先日より読み進めている小説は上巻の半分程度、300頁過ぎくらいまで進みました。
この作品は私がこれまでに読んだ物語、小説の中でかなり情感の描写が上手いのではないかと思われます。
これはやはり著者が女性であることに大きく因るのではないかと思います。
しかし、残念ながら、私は比較対象となる他の女流作家をあまり読んだことがありませんので、これに関しては今現在、漠たる思いの域を出ません。
また、そのことを小説文章の抜粋によって示してみようかと考えてもみました。
しかしこの小説、作品に関して、今後その文章を抜粋することはおそらくないと思います。
その理由とは、こうした長編小説のような作品に関しては、やはり興味を持たれた方々がご自分で読んでみることが、最も良いのではないかと自身の経験から思ったからです。
また個人的な意見となってしまいますが、この小説は英訳本が刊行されているのでしょうか?
もし刊行されているのであれば、原書(日本語)読了の後、久しぶりに英訳本の方に挑戦してみようかと思います。
(その後、アマゾンにて同著英訳本を探しあてましたが、これは大変高価であり、今後すぐに購入することは大変困難であると思われます・・。)
ともあれ、この作品の著者は、偶然ながら私が数度立ち寄ったことのある九州東部の街の御出身であり、また、私が九州在住時代におぼえ、好きになったある調味料の製造元がその御実家であることを知りました。
さらにまた夏目漱石の弟子であったとのことで、何かしら勝手な親近感を持つようになった次第です・・(笑)。
ちなみにこの著者は以前私が読んだ安彦良和のマンガ「天の血脈」にも脇役として登場しておりましたが、そのマンガ内でのキャラクターからは、どうもこの作品の著者として結び付けることは難しいような感じを少し受けます・・。
とはいえ、この「天の血脈」もまた大変面白いと思いますので、これも御興味がある方々、是非読んでみてください。
さて、ここまで書いてみますと、現在私が読んでいる作品が大体見当が付き、お分かりになったのではないかと思いますが、敢えて名前は明示いたしません。
ここまでご興味を持って読んでくださった方々、どうもありがとうございます。
朝の時間帯は文章がよく浮かんできます。
電車の中で書籍などを読んでいない場合、よくこのブログの題材を考えております。
しかしながら概ね、こういった考えごとをしている時は、車内が大変混雑している時間帯であり、ノートへの筆記ができません。
そのため、その内容をあとで記しておこうと思い、電車をおり、落ち着いて筆記できる環境に身を置いてみると、考えた内容をあらかた忘れており、大変歯がゆい思いをします・・(苦笑)。
そして、現在書いているこのブログ記事の内容は、電車の中で考えたことをどうにか思い出そうとして書き始めた次第です・・。
とはいえ、ここまで書いていて、この書き出しとは、考えたことを思い出す場合には適切ではないのではないかと考えはじめました・・。
そして、そうした考えにとらわれますと、今度はますます、思い出すことが困難になってくるように思えてきます・・(苦笑)。
ちょうど「ネバーエンディング・ストーリー」の悲しみの沼のように・・。
↑このように話が小ネタの方に脱線してきますと、今度はその小ネタの方で話を続けようとするクセが出てきます・・(苦笑)。
そういえば、この映画「ネバーエンディング・ストーリー」の監督、音楽とは、ドイツの戦争映画の名作である「Uボート」と同じグループによって製作、作曲されたものであったと思います。
そういわれて各々のテーマサントラを聞いてみると、何となく疾走感が似ているのではないかと思えますが如何でしょうか?
また別件ではありますが、最近岩月謙司という方の著作を古書店にて見つけ立ち読みしましたが、大変面白かったです。
現在この方は不遇であるとのことですが、もう一度見直してみては如何でしょうか?
ともあれ、こうした著者の不遇とは私にはどうも「トニオ・クレーゲル」を想起させます。
何故、こういった人々は、往々にして逮捕されるなり不幸な状況に追い込まれるのでしょうか?
