2018年4月29日日曜日

20180429 継続して自身を何かに投じることにより得られるものとは・・?

本日は休日ということもあってか、昨日投稿分の記事はかなり多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

たしかに昨日投稿分の記事にて述べた『思想・観念』に関しての議論は難しく、仮に誰かが、その『思想・観念』を完全に理解しているとしても、それにより、その誰かが『思想・観念』を保持していることにはなりません。

おそらく『思想・観念』を保持することとは、そこに自身を(ある程度持続的に)投じてみる必要があるのではないかと思われます。

約言しますと『『思想・観念』を保持するためには、自身がそれと一体化する必要性があり、それは客観視による理解とは、異なった相にあるものと云える。』となります。

そこに昨日投稿分の記事にて述べた『我が国は『思想・観念』の構成要素である文字に関しては古来より高い識字率を誇ってきたが、それを用いて編まれる『思想・観念』に関しては広く関心を持たれることはなかった。』ということを加味して考えてみますと、我が国は、実用的であり且つ娯楽享受のための手段ともなる文字に関しては、時代を通じて積極的に広く受容したが、それと同じ文字を用いる『思想・観念』については、本質的にそれらは自身を投じる必要があり、そこから人の思考・行動をも変え、ひいては社会の安定のためにも好ましからざるものとされ、忌諱されるに至り、それが尾を引き現代に至っているとも考えられますが、さて如何でしょうか?

ともあれ、そうした事情から我が国は『思想・観念』に関しては、同じく科学技術全般などと比較した場合、それと同水準にあるとは決して云えなく、また今後もこうした『思想・観念』を扱う分野においては、国際間では言語の違いなどもあるのでしょうが、それ以前にさきに述べたような背景により、我が国はさらなるガラパゴス化を余儀なくされるのではないかと思われます・・。

そして、そこから招来されるであらう事態を多少は改善できるのではないかと思われる方策は、第二外国語のように文系であれば理系の何か、理系であれば文系の何か能動的に取り組む(自身を投じてみる)ことが出来る分野・科目を副専攻として研究することが一般化することであると考えます。また、ここで重要なことは、あくまでも能動的(自身を投じてみる)ということであり、それが出来そうでなければ、どちらか一つでも十分ではあるのですが、ただ、そうした方々が増えることにより、将来における『思想・観念』の創造性は多少は良くなるものと思われますが、さて如何でしょうか?

おそらく我が国は伝統的にその多くが定住型の水稲耕作民であることからか『思想・観念』に限らず、自身を何かに投じてみることを忌諱する傾向があるのではないかと思われます。

その意味で、当ブログは本名にて運営しており、いくらかは自身を投じているとも云えますが、それでも将来における『思想・観念』の創造性は不明のままであり、また同様に文体の獲得も未だ為されていませんが、それでも何かしら自身が寄与できそうなことに継続して能動的に取り組む(自身を投じてみる)ことが、さきの創造性の素描となり、文体の獲得となっていくように思われますが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

ここ数年来、現在に至るまで、列島各地において生じた、もしくは現在も発生している地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念します。


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昨年暮に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
著書名:『CAD/CAMマテリアル完全ガイドブック』
ISBN978-4-263-46420-5











