2015年9月25日金曜日

ジョセフ・コンラッド著「闇の奥」藤永茂訳 三交社刊pp.31-35より抜粋

林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋とあわせて読んでみてください。

「僕は少々不安になりかけていた。
こうした儀式ばったことには慣れていなかったし、その上、あたりには何か不吉な気配が漂っていた。
いかにも、僕がある陰謀に―はっきりはしないんだが―何かよからぬことに引き込まれてしまったような感じだった。
部屋から出るとほっとした。
外の部屋では、例の二人の女がいやに熱心に黒い毛糸の編み物をしていた。
来訪者は次々にあって、若いほうの女は行ったり来たりして客を招じ入れていた。
年寄りのほうは、椅子に座ったまま、足につっかけた平たい布地のスリッパを足暖めの上に乗せ、その膝の上には猫が一匹うずくまっていた。
頭には何か糊のきいた白い物をかぶり、片方の頬にはいぼが一つ、そして銀縁の眼鏡が鼻の先っちょに引っかかっている。その眼鏡越しに彼女は僕をジロリと見た。
その素早さと冷淡さがいやに気になった。
間抜けた、陽気な顔つきの若い男が二人案内されて通ってきたが、彼女はこの二人にも、同じように、何でもお見通しといわんばかりの冷たく素早い一瞥を投げかけた。彼女はその二人について、いや、僕についても、何もかも知っている感じだ。背筋がゾッと寒くなった。
薄気味悪く不吉な女に見えた。遠い奥地に行ってからも、僕はこの二人の女のことをよく考えた。
棺に掛ける暖かい布にでもするつもりのような黒い毛糸の編み物をしながら、あの「暗黒」の門をまもっていた二人をね。
陽気で間抜けた面をした男たちを、ひとりは次から次へと未知の世界に招じ入れ、もうひとりは、冷然とした老女の眼差しで詮索している。
Ave(御機嫌よう)!黒い編み物をする女よ。
Morituri te salutant(まさに死に赴く者が挨拶を呈する)。
彼女からじろりとやられた者で、再び、彼女に会えた者は多くはあるまい―半分?いや、とてもとても。

「また医者のところに行くことが残っていた。
「ほんの型式だけですよ」と例の秘書が慰めてくれた。
あなたの悲しみはよく分かっていますよ、とでも言いたげな顔でね。
しばらくして、左の眉毛がかくれるほど深々と帽子をかぶった青年が上の階から降りてきて、僕の案内に立ってくれた。多分、ここの社員なんだろう。
建物は死者の町の家みたいに静まり返っていたが、会社だから社員がいるに違いなかった。
みすぼらしい、なりを構わない風の男で、上衣の袖はインキの染みだらけ、古靴のかかとのような格好をした顎の下に、大きなよれよれのネクタイが結んであった。
医者に行くにはまだ少し時刻が早すぎたので、一杯どうですと僕のほうからもちかけると、とたんに相手は陽気になってきた。
バーに座り込んでベルモットを飲んでいると、彼は会社のやっていることは大したもんだと褒め上げるものだから、しばらくして、僕は、何食わぬ顔で、おかしいねえ、それじゃなぜ君は出かけて行かないんだ、と驚いてみせた。
すると、彼は急に醒めきって落ち着きを取り戻した様子になって「プラトン、その弟子に曰く、余はかく見えても愚者にはあらず」といやにもったいぶって宣うと、ぐいと一気にグラスを飲み干した。それから僕らは席を立った。

「老人の医者は僕の脈をとっていたが、その間にも、明らかに他のことを考えている様子だった。
「よしよし、これならあそこに行っても大丈夫」と彼は呟いた。
それから、あらたまって気を入れた調子で、僕の頭の寸法を測らせてはもらえないだろうかと頼むのだ。
いささかびっくりしたが、ええいいですよと言うと、彼はコンパスのような二脚の道具を持ち出してきて、後部、前部、あらゆる工合に僕の頭の寸法をとって、注意深くノートに書き込んだ。
無精髭を生やした小男で、擦り切れたユダヤ服風の上衣を着て、スリッパをはいていた。見受けたところ、無害の間抜けた人物らしかった。
「わたしは、いつも、奥地に出かける人の頭蓋骨を測らせてもらえないかと頼むことにしているのでね、科学のために」と彼は言った。
「じゃ、帰ってきた時にもまたですか?」と僕は聞いてみた。
「いやあ、二度と会わないね。それに、変化が起こるのは脳の中側でだろうからねえ」と答えると、差し障りのないジョークでも口にしたかのように薄笑いをした。
「これで、あんたも奥地に出かけることになったわけだ。素敵だな。面白いこともあるだろうし」と医者は探りを入れるかのように僕を見ると、また何かノートに書き込み「ところで、あんたの家族に気違いの筋は?」と事務的な調子で問いかけてきた。
僕はひどくムカッときて「それも科学のための質問ですか?」と返した。
「そんなところです、まあ」とこちらが苛ついているのを気にもかけない様子で、彼は言う。
「奥地に行ってその場で一人ひとりの心理的変化のさまを観察すると、科学的には面白いでしょうがね。
しかし・・」僕はその言葉を遮った。
「あんたは精神病医なんですか?」するとこの変な野郎は「医者なら誰でもそうでなくちゃね―多少ともは」と落ち着き払っている。
「わたしはちょっとした理論を持っていてね。
それを証明するために、あそこに出かけるあなた方に是非ひと役買ってもらいたいということなんだな。
この仕事はね、あの膨大な属領を持っていることからこの国に転がり込んでくる大層なご利益から、私がお裾分けしてもらう分け前のようなものだ。
ただの金儲けはほかの連中に任せておく。
根掘り葉堀り聞いてすまないが、あんたはわたしの観察資料としては、はじめてのイギリス人なんでね・・・」自分は典型的なイギリス人なんかじゃない、と僕は急いで断言した。
「もしそうだったら、とてもこんな風にあんたと話してなんかいませんよ」すると彼は「おっしゃることはなかなか穿っていなさるが、多分間違ってますな」と笑って言うのだ。
「強い陽に当たるのもからだに悪いが、それより苛々するのも避けなさい。
アディユー、ええっと英語で何と言ったっけ、ああそうそう、グッドバイ!熱帯じゃ何はさておき、心を冷静に保つのが一番だからね」・・・奴さん、警告するみたいに人差し指を立てて・・・「Du calme, du calme, Adieu」(カッカしない、じゃ、さようなら)。

