「僕は少々不安になりかけていた。
こうした儀式ばったことには慣れていなかったし、その上、あたりには何か不吉な気配が漂っていた。
いかにも、僕がある陰謀に―はっきりはしないんだが―何かよからぬことに引き込まれてしまったような感じだった。
部屋から出るとほっとした。
外の部屋では、例の二人の女がいやに熱心に黒い毛糸の編み物をしていた。
来訪者は次々にあって、若いほうの女は行ったり来たりして客を招じ入れていた。
年寄りのほうは、椅子に座ったまま、足につっかけた平たい布地のスリッパを足暖めの上に乗せ、その膝の上には猫が一匹うずくまっていた。
頭には何か糊のきいた白い物をかぶり、片方の頬にはいぼが一つ、そして銀縁の眼鏡が鼻の先っちょに引っかかっている。その眼鏡越しに彼女は僕をジロリと見た。
その素早さと冷淡さがいやに気になった。
間抜けた、陽気な顔つきの若い男が二人案内されて通ってきたが、彼女はこの二人にも、同じように、何でもお見通しといわんばかりの冷たく素早い一瞥を投げかけた。彼女はその二人について、いや、僕についても、何もかも知っている感じだ。背筋がゾッと寒くなった。
薄気味悪く不吉な女に見えた。遠い奥地に行ってからも、僕はこの二人の女のことをよく考えた。
棺に掛ける暖かい布にでもするつもりのような黒い毛糸の編み物をしながら、あの「暗黒」の門をまもっていた二人をね。
陽気で間抜けた面をした男たちを、ひとりは次から次へと未知の世界に招じ入れ、もうひとりは、冷然とした老女の眼差しで詮索している。
Ave(御機嫌よう)!黒い編み物をする女よ。
Morituri te salutant(まさに死に赴く者が挨拶を呈する)。
彼女からじろりとやられた者で、再び、彼女に会えた者は多くはあるまい―半分?いや、とてもとても。
「また医者のところに行くことが残っていた。
「ほんの型式だけですよ」と例の秘書が慰めてくれた。
あなたの悲しみはよく分かっていますよ、とでも言いたげな顔でね。
しばらくして、左の眉毛がかくれるほど深々と帽子をかぶった青年が上の階から降りてきて、僕の案内に立ってくれた。多分、ここの社員なんだろう。
建物は死者の町の家みたいに静まり返っていたが、会社だから社員がいるに違いなかった。
みすぼらしい、なりを構わない風の男で、上衣の袖はインキの染みだらけ、古靴のかかとのような格好をした顎の下に、大きなよれよれのネクタイが結んであった。
医者に行くにはまだ少し時刻が早すぎたので、一杯どうですと僕のほうからもちかけると、とたんに相手は陽気になってきた。
バーに座り込んでベルモットを飲んでいると、彼は会社のやっていることは大したもんだと褒め上げるものだから、しばらくして、僕は、何食わぬ顔で、おかしいねえ、それじゃなぜ君は出かけて行かないんだ、と驚いてみせた。
すると、彼は急に醒めきって落ち着きを取り戻した様子になって「プラトン、その弟子に曰く、余はかく見えても愚者にはあらず」といやにもったいぶって宣うと、ぐいと一気にグラスを飲み干した。それから僕らは席を立った。
「老人の医者は僕の脈をとっていたが、その間にも、明らかに他のことを考えている様子だった。
「よしよし、これならあそこに行っても大丈夫」と彼は呟いた。
それから、あらたまって気を入れた調子で、僕の頭の寸法を測らせてはもらえないだろうかと頼むのだ。
それから、あらたまって気を入れた調子で、僕の頭の寸法を測らせてはもらえないだろうかと頼むのだ。
いささかびっくりしたが、ええいいですよと言うと、彼はコンパスのような二脚の道具を持ち出してきて、後部、前部、あらゆる工合に僕の頭の寸法をとって、注意深くノートに書き込んだ。
無精髭を生やした小男で、擦り切れたユダヤ服風の上衣を着て、スリッパをはいていた。見受けたところ、無害の間抜けた人物らしかった。
「わたしは、いつも、奥地に出かける人の頭蓋骨を測らせてもらえないかと頼むことにしているのでね、科学のために」と彼は言った。
「じゃ、帰ってきた時にもまたですか?」と僕は聞いてみた。
「いやあ、二度と会わないね。それに、変化が起こるのは脳の中側でだろうからねえ」と答えると、差し障りのないジョークでも口にしたかのように薄笑いをした。
「これで、あんたも奥地に出かけることになったわけだ。素敵だな。面白いこともあるだろうし」と医者は探りを入れるかのように僕を見ると、また何かノートに書き込み「ところで、あんたの家族に気違いの筋は?」と事務的な調子で問いかけてきた。
僕はひどくムカッときて「それも科学のための質問ですか?」と返した。
「そんなところです、まあ」とこちらが苛ついているのを気にもかけない様子で、彼は言う。
「奥地に行ってその場で一人ひとりの心理的変化のさまを観察すると、科学的には面白いでしょうがね。
しかし・・」僕はその言葉を遮った。
「あんたは精神病医なんですか?」するとこの変な野郎は「医者なら誰でもそうでなくちゃね―多少ともは」と落ち着き払っている。
しかし・・」僕はその言葉を遮った。
「あんたは精神病医なんですか?」するとこの変な野郎は「医者なら誰でもそうでなくちゃね―多少ともは」と落ち着き払っている。
「わたしはちょっとした理論を持っていてね。
それを証明するために、あそこに出かけるあなた方に是非ひと役買ってもらいたいということなんだな。
この仕事はね、あの膨大な属領を持っていることからこの国に転がり込んでくる大層なご利益から、私がお裾分けしてもらう分け前のようなものだ。
ただの金儲けはほかの連中に任せておく。
根掘り葉堀り聞いてすまないが、あんたはわたしの観察資料としては、はじめてのイギリス人なんでね・・・」自分は典型的なイギリス人なんかじゃない、と僕は急いで断言した。
「もしそうだったら、とてもこんな風にあんたと話してなんかいませんよ」すると彼は「おっしゃることはなかなか穿っていなさるが、多分間違ってますな」と笑って言うのだ。
「強い陽に当たるのもからだに悪いが、それより苛々するのも避けなさい。
アディユー、ええっと英語で何と言ったっけ、ああそうそう、グッドバイ!熱帯じゃ何はさておき、心を冷静に保つのが一番だからね」・・・奴さん、警告するみたいに人差し指を立てて・・・「Du calme, du calme, Adieu」(カッカしない、じゃ、さようなら)。
「もしそうだったら、とてもこんな風にあんたと話してなんかいませんよ」すると彼は「おっしゃることはなかなか穿っていなさるが、多分間違ってますな」と笑って言うのだ。
「強い陽に当たるのもからだに悪いが、それより苛々するのも避けなさい。
アディユー、ええっと英語で何と言ったっけ、ああそうそう、グッドバイ!熱帯じゃ何はさておき、心を冷静に保つのが一番だからね」・・・奴さん、警告するみたいに人差し指を立てて・・・「Du calme, du calme, Adieu」(カッカしない、じゃ、さようなら)。
・ISBN-13: 978-4879191625
ジョセフ・コンラッド
藤永茂
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