20180428 『思想・観念』は『その思想が述べられている文字列?』・『木を隠すなら森の中?』

本日の首都圏は天気も良く、温度も上がり、ゴールデンウィーク初日にして既に晩春を感じさせるような陽気であったと思われます。
さて、現在あらためて読み進めている著作が『大学とは何か』であること、および昨日投稿分記事から着想したと思われるのですが、先ず
『思想・観念』には色やカタチといったものはありません。
他方、たとえば何らかの『病気・症状』なども、さきの『思想・観念』とほぼ同程度に、その具体像が思い浮かぶというものありません。しかしながら『病気・症状』には目視可能な何らかの像を結ぶ存在があり、そして、それを専門とする方々にとっては、色やカタチなどを含めて何らかの具体像が思い浮かぶ存在であると云えます。そして、それと同様の意味合いにおいて『思想・観念』には具体像といったものがなく、そこから『思想・観念』とは『文脈ありき』もしくは、ある程度の時間的な継続性に依拠する存在であると思われます。また、それは以前に抜粋引用した中井久夫の記述によると『積分回路』・『参照のシステム』であり、あるいは、強いてその具体像を表現してみますと『その思想が述べられている文字列』となります。
しかし、であるからといって『その思想が述べられている文字列』が存在さえすれば、そこに『思想・観念』がたしかに存在する、もしくは存在したと証明出来るわけでもなく、皮肉なことであるのか『思想・観念』が著される『文字』が広汎に用いられる、一般化されることにより、その『思想・観念』の存在は、反比例的にとも評し得るほどに減少していくのではないかと思われます。
約言すると、文字が一般化された社会においては特に、ある『思想・観念』の存在を『その思想が述べられている文字列』の有無により判断することが困難となり、その意味で古くから識字率の高さが一つの特徴である我が国が、同時に『思想・観念』などに関しては、実質的にあまり重要なものとは考えない、関心を持たないこととも浅からぬ関連があるように思われるのです。(またそれは、現在のさまざまな国際レベルにおける歴史問題にも通底するものがあるように思われます・・。)

また、たとえ『思想・観念』が実際に存在するとしても、そこに、他の大量の『思想・観念』とは云えない何かしらの文字列が存在すれば、さきの『思想・観念』は相対的なものとなり、次いでその中に徐々に埋没していくのではないかと思われます。(それはまさしく現代の大量生産・大量消費社会ではないだろうか?)
その意味で『思想・観念』とは云えない何かしらの文字列の存在が比較的少なかったかつての時代の方が、幸せであったのかもしれませんが、しかし、そうした社会であっても、文字の運用を『思想・観念』に関しての議論および新たな
創造に多くの人々があまり関心を持たないといった傾向とは、かつての特に近世以降の施政に淵源があるのか、あるいはそれ以前よりそうした傾向が社会に存在していたのか分かりませんが、そこには、やはり時代を通じ普遍的に理解・解釈可能な正典が存在しないことが、ある程度影響しているように思われるのです・・。

また、さらに近年のインターネットなどの情報技術の進化発展に伴い、画像も文字も更に一般化されつつありますが、そうしたいわば多くの画像・文字情報に恵まれた状態こそが、新たな創造、進化発展において適しているというわけでもないように思われるのですが、さて如何でしょうか?
ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


現在までに列島各地にて発生した、あるいは現在も発生している地震・大雨・水害・火山噴火などといった大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念します。


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2018年4月28日土曜日

20180427 1000記事到達まで30記事を切って当ブログについて思うこと等々・・

これまでに自身が作成したブログ記事は、概説的なものに関しては、作成の際に書籍を開き調べつつ作成してきましたが、そうでない散文的な記事で、いくらかの知識・知見が散見される記事に関しては、概ね作成の後、インター・ネットにてそれらを検索し、リンクさせています。

さて他方、これまでに作成・投稿した全ての記事のうち、200記事程度は書籍からの抜粋引用であり、残りの700記事以上は一応自身オリジナルの文章であると云って良いです。また、さらにそのうちの200記事程度は対話形式であり、独白形式の散文にて作成したオリジナルの記事は全体として500記事程度と云えます。

しかし、であるからといって、これまでに投稿した900記事以上全てをオリジナルの独白形式の文章にした方が良かったとは考えていませんし、また、それが現在の自身の文章力であり、そして同時にその文章力は、これまでの記事作成・投稿の過程により、かつてに比べ、いくらかは進化・向上したのではないかと思われるのです・・。

それ故、1000記事までどうにか到達することが出来た後、どこまで記事作成を継続するか分かりませんが、その後の継続は、ある意味では、これまでと同様ですが、継続の為の継続ではなく、より意識して作文能力の向上・文体の獲得を目指して継続していきたいと思います・・。(しかし、目指したり意識しても出来るものでもないのですが・・(苦笑)。

またさらに、ブログ記事作成の手法における新たな試みも行ってみたいと考えていますが、そうしたことは1000記事まで残り数記事となったみたところで実際に考えてみようと思います。

そういえば、本日に関してはどうしたわけか、直近数記事にて延べてきた思想的なことの着想が得られませんでした。また、電車の中ではつい先日に読了した『大学とは何か』を再読し、その際には、いくらかはブログ記事の題材となりそうなことも泡のように心中に浮かんできてはいたのですが、いざ記事作成の段になると、こうした有様になってしまうことに関しては、今後何らかの手段を考えることにより、いくらかは改善することが出来るようにも思われます。

