2021年6月10日木曜日

20210610 1550記事の到達、前進のために不可欠な道具について

今回の記事投稿によ総って総投稿記事数が1550に到達します。直近のキリの良い数値である1500記事の到達は、さる3月23日であったことから、その後、大体80日ほどにて、50記事を新規に追加したことになります。そうしますと、2日に1記事以上の投稿はしてきたことになります。

さて、そこで本日の記事の主題について考えてみたところ、以前にも扱いましたが、再度「靴」を題材として作成しようと思い立ちました。

さる5月の中頃、上野アメ横の某靴店の特価品コーナーにて、ダナー社のマウンテンライトを見かけました。これは黒スエードであり、最近、店頭では見かけないものでしたが、作りは米国製のホンモノであり、さらに私のサイズの在庫品があったことから、試し履きさせて頂きました。

これが特価品となった理由は、長く店晒しであり、スエードの色合いが変化したためとのことでしたが、私としては特に見た目に問題があるようには感じられませんでした。また、試し履きの結果も問題ないと思われたことから、このマウンテンライトを購入することにしました。

これは正価の半額以下ではありましたが、同時に決して安い買い物ではありませんでした。ともあれ、こうして私は既存のダナー社のライト2に加えて、この度、マウンテンライトを新たに購入し、計3足のダナー社のブーツを持つことになったわけですが、これは高校生の頃にダナー社のライトを渋谷のアメカジ店で見て「いいなあ・・」と思ってから30年近く経っています・・。

こうした経緯にて購入したマウンテンライトを、購入翌週の休日に履いて街を歩いたところ、両足共に踝・踵周辺が擦れて痛むようになってしまいました。そのため、その日の夜は、風呂上りに傷口にオロナイン軟膏を塗り、バンドエイドを貼っておきました。また、マウンテンライトの方も内張りの表革部分にミンクオイルを塗り込み、少し手で揉んで革が柔らかくなるようにして保管しました。そして本日、再び休日の街履きに、このマウンテンライトで出たところ、未だ擦れる部分はあるものの、先週と比べて、大分事態は改善されていることを体感しました。また、それと同時に一昨年に購入したダナーライトもまた、履き始めの頃は、こうした感じであったことが思い出されました。このダナーライトは、その後、大分足に馴染み、これを履いて10㎞以上歩く日は、今に至るまで毎月数回はあります。

それ故、新たに購入したマウンテンライトもまた、徐々に足に馴染んでいくものと思われますが、その過程も楽しみと云えます。

ともあれ、こうした手間をかけるほどに、靴はとても大切なものであり、特に年齢を重ねますと、その重要性が、まさに体を通じて理解出来るようになっていくのではないかと思われます。

ある程度の節目と云える今回の記事ではありますが、何故か「靴」のハナシになりました。しかし、この物理的に前進するために不可欠な道具は、当ブログを前に進める上においてもまた同様に重要であると云えることから、それはそれで繋がっていなくもないのかもしれません・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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20210609 「下手の横好き」と「好きこそものの上手なれ」の間でブログ記事作成を継続していると・・

 かれこれ6年近くブログのために文章を作成してきましたが、未だに自分なりの文体を見出したといった感覚はありません。しかし同時に、おそらく、こうした感覚は「突然、雷に打たれるようにして得るものではないであろう」ということは分かりました。

おそらく、そうした変化とは、その時の自分では感知できない、微々たるものであり、ある程度、まとまった年月の前後にて、それぞれ作成した文章を比べて「少しは文章が滑らかになったかな?」といった態にて気が付くのではないかと思われます。

また、これは以前にも書いたことではありますが、作成文章の変化とは、寄せては引く波のようなものでもあり、ある所まで変化・上達すると、それがまた戻り、そしてまた、変化・上達してゆく(3歩進んで2歩下がる)といった実感があります。

そして、その視座から現在の私は、波が引いている、あるいはスランプに近い状態にあると云えます。具体的には、記事主題の着想がなかなか湧かず、また、文章の進みが遅いといった状態ですが、とはいえ、そうした中においても、たとえ嫌々ではあれ、記事作成をどうにか進めることが、思いのほかに重要であり、そのようにして継続するからこそ、次の波を見出し、そして乗ることが出来るのだと思われるのです。

