本日は複数の著名とされている先生からお電話を頂き、かなり驚きました。
こうした種類の対人での緊張感とは昨今なかなか経験することがなかったため、あるいは電話での応対の際、かなり『あやしげ』であったのではないかと思われます・・(苦笑)。
メールでのやりとりであれば、概ね大丈夫であると思われるのですが、やはり実際の対人応接能力に関しては慣れておくことが重要であることを再認識しました・・。
その意味において、昨日投稿のブログ記事にて書いた『医局・講座』は、始終何かしらの人がいる環境であることから、たとえ臨床を含まない基礎講座においても、ある程度、多岐にわたる対人応対能力は自然に修練そして保持されるのではないかと思われます・・。
またそれは他の理系の研究室とも微妙に異なり、さらに文系の研究室とも大きく異なるといえます・・。
(医療系においてもバラつきは少なくないかもしれないが)
ともあれ、自身としては、最も居心地が良かったと思われるのは、自由度が極めて大きかった文系院の研究室であり、また、おそらくこれが自身の学問に関しての原風景・刷り込みであったのではないかと考えます。
それ故、のちに歯系院の講座に所属することになった当初の自身とは、かなり浮いた変な存在であったのではないかと察せられます・・(苦笑)。
そしてまた、そのことから周囲の方々に対して色々とご迷惑をおかけすることもあったのではないかとも思います・・。
しかし、そこで大変偉いと思うのは周囲の先生方であり、そうした(異様な存在である)私に対し特に頭ごなしに型に填めようとするのではなく、何となく、自然に講座に馴染むような接し方をしてくださったように思われるのです
(あるいはこれも一種の地域性の発露であるのかもしれません)・・。
とはいえ、もう少しこれを考えてみますと、自身が属した講座とは、一般的な見地から何らかの意味で『変わった人』が多く、そのことから当時のこの講座とは、そうした方々が集まってくる『何か』があったのではないかとも思われるのです・・(笑)。
そして、そこまで書いておりますと不図思い起こされるコトバは大分以前に文系の師匠が仰った『教育者の本当の力量というものが如実にあらわれるのは、時折いる良くも悪くもの規格外の学生等に対する伸び代へのアプローチとその後でしょう・・』というコトバであり、そして今になり振り返ってみますと、たしかに、この師匠のもとにも、どうしたわけか、多少変わった方々が多く集まっておりました・・。
また、同様に文系院においても、よく議論を交わした方々と連れ立って質問を携え度々訪問した先生もまた、現在に至るまで、時折いるこうした種類の(変わった)院生に慕われているとのことです・・。
私はこうしたことを的確に認識出来るような感覚およびその感覚の洗練とは、きわめて重要ではないかと考えるのですが、さて如何でしょうか・・?
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
2017年8月29日火曜日
20170828 医局・講座制の今後の持続(発展)可能性について思ったこと・・
本日のブログ記事投稿により総投稿記事数が730となります。
これも、あまり区切りの良い数字ではありませんが、これにより、とりあえずの目標としている800記事まで残り70程度となり、さらに現在のペースにて記事作成を継続することにより2カ月以上3カ月未満にて、この目標に到達することが出来ます。
そのように考えてみますと、先は長いようですが、同時に、このようにして書き続ける以外に良い方法があるとは思われないことから、おそらく今後もしばらくは書き続けることになると思われます・・(苦笑)。
さて、以前に投稿したブログ記事において大学の学部・研究科により、その単位となるグループ組織の名称およびその背景文化が大きく異なると述べましたが、その中でも特に医療系(医科・歯科)にて古くから存在する医局・講座制とは、かなり独特な組織ではないかと思われます・・。
これに類似しているものを挙げるとすれば、それはあくまでも想像ですがヤクザの世界ではないかと思います・・(笑)。
また、我が国では以前より医局・講座を舞台とした小説、ドラマ、マンガなどが少なからず存在しておりますので、もしかするとヤクザの抗争ものの映画と同様、男性を主とする組織の権力闘争とは、観客として見る分においては、少なくとも、つまらないものではないのかもしれません・・(苦笑)。
・・とはいえ、であるからといって自身は医局・講座が悪いものであるとは決して考えません。
むしろ、ある程度専攻する研究分野が決まっているのであれば、その研究分野に最も近いことを主として研究してる医局・講座に属するということは、研究の効率的な進展のために望ましく、またその際に否応なく生じる上下関係などは、仕方がないというよりも当然のことではないかと思われるのです・・。
しかし、その点において文系学問での博士課程においては、全般的にもう少しフラットな自由競争に近いものであり、自身の努力・才覚如何によっては(面倒な)上下関係など飛び越え、早々に学位を取得し、研究者として就職することも可能であるとのことです・・。
以上の見識から(ある程度確からしい)結論を出すことなどは到底できませんが、それでも大きな傾向として思うことは以下のとおりです。