・ISBN-10: 4879191620
・ISBN-13: 978-4879191625

ジョセフ・コンラッド

藤永茂













                               

ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」三交社刊pp.95-99より抜粋

漠々と続く河筋に沿い、河の静かな曲がりに従い、あるいは、くねくねした航路の両側にそそり立つ絶壁に、重々しく船尾外輪がバタンバタンと水を打つ音を反響させながら、進んで行った。

樹また樹、何百万という鬱蒼たる巨大な樹々が、天を衝いてそびえ立っている。

その根元のあたりを、薄汚れた小さな蒸気船が、まるで、豪壮な柱廊の床をのろのろと這う一匹の甲虫のように、岸にしがみつくようにして、河の流れを這い上がって行く。

それは、人間の卑小さ、喪失感をひしひしと感じさせるものだったが、だからといって、憂鬱一点張りの感じでもなかった。

いくら卑小だとはいえ、この汚れっ面の甲虫は、とにもかくにも這い上がりを続けていく―それが、まさしく、船にやらせようとしたことなのだ。

巡礼たちはどこにたどり着くつもりだったのか、僕の知ったことじゃない。

何かを手に入れることのできる場所に行き当たりたいと思っていたに違いないさ!

僕としては、船はクルツに向って一歩一歩と近づいている―ただ、それ一筋の思いだった。ところが、困ったことに、蒸気のパイプが漏りはじめ、船足はガタ落ちになってしまった。

河筋は、僕らが進む前方には開けていったが、船が過ぎた跡は、また閉ざされてしまう感じだった。

それは、まるで、森がのっそりと河の流れに踏み入ってきて、僕らの帰りの路を塞いでしまうように見えた。

僕らは深く、より深く、闇の奥へ入り込んで行った。

死んだような静けさだった。夜中に、時々、樹々のカーテンの向こう側で鳴る太鼓のひびきが河を上がって来ることもあったが、それは、われわれの頭上はるかの大気のなかでたゆたうかのように、空が白むまで、仄かに残っていた。

その太鼓の音が、戦いを意味したのか、平和を意味したのか、それとも祈祷であったのか、知る由もなかった。

その音が絶えて、冷たい静寂が降りて来ると、ほどなく朝が明けるのだった。

木こりたちは眠りをとり、焚き火も燃え尽きて、誰かが焚き火の小枝を一本ポキンと折る音にもハッと驚かされることもにもなる。

いうなれば、僕らは、見知らぬ遊星のような様相を帯びた地球、歴史以前の地球の上を彷徨っていたのだ。

僕らは、深甚な苦痛と過酷な労役の末に手が届いた、ある呪われた遺産を所有しようとする最初の人間たちのように、自分らに思い描くこともできたかもしれぬ。

ところがだ。船が、流れの曲がり角をやっとこ回り終えたところで、重く、動きのない樹々の繁みの垂れ下がった際に、突然、イグサ造りの壁や尖った草葺き屋根がチラリと見え、ほとぼしる叫び声が聞こえ、黒い肢体の群れが乱舞し、手を打ち、足を踏み鳴らし、からだをゆさぶり、目玉をぎょろぎょろさせているのが、視界に飛び込んできた。

この黒々とした不可解な狂乱のへりをスレスレに、船はゆっくりと遡航の骨折りを続けた。

あの先史時代の人間たちが、僕らを呪っていたのか、祈っていたのか、それとも喜び迎えていたのか―誰が分かるだろうか?