一般論として、ブログをある程度の期間継続することが、それなりに困難とされる理由の一つとして、ブログを始めてある程度の期間が経ち、着想を得ることが難しく、記事作成がなかなか進まない、いわばスランプ状態の中で、さきに述べました、上達に至る波様の認識(3歩進んで2歩下がる)に思いが至らないということもあるのではないかと思われます。

つまり、何であれ、あまり恥ずかしいとは思わずに記事を作成し、投稿し続けることにより、良い悪い何れであれ、次の波が訪れるのではないかということになりますが、あるいは実はこの時点で、既にその人のブログへの向き、不向きが顕われ、多くは継続に至らないのではないかとも思われます。

そうしますと、これまでに私は文章作成が得意であると自覚したことはあまりなく、また、どちらかと云いますと「負けじ魂」や「ハングリー精神」なども乏しいことから、当ブログは刺激への反動を原動力としておらず、そして現在に至るまで、記事作成を(どうにか)継続出来ているという事実から思うことは、私は文章作成の才は乏しいのかもしれないが、他方で、少なくとも「ブログには向いていない」ということは云い難いのではないかということです。

しかし、世の中には「下手の横好き」というコトバもありますので、あるいは、当ブログも、それに類するものであるのかもしれませんが、同時に「好きこそものの上手なれ」というコトバもあり、これについても「適応しない」と断言は出来ませんので、もうしばらく、これら「下手の横好き」と「好きこそものの上手なれ」の間をブログ記事を作成しつつ彷徨ってみようと思います。

しかし、かねてより私は「少し変わっている」「おかしな部分があるのでは・・」と、心の片隅でボンヤリと思いつつ生きてきましたが、あるいはそれが顕現したのが、まさにこのブログであったのかもしれません。通常、ブログを数年間続けることが珍しいのであるならば、私の場合、さきの「変わっている」「おかしい」があったからこそ、ブログを続けることが出来たとも云えるのかもしれません・・(笑)。

そのように考えてみますと「少し変わっている」「おかしな部分があるのでは・・」といったネガティブな要素を当ブログの継続を通じて「自信」にまで変えることは出来なくとも、あるいはどうにか「肯定」までには、もっていくことが出来るのではないかと思われてくるのですが、さて如何でしょうか。

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2021年6月8日火曜日

20210608 手先が器用で繊細な感覚を持つ国民性の創造的な未来について・・

 何度か寝落ちしそうになりながら作成した一昨日投稿の「ブログ記事作成の意味と人生の創造的な期間について」は思いのほかに多くの方々に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆様どうもありがとうございます。

そして、そこでとり上げた「30代後半から40代が最も創造的である」という意見に関しては、未だ自身で実感することはありませんが、しかし、もう少し早くから当ブログをはじめていたならば、いくらか記事数は多く、そして、より多くの方々に読んで頂けていたのかもしれません・・。

しかしそれでも、当ブログを始めて以来、約57万人の方々に読んで頂き、そして、それを1年に均しますと約10万人、さらにそれを1日に均しますと250人ほどの閲覧者数になります。

もちろん、この数は決して多いとは云えませんが、それでも自身が選んだ書籍からの引用部、そして、自身が作成した文章が、それだけの方々に読んで頂けているということ自体に、今なお色褪せない驚きのようなものがあると私は思っています。

また、これがブログといった公開を前提とするものでなかったならば、私の場合、何処かで面倒になり、止めていたのではないかと思われます・・(苦笑)。つまり、私は「ブログ」という装置・環境があったからこそ、書き続けることが出来ているのだと云えます。

そして、おそらく、こうした装置や環境とは、我々があまり明瞭には意識出来ないところで、私をも含めて、我々の人生を左右し、変えてきたとも云えます。その意味において、誰もが皆「時代の子」であると云うことになりますが、ここでいくらか重要であることは、それら時代環境の装置の「何か」と、自分の本能や本質に近い部分からの興味を持つことが出来る「何か」とを化合させ、何かしらの創造的な活動を(ある程度)継続することであるように思われます。