また、それとは別に現在光人社刊 村上兵衛著『桜と剣』を読んでいますが、これも我が国の太平洋戦争の敗戦に至るまでの近現代史の一側面を述べたものとして一連の『石光真清の手記』と同様、興味深い著作と云えます。そして、我が国の近現代史について興味をお持ちの方は特に御一読の価値があると思います。

司馬遼太郎の小説のように概ね俯瞰的な視野にて歴史の様相を扱った著作もたしかに面白いのですが、やはり、歴史を帰納法的に知るためにも、こうした著作が比較的多く存在している我が国は、やはりどこかしら優れたところがあるように思うのですが、さて如何でしょうか? 

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

近年来より現在に至るまで、列島各地にて発生した、あるいは現在も発生している地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模自然災害によって被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念します。


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2018年4月27日金曜日

20180426 970回目の投稿、ここ数日の投稿記事から悲劇の英雄と都会対地域の構図

今回の記事投稿により総投稿記事数が970に到達し、同時に1000記事達成まで残り30記事となります。そして今後もまた、現在の調子にて記事作成を継続することにより、来月中の1000記事達成がいよいよ現実味を帯びてきます。

とはいえ、今更1000記事達成とは書いてみましても、あまり現実味どころか高揚感らしきものも殆どないのが現状と云えます(苦笑)。そうした状況の中で記事作成が出来ているのは、これまで継続してきたことからくる惰性らしきものと、読んでくださっている皆さまの存在に因ると云えます。

また、それにも多少関連して昨日投稿分の記事は、ここ数日間の投稿記事内容を関連させたものとなりましたが、思いのほかに多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、そこで述べた内容は、特に銘記するまでもなく、あるいは意識の有無に関わらず、我が国の歴史の基層部に組み込まれている、流れているものであると思われます。

それは、欧米由来の近代学問がもたらした普遍的な歴史の発展様式とは異なった土俗的、情念的なものであり、また同時にそれは我が国の歴史の流れ、渦といったものを惹起させる作用をも持ち、端的に、それ抜きにして我が国の歴史は語れないと考えます(あまり声高に主張すべきことでもないのでしょうが、そこに民俗学の価値があるのではないでしょうか?)。

ともあれ、それは父権的な強さ、あるいは母性的な慈愛を備えた啓的宗教といったものを好まず、持たない我が国においては、浮遊し易い良心に対して錨のような効果を持ってきたのではないかと考えます。しかし他方で、時代が経過すると、そうした存在に対し、実在性の認識に由来する共感を抱くことが困難になり、新たなそうした存在を半ば無意識のうちに要請するようになるのではないでしょうか?

その意味において今年の大河ドラマが近代日本最大の悲劇の英雄とも云える西郷隆盛であることには、あるいは深い意味合いがあるのかもしれません・・。

しかし、これまでにも述べてきたことではありますが、そうした都会(概ね東京)発のメディアが発するコンテンツは、昨日分の投稿記事に挙げた歴史上の悲劇の英雄を扱う場合、その活動において最も特徴的であり、且つ注力すべきである悲劇の様相の徹底的な描写を意図的であるのか避けているように思われるのです。

何故ならば、多くの場合、そこには都会対地域といった構図が見え隠れしているからではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

あるいは地方が叛乱を起す程度にまで元気になられると国家
としては困るのかもしれません。そして、その意味での現在の地方創生・再活性化などは都会(概ね東京)発のメディアなどが牽引するのは、いくらか長い目で考えてみますと、あまり良い効果はもたらさないようにも思われるのですが。さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

近年とり
現在までに列島各地において発生した、あるいは現在も発生している地震・大雨・水害・火山噴火などといった大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念しています。

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2018年4月26日木曜日

20180425 形而上的要素と形而下的要素との関係性について昨日・一昨日の記事に関連して・・

本日の首都圏は朝方からの強い降雨が昼過ぎ頃まで続き、その後断続的な小降りとなり、現在に至っています。

さて、昨日投稿分の記事の記事もまた一昨日に続き書籍からの抜粋引用でしたが、これも投稿翌日にしては比較的多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