僕らを取り巻くものへの理解から、僕らは断ち切られてしまっていた。狂人病院の中の熱狂的な狂躁に直面した正気の人間のように、僕らは仰天し、心中ぞっとしながら、まるで亡霊のように、その場を滑り抜けていったのだ。

理解もできなければ、記憶をたどることもできなかった。

なぜなら、僕らはあまりにも遠い所に来てしまったのであり、原始時代の夜を、ほとんど何の痕跡も―何の記憶も残していなく遠くに去ってしまった時代の夜を、いま旅しているのだったから。

「大地は大地とは思えぬ様相を呈していた。屈服した怪物が繋がれた姿なら、僕らも見慣れているが、しかし、あそこでは―あそこでは自由なままの怪物が目の当たりにすることができるのだ。
この世のものとは思えない―そして、あの男たちも―いや、彼らも人間でないのではなかった。
分かるかい、彼らも人間でなくはないのだという疑念―これが一番厄介なことだった。その疑念は、じわじわ迫って来る。彼らは、唸りを上げ、跳ね上がり、ぐるぐる回り、すさまじい形相をひけらかす。
だが、こちらを戦慄させるのは、彼らも人間だ―君らと同じような―という想い、眼前の熱狂的な叫びと、僕らは、遥かな血縁で結ばれているという想念だ。

醜悪、そうたしかに醜悪だった。しかし、もし君に十分の男らしさがあれば、君のうちにも、ほんの微かとはいえ、あの喧噪のおぞましいまでの率直さに共鳴する何かがあることを認めるのじゃないかな。
そのなかには、君にも―原始時代の夜から遠く遥かに離れてしまった君にも理解できる意味が込められているのはないか、という朧げな疑念だ。
考えてみれば何も驚くにあたらない。人間の心は何でもやれる―なぜなら、そのなかに、過去のすべて、未来のすべて、あらゆるものが入っているのだから。
あそこには、いったい何があったのだろう?
喜びか、恐怖か、悲嘆か、献身か、勇気か、怒りか―誰が分かろう?―しかし、真実というもの―時という覆いをはぎ取られた裸の真実のたしかにあった。
馬鹿な奴どもは仰天し震え上がるに任せておこう。
―男たるものは、その真実を知っている。
瞬ぎもせずにそれを直視できる。
だが、それには、河岸にいた連中と少なくとも同じぐらい赤裸の人間でなければならぬ。
その真実に自分の本当の素質をもって―生まれながらに備わった力で立ち向かわねばならないのだ。
主義?そんなものは役に立たぬ。あとから身につけたもの、衣装、見た目だけの服、そんなボロの類いは、一度揺さぶられると、たちまち飛び散ってしまう。
そんなものじゃない、一つのしっかりした信仰が必要なのだ。
この悪魔じみた騒ぎのなかに、訴えかけてくるものがあるかって?よかろう。僕にはそれが聞こえる。しかし、僕には僕の声もある。そして、それは、善きにしと、悪しきにしろ、黙らせることのできない言葉なのだ。
いうまでもないが、馬鹿者なら、すっかり腰を抜かしてしまうとか、繊細な感情とかいうやつのおかげで、いつも安全だ。
誰が、そこでぶつくさ言っているのは?
お前は、岸に上がって、一緒に叫んだり、踊ったりはしなかったじゃないか、と言うんだな?
そう、たしかに―僕はそうしなかった。繊細な感情からかって?冗談じゃない。繊細な感情なんて糞食らえ!そんな暇はなかったのだ。
いいかね。漏れ出した蒸気管に包帯をするのを手助けするために、僕は白鉛と裂いた毛布を持って右往左往していたし、舵取りを見張り、河床の倒木を避けて通り、どうにかこうにポンコツ蒸気船を動かすことで精一杯だったのだ。
闇の奥
闇の奥
ISBN-10: 4879191620
ISBN-13: 978-4879191625
ジョゼフ・コンラッド

藤永茂

闇の奥



King Kong Heart of Darkness





 