そして、その背景には一体どのようなメカニズムが働いているのでしょうか?
ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。
Das Boot Theme
はじめて読む、ある著者による著作を読み続けていますと、その当初において、何といいますか、頭が疲れ、肩が凝ります。
そして、そうした状態がしばらく続いたのち、その文体に慣れ、頭の疲れ、肩の凝りを感じなくなり、しばらくすると読了するのではないかと思います。
では、読了した時には、読み始め当初におぼえた頭の疲れ、肩の凝りとは一体どのように慣れ、あるいは吸収、解消されていったのでしょうか?
大抵の書籍をある程度集中して読んでおりますと、その当初は、やはり疲れるものです。
そして、これは勉強が疲れるということと共通する部分が多くあるのではないかと思います。
しかし、ここに個々人の性質、特質に依存する情熱、好悪の感情が関与してきますと、そういった事情が大分異なってくるのではないかと思います。
そして、こうした個々人の、より根源的な部分に還元される各学問、勉強に対する情熱、好悪の感情を他の「社会における有用性」などに置き換えてしまうと、それは当初こそは「計画的とされ」良いのかもしれませんが、徐々にその精神的活力、生命力を奪い、扼殺し、その後の才能、性質、精神全般の発展可能性をなくしていってしまうのではないかと思います・・。
しかしながら、大きく見ると社会とは多大なる上記のような発展可能性が否応なく摩滅された才能・性質を犠牲として成り立っているのかもしれません。
そうであれば、こうした意見を書くことは社会にとって空気を読まない、世間様を顧みない、大変無礼な行為となるのかもしれません。
『なぜ、お前にそのようなことを書く権利があるのか!?』
といった感じに・・。
しかし、それは無礼であったとしても、同時にそれが「間違い」であるという根拠にはなりません。
あるいは、そのような社会であったからこそ、少なくとも近代以降の我が国とは、様々な変遷、闘争の後、良くも悪くも現在のような状態に至っているのではないでしょうか?
多少話は変わるかもしれませんが、首都圏、都市部におりますと、髪の毛を茶色系統に染めた方々が多く見られます。
これは他の東アジア人においても同様に見受けられますが、
何故髪の毛をこうした色に染めるのでしょうか?
私から見ますと、これはかつてのお歯黒の風習などに類似する行為ではないかと思われます。
現在においては、あまりにも日常的過ぎ、そのような視点にはなかなかなりませんが、今後しばらくすると、髪の毛を染める行為に対し上記のような視点もまた出てくるのではないでしょうか?
好きこそものの上手なれ、精力善用、一億総活躍・・?。
ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。
昨日のブログにて記しましたが、先日来一つの小説、著作を集中して読んでおり、また他の時間では必要に迫られ、以前専攻した分野に比較的近い領域の書籍等を読んでおります。
私の場合、このような状態になりますと、他の書籍を斜め読みすることが出来なくなる傾向があります。
おそらくこれは私の頭脳のキャパシティーの問題ではないかと思います(笑)。
とはいえ、同時にこうした状態にて書籍等を読むことは、頭が疲れ、肩が凝る反面、一種充実した感覚を与えてくれます。
こうした状態にて書籍を読むことの方が身につくのでしょうか?
そうであって欲しいと考えるのが一般的に健全であると思われるのでしょうが、私個人の経験に照らして考えてみると、それはよくわからないのではないかと思います。
自身が一番快適、あるいは苦痛と感じた勉強方法こそが、もっとも知識、学識が身についた、あるいは身につかない勉強方法であると考えることは、実は短絡的な考えであるのかもしれません。実際のこうしたことは混沌としていると思います・・。
それ故、そこに学び続ける必要性、楽しさがあるのではないかと思います。
しかし、こうしたことに限らずとも、おそらく我々とは、半ば無意識であるかもしれませんが、こういった論法をあてはめて短絡的に物事を考えてしまうクセがあるように思います。
話は少し変わるかもしれませんが、昨今書店に行きますと「他人の心を操る」と題した、目的とした書籍が堂々と書棚に並んでいるのを見かけます。
時間があれば、ああいった書籍はどのような人物が購入し、どのように読み、そしてどのように実生活において応用しているのかを密かに観察してみたいと思います。
また、実在のそうした書籍に基づく、上記の一連の行動をコントのようにしてみたら、なかなか面白いのではないかと思いますが、如何でしょうか?