医療系をはじめとする(臨床)技術を基礎に置く理系学問分野においては、特に古くからの徒弟制度的な機能が(ある程度)組織にて担保・保持されていないと、その機能を媒介として更新継承され続けてきた(臨床)技術にくわえ、その機能が文化としての役割を果たし為されてきた医療倫理あるいは哲学などの更新継承が絶えてしまう(形骸化してしまう)のではないかと思われるのです・・。
私見としては、今後、医療介護などを包括するような大学外の講座(学外講座)といったものが実質を伴い増加することにより、大学および外部医療機関双方の持続(発展)可能性が強化されるのではないかと思われます。
そしてまた、そうした環境に何らかのカタチで文系の人間を合金、セラミックスの成分設計における微量元素の添加にように少数放り込んでおくと時折面白いことが生じる(こともある)のではないかと思われます・・(笑)。
そして、逆もまた同様であるかもしれません・・(笑)。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した地震・大雨・水害といった一連の大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧そして回復および、その後の復興を祈念します。」
2017年8月28日月曜日
20170827 『抽象化・解釈の仕方の傾向から我が国のことを考えてみると・・』
本日の首都圏は日中、夏らしい暑さではありましたが、日が暮れてきますと、日中の暑さは和らぎ、夜半においては幾分秋の気配らしきものをも感じさせました。
さて、ここ数日来ブログ記事題材において『抽象化』を扱っておりますが、抽象化とは換言してみますと『解釈の仕方』ではないかと思われます。
たとえば数人にてある実体としての動物を見た場合、その生物としての分類、かわいいかどうか、そして食用になるかなど、さまざまな解釈の仕方が存在するといえます。
そして、それぞれの解釈の仕方から、さらに深化したカタチにて考察、議論が為されていくのでしょうが、これにもまた各々の『解釈の仕方』が存在し、そしてそれに伴いまた抽象度が高くなっていくものといえます。
具体的な例を挙げますと『蛇』は生物的には爬虫類に分類(解釈の仕方)され、また他方、世界各地の信仰、宗教などにおいては、それぞれ地母神、豊穣、精力、死、悪魔といった多様な意味合い(解釈の仕方)を持っています。
さて、以上のことを踏まえ、特に普遍性をその学問的基礎に置く理系学問分野においては
さきの『蛇』の場合、その起点においては概ね生物学的な分類があり、そこから派生し、各々分野における特有の抽象化が為されるといえます。
とはいえ、こうした方向での考察、議論とは、その起点にあるものが(国際的な意味においても)普遍性を礎とするものであることから、たとえ言語が異なっていようが、その意味・内容を理解することが可能であるならば、多くの場合、既に為されている最先端の考察、議論に追いつく、キャッチアップすることは(比較的容易に)可能であるといえます。
そして我が国の国際間での理系学問分野における優秀さの基礎となるものとは、おそらく19世紀中葉頃において強く悟った西欧諸国の優秀な科学技術(理系学問の具現化されたもの)への効果的な対応の方法に拠るものであり、またそれ以前より古くから外来異文化の吸収を習い性としてきた我が国特有の一種のTraitにあるのではないかと考えます。
そうした(解釈の仕方の)結果として思うことは、我が国社会とは明治維新以降、断続的ではあるものの、同時に視野を少し大きく【倍率を低く】すれば継続的に、現在に至るまで、それまでも我が国社会において基調として存在していた即物、此岸的傾向を更に増強しつつ、また、まさにその一方で国際的視野において決して普遍的とはいえない固有の文化、伝統といったものを忘れ、捨て去りここに至っているようにも思われるということです・・。
【あるいは我が国の妖怪とはその象徴であるのかもしれないが、その妖怪すら現代的な解釈の仕方によって本来、古来からの意味合いを失いつつある、結句それは各時代時代において商売の道具、メシのタネにさえなれば、何でも良いのかもしれない・・(笑)】
もちろんこれも解釈の仕方の一つにすぎませんが・・。
しかしその一方において(たとえ断片的ではあったとしても)事実・真実とされるものもまた、このご時世においては解釈の一つなのです・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。
さて、ここ数日来ブログ記事題材において『抽象化』を扱っておりますが、抽象化とは換言してみますと『解釈の仕方』ではないかと思われます。
たとえば数人にてある実体としての動物を見た場合、その生物としての分類、かわいいかどうか、そして食用になるかなど、さまざまな解釈の仕方が存在するといえます。
そして、それぞれの解釈の仕方から、さらに深化したカタチにて考察、議論が為されていくのでしょうが、これにもまた各々の『解釈の仕方』が存在し、そしてそれに伴いまた抽象度が高くなっていくものといえます。
具体的な例を挙げますと『蛇』は生物的には爬虫類に分類(解釈の仕方)され、また他方、世界各地の信仰、宗教などにおいては、それぞれ地母神、豊穣、精力、死、悪魔といった多様な意味合い(解釈の仕方)を持っています。
さて、以上のことを踏まえ、特に普遍性をその学問的基礎に置く理系学問分野においては
さきの『蛇』の場合、その起点においては概ね生物学的な分類があり、そこから派生し、各々分野における特有の抽象化が為されるといえます。