G・バタイユ著 酒井健訳「ニーチェについて 好運への意志」現代思潮社刊pp.179-182より抜粋

突然そのときがやってくる―困難、不運、そして裏切られた大きな興奮。そのうえ試練の脅威も加わる。私はぐらつく。
しかもたったひとりのままで。
私はどのようにして生に耐えてよいのか分からなくなる。
いやむしろ私はどうすればよいのかは分かっている。
自分を強固にし、己れの衰弱を笑いとばし、以前のように自分の道を行けばよいのだ。
だが今の私は神経がいらだっている。それに私は、酒を飲んだためにしまりなく乱れてしまっており、たったひとりであることを、待ち望んでいることを不幸だと感じている。
この苦痛は耐えがたい。ただしこれは、この苦痛がいかなる不幸の結果でもなく、単に好運が一時的に隠れてしまったことの結果にすぎないという限りでの耐え難さであるのだが。
(もろくて、つねに賭けの不安定さのなかにある好運。私を魅了するとともに消耗し尽くす好運。)
今こそ私は、自分を強固にし、自分の道を進もうと思う(私はもう開始した)。
行動するという条件で!
私は細心の注意をはらって自分の作品を書き表してゆく。
あたかもこの仕事に価値があるかのように。
行動するという条件で!
なすべきことを持つという条件で!
それ以外に私はどうやって自分を強固にできるというのだろう。
私はどうやって、何ものも癒してくれそうにないこの空虚に、このむなしさと渇きの感覚に、耐えうるというのだろう。
とはいえ、なすべきこととして私が持っているのは、唯一、これを書くということ、この本、すなわち私が、この世に何一つすべきことを持たないという自分の失望(絶望)を語ったこの本を書き上げるということだけなのだ。
衰弱の低点にあるこのときに、(衰弱といってもたしかに軽度のものであるが)、私は見抜く。私は、この世に、目的を、行動する理由を持っている。
この目的は定義しえない。
私は、険しくて、試練が続いている一本の道、途中で私の好運の光明が私を見捨てるなどということが絶対に起きないような道を想像してみる。
不可避なことを、来るべきあらゆる出来事を、想像してみる。
八つに引き裂かれているときにも、あるいは嘔吐感を催しているときにも、足の力が抜けてしまう衰弱時にあっても、さらには死の瞬間のときにさえ、私は賭けているだろう。
私のもとに到来し、倦むことなく自らを更新し、騎士が自分の伝令に先行するように毎日私に先行していた好運、いかなるものからも絶対に限定を受けなかった好運、夜のなかから放たれた矢のような私と綴ったときに私が呼び集めていた好運、この好運は、私の愛する人に私を結びつけ、最良のことと最悪のことのためにとことん賭けられることを望んでいる。
そしてもしも誰かが私のそばに好運を見つけるということが起きたならば、その人にはこの好運を賭けてもらいたい!
この好運は、私の好運ではない。その人の好運だ。
その人は、私と同じく、この好運をつかむことができないだろう。
その人は好運について何も知らないまま、好運を賭けるだろう。
しかしいったい誰が好運を賭けずして好運を見ることができるというのか。
私の文章を読んでくれている君、君が誰であろうとかまわない。
君の好運を賭けたまえ。
私がしているように慌てずに賭けるのだ。
今これを書いている瞬間に私が君を賭けているのと同様に君も賭けるのだ。
この好運は君のでも私のでもない。
すべての人の好運であり、すべての人の光なのだ。
はたして好運は、夜が今好運に与えているような輝きをこれまで持ったことがあるだろうか。
ニーチェについて―好運への意志 (無神学大全)
ニーチェについて―好運への意志 (無神学大全)
ISBN-10: 4329001071
ISBN-13: 978-4329001078
ジョルジュ・バタイユ

































2015年9月22日火曜日

宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社刊pp.417-419より抜粋

ヨーロッパにおいても、西アジア、中国においても、古代的統一体を破った中世史の開幕は、異民族の侵入とともに始まる。日本の場合は、異民族ではないが、武士の勃興という事実のなかに、これとははなはだ類似した性格を見出すことができるのである。

武士は東国を中心として全国的に起きた新興勢力であるが、武士社会は京都朝廷にとって、下層社会というよりもむしろ異質的な存在といった方が適当なものであった。

唐制の衣服をまとった朝廷文化の地方への浸透は、日本の国情に適合せず、外延的にも内包的にもある限度があって、その限度外には多くの異質的なものが、畿内といわず辺境といわず、多量に残されていたのであるが、ことに東国にそれが多かったのである。

この場合武家の指導者である源氏も平氏も、皇室から血統を引いているという系図は問題にならない。源氏は普通に清和天皇の子孫となっているが、頼信の告文によれば陽成天皇の末裔ということになって、結局その系図には仮託があるのではないかという疑問がある。

もし系図が確かであったとしても彼等は皇室の血を引くものとして京都文化の担当者として出現したのではなく、武家の棟梁という資格において登場したのであった。
そして京都方では、東国武士をよぶのに東夷をもってし、感情の上でもほとんどこれを夷狄扱いしていたのである。

頼朝の鎌倉幕府創立は大きな革命であった。それはたんに藤原氏に代わって源氏が実権を掌握したというだけでなく、また政権が京都を離れて鎌倉に移ったというだけでもない。
政治の方針および実情がこれに伴って大回転を行ったからである。

奈良朝、平安朝の政治は、それが実際の障害によって理想どおり実現しなかったとはいえ、その根本方針は中央集権を目標とし、地方を画一的な型式にあてはめていく中国流の郡県制度があった。この中央集権はとくに財政上に強調され、平安朝の幣政は、過度に地方の財力が地方に吸収されて、それが中央の貴族の奢侈生活に消費される点にあった。

租税が過重であるために地方の開発が立ちすくんでいたのである。

鎌倉幕府はこの点において、地方の財力は、地方に蓄積して、土地の開発をはかる方針をとった。幕府の御家人である武士は地方において所領としての荘園を安堵され、つとめて新田を開拓して資源開発を行ったのである。こうして武家権力の地盤が、地方武士の農耕地にあったため、幕府のもっとも重要な政治は土地訴訟の裁判にあった。