ある人が話している内容が知性のどの程度の深度から発せられたものであるかどうかとは、ある程度の何か(これがよくわかりませんが)に達すると何となく分かってくるのではないかと思います。
また本来、笑いとは、そうしたことと密接な関係があるのではないでしょうか?
そしてまた、それは国同士、国際間においても同じようなことがいえるのではないかと思います。
情報化の進展した現在社会において、施政者、文化的指導者層等の半ば無意識的、近視眼的な愚行が、全世界で閲覧される社会において、その真価を発揮するのは一体どういった価値、考えなのでしょうか?
先日、以前から気になり、ブログ記事にも記した某著作の程度の良い古書を神保町の書店にて偶然見つけ、しばらく立ち読みしたのち購入しました。
この著作は上下巻、各々600頁程度の文庫本ですが、とりあえず購入したのは上巻のみです。
この作品の時代背景は昭和初期であり、徐々に戦時体制に傾斜してゆく我が国社会の様々な側面を描いております。
ちなみに私から見て作風、時代背景が類似していると思われるものとして映画「戦争と人間」あるいは加藤周一が自らの若い頃を綴った「羊の歌」あたりが挙げられると思います。
これもまた個人的な意見となりますが加藤周一の「羊の歌」は大変読みやすいと思います。
この著作は現代を一つの時代として相対的な視点で捉えてみたいと考える方々にとって、なかなか面白く読むことができるのではないかと思います。
さて、話はさきの作品に戻りますが、その著者は女性であり、これは私としてはかなり珍しいことではないかと思います。
おそらく女性著者の長編を読むことは初めての経験です。
とはいえ、この著作は読んでいると、かなり引き込まれてゆく感じがします。
その原因は、女性独特の情感の緻密な描写に加え、同時代を生きた人間としての確かな歴史認識が主要なものであると思われます。
また、こうした感じとは、ここ最近味わったことがありませんでしたので、私の知的好奇心とは、どうやらまだ枯渇はしてないようです・・(笑)。
また、それに加えて最近、以前学んでいた分野の周辺分野を学ぶ必要性が出てきました。
この分野も大変奥が深く時間がかかりそうですが、既知のものに結び付けつつ、ゆるりゆるりとやってゆこうと思います。
ここまで読んでいただいた皆様どうもありがとうございます。
この記事で250回目の投稿記事となります。
そして、次の目標は300回目の投稿記事とします。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
本来、学問や研究といったものは、好きであるから行うものであり、その基本的な態度においては自発性、能動性が強く要求されるのではないかと思います。
しかし、ある専門的な職業に就くことを目的とした学部、学科の勉強においては、この限りでなく、多くの情報、体系的な知識を効率よく吸収することが要求されます。
こうした態度とは、吸収するための勉強を自発的、能動的に行おうと、基本的な態度とは、その専門的な職業に就くことを目的とした、ある意味受動的なものではないかと思います。
しかし、そうであるからといって私はこれらの専門的な職業に就くことを目的とする学部、学科に対し悪感情は全く持っておりません。
むしろ、反対にそうしたことが出来る能力、才能に対して単純なる敬意を持ちます。
その点、私は、自身の自発性、能動性を持ち得る分野に対してのみ、四苦八苦して、どうにかそうした情報、体系的知識を吸収することができる人間であると認識しております。
とはいえ、伝統的に我が国の社会全般において有用とされるのは、個人の自発性、能動性にかかわらず、より多くの情報、知識を効率的に吸収できる人材の方ではないかと思います。
そして人工知能が進化しつつある現在の状況において、我々人間とは、より各々個人の自発性、能動性に根付いた感性、知性の発展に重点を置いても良いのではないかと思います。
何故なら、そちらの方が持続的発展の可能性があるのではないかと思うからです。
そして、その意味において理系学問分野の教育に重点を置くことは大変素晴らしいことであると思います。
しかし、その一方において、安定した政権、企業などの組織運営を阻害する可能性があるという理由から、古来よりの文系学問分野全般を蔑ろにすることは、長い目で考えてみますと、かなり危険なことなのではないかと思いますが如何でしょうか?