これが既存の経済活動上に乗るものであれば大変素晴らしいのでしょうが、しかし他方で、おそらく現在の我々の社会の多くは、経済活動を基準として逆算された各種社会制度でありながら、同時に、その既存の経済活動が、近年の様々な技術革新により、大きく変わりつつあり、さらに社会全体の少子化、高齢化などにより、根本的な見直しが迫られているのが現状であるように思われます。

そうなりますと、重視されることは、社会のより多くの人々が、自分の本能に近い部分から取り組むことが出来る創造的な側面を持つ活動を見出すことであると思われます。そして、我々日本人の場合、より多くの人々が継続的に興味を持つことが出来るのは、実際に手を動かす作業が含まれる職種であると私は考えます。

そこには農業や工業に加え、医療介護なども含まれており、特に医療介護分野については、世界に先駆けて社会の高齢化が進行する我が国においては、極めて重要なものであると云え、それら職種のより多くの養成、さらに後年、世界規模での医療介護分野にて先導的な役割を演じることが出来る方々を(こちらもより多く)養成・輩出することが、工業分野での革新と同時進行にて我が国が推し進めていく途であるように思われるのですが、さて如何でしょう。

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2021年6月7日月曜日

20210606 ブログ記事作成の意味と人生の創造的な期間について

 本日こそは記事作成をせずに、出来るだけ早く休もうと考えていましたが、他方で、これまでの総投稿記事数は1546であり、そして、今月内の出来るだけ早くに1550記事まで到達しておきたいと考えたことから、本日もまた、さきほどから記事作成を始めた次第です・・(苦笑)。

それに加えて、今月の22日にて、当ブログをはじめて丸六年になりますので、遅くともそれまでには、1550+α程度の投稿記事数にはしておきたいとも考えています。

そうして、これまで当ブログを継続してきた丸六年間を均してみますと、10日のうち7日は記事作成を行ってきたことになりますので「まあ、それなりには頑張ったのではないか」とは云えるのではないかと考えます・・。

くわえて、我がことながら、これまでに何度か不思議に思われたことは「よく、これまでの期間続けることができたな・・」ということであり、そこから新たに「では、今後はどこまで続けることになるのだろうか?」という疑問も生じてくるわけですが、これについては、ここ最近では「とりあえず、無理をしないで続けられるところまでは続ける」といったスタンスにて、あまり考えないで良いのではないかと思うに至りました・・。

とはいえ、30~40代の期間、数年にわたり、ブログ記事の作成を続けてきたということは、どこかで何かの意味を持つことになるのでしょうか・・?残念ながら、これまでのところでは「有意な意味」らしきものを感知・認識することはありませんでしたが、それでも、自身による文章であれ、書籍からの引用記事であっても、それらをブログ記事として積み重ねていくことを通じ、そこに記されている思想や考えなどを、以前と比べて、具体的なものとして考え、感じ、そして取り扱うことが出来るようにはなった実感のようなものはあります・・。これを異言しますと「形而上的な面の視野の明瞭化」あるいは「自身が持ち、扱える観念的諸道具の品目整理」といった感じになりますが、これに関しては、この先にどのような内面における展開があるのかとは、多少興味深く思われるところと云えます。

あるいは、人によりますと、30代後半から40代が人がもっとも創造的になれる時期であるとのことですので、その視座からは、当ブログもまた、今しばらく続けてみますと、何かしら自分にとって面白いことも生じるのではないかとも思われてきますが、それでも、現時点においては1600以上の1700、そしてさらに先の2000記事への到達などは「夢のまた夢」といった感があります・・。とりあえず、目先のこととしては、来る6月22日までに1550記事には到達しておきたいと考えています・・。そして、今回の記事投稿により、1547記事に到達します。

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2021年6月5日土曜日

20210605 ツイッター連携記事への反応から思ったこと(文章に対する身体感覚に近い理解について)

