2022年11月26日土曜日

20221126 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」pp.249-253より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.249-253より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

 プックリ肥った中年男で、鼻の下にヒトラーに似たチョビひげをはやしていた。おかま帽のような帽子をかぶり、胸当てのついた作業ズボン姿で、三脚の梯子を肩にかけてあらわれた。やおら梯子を立てかけて仕事にかかる。インテリアといえば聞こえはいいが、まあ、ペンキ屋といったところか。若い助手がいて、下から刷毛を手渡したりする。

 つまり、こんな風に「カール氏」は舞台にあらわれた。1960年代初めのこと。ウィーンの小さな劇場である。「カパレット」と呼ばれる地下の芝居小屋の一つ。50人も入れば満員で、客席と同様に舞台も小さい。中央にライトが一つあるだけ。ほとんど一人芝居と言っていい。中年男のモノローグだ。若い助手に問われるままに昔ばなしをする。そんなに遠い昔ではない。1960年代からすると、つい昨日のこと。ナチスが肩をいからして闊歩していた時代、そのころ自分はどんなふうに生きていたか。

 タイトルの「カール氏」は、「カールさん」「カールおやじ」としてもいい。ごくふつうの男である。おりおりナチ時代の流行歌を口ずさむ。何がおかしいのか、クックッと含み笑いをもらしたりするが、どちらかというと腹の立つことが多かったのだろう。

「ひでぇー時代よ」

ウィーン訛りのセリフがリフレーンのようにくり返される。ときたま仕事の手を休め一時間あまりしゃべりつづけた。

 たしかにひどい時代だった。始まりは1920年代の終わりちかく、世界恐慌まっただ中、記録的なインフレがあり、ついでデフレが見舞った。街には失業者があふれていた。隣国ドイツでヒトラーの率いるナチ党が、ぐんぐん勢力を拡大していく。ウィーン市中にも鉤十字の旗がひるがえり始めた。通りでは毎日のように労働者と右翼の衝突があり、血が流れた。ついで国会議事堂放火事件、親ナチ政権の誕生。1938年、オーストリアはナチス・ドイツに併合された。一夜にして町中の国旗が鉤十字にかわった。つづいて雪崩を打つようにしてドイツ軍の侵攻が始まった。

 その間、ウィーンの一市民、カール氏はどうしていたか?彼はさまざまな人や事件を見たり聞いたりした。ナチスに抵抗した首相が殺された。犯人は警察発表とちがってナチの一党だという噂だった。ある日、突然、ユダヤ人が追い立てを食い、胸にダビデの星のマークをつけて連行されていった。オーストリア国内にも、いくつかの強制収容所がつくられたという。何百万ものユダヤ人が送りこまれて大量に殺されているーとの噂が流れた。

 いろんな噂がとびかうなかで、小市民カール氏は終始多数派の一人だった。オーストリア社会党がのびたとき、彼はいそいそと労働者のデモに加わった。ナチスが強くなると、さっそくそちらにくらがえした。通りの群集にまじり、連行されるユダヤ人を見物していた。オープンカーでヒトラーがやってきたとき、鉤十字の小旗を打ち振りながら歓呼の声を上げた。

 ヘルムート・クヴァイルディンガー(1928~86)は戦後ウィーンが生んだ天才的な俳優兼作者だった。自作自演の風刺劇を数多く発表した。そのなかでも、「カール氏」はとびきりの名作だった。舞台では何年もロングランをつづけ、レコード、つづいてCDになり、テレビで放映され、映画になった。今ではすでに20世紀の古典作品と言っていい。単なる芝居にとどまらず、「カール氏」は一つの代名詞になった。時と場に応じて時流に乗る小市民。風見鶏、日和見主義者とも言われるだろう。

 といってべつだん、特別のタイプでも主義者でもない。どの国にも、いつの時代にもワンサといる。大多数の「国民の皆さま」の一人である。インフレの気配があると、すぐさま買い占めの列にもぐりこむ。デフレの傾向が言われだすと、小金をかきあつめて闇金融に投資したりする。といってどの場合にも、利のいい買い物をしたとは聞かない。よけいな代物をつかまされたり、ペテン師まがいの金融業者にいいようにされるのがオチなのだ。