ともあれ、こうした、かつて為された対談を文章として読み、それを書き写していますと、数十年後である現在の我々の方が、そこから進化し、優れているとは云い難いといった感覚を覚えるのです・・(苦笑)。

さて他方で、我々が用いる諸道具については、一般的にかつてに比べ進化し、優れたものになっているとは思われるのですが、やはり、さきの対談にて述べられていたような知見・見解については『現在では、こうした知見・見解のを自身のものとして述べることが出来るような方々は一体どれだけいるのだろうか?』と思うに至り、冒頭のような感覚を覚えるのです。

漠然とした見解ではありますが、おそらくこれまで地球上に存在した様々な文明・文化もまた、諸道具などを包括するような形而下的要素と、さまざまな無形の概念・思想などを包括するような形而上的要素によって構成されており、概してそれらは時代を遡るにつれて、その関係性が看取し易くなるものと考えます。つまり、過去に遡れば上るほど、社会における情報伝達の手段・精度などが制限されることにより、そこから形而上的要素に対して変化をもたらす刺激が乏しくなり、形而上的要素を創造の母胎とした諸道具などの形而下的要素との関係性が単純なものとなり、その関係性の看取も比較的容易になると思われるのです。

とはいえ、当時の人々はあまりそうしたことを考えることはなく、むしろそれだけに無心に、そして純粋に各々の形而上的要素と形而下的要素がしっかりと噛み合い駆動・活動していたと考えます。また、その分野の専門ではありませんが、この視点が原始芸術とも云えるさまざまな遺跡・遺物などを観察する際において大事であると考えます。

また、その意味において、近年のインターネットによる情報技術の進化発展は、検索内容に画像も含まれることから、さきに述べた関係性といったものも比較的容易に認識することが出来るようになったのではないかと思われます。

しかし一方で『その方法(インターネット)にて得た認識がどの程度の応用性・持続性といった、いわば認識としての強度を持っているのか?』ということが今後の問題になるように思われます。

これを考えてみますと、否応なしに想起するのは、欧米をモデルとした急速な近代化を推し進めた近代以降の我が国の歴史であり、こうしたものは、本来であれば出来るだけ漸進的に、そして自然に変化していく方が望ましいのかもしれませんが、世界の極東に位置する我が国は、古来より、軽佻浮薄をもあるいは是とするような、急速な変化を余儀なくされるという、いわば地政学的な意味での宿命らしきものがあるのかもしれません・・。

そして、そうした視点から見ますと一昨日に抜粋引用した『大学とは何か』と昨日の『対話・日本人論』もまた特に無理なくつながるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

そういえば昨日の『対話・日本人論』の抜粋引用部は主に三島由紀夫著『英霊の声』に関しての記述であり、この小説では『われらは30年前に義軍を起こし、叛乱の汚名を蒙って殺されたものである』。また、『われらは戦の敗れんとするときに、神州最後の神風を起さんとして、命を君国に捧げたものだ』と、2・26事件と神風特攻隊をにて亡くなった方々のコトバを神主に憑依して述べるといったカタチをとっていますが、こうした生前の行為を裏切られ、そして命を落とし怨霊となった方々の物語・伝承(筑紫君磐井・菅原道真・平将門・早良親王・崇徳上皇・・)については古代より事欠かない我が国とは、やはり謀(はかりごと)が好きというよりも、どちらかというと論理的・筋道の通った話し合いによる合議的なものよりも、情緒的な会話にてナアナアにしておいてから、物理的に始末するといった、ある意味での情緒的清浄性の方が好まれている(これは一種の精神的な意味での潔癖症であるのか?)ようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

近年より現在に至るまでに列島各地において発生した、あるいは現在も発生している地震・大雨・水害・火山噴火などといった大規模自然災害によって被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念しています。


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2018年4月24日火曜日

20180424 夏目書房刊 林房雄 三島由紀夫 『対話・日本人論』pp.38‐42より抜粋引用

夏目書房刊 林房雄 三島由紀夫 『対話・日本人論』pp.38‐42より抜粋引用
ISBN-10: 4931391966
ISBN-13: 978-4931391963