 ここしばらくの間、昭和20年8月15日(終戦・敗戦記念日)周辺の出来事が書かれた文章をいくつか引用し、ブログ記事としてきましたが、おかげさまで、これら記事も比較的多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

とはいえ、こうした記事の投稿を続け、さらに現在のリアル・タイムのニュースなどを見聞きしていますと、よく分からない感じにて消耗するようであり、昨日は夕刻頃より少しグッタリとしていました。また、書籍からの引用記事が主であれ、一週間以上、しばらくの期間、継続的に記事投稿を行ってきたことによる疲労もあったのかもしれません。

そこから、本日も新たな記事作成を行わず、早めに休もうと考えていましたが、当ブログと連動しているツイッターにて、大変興味深い反応があったことから「何かしら記事を作成しておこう・・」と思い立ち、先ほどから記事作成を行っている次第です・・。

そういえば、ここで「作成」と云う言葉を用いましたが、これは手書きであれ、キーボード入力であれ、共通して用いることが出来る言葉と云えますが、キーボード入力での文章作成の場合「書く」という言葉は適切ではないと云えます。

他方、先日来から用いているメモランダムに文章を書き、記事(の下書き)を作成している時は、まさしく「書く」という表現が適切と云えます。そして、そこで大変興味深いと思われることは、手書きにて文章作成をしている時は、あまり滞ることなく、手が動き続け、ともかく、何かしらの文章を作成出来ていることです・・。この点、現在のキーボードによる文章の入力は、スピード的に手書きと比べ、大分遅いと云えます。

手書きでの文章作成は、紙とペンという、昔ながらの道具を用いての作業であり、他方のキーボードによるPCでの文章作成は、その用いる道具の実在性というのでしょうか、そうしたものが、未だイマイチ身体感覚としてシックリ来ていないのではないかと思われるのです・・。

またこれは、同じ文章を読むに際しても、実在の紙媒体のものを読まないと、イマイチ理解した気にならないというのと、何かしら類縁関係にあるのではないかと思われます。

さて、そこで、さきに述べましたツイッターでの興味深い反応について書いていきますと、それは一昨日の平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」投稿直後に、5年前の2016年に作成・投稿し、そして去る4月19日に当ツイッターにて連携した照屋佳男著「コンラッドの小説」pp.117-119に「いいね」が押されていたことです・・。

これは、少し後になって気が付きましたが、正直、ここまで深く当ブログを読んでくださっている方がいらっしゃることに感激と共にある種の畏怖をも覚えました・・。

しかし、であるからといって、そこから当ブログの文章が急激に良くなるということはなく、それもまた、こうしてブログ記事の題材となってゆくのです・・(苦笑)。

ともあれ、こうした反応を得た体験を後になって想起出来るように、それを記事として書いたことにも、わずかではあるかもしれませんが、価値のようなものがあるのではないかとも思われるのです・・。

そして、ここで大事なことは、さきに文章作成の手法についてで述べました「身体感覚にてシックリきているかどうか」であると思われます。

つまり、両著作引用部各々の主旨・主張を、しっかりと身体感覚(に近いもの)として理解出来ていないと、そうした反応を(即座に)することは困難であると思われるのです・・。

また、こうしたことを述べますと「そうした主張は衒学的ではないか?」という批判を受けるかもしれませんが、しかしながら、本当の円満な博学・博識とは、たとえ周囲の人々(特に女性・・)から疎まれようとも、少しおかしくなっている衒学的な期間を通じて辿り着くことの方が多いのではないでしょうか・・(苦笑)。

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2021年6月3日木曜日

20210603 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.176‐178より抜粋

株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.176‐178より抜粋

ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063

昭和20年5月25日には学校の三分の一が焼失した。年配の先生は次々と辞職して田舎へ引っ込んだので、竹山世代が学校運営の責に任じた。東京はもはや大部分が潰滅したが、鉄筋コンクリートの第一高等学校寄宿寮は健在である。7月22日日曜は文化祭でオーケストラの演奏があり、全寮晩餐会で竹山は「若い世代」と題してスピーチした。

 若い人たちは今後、どういう運命を辿るのであろうかー、いま安倍校長はそういわれたが、このことは私もたびたび思いました。中寮の三階にいて、ストームの音をききながら、よくそんなことを考えたものです。