 カール氏の考えによると、世の中の何ごともコネによるのが一番の早道である。仕事をまわしてもらうにも、出世するにも、わが子をいい学校に押しこむにも、娘の結婚にもコネをきかせる。ナチ体制にかわったとき、ひそかに地区の有力者のもとへご機嫌伺いに出向いたところ、間の悪いことに反ナチを高言していた仕事仲間とバッタリ出くわしたー。

 カール氏のひとり語りには、小市民のズルさ、小心ぶり、無責任さが巧みに戯画化されていた。観客はクスクス笑いながら、いつしか顔がこわばってくる。時代を醒めた目で見ているおどけ者が、同時代の百面相をしてみせた。人は腹をかかえて笑いつつ、ふと気がつくと、それは自分の似顔絵でもあるのだった。

 ヒトラーが呼びかけたのは、つねにこの「国民の皆さま」だった。お得意の演説、ただ一つの標的を狙うように多数派小市民に向けられていた。何かあれば、みんなといっしょでいたがる「よき市民たち」である。多数派にいないと不安でならない。ほかの誰かに利をさらわれそうで落ち着かない。もしそれまで主張してきたことと行動との不一致を問われると、モゴモゴと弁解する。あるいはあれこれ言いつくろう。ときには額に青筋を立てて怒りだす。またあるいは居直る。

 だからといって悪人であるためにはなんらかの強烈な個性を必要とするが、そのたぐいは、きれいさっぱり持ち合わせていないのだ。

 風見鶏、日和見主義者、時流便乗派ー心理学者はこの種の人間心理を診断して、特定の性格に分類するだろう。社会学者なら、人間における行動の類型にてらして一つの定まった型にあてはめ、このタイプに顕著に見られる性格を論じるだろう。

 ヒトラーはウィーン、ミュンヘンの下積み時代の体験からよく知っていた。学者のあげる性格など机上の空論にすぎない。多数派は性格をもたないからこそ、どのような人間にもなれるし、いかなる信念に足をとられることもない。どのような個性的な性格にも縁がないからこそ、世の中の風向きに応じて方向をかえることができる。無個性であるからこそ、何はなくとも時流を泳いで生きのびるための生活力は、旺盛にそなえている。

2022年11月25日金曜日

20221124 コロナ後の体調変化と引用記事の作成をしばらく続けていて思ったこと

本日は帰宅が若干遅くなり、時刻も23:30をまわってはいますが、何かしら作成しておこうと思い、さきほど来より記事作成をしています。また、おかげさまで、直近4日間は書籍からの引用記事を投稿してきましたが、こちらも思いのほかに閲覧者数が伸びました。そして本日もまた引用記事を作成しようと、その候補となる書籍を数冊、PC脇に置いていますが、それらはまた後日の投稿としようと思います。

さて、先月初旬に新型コロナウィルス感染症に罹患し臥せった後から、現在に至るまで、いくつか体調に違和感を感じていますが、そのなかでも体力の低下は、荷物を持っての移動時に痛感させられます。またそれは、今なお続くコロナ禍のなかで、以前よりも外出が少なくなったことにも因るのかもしれません。ともあれ、これは加齢に伴う不可逆的な変化であるとは考えずに、今後は何かしら体力をつけて挽回する方策を検討して行っていきたいと思います。

またこれは、端的には「健康的に痩せる」ということであり、これまでも、そうした取組みは行ってきましたので、今度もまた、その時に行ったことを繰り返すことになると思われますが、まずは徐々に食事を減らして、そして出来るだけ体を動かすことを意識しようと思います。

しかし、そのように考えてみますと、たしかに、このコロナ禍となってから、外出の機会が減り、歩く距離も減り、他方で屋内にいることが多いために食事量も増大したと云えます。そして、そうした状況がしばらく継続しますと、やはり体重は自然と増加するものと云えます・・(苦笑)。

そこで不図「コロナ太り」というコトバを思い出し、これをネット検索をしますと、やはり、たくさん出てきました・・。当然と言えば当然ではありますが、私もまた時代の子であったのです。