平安朝の政治はその根本となる律令格式をはじめ、辞令も公文書も漢文で書かれていた。

しかし鎌倉幕府の政治は日本語による政治であった。たとえその公文書が、京都文化崇拝の残滓を残して、極度に仮名を嫌い、漢字づくめで書かれているとはいえ、その法制も、あるいは「東鑑」のような記録も、明らかに国語で書き取られているのである。

世界の他の地域における中世は、多くの場合、夷狄による古代文化の蹂躙から始まっているが、日本の場合は、それが固有日本の復活をもって始まっている点に著しい特色がある。

源家三代実朝の和歌が、はるかに万葉の格調を継承し、鎌倉時代の彫刻やその他の美術が、繊細な平安朝の貴族的色彩を抜け出して、むしろ奈良朝あるいはさらにさかのぼった飛鳥時代の豪放なおもかげをしのばせるのは、偶然のことではない。

宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社
宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社
宮崎市定
河内源氏
河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

宮崎市定著 礪波護編「東西交渉史論」中央公論社刊pp.61-67より抜粋

人類の文化の進化はその経過の間に、幾つかの新しい文化の層(Schicht)を造っては重ねてきた。その最も有力なものは言語の層である。

然るに言語の伝統はあまりにも古く、従って派生し固定した種類はあまりにも多種多様であり、もし之を幾つかの語系に大別して見ても、それを以って直ちに歴史的地域区分とすることは出来ない。

言語の成立した時期があまりにも古いということは、言語史の年代は、文化の進歩した社会を対象とする歴史学の取り扱う年代とは、余りに懸け離れてずれていることを意味する。

言語の壁の後に出来たものは文字の層である。この文字の層はその起源が相当古いにも拘らず、それがユーラシア大陸の略々全部を蔽うまで成長するには長年月を要した。

故にこの層の広がりは時間による傾斜が甚だしい。例えば埃及やバビロニアで右から文字、或いは左から文字が成立したのは西紀前20世紀の古代であるに対し、雲南の土着民族の文字が成立したのは西紀後16世紀前後のことに属する。

併し、こんな不均衡が存在するにも拘らず、この文字の排列法が、歴史地域区分法に有力な支持を与えることが出来るのは決して偶然ではない。

何となればこの文字の層の拡がってゆく30数世紀の間が、正しく歴史学の取り扱う時期と一致するからである。

そしてこの時代は既に文化の相当に進歩した時代である、進歩した文化が次々に未開の地域を征服してゆく時代でもある。

文字はある意味から言えば、文化の結晶である。一つの文化がその伝統を以って、一つの歴史的地域を形成してゆく時に、文字の伝播がその径路を示さない筈がない。

併しながら、あまりに文字を重視して、文字で歴史的地域区分を行うことにもなると、次に、然らば未開の民族、例えば蒙古やキルギスステップ地方の遊牧民族が、未だ文字を持たなかった時代、彼等はその所属する地域が無かったかというと疑問が生じよう。
厳密に言えば或いはそういっていいかも知れない。

併し彼等が後世、蒙古人ならば立て書きの蒙古文字を有し、キルギスのトルコ人が右からの書きのトルコ文字を有するようになった事は、彼等が古くから如何に密接にその南方の文化民族と交渉を有していたかを示すものである。

故にたとえ彼等自身が未だ文字を有していなくても、彼等の将来を示すであろう如く、夫々立て書き地域、或いは右から書きの中に在ったと看做して差し支えないであろう。

このような物の見方について最後に残る問題は、文字の層が示す意義について、何故に字形其物よりも、字と字との間の空白を重要視したかの点である。

ある字形が行われる範囲は言うまでもなく、一種の有力な文化圏であろうことを示唆する。

併し乍ら広い世界の地位区分を行おうという時に、小さな文化圏の境界は暫く無視せざるを得ない。

ヨーロッパ地域を立てる為には、ゲルマンとラテンの民族差も、ロシア文字とラテン文字との差異も暫く目を閉じて看過せざるを得ない。

字形を無視し乍らその間から共通の要素を抽出しようとすれば、勢い文字の形よりもその排列法を重視する外はない。

文字の層は文化の層の重要な一種であるが、それは単一な層ではなくて、実は字形の層と排列法の層との複合体なのである。

文字の排列法というような、一見で重要ならざる、或は意味から言えば必然性のなさそうな所に絶大な意義が含まれている理由は先に已に一言したが、この意味は更に改めて考え直す必要がある。

文字の字形そのものは、どこかにそのモデルとなった文字の痕跡を残し、従ってどこかに古い伝統を伝えているものなるは言うまでもない。

併し乍ら文字の形は言葉との一致の為に大きな制約を蒙る。
異なる言語を写す文字を以って他の言語を写す時には、勢い多少の変形を蒙らなければならない。

この点で字形の層は言語の層と密接な関連を有して居り、両者全く相一致する場合が多い。

そして字形が転々として各地に伝わる間には最初の形が殆ど失われて了う場合も考えられる。

印度の古代文字の根源が今なお明確に指摘されないのはこのような事情によるものであろう。然るに文字排列法の層は三種に限られているから、その伝統を探る上に大なる便宜がある。