 「若い世代」ヤンガー・ジェネレーションという言葉は、いまから一昔前にある特別な意味をもっていわれた一つの流行語でありました。前の欧州大戦の後に、ヨーロッパの若い人たちはオールド・ジェネレーションとはまったくちがった思想や感情をもって、前大の人間には理解に苦しむような新しい生活をはじめ、これが大きな社会問題となったのです。戦争中に若い人たちは、あるいは前線に出て戦い、あるいは工場や農園に働いていたが、それが復員して帰ってきて、社会的に大きな発言権をもつようになりました。それから戦後の混乱の中にあって、これまでの秩序を保っていた権威は仆され、堅実な階級の家庭生活も破壊されたところから、かれらは無秩序の中に抛り出され、古い世代に反抗し、まったくあたらしいところから出発すべく、あたらしい理想を求めてあがき苦しみました。ここに思想的にも、あまたの変態的な現象が続出し、このころのいわゆる「若い世代」は大人たちからは怪訝嫌悪、ほとんど畏怖をもって見られるものとなりました。

 この「若い世代」という問題が蔵するさまざまな契機が、あるいはある形で解決され、あるいは未解決のまま、もちこされて、今度の欧州大戦までつづき、あたらしい危機の大きな部分を形づくりました。いまわれわれの行く手を考えるためにも、この問題は回顧さるべき大きな意味があると思います。

 竹山は「若い世代」を描いた文学作品を引くことで説明した。フランスからは「魅せられた魂」「チボー家の人々」「贋金つくり」「おそるべき子供たち」など、そしてドイツからはレマルクや一高生のよくよむヘッセの「デーミアン」の名をあげ、これらの作品の主人公の特色は「頭のいい不良」で、その思想は破壊的で反抗的、その生活は本能的で衝動的でアモラルな行動を誇りとする。ニーチェがあたらしい目で見直され、頭のいい青年が辛辣な社会批判をやる。竹山はこの時代の人間の気持の特色を三つあげた。

第一は憎悪、左翼は憎悪の体系といわれるが、一方右翼もヒトラーやゲッベルスの演説は悪口雑言を並べたものだった。

第二に原始主義、若者は権威に反抗理知的に構成されて人を規範するものを破壊しようとする。

第三に途方もない大きな誇大妄想的なプランをたてて自ら酔う傾向ーナチスは「おれたちは世界を征服するか、しからずんばこれを絶滅させる」ganz oder gar nichtといったが、こうした調子が若い世代に訴えた。

そして竹山は「この戦争が終わった後は」日本でもこの若い世代が問題となるだろう、と述べた。今度の戦争は「精神と物質」の戦争だといわれたが「感情と理性」の戦争といった方が当っているのではないか。日本人は貴い立派な徳性も具えているが、それがまだはっきりした反省を経ていない。

「たとえば自己犠牲とか義理人情とかいったような立派な徳性も、それが自覚の中に基礎づけられていないために、一たび他から一応の論理を具えた主張に襲われると、一たまりもなく薙ぎ仆されてしまいます。論理的に根をかためた自分の判断ということがなく、その上に立った徳性でないからです。ちょうど体は健康でも予防注射がしていないようなものです。物をよく考えて自覚の中に根をおろすことー、これがきたるべき混乱に処してあたらしく築いてゆくために、もっとも大切な一つの事と思います。」

そして戦後を見通した講演にはこんな軍国主義的精神主義を否定する教訓もまじる。「この戦争がいかなる形で結末をつげるにせよ、その後われわれが他国との間に伍してゆく上に、理知という武器がなく、この点で素手であったならば、所詮存立はできないことになります」。

 第一次世界大戦後のヨーロッパを回顧し、戦後日本に起るべき混乱を見越し、日本人の中にある徳性と、その欠陥を指摘して、「非合理主義なるものの、痴愚と、おろかさと、悲惨さを経験しおえたその後には、かならずや、より新しいより深められた合理主義に帰るより他には、道がない」というシュヴァイツァーの言葉をもって竹山は結びとした。