とはいえ、こうした方向での考察、議論とは、その起点にあるものが(国際的な意味においても)普遍性を礎とするものであることから、たとえ言語が異なっていようが、その意味・内容を理解することが可能であるならば、多くの場合、既に為されている最先端の考察、議論に追いつく、キャッチアップすることは(比較的容易に)可能であるといえます。
そして我が国の国際間での理系学問分野における優秀さの基礎となるものとは、おそらく19世紀中葉頃において強く悟った西欧諸国の優秀な科学技術(理系学問の具現化されたもの)への効果的な対応の方法に拠るものであり、またそれ以前より古くから外来異文化の吸収を習い性としてきた我が国特有の一種のTraitにあるのではないかと考えます。
そうした(解釈の仕方の)結果として思うことは、我が国社会とは明治維新以降、断続的ではあるものの、同時に視野を少し大きく【倍率を低く】すれば継続的に、現在に至るまで、それまでも我が国社会において基調として存在していた即物、此岸的傾向を更に増強しつつ、また、まさにその一方で国際的視野において決して普遍的とはいえない固有の文化、伝統といったものを忘れ、捨て去りここに至っているようにも思われるということです・・。
【あるいは我が国の妖怪とはその象徴であるのかもしれないが、その妖怪すら現代的な解釈の仕方によって本来、古来からの意味合いを失いつつある、結句それは各時代時代において商売の道具、メシのタネにさえなれば、何でも良いのかもしれない・・(笑)】
もちろんこれも解釈の仕方の一つにすぎませんが・・。
しかしその一方において(たとえ断片的ではあったとしても)事実・真実とされるものもまた、このご時世においては解釈の一つなのです・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。
2017年8月27日日曜日
20170826 次に読む書籍に関して思ったこと【文体に慣れる】☜これが大事かもしれない
先日下巻を購入した著作はこれまでで半分程度にまで至りました・・。
下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。
ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。
また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。
またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。
ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。
それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。
また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。
しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。
時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。
とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。
さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。
ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。
また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。
またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。
ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。
それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。
また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。
しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。
時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。
とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。
さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
2017年8月26日土曜日
20170825 昨日の続き 【事物の抽象化の傾向・癖】【社会全体の創造性】について思ったこと
本日の首都圏はまた昨日同様に気温が上昇し、夏らしく蒸し暑い一日となりました。
また、昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々(35)に読んで頂けたようです。