中国の漢字と、太古の埃及文字を除外すれば、文字の書き方は右から左からかの二通りとなる。

而して書き方の伝統は、何等かの理由がなければ変更することがない。

恐らく文字は宗教と密接な関係を保って発達したらしく、文字排列法の層は宗教の層と一致する場合が多いようである。

而して一たび右から文字の勢力が確立すると、この伝統は恰も宗教の如くどこ迄も持続する性質がある。

この場合、異種の文字が出現したり輸入されたりすることがあっても、文字の排列法は滅多に変化を蒙らない。

個々の異分子の闖入に対しては甚だ寛大であるが、それが異なった動き方をすることは厳然として拒否する。

こうしてアジアの有力な文化の中心に於いて、一たび文字排列法が成立すると、やがてそれが夫々の勢力範囲に普及して行ったので、従ってその範囲が必然的に歴史的地域区分と一致するのである。

但しアジアの三地域に対し、丁度それを区別する標準となる為であるかのように、三種しかない文字排列法が都合よく分配されたことに、何等かの理由があるのか、又は偶然の結果なのかは判明しない。

文字の字形は言わば、意識作用が働く範囲に属する。
始めて文字を制作する時には勿論大いなる精神的労力を要したであろうし、既に出来た文字を書写したり、読んだりする時にもなお多大の注意力の集注が必要である。

然るに文字の排列は言わば意識下の問題である。
我々は文字を読む時に、右へ読もうか下へ読もうかと意識することは殆どなく、只習慣に従って無意識に読み下す。

何となれば文字と文字との間は単なる空白であって、我々の意識に留まるような形態がないからである。

意識作用は伝統に対して反撥するか屈従するかであるが、空白は無意識であるから素直に伝統を受け入れる外はない。

翻って思うに我々の生活には無意識作用が大部分を占めている。

人間が或いは芸術家として、或いは思想家として、或いは政治家として、独特の意識生活を行う時間は、一生の間を通算して見ても、極く僅かな一小部分に過ぎぬのではあるまいか。

その他は殆ど伝統に従って、無意識か或いはそれに近い生活を送っているに過ぎない。

食事をするのも、栄養を採って生命を保つ為と考えての上ではなく、また特に空腹であるからというでもなく、只習慣に従って食事の時間が来たから食事をするに過ぎぬらしい。

然らばこの無意識作用は全人類に共通なものかと言えばそうではない。

尤も、睡眠などの反射作用になれば人類どころでなく動物にまで共通なものになるが、別に意識の直下のあたりに、意識の支配を受けない自覚されざる空白があって、それが各人各様に異なり、而もそれが人生に重大な役割を演じているのではないかと思われる。

勿論この無意識の空白は、文字と文字との間の空白のように、全然伝統に支配されるような、そんな簡単なものではあり得ない。

そこには伝統もあるが、また教養もあり、体質もあり、更に各人各時の健康状態も影響する、つまりこの複雑な空白には個性もあり、類型もあるのである。

人間は同じように口で立派なことを言い、意識で立派なことを考えても、この意識下の空白が実際にはそれを裏切って、その人の個性を決定しているのではなるまいか。

西洋では古画の真贋を鑑別するには、人物の耳を見るがよいろ言われてきた。

偽作者は人物の目や鼻や口や、特徴になりそうな部分には細心の注意を払うので、真に迫った偽作が出来るが、耳のような、特徴になりにくい部分は何気なく仕上げてしまう。

豈計らんや、そういう誰しも注意しない部分こそ、最も作者の個性が現れるのであって、本物と偽作とがすぐに見分けられるという意味だそうである。


更に同様のことは民族なり社会なりを対象とする時にもあてはまりそうである。

日本人とはどんなことを考え、どんな事を行うか、それは思想家や哲学者に聞いて見るよりも、意識下の空白の類型が最もよくそれを表しているのではないか。

日本人には日本人としての空白の類型があり、中国人には中国人の空白の類型があろう。

或いは東アジアには中国人と蒙古人との間に、その生活様式の全く相異なる一面があるにも拘らず、共通の空白の類型があって、ヨーロッパ人のそれと対照をなしているのではなかろうか。

歴史家は軈てこのような空白をも研究の対象として取上げなければならぬ時が来るであろうと思われる。

東西交渉史論 中公文庫
・ISBN-10: 4122031826
・ISBN-13: 978-4122031821
宮崎市定
礪波護





 
 



中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」中央公論社刊pp.325-328より抜粋

ところで、日本の金属器文化の受容は甚だ特徴的なものであった。それは遠くメソポタミアを出発した青銅器文化と鉄器文化とが、ほとんど時を同じくして、西暦紀元前後に到着したからである。