『林 僕は英霊の声についての文芸批評を、ほとんど全部読んでみたが、みんなあれはイデオロギー小説だと思っているようですが、しかし「英霊の声」には、イデオロギーはない。
批評家諸君はイデオロギーという言葉をどう解釈しているのか、イデオロギーはふつう、社会思想と訳されているが、つまり集団の思想で、個人の自由な思想とは対立する。「英霊の声」は思想小説であっても、イデオロギー小説ではない。三島由紀夫という個人の自由な発想の上に成り立っている。

イデオロギーは、一つの集団、または党派の立場から絶対化されたものだから、個人の思想をのみこみ、場合によっては圧殺するものです。そういう意味のイデオロギーは「英霊の声」のなかにはない。三島君の心の中に「憂国」や「十日の菊」のころから萌芽し成長し続けた自由な思想がある。その自由な思想が現在の日本という大衆社会化され、平均化され、アメリカナイズされ、占領民主主義化された現状にたいして激怒している。
神格天皇と人間天皇の問題で戦後の天皇制にまで怒りのしぶきがかかっている、ここに詩がありますね。三島君自作の詩。

『日の本のやまとの国は・・・
人ら泰平のゆるき微笑み顔見交わし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦いのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能わず
いつわりの人間主義をたつきの糧となし
・・・・
大ビルは建てども大義は崩壊し、
その窓々は欲求不満の蛍光灯に輝き渡り、
感情は鈍麻し、鋭角は摩滅し
烈しきもの、雄々しきも魂は地を払う。
・・・・
かかる日に、
などてすめろぎは人間になりたまいし』

たいへんな怒りです。「などてすめろぎは人間になりたまいし・・」これは一つの「自由な思想」です。天皇制についてはいろいろと議論があるでしょう。私の天皇観は三島君と少しちがうようだが、私はそれにこだわらずに読むことができた。あなたの現在日本の大衆社会に対する怒りがいかに激しいかを感得しただけです。 


三島 やはり狼少年みたいなもので、僕はときどき、狼が来るぞと人をおどかすものですから。ほんとうに狼が来たと思って書いたのですけれども、そうするともうだめなんです。だれも信じない。それはやはり、自分が悪いのだと思います(笑)。

林 ある批評には、三島君本人が本気で信じているかどうか疑問であると書いてありましたがね、この批評は次元が低い。おのれの低さを告白しているだけのものだ。作家というものは、信ぜずに書けるはずはありませんよ。戯作や喜劇でさえ。

三島 「英霊の声」は、自分でいうのはおかしいが、非常にとりつかれたようになって書いたので、嘘であんな気分にはなれませんね。

林 と思いますね。僕たちは現在の大衆社会というものについてもっと考える必要がありますね。つまり、あなたをこれだけ怒らせたものは何か?それは大衆社会だ。ここでヤスパースを引用したいのですが、ちょっと読んでみます。ヤスパースは大衆というのは、民族とは違うと言っている。

「民族はさまざまな秩序に成員化され、生活方式、思惟様式、伝承において自覚的である。民族は、実体的なものであり、共通した雰囲気をもち、この民族の出身の個人は、彼を支える民族の力によっても一つの個性をもっている。・・・これに反して、大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承ももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任を持たず、最低の意識水準に生きている」
テクノクラシーの時代の大衆ですね、平均化された大衆が大量に生産されて時代を支配する。この大衆においては、労働が機械化され、平均化されるばかりではなく、余暇つまり、レジャーでさえ機械化され、遊興もまた別種の労働になる。・・・いわゆる人間疎外状態ですか。ヤスパースの言葉でおもしろいのは、大衆は知識人たる自分自身のなかにも存在しているといっている点です。

「個人は、民族であると同時に大衆である。個人は、彼が民族である場合と大衆である場合とで、まったく別々な感情を抱く。状況は、大衆たることを強い、人間は民族たることを固執する。例をあげて具体的に説明すると、大衆としては普遍的なもの、流行、映画、そういうような、私は単なる今日の現象を追い回し、民族としては具体的に生きている現実、かけがえのない現実と、歴史的に源泉的な伝統を欲する。
大衆としての私は、ステージの上のスターに熱狂して声援を送り、民族としての私は、私の内奥で生を越える音楽を味わう。大衆としての私は、数でものを考え、なにもかも積み重ね、水平化してしまう。民族としての私は、価値の上下を区別し、組織立てて考える」