さて、この記事の主題であった『事物の抽象化』とは、昨今興味深く思っていることのひとつであり『各個人それぞれが持つ事物に対しての抽象化の際に見受けられるある種の傾向・癖とは一体どのようにして成り立っているのか?どのような背景を持っているのか?』とは、なかなか奥が深いことではないかと考えます。
さらにまた、こうした視座とは、個人のみならず、地域・国家などの歴史に対しても応用可能であると考えられることから、あるいはさまざまな議論、話し合いなどの際における有効な視座となり得るのではないかとも思われます。
しかしながら、おそらく議論、話し合いでの『当初から』その視座が決められているのであれば、それはそれで、平和な議論、話し合い、そして予定調和的な結論が得易くはなるのでしょうが、そうした状況が常態化し進行しますと、それは議論、話し合いというよりも『演劇』として分類されるようなものになると思われるのです・・(苦笑)。
また、それは本当の議論を(ある程度)経験されたことのある方でしたら、それこそ当記事冒頭で述べたような『事物の抽象化』を通じ、ある程度明瞭に判ぜられるのではないかと思われます。
加えて、それとほぼ同様の理由から、昨今の『テレビ番組全般があまり面白くない』といった意見にもつながるのではないかと思われます。
インターネットが普及した今日においては、本物に似せた演劇・お芝居(映画、ドラマなど)よりも本物を手軽に視聴することが出来てしまうのですから・・。
そうしますと、創造の世界を描き、魅せる(観せる)という意味でアニメ・マンガなどに以後増々頼ることになるのでしょうが、しかし、それも続けざまで行いますと食傷気味になるでしょうし、それより何よりそれは本質的には創造とは異なるものであるように思われるのです・・(原作のアニメ・マンガは創造であると考えますが)。
また、こうしたことは映像文化のみならず昨今の活字文化においても同様の傾向があるのではないかといった意見を聞くことがありますが、私見として、その抽象化の仕方には少なからず同意出来ます。
しかし、そうした批判的な抽象化ばかりに同意出来るといったこの傾向とは、当然ながら自身としてはあまり嬉しいものではなく、また、一応そのように考えていることから、自身の行い得ることとして、一連のこれまでのブログ記事作成に取り組んでいるのではないかとも思える次第です・・(いささか言い訳じみますが)。
しかし、社会全体の創造力を増進する効果的な方法とは一体いかなるものがあるのでしょうか?
【決して悪いことばかりではないですが、昨今よく聞く男性の女性化・女性の男性化が招来するあまり好ましくないと思われる一つの点とは、おそらく社会全体の創造力の劣化・低下ではないかと思われます。】
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
また、昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々(35)に読んで頂けたようです。
さて、この記事の主題であった『事物の抽象化』とは、昨今興味深く思っていることのひとつであり『各個人それぞれが持つ事物に対しての抽象化の際に見受けられるある種の傾向・癖とは一体どのようにして成り立っているのか?どのような背景を持っているのか?』とは、なかなか奥が深いことではないかと考えます。
さらにまた、こうした視座とは、個人のみならず、地域・国家などの歴史に対しても応用可能であると考えられることから、あるいはさまざまな議論、話し合いなどの際における有効な視座となり得るのではないかとも思われます。
しかしながら、おそらく議論、話し合いでの『当初から』その視座が決められているのであれば、それはそれで、平和な議論、話し合い、そして予定調和的な結論が得易くはなるのでしょうが、そうした状況が常態化し進行しますと、それは議論、話し合いというよりも『演劇』として分類されるようなものになると思われるのです・・(苦笑)。
また、それは本当の議論を(ある程度)経験されたことのある方でしたら、それこそ当記事冒頭で述べたような『事物の抽象化』を通じ、ある程度明瞭に判ぜられるのではないかと思われます。
加えて、それとほぼ同様の理由から、昨今の『テレビ番組全般があまり面白くない』といった意見にもつながるのではないかと思われます。
インターネットが普及した今日においては、本物に似せた演劇・お芝居(映画、ドラマなど)よりも本物を手軽に視聴することが出来てしまうのですから・・。
そうしますと、創造の世界を描き、魅せる(観せる)という意味でアニメ・マンガなどに以後増々頼ることになるのでしょうが、しかし、それも続けざまで行いますと食傷気味になるでしょうし、それより何よりそれは本質的には創造とは異なるものであるように思われるのです・・(原作のアニメ・マンガは創造であると考えますが)。
また、こうしたことは映像文化のみならず昨今の活字文化においても同様の傾向があるのではないかといった意見を聞くことがありますが、私見として、その抽象化の仕方には少なからず同意出来ます。
しかし、そうした批判的な抽象化ばかりに同意出来るといったこの傾向とは、当然ながら自身としてはあまり嬉しいものではなく、また、一応そのように考えていることから、自身の行い得ることとして、一連のこれまでのブログ記事作成に取り組んでいるのではないかとも思える次第です・・(いささか言い訳じみますが)。
しかし、社会全体の創造力を増進する効果的な方法とは一体いかなるものがあるのでしょうか?