時代の子といえば、ツイッターをはじめたこの2年は、以前にもブログ記事にて述べましたが、書籍購入のきっかけがツイッターとなることが有意に増加しました。そして現在に至っては、ダイレクトな書籍のネット広告や告示から、ツイート内で見つけた書籍名に至るまで、おそらく書籍購入のきっかけの大半はツイッター上で拾っていると云えます・・。

しかし、ここで大事であると思われることは、その書籍名を見つけるにまで至った経緯、文脈です。この経緯、文脈によって、その書籍が自分の本質的な関心に、どの程度関与しているかが分かりますので、そこまで明晰に深く考える必要はないのかもしれませんが、しかし、忘れない方が良いことであるように思われます。

そして「そのようにして購入した本であると、何が良いのか?」と考えてみますと、端的にそこまで労することなく読了に至り、そしてまた次の興味関心にも無理なく繋がるということです。その意味においては、去る4日間の書籍からの引用記事の投稿は、どのような繋がりであるかは未だ言語化出来ませんが、ともかくも自分の中で繋がっており、それ故に、これらの記事は比較的集中してスムーズに作成出来たのだと思われます。以前の記憶を振り返りますと、引用記事がしばらく続く時であっても毎回このようなわけではありません。

また、これまで(どうにか)ブログ記事を1800以上作成し、そして、それらを(自分なりの)機に応じてツイッターなどのSNS上に連携投稿をしていますと、それらの中の目ぼしい記事の概要などは記憶に残るようになります。つまり、これを端的に述べますと、ツイッターと当ブログとの連携により、より多くのブログ記事の内容が理解・記憶されるようになり、そして、それらを何と云いますか、自分なりのログとして扱うことが出来るようになったということになります。

まさにこれは「ブログ」の「ログ」であるのかもしれませんが、ともあれ今後、もう少し続けていきますと、自分に何か有意な変化でも生じるのでしょうか?ともあれ、こうした自分なりの思考のログとなるものを持つことは、あながち悪いことでもないように思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。
















2022年11月23日水曜日

20221123 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

 以下、私は単に想像であるとことわって、あるいは幻想であるかもしれないそのことにふれたい。

 まず、高句麗について触れる。

 この民族は本来、満州の草原に住んでいた連中であった。漢民族とは人種も言語を異にし、その社会の仕組みは中国の辺境の騎馬民族と共通したものをもっているが、しかし早くから漢民族文化に接触していたため、ゴビ砂漠の周辺にいる連中よりはるかに農耕的で、すぐれた移入文化をもっていた。

 かれらはたえず満州から朝鮮半島に南下していた。かれらの満州の故地に、「扶餘」という土地がある。この地名をとって、古くから朝鮮半島(とくに南朝鮮)にいて農耕民族になっていた韓民族は、北朝鮮にいるこのひとびとのことを「扶餘族」とよんでいた。簡単にいえば高句麗人・扶餘族は、北朝鮮人である。いまでも体格は北朝鮮人は南朝鮮人より平均的に背が高く、固有満州人にちかいといわれているが、朝鮮の上代の歴史からみても、高句麗人は南朝鮮の百済を新羅のひとびとよりも騎射がたくみで軍事的には優勢であった印象がある。満州草原できたえた牧畜民族的野趣を、農民になりきっていた南方の新羅人や百済人よりも濃厚にもっていたからであろう。

 朝鮮史でいう三国時代つまり北方の高句麗と南方の新羅・百済が鼎立していた時代、もし中国大陸に統一帝国が出現するという大変動さえおこらなければ、なお無事泰平にこの鼎立状態をつづけたかもしれない。

 が、589年、隋帝国が出現するとともにその兵力の大半をあげて高句麗へ攻めてきた。当時高句麗はいまの平壌を首都としつつ、その故郷である南満州のほとんどを領有し、いまの地名でいえば旅大や遼陽をふくむ遼東半島も撫順も瀋陽もみな高句麗の国土であった。隋にとっては辺境のわずらいを未然に防いでおくための武力行使であったのだが、逆に高句麗に敗けてしまい、この敗北が隋という短期帝国の衰亡原因のひとつになり、かわって大唐帝国の出現をうながす結果をもたらした。