20210602 株式会社筑摩書房刊 山本七平著「洪思翊中将の処刑」上巻 pp.195‐200より抜粋

株式会社筑摩書房刊 山本七平著「洪思翊中将の処刑」上巻
pp.195‐200より抜粋

ISBN-10 : 4480422692
ISBN-13 : 978-4480422699

武藤参謀長は八月十五日夜の出来事を次のように記している。

「午後十時半。東京放送で左の件を承知した。停戦の大詔渙発、鈴木総理告示、阿南陸相の自刃。感度不良で大体の意味しか諒解できなかったが、昨日聞いたサンフランシスコ放送を裏書きするものであった・・」。興味深いことは、このときもまた武藤参謀長は、ポツダム宣言受諾を一種の「停戦協定」の成立のように見ているのである。まず停戦、つぎに講和が当時の常識だったからであろう。山下大将と武藤参謀長だけは、十四日夜の放送傍受で敗戦を覚悟し、その基本的な準備についてはすでに相談ずみであったので、以後の処置は、少なくとも司令部内では割合スムーズに行っている。とはいえ、当時の日本の政府・統帥権の分立(統帥権の独立)と、さらに陸海軍の統帥の分立は、最後の最後まで、常識では少々判断しかねるような事態と問題を招来した。そしてこれが武藤参謀長のもう一つの「腹に据えかねる」件であった、日本国政府はポツダム宣言を受領し、確かに日本は降伏したのである。しかし政府が降伏したからといって、軍が自動的に降伏するわけにはいかない―今にしてみればまことに奇妙であろうが、統帥権独立の建前からいえば、それが当然であった。とはいえ政府がポツダム宣言を受諾した以上、現地の軍は、実際には戦闘を続けるわけに行かず、建前は「別命あるまで戦闘続行」、実際は「降服準備」という奇妙な形にならざるを得なかった。

 軍の行動は、奉勅命令に依らねば発動できないが、夜半、宇都宮参謀副長と久米川参謀を私の部屋に招致して、奉勅命令受領後採るべき処置の大綱を示して準備を命じた。大綱は次の通りである。(一)全比島にある日本軍に命令を徹底せしむること、(二)軍紀、風紀を厳正にして皇軍最後の面目を発揮すること、(三)患者・一般邦人を洩れなく山岳地帯より救出すること、(四)兵器・弾薬・機密文書の処置、(五)停戦期間中に於ける食糧(の確保・補給)の措置。

 まことに奇妙な話だが、この日から降伏調印まで実に半月以上が空費され、そのうち最後の十日間は参謀たちまで野草しか食えないという状態におかれ、さらに洪中将たちが実際にアメリカ軍に収容されたときには、一カ月が経過していたのである。その間に力つきて死んだ者も多かったであろう。これはルソン北辺にした私も同じであり、八月二十七日に停船命令を受け取り、十五日にすでに戦争が終わっていたことを知ったとき、何をグズグズしてたんだ、なぜもっと早く伝達してくれなかったのだ」という気持ちになったことを憶えている。だがいま調べてみるとこれは軍司令部の責任でも怠慢でもなく、最後には、命令の到着を待たずに山下大将が独断で降伏文書に調印してこの有様だったのである。武藤参謀長もしばしば嘆声を発している。日本の官僚機構なるものの、救いがたい非能率性と形式主義のためだろう。

 翌朝(十六日朝)山下大将は参謀一同に集合を命じて、次の要旨の訓示を与えられた。「未だ大命に接せざるも、ラジオの報ずるところは恐らく真実であって局面は急転した。この際諸士は悠久なる皇国の生命を信じて、区々たる眼前の事象や感情に眩惑され、事を誤ってはならない。皇国再生のため全力を傾倒せねばならぬ。当面する仕事は繁忙だ。最善を尽くすことを望む」。山下大将が心配されたのは、血気の将兵中には、降伏を嫌って何かしでかす者がありはしないかということであった。私は全力をつくして御趣旨を実現する旨を答えた。午後は各部隊長を集めて、大命到着後になすべき事項を説明した、それぞれ準備するように命じた。