【決して悪いことばかりではないですが、昨今よく聞く男性の女性化・女性の男性化が招来するあまり好ましくないと思われる一つの点とは、おそらく社会全体の創造力の劣化・低下ではないかと思われます。】
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」
2017年8月24日木曜日
20170824 日常の会話から・・事物の抽象化能力の重要性について
大分前に投稿したブログ記事を何かの折にあらためて読んでみますと、そこに書かれている内容にてワザとらしく難解と思われるコトバを【あえて】用いているのではないかと感じられることが多々ありました。
昨今投稿された記事においても、時折はそうした傾向が看取されることもあるかもしれませんが、冒頭に書いた時期の投稿記事に比べますと、その傾向は収まりつつあるのではないかと思われます。
そして、それに関連して思い出されることは、世代が上の理系・文系の研究者の方々とアカデミックな場でなく、日常会話が為されるような場にて、ある種学問・研究に関連するようなハナシをしておりますと、何といいますか難解と思われるコトバを敢えて使わずに、たとえ話、もしくは何やらよく分からない抽象的なハナシになるといった傾向が往々にしてあるということです・・。
とはいえ、これはこれで大変面白く、そうしたものを記憶に留めておくと、後にある程度の量の書籍・文献を読んだ結果『ああ、あの時**先生が云っていた意味はこういうことだったのだな・・』と分かる(と感じる)こともしばしばあるのです・・(笑)。
また、そうした経験が比較的多いのは、私見としては文系学問分野ではないかと思われます。
おそらく(私の知る)理系学問とは、その学問としての性質上、具体性・論拠の明示(再現可能性の基礎となるもの)が強く要求されることから、文系学問ほどに抽象的に語る、あるいは考える必然性に乏しいのではないかとも思われます。
しかし、一口に理系といいましても、たとえば原理的な理論・現象を主として扱う分野になりますと、やはり高度な事物に対する抽象化能力が要求されるようであり、そこで為される会話とは、たとえアカデミックな場を離れていても、時として、ある種の高度な抽象性を見出せることが多々あるようにも思われます・・。
そして、何れの学問分野においても自身が驚き、そして到底敵わないと感じさせる対象が持つ特質とは、概ねこうした(事物の高度にして洗練された抽象化能力)ものであり、その意味において私は老若男女問わずさまざまなタイプの優れた方々を見ることが出来たのではないかと思われます。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
昨今投稿された記事においても、時折はそうした傾向が看取されることもあるかもしれませんが、冒頭に書いた時期の投稿記事に比べますと、その傾向は収まりつつあるのではないかと思われます。
そして、それに関連して思い出されることは、世代が上の理系・文系の研究者の方々とアカデミックな場でなく、日常会話が為されるような場にて、ある種学問・研究に関連するようなハナシをしておりますと、何といいますか難解と思われるコトバを敢えて使わずに、たとえ話、もしくは何やらよく分からない抽象的なハナシになるといった傾向が往々にしてあるということです・・。
とはいえ、これはこれで大変面白く、そうしたものを記憶に留めておくと、後にある程度の量の書籍・文献を読んだ結果『ああ、あの時**先生が云っていた意味はこういうことだったのだな・・』と分かる(と感じる)こともしばしばあるのです・・(笑)。
また、そうした経験が比較的多いのは、私見としては文系学問分野ではないかと思われます。
おそらく(私の知る)理系学問とは、その学問としての性質上、具体性・論拠の明示(再現可能性の基礎となるもの)が強く要求されることから、文系学問ほどに抽象的に語る、あるいは考える必然性に乏しいのではないかとも思われます。
しかし、一口に理系といいましても、たとえば原理的な理論・現象を主として扱う分野になりますと、やはり高度な事物に対する抽象化能力が要求されるようであり、そこで為される会話とは、たとえアカデミックな場を離れていても、時として、ある種の高度な抽象性を見出せることが多々あるようにも思われます・・。
そして、何れの学問分野においても自身が驚き、そして到底敵わないと感じさせる対象が持つ特質とは、概ねこうした(事物の高度にして洗練された抽象化能力)ものであり、その意味において私は老若男女問わずさまざまなタイプの優れた方々を見ることが出来たのではないかと思われます。
そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
20170823 食育と夏場の体臭について首都圏から思ったこと
A「つい先日上巻を読了し、下巻を読みはじめた書籍も今日までに100頁以上にまで至りました(下巻全体の四分一)。
まだまだ先は大分長いですが、同時に思いのほか面白く読み進めることが出来ていますので、この調子にて読了に至ることが出来ればと思います。