 つづいてその唐が大規模な軍をおこし攻めてきたのである。戦争状態は20年つづき、ついに668年平壌が陥落して高句麗は滅ぶ。 

 この間、半島の情勢は混乱し、唐は高句麗攻撃中に新羅と同盟をむすんで百済は日本に救援をもとめた。当時、日本も隋帝国の出現の大津波(多分に心理的な)をうけ、大いそぎで中央集権の国家形態をととのえて万一の侵略にそなえるべくいわゆる「大化改新」を進行させつつあった。当時の日本の政策決定者は、国際情勢に過敏すぎる傾向をもった中大兄皇子(天智帝)であった。かれは百済救援のために出兵し、その水軍が白村江で唐の水軍と戦って全滅した。この敗戦で百済が滅び(663)、その貴族や人民が多数日本に逃げてきた。ついで5年後に、百済と同盟していた高句麗が滅亡した。以上が私の「想像」の背景である。

 「日本書紀」では、高句麗を高麗と書きコマと訓む習慣になっているが、この鴨緑江流域の大国と日本との関係は南朝鮮の百済や新羅にくらべてもわりあい薄い。 

 急に関係が濃密にあるのはやはり隋帝国の勃興で高句麗が圧迫をうけてからであり、高句麗が隋の大軍を敗走させたあと、推古帝26年(618)に国使をよこして捕虜や鼓や笛、弩、投石器などの戦利品を日本にもたらしてきている。

 それから半世紀経ち、高句麗が唐に攻められるという情勢が濃厚になったとき、その国使がやってきている。さきにふれた天智帝5年のことである。その正月、「高麗、前部能婁等を遣して」調をたてまつる。とある。この前部能婁は夏6月に帰ったという記事があとで出てくるから。彼は日本に帰化していない。

 問題はそのあと4カ月しかたたない10月にやってくる高麗の国使である、きびすを接してやってきているあわただしさに、高句麗情勢の緊迫化を感じさせる。おそらく救援を乞うための使者であろう。しかし天智帝としては、それより3年前に百済を救援して白村江で大敗し、この高句麗の国使がきた時期は百済の亡臣亡民を収容するのに混雑している最中であった。高句麗を救援する軍事力などは残っておらず、おそらく事情を話してことわったにちがいない。

 この10月の使者は、正使が乙相奄鄒(おっそうあむす)という人である。このひとはほどなく亡くなったのか、その後の消息が出て来ない。

 副使が、二人いる。達相遁(だちそうどん)と玄武若光(ぐぇんむにゃっこう)である。達相遁のその後もわからない。

 問題は、玄武若光のことである。以下単に若光という。かれは二位の位をもっていたというから、正使および副使ともども王族だったのであろう。

 この三人が帰途についた記事がのこっていないのである。

 この翌年、天智帝の皇女大田皇女がなくなって葬儀があった。そのとき、

「高麗、百済、新羅、皆御路に哀奉る」という記事がでている。この三国のひとびとが出てきて哀悼の意を表した。というのである。天智帝のころの騒然たる国際情勢がこの一事でもわかる。葬列を送ったのは、この三国のひとびとでも当然貴人だったであろう。ところでここに「高麗」が出ているのが、やや気になる。当時の情勢から考えて亡国の百済からのひとびとの人数がもっとも多く居住していたであろう。新羅がこれに次ぐ。高句麗貴族がいるのは多少珍奇な感じがする。この「高麗」は去年きた若光らの残留している姿と考えるのが自然ではあるまいか。

「この情勢ではとても貴国に帰るわけにはゆきますまい。ずっと日本に住みついたらどうですか」と、日本側からもちかけられたようにおもえる。かれらは帰国できる状況ではなかった。百済の新戦場を通過するわけにはゆかず、海路、すでに戦場になっている故国に帰ったところで、かんじんの高句麗国が存在しているかどうかわからない。げんにかれらが来日してから2年後に高句麗国は唐のためにほろぼされているのである。若光らは残留したであろう。

2022年11月22日火曜日

20221122 株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」pp.76-77より抜粋

株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」pp.76-77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4270001178
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4270001172

