2023年6月10日土曜日

20230609 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.14‐15より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.14-15より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

「君らも知っているはずだ。その頃僕は、だいぶ印度洋や、太平洋、支那海などをうろつきまわったあげく、ロンドンへ帰って来たばかりだった―六年余りだったかな、―といえば、まず東洋も一通りは味わってしまったわけだが。ところで、僕は毎日ブラブラしながら、よく君らの仕事を邪魔したり、君らの家庭を襲ったりしたものだったっけ、まるで君らを啓蒙することが、僕の天職だと言わんばかりにね。それも一時は愉快だった。だが、暫くすると、じっとしているのにも倦いて来た。そこでまたしても船を探しはじめた、―ところが、こいつがおよそ難しい仕事でね。今度は船の方で見向いてもくれないのだ。船探しにも倦いちまった。

 「ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指をおいては、大きくなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。今考えると、北極などもその一つだったと思う。なに、もちろんまだ行ったこともないし、今ではもう行ってみる気もないがね。つまり、魅力が消えてしまったのだ。だが、まだそうした場所は、いくらでも赤道付近にころがっていたし、他にも両半球あらゆる緯度にわたって残されていた。中にはその後本当に行ってみたところも幾つかある。それに・・いや、こんな話はもうよそう。だが、一つ、いわばもっとも広大な、しかももっとも空白な奴が一つあったのだ。そして僕は、それに対して疼くような憧憬を感じていた。

 「なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかったし、―恣に少年時代の輝かしい夢を追った真白い地球でもなかった。すでに闇黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。で、僕はふと思い出した、そういえばこの河で商売をやっている、大きな貿易会社があったはず。畜生、そうだ!これだけの河といえば、船―それも蒸気船を使わなければ、商売のできるはずがない。それなら、そいつに一つ乗りこめばいいではないか!と、僕はひとり肯いた。そしてあのフリート街を歩きながら、どうしてもこの考えを振り捨てることができなかった。蛇の魅力だったのだな。

2023年6月4日日曜日

20230604 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.273-275より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.273-275より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

およそ社会の進歩を認めないところに、すぐれた歴史が現れようはずはない。せいぜい史実を克明に描写した宋の司馬光の「資治通鑑」ぐらいが関の山である、「資治通鑑」は確かに有用な、すぐれた史書であるが、そこには社会が進歩したとも退歩したとも書いてない。史観のないのが彼の史観である。この書は元来は「通志」という名であったが、「資治通鑑」、即ち政治の参考になる歴史の鑑という名を時の天子、神宗から賜った。誠に鑑のように、史実だけを列べようとした年代記である。ただそこには、先の歴史事実と後にくる歴史事実との間の因果関係を理解させようという努力が認められる。そしてそれから以後、「資治通鑑」に匹敵するほどの歴史さえ書かれなくまってしまった。

 中国には司馬遷の「史記」、班固の「前漢書」以下、「後漢書」、「三国志」から「明史」に至るまで、各代の史実がすべてで二十四史あり、正史と称せられるが、この中で歴史的意識をもって書かれていたのは「史記」と「漢書」だけだといっていい。「史記」は太古に五帝三代の黄金時代を設定するが、これを除けば周が衰微してから以後、春秋・戦国・秦を経て、いかにして漢の統一王朝が出現したかを説明しようと努めている。

 「漢書」は古代史の頂点をなす漢王朝の繁栄とその一時的衰退期たる王莽時代までを区切って、いわゆる断代史の模範を垂れた。漢代の歴史はその前に更に長い歴史をもつことを示すために、前代に活躍した人物の名前を年代順に列べた「人物表」なるものを造って付け加えた。以上の両著はいずれも創意に基づく創作である。ところがそれは以後の各代の正史は、単に雛型に従って事件を記述するだけで、せいぜい一王朝の興隆と衰亡を記すのが関の山で、歴史上における位置付けを試みる意図をもたない。ただ歴史は繰り返すものという見方しか持ち合わせないので、前王朝の衰微が後王朝興隆の原因という簡単な因果関係が理解されるわけである。

