本列島にまで至ったのではないかと思われる。

また、こうした変化の経緯を大陸もしくは朝鮮半島にて経ていることから、この民俗文化とは純粋に遊牧民、騎馬民族オリジナルのままにて列島に渡ってきたとは考えられない。

あるいはそのことを異言すると、中国東北部の古代国家扶余や、その南方にある高句麗も、我が国の天孫族文化と類似したような種族構造、民俗文化を有していたであろうし、また古代朝鮮半島諸国家の支配層も天孫族と程度の差はいくらかあれども、概ね類似あるいは共通した性質を保持していたのではないかということである。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
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2017年10月29日日曜日

20171029 『男性的・年齢階梯制的・水稲耕作-漁撈民文化』其の4

男性的・年齢階梯制的・水稲耕作-漁撈民文化
『この民族文化は、弥生時代の民俗文化を構成するもっとも重要なものであり、おそらく弥生時代における南方的といわれる文化要素を齎したものであると云える。

この民俗文化は、在来の我が国における農耕文化と比べ、技術集約的な水稲耕作を行うと同時に沿岸漁撈にも従事し、進んだ漁撈技術を持っていた。

また、この民俗文化が持つ社会組織として特筆すべきことは、主に関東~西南日本にわたる太平洋岸、瀬戸内海、そして新潟県から島根県にまで連なる日本海沿岸の漁村にて現在に至るまで多く見受けられる年齢階梯制は、この民俗文化に特有ということである。

また、この民俗文化は、これまに述べた列島に伝来、定着した民俗文化と比べ、すぐれて男性的なものであったと評し得る。

その一方において親族組織としては、父系的ではあるものの、母・妻方の姻戚の地位もまた高く、故に多少の双系的傾向をも示し、社会構造における構成原理あるいは上下の秩序原理として年齢、世代区分原理が支配的であった。

また、村内婚が一般的であり、村内における家格の上下意識はあまり強くない。

くわえて、この民俗文化における著しい特徴とは、分散的といってもよい傾向、習癖である。具体的には一軒の家敷地内に二世代の複数家屋を持つ、もしくは世代別居に関連する家慣習(若者宿、娘宿、寝宿、産屋、月経小屋、喪屋)を持つことであり、これらは当文化において独特の要素であり、そして、それに付随するともいえる成年式、成女式といった習俗もまた、この文化と深く結びついている。

こうした機能、世代に応じて独立の家屋、舎屋を建てる文化形態とは、本来アウストロアジア系ミクロネシア人の文化形態であり、また同時にそれは我が国のみならずポリネシア、メラネシア、ニューギニア、フィリピン、台湾そして中国南部にまで及んでいる。

我が国にこの民俗文化が伝来した時期とは、中国南部の江南地方より紀元前四、五世紀の頃であったものと考えられる。

その理由とは、揚子江(長江)の下流地域から南の沿岸地域一帯とは、三国志の呉・越の地であったが、それら両国(呉・越)の滅亡は紀元前五世紀頃から同四世紀後半であり、この時代は漢族の南方への進出に伴い、非漢族居住地域の動揺、混乱の激しかった時代であったことによるものと考えられる。

そして、この時期と軌を一にして西日本に本格的な弥生式社会が成立すると云える。

それ故、これらの現象の間には浅からぬ関連性があるものと考える。

さらに、この呉・越の文化とは、古来より南船北馬が中国文化の概括を示すコトバであるように、すぐれた船舶、漁撈文化を持っており、同時にそれは魏志倭人伝にて述べられている紀元二世紀代の倭国習俗とも類似、共通する点が多いことにも留意する必要がある。

とはいえ、我が国における弥生式の文化は、おそらく、いくつかの文化が流入したものであり、インドネシアの島々を北上してきた水稲耕作文化もあったかもしれない、あるいはベトナム北部のドンソン(東山)青銅器文化の流れも流入しているかもしれない。

そうして我が国に伝来した文化とは、これまでに述べた他の在来民俗文化とも、その発祥とされる地域的に遠くないことから、比較的受容、結合され易く、そして短期間のうちに列島内にて混淆し、新たな(列島独自の)民俗文化生成の母材(マトリックス)となったのではないかと考える。

もちろん、そうではあっても、伝来された文化も在来のそれも、列島内において順次一様であったはずはなく、その融和、混淆もまた、かなりの地域差、バラつきを持ち、またそれが現在の我々が列島内各地の文化において地域性を看取することが出来る、起源の主たる要因となっているとも考える。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸インフラの復旧・回復そしてその後の復興を祈念しています。

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20171028 『父系的・「ハラ」氏族的ー狩猟・飼畜民文化』 其の3

父系的・「ハラ」氏族的ー狩猟・飼畜民文化
『この民俗文化を一つの複合として再構成することは現段階において難しい。

とはいえ、弥生時代初期に、東北中国、朝鮮半島よりツングース系の種族がその民俗文化を携えて列島に渡来してきたのではないかと考えられる。

いわゆる弥生式文化のなかの北方的要素である櫛目文土器、穀物の穂摘み用の半円形石器などは、この民俗文化に伴われ伝来したものと考えられる。

また粟、黍といった穀類の焼畑農耕と並行して狩猟、飼畜も行っていたものと考えられる。

こうした農業技術的な基盤を有していたことから、この種族は朝鮮半島南部や日本列島西部において水稲耕作を基軸とした社会文化を急速に受容していったものと思われる。

くわえて、北方アルタイ語系の言語を最初に日本列島に齎したのはこの種族であったものと考えられる。

具体例として古くから日本語に、人間集団を意味するウカラ、ヤカラ・ハラカラというコトバの語要素となっているカラ~ハラというコトバがあるが、このコトバの語源にあたるものが東北中国、北東アジアに広く分布するツングース諸族の外婚的父系同族集団を意味するハラ(Xala)というコトバではないかと考える。

また、南朝鮮古代の韓(カラ)というコトバは種族名を示すものではあるが、本来はさきのカラ~ハラと同意であったものと考える。

ともあれ、このツングース系種族のカラ~ハラ集団(外婚的父系同族集団)とは系譜的出自意識が強く、本家から枝分かれして分家を作り、また、それが定住農耕に携わると大家族的傾向を著しくする。

我が国におけるハラというコトバや、父系的系譜意識の強い本家・分家結合の強い同族、親族集団とは、類型的にさきのツングース諸族のハラと類似し、またおそらく、そこに起源があるのではないかと考える。

この文化の特徴とは
*父系系譜意識的な社会
*宗教的には神が天上より山頂、樹頂などに降臨するといった神出現の垂直的表象の傾向
*北アジア的シャーマニズム
などが挙げられる。

また、この民俗文化大系の中におそらく大陸にその起源を持つとされる我が国の弥生時代において用いられた青銅製祭器(銅鏡、銅鐸、銅剣、銅矛、銅戈など)が含まれるのではないかと考える。

そして、その青銅製祭器種類において列島西部内にて嗜好の地域差、地域性が看取される大きな要因とは、さきの記事に書いた地域における先行在来民俗文化と、この『「ハラ」氏族的ー狩猟・飼畜民文化』の結合の過程、仕方にあるのではないかと考える。

くわえて、この民俗文化のなかに狩猟にて得た動物ではない家畜、特に牛を犠牲獣として用いる祭祀が含まれていたのではないかと考える。

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