創造性は誰もがー少なくとも原則的にはー評価するが、創造性を研究するとか育てるという試みには懐疑的な人が多い。

芸術家のほうにも、創造性については、ほうっておくべきだという意見が多い。正面から見つめては危険だというわけだ。

基礎科学の研究者にも創造性はほうっておくべきだという見解が多い。そもその定義からして、きちんと統制した研究の対象にはなじまない異常な現象だからである。

そこで創造性を育てる研究はニューエイジの実践家やビジネスのひらめきに関するセミナーの指導者、それに少数の勇敢な社会科学者などに委ねられてしまう。社会科学者にさえ、ためらいはある。フロイトはドストエフスキーに関するエッセイのなかで、「創造的な芸術家の問題を前にしては、残念ながら分析家は手をこまねくしかない」と書いている(念のために記せば、心理分析家はほかの臨床家よりも雄々しく、この問題に取り組んできた。

対照的に精神薬理学者は、きちんと薬を服用しない患者がでっちあげた口実だとして創造性を切り捨てる傾向がある)。

一部の社会科学者は「科学的発見や文学、舞踊、ビジネスを成功させる決断などという多様な営みを創造性という単一の概念でくくってしまうべきではない。」と考えている。

たとえばハワード・ガードナーは、言語と数学というような異なる領域には、別の知性が必要で、一つの領域の創造性が、ほかの領域に及ぶとは限らないと主張する。

 しかし創造性を研究する人たちは、多くの違った分野からの情報を関連づけ始めている。創造性の様な重要な現象を研究せずにほうっておくべきではない。というこれらの研究者の主張には説得力がある。

創造的な活動は、新奇性と価値との組みあわせを含むという定義が有効だということにはあまり異論がないだろう。創造性に新奇性が必要なのは、立証済みのソリューションはたとえ巧妙で有用であっても創造的とは言えないからだ。それに創造的な作品に(有用であるか、少なくとも社会の一部の人たちに光を与える)価値がなければならないのは、単に奇抜なだけでは創造的ではないからである。

この二つの要素からなる創造性の定義からすれば、なぜ創造性が狂気と隣りあわせなのかも説明できる(狂気とは異常で価値のないふるまいだ)。

 創造的な作品とは新奇性と価値があるものだという定義は、創造的な作品と呼ばれるものの社会的な側面を捉えている。創造的という特質は孤立した活動にはあてはまらない。新奇性や価値は社会的な文脈との関係で判断されるからだ。わたしが庭で石を動かすのに梃子の原理を利用したとしても創造的という評価は得られないが、わたしがクロマニヨン人ならべつだ。社会的な文脈がはっきりしない場合もある。わたしはなぜ「フィネガンズ・ウェイク」のような作品を創造的と判断するのだろう?一般大衆には充分な判断能力も関心もないが、その分野の専門家には現状維持が得策なので、画期的な仕事が抵抗にあう、という場合がある。価値判断における社会的な文脈の役割からは、ある年代の天才が次の世代には陳腐とされ、ただの変人と否定されていた人々が天才として復権するというプロセスも生じる。

2022年11月21日月曜日

20221121 岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」 PP.346-349より抜粋引用

岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著
『コンラッド短編集』「武人の魂」
PP.346-349より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861

トマソフの心も頭も、そのときの記憶で一杯だった。彼はその思い出に、一種の畏敬の念さえ感じていた。そして根が純朴な男だったから、自分の思いを言葉にするのを躊躇わなかった。彼は自分自身を特別の恩恵を与えられた者と見なしていたらしい。どう言ったら貴公たちに説明できるだろう?それはなにも、一人の女が目をかけてくれたというような話ではなく、一人の女への畏敬の念が、あたかも天啓のように輝いて彼の心の内に宿った、とでも言うべきだろうか?