 だから人によっては、中国には史料はあるが歴史は書かれていないという。たしかにその通りで、骨を折って中国の正史を読んでみても、ただそれだけでは中国社会の発達は分からない。そこで漢代から清朝までをひっくるめて封建時代とするような時代区分論が出てくるのも、已むを得ない結果だと言って言えぬことはない。

2023年6月3日土曜日

20230603 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

「三酔人経綸問答」は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実的な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むことを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制ー一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由などーについても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍縮を強調する豪傑君の話を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。

 この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代後れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりにも常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくとも、公然と表明されなければならない。というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。

 鶏声暁を報じて、二客が去り、「三酔人経綸問答」は終る。その末尾の文句は次のようでようである。「二客竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べりと。而して南海先生は依然として唯酒を飲むのみ」。

「三酔人経綸問答」は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係解釈のし方にいたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見ーすなわち価値と現実との関係の具体的な定義ーのこのような相対化は、十九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値ー自由平等と民権ーを相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。

2023年6月1日木曜日

20230601金関丈夫著「日本民族の起源」法政大学出版局刊」pp.189-191より抜粋

法政大学出版局刊 金関丈夫著「日本民族の起源」
pp.189-191より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4588270559
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4588270550

縄文時代の人の骨は、日本全国殆ど変わりがない。永年の間、殆ど変わっていない。背が低く、頭が長く、顔が短くて、マビサシが強く出ている。顔も広く、鼻も広い。熊本県には縄文時代の骨が多数でているが、皆この特徴をもっており、また九州以外の他地方の縄文人とも差はない。

 弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。

 縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。

 それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。

 さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。

2023年5月28日日曜日

20230527 ブログ2000記事到達に際して

当記事の投稿により、総投稿記事が2000に到達します。当ブログをはじめてから約8年ほどで2000記事の投稿と考えてみますと、その期間は、10日間のうち6~7日は1記事投稿してきたことになりますので、私としては思いのほかに継続したのではないかと思われます。とはいえ、現在、当記事を作成していても、感興や感慨のようなものは皆無と云えます。

また、以前、当ブログにて自分にとって転機となった南紀での経験を述べてみたいという考えから作成した【南紀について】は比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、大学関係者の方々で、新たな医療介護リハビリ系の専門職大学あるいは科学技術大学院大学などの設置を検討されていましたら、南方熊楠が後半生を過ごした口熊野とも呼ばれる紀伊田辺は、南紀白浜温泉にもほど近く、風光明媚であり、教育・研究の環境として悪くないと思われますので、類似した環境と云える紀伊半島南部の東側の新宮と併せて是非、ご一考頂ければと思います。

さらにもう一つこじつけますと、紀伊田辺・新宮双方から通じている熊野本宮大社の主祭神は、家都御子神または家都美御子神(けつみ(み)このかみ)ですが、実は、これは出雲系の神である素戔嗚尊のことであり、この神は、木の国だけに樹木の神であると同時に、穀物の神でもあることから食の神とされています。そして実際に紀州・和歌山は、鰹節や醤油などの我が国の食文化には欠かすことの出来ない食材の発祥の地であり、さらに伝統食品である梅干しの生産量もダントツの首位であることから、語義通り、日本の味のルーツが今なお息づいている地域であると考えます。

そして、前段が幾分長くなってしまいましたが、こうした文化的背景を持つ地域に、食材の専門家である管理栄養士を主軸として、それに関連する職種と云える歯科衛生士などの医療介護リハビリ専門職を養成する学費が安価な高等教育機関(専門職大学)を、ある程度の規模の病院など医療機関がある紀伊田辺・新宮双方に設置しますと、西日本・東日本双方の受験生にも対応出来て、とても良いのではないかとも思われます。