即ちメソポタミアから日本まで、青銅器文化が伝播するにはおよそ三千年ほどかかったが、鉄器文化は約一千年で同じ道程を踏破したのである。

つまり鉄器文化の出発がおよそ二千年ほど遅れていたから、両者はほとんど同時に到着したことになったわけである。
アジアの東西を貫く交通の大幹線において日本はその東の終点である。これから更に東は太平洋があるから進みにくい。
この終点で、青銅製の幌馬車と、鉄製のトラックとが同時についたから、さあ大変だ。今まで新石器時代の惰眠を貪っていた日本人は、上を下への大騒動を演じた。

新しい文化が輸入されるということは、今まで大した価値のなかったものに急に値が出たことを意味する。

先ず第一に値が出たのは人間だ。人間をつかまえて楽浪郡へ持って行けば奴隷として買ってくれる。その代価に鏡だの刀剣だのをもらって帰れる。楽浪郡まで行くには船が大事だ。
そこで船にする材木に値がでた。山から木を伐り、船をつくるには労力が必要だ。労力の根本は食物で、食物は土地から出る。そこで今度は土地に値が出た。新開地は新しい交通線の出現によってブームに沸く。将来どこまで発展するかもわからない。こういう形勢を見てとって、いわば大急ぎで広い土地を買い占めて大地主になったのが大和朝廷家だ。だから日本の古代文化の性格は、それがターミナル文化だと言う事が出来る。そしてターミナル文化の特色は、植民地的であって、自然資源を売り出して、製造品を買い入れることにある。日本は由来資源の貧弱な国だと言われるが、そうひと口にいって棄てたものでもない。値段さえ安ければ商品は必ずどこかへ売れて行くものだ。日本には海産物があり、分相応の貴石があり、材木があり、そして悲しいことには人口が多い。日本古代の奴隷の輸出は、労力の輸出の一形態である。
それは海外移民や出稼ぎや、あるいはまた商品のダンピングと、根底において共通のものがある。しかしそれだからと言って、まんざら悲観的にばかり考える必要もない。人口が過剰だということは、どこかに暮らし易いところのある証拠である。「日本書紀」などを見ると、時々天候不順のために飢饉の起こったことを記しているが、しかし日本の飢饉はまだ被害の軽い方である。世界中、どこを探しても地上に極楽のようなところはない。大きな資源はあればあるで、あるにつきまとう悩みの種はつきぬ。土地の肥沃な所では安心して人口が増えたときに、急に飢饉に襲われると、目もあてられぬ惨状を呈する。また資源の所有権をめぐって、食うか食われるかの残忍な殺し合いが常に起こっていたのである。例えば日本が初めて経験した今度の世界大戦における原爆投下のようなことを、大陸の人民は古来何度となく経験してきたのである。それに比べれば日本の歴史はまだましな方だ。

ターミナル文化は、中央と地方の文化の落差の最も激しいのが特徴である。特に日本の古代の場合、その文化の傾斜は落差がひどく、まるで滝の様な格好で大陸から日本へ、日本ではまた中央から地方へと流れ落ちていった。即ち日本はこれまでだいたい新石器文化程度のところへ、急に大陸から、青銅器文化を飛び越えて、いきなり鉄器文化が流れ込んだのである。

戦争の上で言えば、まだ充分に団体の駆け引きの訓練もできておらぬところへ、大陸で研究に研究を重ねた末に出来上がった騎馬戦術が入ってきた。

いまさら戦車など輸入するひまはない。政治組織の上でも氏族制度の体制もはっきり規制づけられぬところへ、中国の古代帝国の触手がのびてきた。今さら都市国家どころの話ではない。こちらも対抗上、大きくまとまらなければならない。何をおいても統一だ。幸い中国とは距離が大幅に離れており、朝鮮の南部あたりで、漢の政治力の東漸が抵抗を受けている間に時をかせいで、何でも早く日本国内を統一しなければならぬ。氏族制度から一躍して古代帝国を造ろうとしているのである。多少の無理を我慢しなければできる仕事ではない。大和朝廷は地方豪族を討伐して、だまし討ちにしたり、寝首をかいたりして、遮二無二、統一の道を進んだ。勝ちさえすればいいのだ。理窟は後の人がつけてくれる。そこには後世の武士道のようなものはない。こういうやり方は、明治政府と大いに似たところがある。彼等の哲学は権力が正義であり、勝利が名誉であることだけを信ずる。しかしながら、この大和朝廷が成し遂げた統一のおかげで、日本の人民は外部世界の進歩に追いつくいとまを得て、一息つくことができたという事実も否定することができない。だから大和朝廷がその被征服民に向って、自己を謳歌しろ、と言えば、彼等は唯々としてそれを謳歌したのである。この点、後の明治政府も全く揆を一にする。
日本の統一が何故に近畿地方を中心として成し遂げられたかについては、ちょうど世界の文化が何故に西アジアにおいて曙光を見出したかと同じ理由によって説明される。大陸の金属器文明が日本へ波及する以前の新石器時代の日本において、やはり当時は当時なりの交易ルートがあり、緩慢ながら物資や智識が動いていたに違いない。