 そう、そのとおり、彼はきわめて純な男だった。素敵な若者だった。だが、けっして馬鹿ではなかった。そのうえ、まだまったく世慣れておらず、疑うことも、ものを深く考えることも知らなかった。田舎へ行けば、そんな男によく出会うものだ。また、詩情も解する男だった。それは天性備わったもので、あとから獲得した資質ではなかったはずだ。人類の祖アダムもかくや、と思わせるようなところがトマソフにはあったのだ。だがそれ以外の点では、フランス人の言い草を借りれば、この男は野蛮なロシア人(アン・リュス・ソヴァージュ)そのものだった。しかしフランス人がよく言うような、蝋燭の獣脂を美味いもののように食ってしまう類の野蛮人ではない。そんなことは断じてなかった。さて、その女はというと、もちろんフランス女だった。しかし、十万のロシア人とともにパリに入ったわしも、この女には一度も会うことなく終わってしまった。たぶんその当時、彼女はパリにいなかったのだろう。いずれにせよ、彼女の屋敷のドアが、わしのような武骨者に対して開けられる見込みはなかったろうがな。金ぴかのサロンなどというものは、わしにはおよそ縁がなかったわけだ。だから、彼女がどんな感じの女だったか、それを貴公たちに話すことはできないのだ。だが、トマソフとわしが、あれほど肝胆相照らす仲だったことを思えば、これは妙だと言わざるをえまいな。

 まもなく、トマソフは他人の前で話をしなくなった。野営の焚火を囲みながら交わすいつもの雑談が、彼の繊細な感情には鬱陶しくなったのだろう。そのうちにわしだけが、彼の話の聞き手にされてしまった。それはやむをえぬことでもあった。トマソフのような若い男に、永久に黙っていることなど、できぬ相談だったろう。そしてわしは、貴公らには信じがたいだろうが、これでも生まれつき無口な男なのだ。

 わしが無口なことが、おそらく、トマソフには好ましく思えたのだろう。我々の連隊は九月のまるひと月を、あちこちの村で野営して過ごしていたが、その頃はいたって平穏無事だった。わしが、彼のする話のあらかたを聞いたのは、そのときだった。いや、あれは話と呼べるようなものではないかもしれぬ。わしが話と呼ぶのは、ああいったものではない。あれは、溢れ出ずる心情、とでも言うべきものだろうからな。

 トマソフが息を弾ませて話している間、わしはじっと黙ったまま、まるまる一時間でも座って耳を傾けていたものだ。そして、彼が話し終えてしまっても、そのまま黙っていた。すると、一種の沈黙の効果みたいなものが生れるわけだ。それがある意味で、トマソフには嬉しかったのだろう。

2022年11月20日日曜日

20221120 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.133-136より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.133-136より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

以上に指摘した日本の高等教育の弱点を考慮して、次のような改善策を提案したい。まず一〇歳代後半の人々の能力を高めるために、高校での教え過ぎの課目数を大幅に削減することを提案したい。

 専門化され過ぎていたと言われる私たちの時代の旧制高校の文科コースでも、次のような多用な課目が関連なしにばらばらに教えられていた。まず歴史では、国史、東洋史、西洋史の三科目がある上に国語、国文学史、漢文がある。これらすべてを一科目か二科目に統合する。この大科目の主題は日本はアジアの中でどういうふうに近代化(西洋化)されたかに絞られる。生徒は自分で自分のテーマを設定し、各先生と相談しながら、関連する書物を図書館で読んで、レポートを書き上げるのである。

 哲学・社会科学関係の授業も多すぎた。哲学、論理学、法制・修身と称する倫理学など、多くの科目が無責任、無連絡に教えられていた。生徒はどの科目にも専念することはないから、先生の言ったことをノートにとって暗記するだけであった。私自身は心理学と論理学の講義には興味を持ったが、それ以外の講義を馬鹿にしていた。

 体育の科目ですら多過ぎた。体操、武道、軍事教練の他に、殆ど全員はそれぞれ何らかのスポーツ・クラブに所属していた。これらも統合して好きなスポーツ一つだけに専門化すべきだ。

 要するに日本の高等学校は、新制でも旧制でも教え過ぎで、出来るだけ多くの科目を広く浅く学ばせようとする。だから日本人は、学問とは知識を数多く集めることだと考え、集めて保存するために記憶能力を磨く。その結果日本人は考えることを甘く見る。「なぜか」と尋ねることは、学校でも、家庭でも決して歓迎されない。それだけ日本の学校には無駄があるので、それらを改善して前節末に述べた理想案に近づけることは可能である。 