さて、本日の首都圏は昨日と同様、日中気温が上昇し、本格的に夏らしい一日となったのではないかと思われます。
さて、以前にもブログ記事に何度か書いたことではありますが、こうした時季にしばらく街中を歩いておりますと、どうも九州在住時の記憶が想起されるようです・・(笑)。
また、それに関連して、つい先日気が付いたことは、さきに書いたような蒸し暑い環境にくわえ、周辺の自然の薫りが濃厚に感じられますと、私の場合、紀伊・和歌山での何処かの記憶が連想、想起されることです。
そして、このようなことをあらためて気が付いてみますと、目で見る視覚と同様、薫りといった嗅覚による環境の認識もまた身体レベルでの(包括的)認識という意味において、かなり重要ではないかと思われるのです・・。
また、この嗅覚による認識とは、近年その重要性が指摘されている『食育』とも、かなり密接な関連があるといえます。
しかしそれと同時に、ここで大変面白く思うことは、特に首都圏において(発汗の多い)夏場の男性の体臭をかなり忌諱するという傾向です。
そのため、男性用の制汗剤、香水などが多く開発、販売そして消費されているのでしょうが、そうした状況の下、この時候の満員電車に乗りますと、さきの体臭よりも男性用の制汗剤、香水あるいはその他香料などの香りの方が強く感じられ、それはそれであまり快適とはいえない環境であるとも云えるのです・・(笑)。
そして、一方において前述の近年その重要性が指摘されている『食育』とは、どうも(夏場の男性の体臭を忌諱する傾向と)本質的あるいは根源的に相矛盾するのではないかと思われるのです・・。
しかし、その反面において、衛生観念および、それに関連する技術の進化発展とは喜ばしいことではあるのでしょうが、どうも我々日本人の場合、そうしたモノあるいは観念を原初の姿から把握しないままで実用性に基づく応用に次ぐ応用を重ねるといった傾向があることからか、多くの場合、どうも変な方向に行ってしまうような傾向があるようにも思われるのです・・(苦笑)。
結句、現在の首都圏における夏場の体臭を忌諱する傾向とは、同じく電車内にて多く見受けられるスマートフォンでのゲームと同様、何やら人間の生来の感覚から逃げだそうとする傾向があるのではないかと思われ、あまり良いものであるとは考えることが出来ないのです・・。
まあ『程度の問題』ではあるのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
まだまだ先は大分長いですが、同時に思いのほか面白く読み進めることが出来ていますので、この調子にて読了に至ることが出来ればと思います。
さて、本日の首都圏は昨日と同様、日中気温が上昇し、本格的に夏らしい一日となったのではないかと思われます。
さて、以前にもブログ記事に何度か書いたことではありますが、こうした時季にしばらく街中を歩いておりますと、どうも九州在住時の記憶が想起されるようです・・(笑)。
また、それに関連して、つい先日気が付いたことは、さきに書いたような蒸し暑い環境にくわえ、周辺の自然の薫りが濃厚に感じられますと、私の場合、紀伊・和歌山での何処かの記憶が連想、想起されることです。
そして、このようなことをあらためて気が付いてみますと、目で見る視覚と同様、薫りといった嗅覚による環境の認識もまた身体レベルでの(包括的)認識という意味において、かなり重要ではないかと思われるのです・・。
また、この嗅覚による認識とは、近年その重要性が指摘されている『食育』とも、かなり密接な関連があるといえます。
しかしそれと同時に、ここで大変面白く思うことは、特に首都圏において(発汗の多い)夏場の男性の体臭をかなり忌諱するという傾向です。
そのため、男性用の制汗剤、香水などが多く開発、販売そして消費されているのでしょうが、そうした状況の下、この時候の満員電車に乗りますと、さきの体臭よりも男性用の制汗剤、香水あるいはその他香料などの香りの方が強く感じられ、それはそれであまり快適とはいえない環境であるとも云えるのです・・(笑)。
そして、一方において前述の近年その重要性が指摘されている『食育』とは、どうも(夏場の男性の体臭を忌諱する傾向と)本質的あるいは根源的に相矛盾するのではないかと思われるのです・・。
しかし、その反面において、衛生観念および、それに関連する技術の進化発展とは喜ばしいことではあるのでしょうが、どうも我々日本人の場合、そうしたモノあるいは観念を原初の姿から把握しないままで実用性に基づく応用に次ぐ応用を重ねるといった傾向があることからか、多くの場合、どうも変な方向に行ってしまうような傾向があるようにも思われるのです・・(苦笑)。
結句、現在の首都圏における夏場の体臭を忌諱する傾向とは、同じく電車内にて多く見受けられるスマートフォンでのゲームと同様、何やら人間の生来の感覚から逃げだそうとする傾向があるのではないかと思われ、あまり良いものであるとは考えることが出来ないのです・・。
まあ『程度の問題』ではあるのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」
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