そして、それら専門職大学では、各々専攻する専門職の養成課程科目と語学課目とは別に、各学生さんの内発的な興味に即した人文系の自由研究科目を必修として、それを在学期間を通じて学び続けるようなカリキュラムにすることにより、これまでとは少し異なった知的背景を持つ専門職の方々を養成することが出来るようになるのではないかと思われるのです。

以前、当ブログにて自らのことを「私は課程博士を修了した初めての歯科技工士ではないか?」と述べましたが、その路程は兄の死や、指導教授(師匠)の予期せぬ退職などが重なり、それなりに辛いものでしたが、同時に歯科理工学実習にて鋳造や鑞付けを担当させて頂き、2012年からは教授も准教授の先生もいない状況下にて、実習書や教科書に記載の情報以外は、人文系ネタを随所に散りばめつつ実習を進めることが出来たことは、自分の性質に合っていたのか強く記憶に残っています。

学生さんとしては、実習にて30歳過ぎのオッサンの本能と知性が噛み合って駆動している様子を、何やら「おかしなもの」として見ていたのではないかとも思われます・・。実際、私が人文系ネタを話しながら、実習手順や使用材料などについて説明していますと、後ろから小声で「民明書房刊・・」と聞こえたこともありました・・(苦笑)。

しかし他方で、自分としては最も多く人文系ネタを散りばめた実習を行った2012年度の実習後から2013年初旬にかけて、どうしたわけか、休日での市内の散歩や、喫茶店での読書の際に、実習時に担当した学生さんから話し掛けられることが何度かありました。

若い女性が町なかで、数度の面識しかない中年男性に話し掛けることは、あまり一般的な行為ではないと思われますので、ありがたいことであるのか、ともあれ、少なくとも危険視はされていなかったのではないかと思われます・・(笑)。

また、そこでの会話のさなかに、性懲りもなく人文系ネタを話してみても興味深そうに聞いて頂き、また、私としても、その都度のご質問にも、あまり逸らさない返答が出来たのではないかと記憶しています・・。

そして必修である実習以外の場面で、自分が話す人文系ネタを面白そうに聞いて頂けたり、それに対しての質問などの知的な反応を頂いたという経験は、それまで人文系を背景とする歯科技工士の大学院生として、あまり良い目を見たことがなかった私としては、それなりに画期的、いや革命的なことであり、以前にも述べましたが、そうしたいくつかの経験が複合的に作用して、今回の2000記事達成に至るのだと云えます・・。

とはいえ、であるからと云って、私はその学生さん達に恋慕しているわけではありません。おそらく、彼女等の多くは、鹿児島弁でいうところの「よかおごじょ」らしく、比較的早くに結婚されて、現在は子育てをされているのではないかと思われます。しかし、それらの方々が10年前の学生時代の実習時に、変なことを話していて「何だか面白そう・・」といった感じであるのか、町なかで話し掛けた中年男性は、8年近くかけて2000記事のブログを作成程度のことはしたということで、各々の「見る目」のご参考にして頂ければと願うところです・・。

おかげさまで(どうにか)2000記事に到達することが出来ました。そして今後はしばらく記事作成を休もうと考えていますが、また思いのほか案外早い時期に再開してしまうのではないかとも思われます・・。

そして2000記事到達となる今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



















2023年5月24日水曜日

20230523 異郷での経験や読書による変化から【南紀について②】

先日の投稿記事を含め、これまでに何度か当ブログで述べてきたことではありますが、私は当初、全く気乗りしなかった南紀白浜への転勤により、それまで知らなかった「西日本」という異文化の中で住むことになり、そこで否応なく強い違和感を感じたわけですが、ある程度若い時分でのそれは、多くの場合、特にとり挙げるまでもなく、生活のなかで、徐々にその土地に慣れて、順応していくのだと思われますが、私の場合、こうした違和感を、知識や、さまざまな実地見分によって解消しようとしていたのだと思われます。そして、こうした能動的な活動をしばらく続けていますと、徐々に私の方に変化が生じてきました。