 洪中将のところへ連絡が来たのはもう夕方近かった。参謀長帯同で軍司令部へ出頭せよとの連絡であり、斉藤副官は留守番として残った。すっかり暗くなってから、洪中将は自分の小屋に帰ってきた。帰りが遅くなったのは、前に記したように武藤参謀長と二人だけで懇談し、日本人兵士と韓国系軍人軍属との間にトラブルが起らぬよう努力してほしいと特に依頼されたためであろう。ジャングルの中には灯火はない。私たちのところだけでもローソクややし油、しまいには携帯していた軟膏まで灯火につかったが、それらは所詮、ぼんやりとその周辺を照らすだけであった。従って、終戦を聞き、前記の会談を終えて帰ってきた洪中将がどんな表情をしていたか、斉藤副官もわからなかったという。ただいつもと全く変わらない態度・雰囲気の語調で「ポツダム宣言受諾にきまったぞ」と言っただけであった。ポツダム宣言といわれても斉藤副官には何のことかわからない。そしてその内容は山下大将も武藤参謀長も知らなかったのだから、洪中将も知るわけがなかった。だが、それが何やら戦争の終わりを意味するらしいことは斉藤副官にもわかったので「停戦ですか」と聞いた。洪中将は、「無条件降伏だ、だが大本営から命令が来るまでだれにも言うな」と言っただけであった。

 斉藤副官は「そういわれても、それが何か、何が起こるのか、どうなるのか、どうすればよいのか、全くわからなかった。しかし一応、わかったような顔をして質問を打ち切った」そうである。人間は慣習の動物である。翌日斉藤副官は、洪中将の小屋の前に、防空壕を一つ掘った。降伏は、秘密にしていても意味はなかった。アメリカ軍はすぐさま前線一帯にビラをまいたからである。穴掘り作業は逆に心を静めてくれた。それを見、またビラをまく米軍機を眺めつつ洪中将は、何か懐古しているようであった。そして不意に、ひとり言のようなまた斉藤副官に話しかけるような調子で言った。「戦争が終わってわしも故郷に帰ることになるだろうが、何をするかなあ。そうだ数学の先生をやるか。小学校の先生でもいいが、中将にまでなったんだから、小学校ではちょっとかわいそうかな。中学校の先生がちょうどいいかな・・」

 この言葉を斉藤副官は、三十年後もなお、昨日のことのように憶えている。氏は驚いてその顔を見た。洪中将はそういう個人的感慨が決して口にせず、家族のことも故郷すなわち韓国のことも絶対に言わない人だったからである。その顔は文字通り晴れ晴れとし、何の緊張感もなく、一切の桎梏がとれたような、安堵感に満ち満ちた何の屈託もない顔であった。そこには何やら洪中将らしからぬうきうきした調子さえ見られたという。生涯、自分を圧していたものが急に消えて、長い長い緊張から解放されたのであろう。

斉藤氏は、そのときの洪中将の素顔を忘れ得ないという。

「中学校の先生」という言葉をちょっと奇異に感ずる人もいるかもしれない。しかし洪中将の軍歴を見ると必ずしもそれは不思議ではない。千葉の歩兵学校の教官、公主嶺の教導学校の教官等、軍隊内のいわば教育畑で活動した時期は相当に長かった。性格的には軍人よりも教師に向いていたのかもしれない。後に米軍人から「ジェネラル洪はプロフェッサー(教授)だったそうだが・・」と言われた人がいるが、何となくそういった印象をもっていた人が多かったらしい。そして洪中将自身も「自分は教育者向き」と感じていたのではないかと思われる。

 終戦と同時に洪中将は韓国軍の創設を考えていたという記述もあるが、これはおそらく、一部の人の想像であり、また後に韓国系日本軍軍人の多くが韓国軍の幹部になったことから「洪中将が生きていたらおそらく最高幹部になったであろう」という推定から生まれたのであって、洪中将にその野心があったとは思えない。だがたとえ無事に故国に帰っても、朝鮮戦争は、洪中将を中学校の先生にしておかなかったであろう。