 高校の科目はできるだけ統合して、ごく少数の科目に合格すれば、大学への入学が許可されるようにすればよい。イギリスではAレベルの試験に三科目合格することが大学入学の条件とされているから、イギリスの高校生はAレベル三科目の学習に全力を注ぐ、したがって彼らは、日本の生徒と比べるならば深いが狭い。広大な無知の領域が彼らには残されている。しかしそのことはどうでもよいのだ。Aレベル水準の三つの科目をマスターした能力の者には、独力で四つ目や五つ目の科目を習得することは困難なことではない。

 要約して言うならば、高校の科目を、幾つかの大講座にまとめ上げ、同一の大講座に属する先生(例えば日本史、東洋史、西洋史、地理の先生)は共同して生徒の質問に答え、生徒の自主的勉強を指導する。どの大講座の科目を勉強するかは生徒の選択にまかされる。

 その他に別枠として外国語(英語)がある。これは大学進学の必修科目だが、私たちが教えられるような英文学の真似事としての英語ではなく、もっと実用的な(日常生活に役に立つと同時に大学で研究するのに役に立つ)英語を教える。英文学の真似事の英語は、英文学の真似事以外にあまり役に立たないことを英語の先生は自覚すべきである。

 以上の案では、私の理想案の内容がほぼ満たされている。不足しているのは、それが生徒の選別を充分していないということである。選別は重要である。出来る人を集めてこういう人も自分の同年代の人にいることを知るのは大切なことである。平等の名において選別をなくすのは、子供に対する愚民化政策である。スポーツで選別をなくすれば、優秀なスポーツ選手は生まれない。同様に、思考力の異なる者を一つの教室に入れておけば、思考力のあるものが、怠けて考えなくなるだけである。

20221120 株式会社 光人社刊 光人社NF文庫 比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」 pp.42-44より抜粋

株式会社 光人社刊 光人社NF文庫
比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」
pp.42-44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769820631
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769820635

ビルマ派遣軍司令部は、もと大学ででもあったのか、広い構内にあり、建物はコンクリート建てで、白黒のダンダラ模様に迷彩をほどこしてあり、大きな偽装網がぶら下がっている建物もあった。

 こんなところへ、こんな細工をしても効果があるのかと思ったが、口には出さなかった。

 軍司令官は、マラリアでねており、参謀長が申告をうけた。彼は、開口一番、「大変なところへ来てもらって、お気の毒である」といった内容のことをいった。

 「この戦争で、すくなくとも攻勢をとっているのは、ビルマだけだ」と、われわれは勢いをつけてこられたのに、

「お気の毒だ」といわれたのには、ガッカリした。

 それもそのはず、ちょうど申告をした部屋は作戦室であり、その壁に貼ってある作戦図には、今まで士官学校で習ってきた退却作戦の要図、そのままが描かれている。隊号を虫ピンでとめてある。

 青色で南の方へ下がっている何本かの大きな矢印は、日本軍の退却をあらわしている。赤色の矢印がそれを追いかけている。青の矢印の中間には、赤い落下傘の印が点々ととめてある。敵の空挺部隊が、退却を妨害していることを示している。

 北東の方には、青い環が三つばかりあり、これを赤い環がかこんでいる。ラモウ、ミートキーナ方面で、日本軍は敵に包囲され、孤立して苦戦をしていると聞いていたが、現実に司令部には、正直に敗けいくさの状況が示されているのだ。

 そして、参謀長のいわれるには、「日本軍はインパールから退却し、ある地点で態勢をたてなおすために、移動中である。そこへ追及しても、とくにやる仕事はないし、若い連中が行って、貴重な米を食い荒らすことになるともったいない。しばらくラングーンにとどまって、ようすを見てから前線に追求せよ」ということであった。

 二、三日は兵站旅館にとめてもらったが、すぐに追いだされて、むかしゴルカ(グルカともいう)兵の兵舎であったという粗末な兵舎に寝起きすることになった。