他方で、同じ時期、しばしば、文系の師匠が、ご自身が執筆された論文やその他文章の別刷りなどに加え、クラシック音楽のCDなども送ってくださることがあり、私は、それに触発されて紀伊田辺の書店で面白そうな書籍を物色したり、あるいはアマゾンで購入して、西欧文化や近現代史に対する興味を自分なりに深めていましたが、当時、私が在住していた南紀では、それらの分野を学び、深めることは困難であると考えて、身近にある興味を持つことが出来そうなものを探したところ、ご承知のように、銅鐸や古墳に興味を持つようになったと云えます。

とはいえ、興味を持つとは云っても、それまで私は、考古学や古代史を専攻したことはなく、紀伊田辺の書店で面白そうな関連著作を探していたところ、それまでに多少は見聞きした記憶がある「南方熊楠」という人物の関連著作が少なからず棚に並んでおり、そのうちの読み易そうな著作を何冊か手に取り読んでみたところ、当時の私でも「何だかよく分からないけれどもスゴイ人物だ・・。」とは理解出来、そして、そうした人物が何故、後半生をここ紀伊田辺で過ごしたのかということも興味を持つようになりました。

実際、南紀在住期間に幾度か、紀伊田辺の市街地から少し外れた高山寺にある南方熊楠のお墓にお参りに行きました。この高山寺には、紀伊田辺出身の合気道の開祖である植芝盛平のお墓もあります。また、和歌山県出身の作家である津本陽氏による植芝盛平をモデルとして主人公とした小説「黄金の天馬」には、南方熊楠が登場しています。

やがて、当地の遺跡を扱った著作として、保育社刊「日本の古代遺跡」シリーズの和歌山編を古書で入手しました。当著作には古墳など遺跡の場所が記された地図が掲載されており、それを参考にして実地見分に赴くことがありましたが、実際に訪れてみると、遺跡の存在が確認できない場合もしばしばありました。さらに、当時はインターネットで各種情報を容易に入手することができなかったため、記載の地図通りに進んでいるはずであっても、よく不安を感じていました・・。

また、他の趣味もありましたが、こうして書籍などを探して読んだり、あるいは時々師匠が送ってくださるさまざまな印刷物を読んでいますと、どうやら私は、自分が興味を持つ分野のものであれば、比較的難しい書籍でも、どうにか読むことが出来ると分かり、そこから「やはり当初の希望通り、どこかで人文系の大学院に進んだ方が良いのではないか・・?」とひそかに考えるようになりました。

しかし、そこで大事であると思われることは、当初私はヨーロッパ文化を研究したかったのですが、南紀での生活により、前述したような我が国の地域文化・歴史についての興味を持つようになり「それを専攻として、さらに深めることは出来るだろうか?」と考えるようになったことですが、これにつきましては、やはり必然と云うよりも偶然であったのではないかと思われます。

そして、そこから、一般的に我々が考える「計画通りにものごとが進むことは良い」という視点からは、あるいは受容することは困難であるのかもしれませんが、こうした偶然の出来事や、制御が困難な出来事に(どうにか)対応することによって、あるいは当初の計画よりも、さらに創造的な未来を見出すことも出来るのではないかと思われるのです。それ故、我々日本人は、太平洋戦争で完敗を喫しましたが、それでも、自らの国の本物の歴史や文化に対して、内発的な興味を持ち続けることが、思いのほかに大事であるか、あるいは、それなりに意味があるのではないかと思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

















2023年5月22日月曜日

20230521 嗅覚と味覚の記憶から思い出したこと(南紀について①)

昨年10月に罹患した新型コロナウイルス感染症から回復して以来、ほぼ通常の日常生活に戻っていますが、嗅覚と味覚に関しては、以前よりも鈍くなったように感じられます。特に食べ物があまり美味しく感じられなくなったことが気になりましたが、他方で最近は気温が上昇し、天候も良くなり、活性が上がってきたためか、また少し復調しているように感じられます。ただし、これはマスクを外す機会が以前よりも増えたためであるのかもしれません。そのため、この感覚の変化については、今しばらく意識して推移を見守りたいと思います。