最近のニュースでMBAというコトバがよく出てきましたが、これはMaster of Business Administrationの略であり、日本語にしますと経営学修士ということになり、おそらく専門職学位の一つであると思います。
また、さらに大きな分類では、文系学問分野の修士号ということになると思います。
多くの学問分野において、同一の修士号という名称が与えられてはおりますが、これは各々学問分野により随分とその扱いが異なるのではないかと思います。
たとえば工学部をはじめとする多くの理系学部卒のうち、かなりの割合が大学院修士課程にまで進みます。
他方、文系学問分野の多くでは、さきの理系学部ほどの割合が大学院修士課程まで進学することはないと云えます。
しかし近年は教育、会計、法律などの専門職学位などが存在することから、この限りではないのかもしれませんが・・。
しかし、それでも我が国において、全体的に見て、文系よりも理系学問分野の方が、より多く大学院修士課程に進む傾向があるとは云えます。
そのような中、私は反時代的ともいえる専門職大学院でない、昔ながらの文系学問分野の大学院修士課程に地域学、民俗学を専攻するため、五年の社会人生活の後、進みました。
私は学部時代、部活動に没頭しておりましたが、同時に古今東西歴史の知識に関しては、小学生以前からの(根拠のない)自信を持っておりました・・(苦笑)。
ちなみに、この自信とは、その後随分傷つきしましたが、現在なお保持しております(笑)。
それはともかく、以上の理由と、いくつかの経緯により、私は大学院に進むことを希望するようになっておりました。
大学院に修士課程、博士課程あるいは博士前期課程、後期課程などがあることも知らずに・・(苦笑)。
そうした自身の希望を文系学問の研究者であった親戚、知人に告げたところ『まあ、とりあえず数年くらい働いてみて、それで大学院に進みたければ進めばいいのではないかな?』
といったことをいわれ、結果的にそのようになりました・・。
とはいえ、学部時代に進みたかった大学院とは、首都圏にある某大学であり、その分野はヨーロッパ文化専攻でした。
それが五年の社会人経験、特に南紀にて暮らした経験により地域学、民俗学専攻を希望するようになっておりました・・。
この希望する専攻の変化とは、私が『自国の文化、民俗について殆ど何も知らないことを痛感した』ことによります・・。
そして、ここでの修士課程の院生生活とは、それまでの人生で最も多くの書籍を読み、同時に議論をした時期であり、現在考えてみますと、遅蒔きの青春であったのではないかと思います・・(笑)
そして、その後、働きながら首都圏にある大学の博士課程に進み研究を続けたいと思うようになりましたが、どうしたわけか、異なった分野(歯学)の博士課程に進むことになりました・・。
ここでは色々なことがありましたが、どうにか学位取得にまで至ることができました・・。
この時お世話になった皆様、どうもありがとうございます。
とはいえ、現在の私とは、こうして取得した、頂いた学位に見合った人間であるのかどうかとは、イマイチよくわかりません・・(苦笑)。
また、よくわからないからこそ、この一連のブログ記事を作
成しているのかもしれません・・(笑)。
ともあれ、ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。