と言っています。民族としての自覚というのは、歴史的自覚ですね。それを失うと、その民族は滅びてしまうというのが、ヤスパースの主張なんです。』



20180423 主に書籍からの抜粋引用 岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学とは何か』より

先日より読み進めていた新書も去る土曜日に読了しました。その著作は岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学とは何か』であり、読んでいる際に何度か読み進むのを止めて考えさせられました・・。
これまで当ブログにて述べてきたことではありますが、自身は元来が人文社会科学系の人間であり、そこから、高等教育において教養教育を大事にした方が良いとは考えているのですが、しかしそれは、現在の我が国においては困難であるように思われるのです・・。

おそらく現在の大学が持つ一般的な傾向は、将来において役立つ専門的知識の獲得に主眼が置かれ、また、それはそれで正しいとは考えるのですが、ただ、それのみに、いくらか近視眼的にピントを合わせ過ぎているのではないかとも思われるのです・・。

しかしまた、他方で、少子化が進み、学生数全体が減少している昨今の状況においては、大学においても、市場をめぐる企業のように、何か一つの顕著な傾向・動きが生じると、それを基軸として競争のようなものが否応なく生じ、そして、その中で孤高を保つことは実質的に困難であると思われますので、仕方がないのかもしれませんが・・。

そして、そのように考えてみますと『では大学とはそもそも一体誰のものか?』といった根本的な疑問が生じてくるわけですが、それについて面白い記述がありましたので、以下に抜粋引用しようと思います。

岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学とは何か』pp.235‐236より抜粋引用
『この半世紀に及ぶ大学改革で問われ続けたのは、「大学はだれのものか」という問題だった。かつての帝国大学では、この問いへの答えは明白だった。大学は国家のためのもので、それはすなわち天皇のためのものだった。新制大学で、当然ながらこの前提は否定された。それでは戦後、大学は「国民のため」のものになったのか。しかし、戦後の大学を特徴づけてきたのは私立大学の利益目的の大拡張であり、理工系の規模拡大であった。
その結果、大量の品質保証された「会社員」や「技術者」が養成された。つまり戦後の大学が貢献したのは、経済成長に突き進む企業社会であった。それなら大学は、「天皇」のものから「企業」のものになったのか。しかし、他方で大学は、企業が求める有用性からはずれる教養知を保持し続けた。そのような知を擁護してきたのは大学教師たちであったから、大学はその教師たちのためにあったことになるのだろうか。彼らは、国家という主人が消えた大学で、自ら主人となったのだろうか。

六〇年代末の学生の叛乱は、これらのいずれとも異なる仮説を立てた。彼らからすれば、大学は学生のもの」だった。
たしかに、バリケードのなかの「もう一つの大学」は、学生たちのものであった。しかし、四六答申も、永井の公社化構想も、大学を学生たちのものだとは考えていない。学生は大学の不可欠の担い手だが、大学は彼らだけのためにあるのではない。学生が大学の主人であるとすると、かつての「闘う学生」の時代はともかく、八〇年代の「消費する大学」の時代には、大学は移り気な消費者のためのサービス財になってしまう。

だから大学が、単に国家のものでも、産業界のものでも、教師たちのものでも、さらには学生たちのものでもないとするならば、大学はいったい誰のものなのか。

すでに見たように、カントやデリダ、あるいは南原繁など、近代的大学概念の転換点に直面した思想家たちは、この問いに一定の答えを与えてきた。彼らが主張したのは、何らかの人類的普遍性である、大学はこれまでも何度かの危機に際し、目前の関係者の利害を超える普遍的な価値を標榜してきた。そして中世から近代への境目、あるいは現在のように、この価値への信憑が失われるとき、大学は重篤な危機に直面してきた。

この普遍的な価値への志向を保持し続ける限りにおいて、大学は完全には法人になりきることができないが、しかし法人としての大学は、そのような価値を顕示し、それに支えられるのでないと、どこにでもある知識サービス産業と変わらないものになってしまう。社会に適合した法人の持続可能なマネジメントと普遍的価値への奉仕、この両面を未来の大学はいかに組み合わせていくべきだろうか。』


さて、なかなか考えさせられる文章ではないでしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

近年来より現在に至るまでに列島各地にて発生した、あるいは現在も継続して発生している地震・大雨・水害・火山噴火などの大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念しています。


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