さて、嗅覚と味覚に関して印象深いことを挙げますと、以前に何度か当ブログにて述べたことがありましたが、2001年春に北海道から南紀白浜に転勤した時のことが思い出されます。北海道と比べて南紀の環境はあたかも別の国に来たかのようでした。その南方的とも云える横溢とした植生や自然環境、そして、そこからくる大気の薫りは非常に濃厚なものであり、在住後しばらく経っても新鮮に感じられました。また、そうした経験から、地元の食材を使った料理は、その土地で料理して食べることにより、本来の美味しさを味わえるのだと思うようにもなりました。さらに南紀白浜温泉には、複数の源泉があり、それぞれ泉質や香りも若干異なるため、慣れてきますと嗅覚を通じて、それらの違いが分かるようになりました。

また、南紀白浜温泉は総じて海に近く、私が勤務していた白良荘グランドホテルも白良浜に面していました。そしてその従業員駐車場は、白良浜北隣の半ば半島状である権現崎の近くにありましたので、当時はほぼ毎日、どこかで波の音を聞きながら生活していたと云えます。当初は首都圏に戻りたいと始終思っていた私でしたが、若かったこともあってか、徐々に南紀の環境にも慣れてきて、次第に感覚や価値観も変化していったのだと思われます。

やがて落ち着いてきますと、近隣にあるさまざまな史跡などの来歴・背景についても宿泊客に対して、ある程度は説明できるようにということもあり、それらの説明文などを読み、さらに興味深いと思われた事がらについては、休日、紀伊田辺に出向いた際に書店で立ち読みしつつ書籍を探したり、あるいは当時普及しつつあった「アマゾン」で見つけて購入するといったことをしていました。

また、それら書籍で興味深い記述を見つけますと、食事や買い出しなどの外出の際に、記述にあった史跡などを実地見分するといったことも度々していました。とはいえ、そうした興味は、まず最初に現実の史跡などの存在が先立ちます。つまり、実際に何かの史跡なりを見て興味深く感じるようになり、そこから関連する著作を探すといった流れでしたが、私の場合、その一つの起点にあったと思しき記憶に残る史跡は、さきに述べた白良浜北隣に位置する権現崎に鎮座する熊野三所神社内の火雨塚古墳です。

それまで古墳とは、上空写真から見る巨大な前方後円墳のようなものばかりであると思っていましたが、この古墳の墳丘径は10m程度であり、外から羨道を通じて玄室内をも臨むことが出来、これを初めて見た時、古墳であることは分かりましたが、しかし、それが人々が日常往来する領域である神社内にあること、そして、それが樹木や草に覆われながらも未だに古代の墳墓であることが分かるように存在していることにいたく驚かされました。

そうして当地でしばらく生活をしていますと、次第に、さきの熊野三所神社を含む多くの神社は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがその著作「日本の心」内で述べているように

『神道の「やしろ」は、通常の意味での寺院ではなく、むしろ「死者の霊が出入りする部屋」や「霊の部屋」と呼ばれるべきだと思います。なぜなら、多くの神々は実際には霊であり、立派な武人や英雄、統治者、人々の師として存在して、千年以上も前に生きて愛し、そして死んだ人々の霊だからです。そのため、神道のお宮や社の不思議な性格を西洋人に伝える際には、お宮や社を「shrine」や「temple」と訳すよりも「ghost-house」と訳した方が意味がよく伝わるのではないかと思います。』(要旨)

といった性質が基層にあることを自然に理解出来るようになっていくと思われるのです。そして、私見としては、こうした感覚は、旅行など短期間の滞在では得ることが難しく、その地域で何度か四季を過ごし、地域の大気や植生や湿気のようなものを嗅覚や味覚などの感覚を通じて、知らぬ間に身に着いていくのではないかと思われるのです。そして、そうして得られた感覚を土台として、その地域のことを学べば、さらに知らないことが分かるのではないかと思われた頃に東京へと転勤となりました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。