そして日本の地図を開いて見る時、近畿地方は世界における西アジアのメソポタミア。シリア地方に相当する。もしも物資や智識の集積が行われるとすれば、それは近畿地方をおいて他にない。事実そういうことが起こっていたときに、大陸から金属器文化が渡ってきたので、そのまま近畿地方が外来文化輸入のターミナル基地に選ばれたのである。大和朝廷は近畿で地歩を固めると、すぐに各方向へ向けて四道将軍を派遣した。四道へ将軍を派遣できるような位置は、日本中、どこを探しても近畿より他にない。だから日本の歴史は、大陸からの影響で展開したにもかかわらず、大陸に近い九州をさしおいて、大和平野中心として始められたのである。
アジア史論 (中公クラシックス)
アジア史論
宮崎市定

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.184-187より抜粋

奈良時代の日本の支配層は、大陸文化に圧倒され、その消化に忙しかった。9世紀には、輸入された大陸文化が「日本化」され、日本流の文化の型が、政治・経済・言語の表記法・文芸と美的価値の領域に、成立した。
その日本流の型は、次の時代、10世紀・11世紀(摂関時代)に完成されて、12世紀末(院政期)までつづく、その間大陸との交渉はほとんどなく、極東の島国はアジアの全体の中で孤立していた。
この孤立の300年は、この国の歴史のなかでは、第一の鎖国時代であり、その長さにおいても、社会と文化の体系の自己完結性においても、17世紀初めから19世紀末に及ぶ第二の鎖国時代に匹敵する。

島国の内部で起こったことは、第一に、貴族支配層が外来の文化と土着の習慣とを融合させながら、内的斉合性の著しい自己完結的な一箇の文化体系(平安朝文化、王朝文化などの名でよばれる。) をつくりだしたことである。
その包括的な体系は、政治権力の構造、その経済的背景、信仰体系、生活様式、文芸の形式と内容、美術の様式のすべてにわたり、明瞭な特徴を示すものであった。
第二に、本来大陸から輸入された要素、殊に仏教が、広汎な大衆の層へ浸透するようになり、その結果大衆の世界観が変わった以上に、仏教そのものが変わったということである。仏教的な支配層と非仏教的な大衆との平行線は、この時代に「日本化」された仏教を媒介として、近寄ったといえる。
まさに支配層内部の知識人の大陸型と土着型が、この時代に、「日本化」された漢文と漢文化された日本文を媒介として近寄ったように。

時代の権力機構は、10、11世紀には「摂関政治」11世紀末から12世紀には「院政」という言葉で要約されるものであった。
前者は律令制の制度的な枠組みを崩さず、したがって天皇の形式的な権威を保存しながら、実質的には藤原氏一族が全く排他的な専制権力を行使するものであり、後者は天皇・藤原氏政府の権力と平行して、引退した天皇(上皇、しばしば法皇)が独立の権力機関をつくるものである。
「院政」の成立は、藤原氏の権力独占によって疎外された支配層内部の要素の不満が、どれほど大きかったかを示している。
天皇家、藤原氏以外の没落した貴族、律令制に依存したところの中・下級貴族(殊に地方官)、地方の名主、武士層など。

経済的に見れば、この時代を特徴づけていたのは、いうまでもなく「荘園」である。
律令制の枠の外で、「荘園」という私的大土地所有に依存する度合が大きかったという点では藤原氏権力と院政権力との間に、本質的なちがいはなかった。
「院政」が律令制への復帰を徹底し、中、下層貴族を藤原氏に対して組織できなかったのは、そのためである。
経済的には不在地主、身分的には天皇家と貴族、社会的には宮廷を中心とした都会的支配層の第二の権力が、地方の名主・武士層を動員して、第一の権力に対抗することは、あり得るはずがなかった。
要するに貴族支配層の内部で9世紀からはじまった政治・経済的権力の集中の傾向は、10世紀以後律令制を形骸化しながら、天皇家と藤原氏、大貴族と中・下級貴族官僚、中央貴族と地方の名主・武士との間の矛盾を強め、12世紀に「院政」を介して、自己崩壊へ向ったということができる。

しかし政略結婚を通じて天皇を一族のなかに組み込んだ藤原氏の権力の独占は、少なくとも200年の安定期をつくりだした。

宮廷を中心にした閉鎖的な貴族社会は、その成員の組み込まれの度合いにおいて、またその排他性において、日本史上まさに画期的なものであった。
宗教も、芸術も、文学も、風俗も、相互に県連した一箇の文化の全体として、その社会に組み込まれ、社会はその文化を制度化し、形式化し、恒久化するためにおどろくべき力を発揮した。
宮廷社会内部の文化的秩序をかき乱す要因は、大陸からも来なかったが、大衆からも来なかった。

アジアで孤立した島国のなかで、宮廷社会は孤立し、しかもその宮廷のなかで、女房社会は独立の単位的な小集団をつくっていた。
比喩的にいえば、鎖国のなかに鎖国(貴族社会)があり、そのなかにより小さな鎖国(女房社会)があったのである。文化の「日本化」の過程は、鎖国条件のもとで、文化の集団への組み込まれの過程と平行していた、ということができるだろう。


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  • ISBN-13: 978-4480084873