本日の首都圏は日中気温が上がり、夏日といっても良い陽気でした。
また、昨日購入した小説も半分以上まで読み進みました。
途中幾つかの箇所にて目頭が熱くなり、身体が火照るのを感じましたが、昨日も書きました通り、小説の読書を通じて、こうした感覚を得ることは久しくありませんでしたので、これは名著、名作であると私は思います・・。
また同時に、あくまでも自身の経験に基づくことですが、この感覚は、昨今世間にて話題となり、各種メディアにて取り沙汰されていることから書店にて立ち読みした幾つかの小説からは得ることが出来なかったものであり、おそらく、それら作品の間には何らかの違いがあるのではないかと思われます・・。
そして、そうした作品間の『違い』から生じることについて、もう少し考えてみますと、その一つの大きな要素とは読者層ではないでしょうか?
たとえば、現在我が国が世界に誇るノーベル文学賞候補ともなる作家の読者層と、冒頭に挙げた作品の読者層とは明らかに違うのではないかと思われます・・。
あるいは両生類をして戦後以来の我が国社会を寓話化した傑作とも云える著作を著し世に問うた作家の読者層とも、冒頭の作品の読者層とは微妙に異なるのではないかと思われます・・。
もしくは、さらに端的に、記事冒頭に挙げた作品を著した作家は、何と云いますか一般的な意味での『女性受け』を考えず【主要登場人物に女性が極端に少ない】に、あるいは、ただただ御自身の経験されたことを小説化しただけであるのかもしれません・・。
とはいえ、そのことから作品内での描写は優れ、同時にノンフィクション作品、ルポタージュとはまた異なった【当事者が語ることによる】迫真性を文章にもたらし、読む者に対し畏怖、感動、喜びといった情動の伝達を可能ならしめているのではないかと思われます。
そして、ここまで書いており不図想起したことは、奇しくも、この要素【当事者、経験者が書くことにより文章に迫真性をもたらし、それが読者に対して何かを伝達する】とは、以前投稿のブログ記事において書いた歴史小説、歴史を扱った著作への自身の考えとも通底しており、さらにそれは以前、自身のブログ記事について尋ねた方が「鹿児島での経験を書いた記事に割合面白いのが多いです。」と返答されたことにも共通する何かがあるのかもしれません・・。
相手の顔、態度が見えない文語、文章ではあっても、そこから感知される情報の信憑性、真偽などは、読み手によっては【ある程度】精確に伝わってしまうものであるのかもしれません・・。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した一連の地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
2017年5月22日月曜日
2017年5月21日日曜日
20170520 新たに読み始めた小説から・・能動性と継続について【書籍からの抜粋引用あり】
本日は所用のため市ヶ谷~神保町方面に出向き、さきのブログ記事にて書いた夢野久作著「犬神博士」以来の新たな小説を購入しました。
この作品は以前から話題になっていたものと聞かされ、本日書店にて立ち読みしてみたところ、たしかに面白いと思われたため、購入に至った次第ですが、この作品の面白さとは、これまでに読んだ小説のなかでも特異なものであり、また大変読み易いため、読後3時間程度にて200頁ほどまで読み進むことが出来ました。
とはいえ、そのためか、アタマの中は未だボーッとし、意識の半分程度は作品のなかにあり、正直なところ、本日はブログ記事の作成を止め、この作品を読むことに集中してみようかとも思いましたが、同時に、その作中に描かれている『何かを継続することの大事さ』といった意識が励起され、本日分の記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
この作品を読んでいて思い出すことは、自身もかつて部活動にドップリ浸かっていたことです・・。
また、この時期の記憶とは現在となっては、随分と縁遠いものとなっていたと感じておりましたが、やはり、そうした記憶とは、失われるものではなく、何らかの契機、刺激により、思い出すことが出来るようです・・。
そこから、小説をも含め文章を読むということには、その内容を感じつつ【自然に】記憶するのと同時に、自身の記憶に対し刺激を与え、想起の契機を与えるといったデュアルな意味合いがあると云えます・・。
また、勉強や研究などの本質もそうしたところにあるものと考えます。
それ故に、そうした行為とは継続が大事であり、また、ある程度継続して行っておりますと、何と云いますか、それが自転するようになり、あまり痛痒を感じずに、そうした行為をすることが可能になってくるのではないかと思われます・・。
そして、我々の社会において一般的に『本を読みなさい』と云われるその主たる理由とは、あまり明確に語られることはありませんが、こうしたところにあるものと考えます。
とはいえ、本を読むという習慣とは、本来、徐徐にそして能動的に得ていく、あるいは身体化されるものであり、決して人に云われたり、指図されたり、もしくは功利的な目的によって得られる、身体化されるようなものではないと考えます・・【このことも部活動に類似しているかもしれない】。
また、近代以降より現代に至る我が国において、さきに挙げた読書と同様『良い』とされる、さまざまな行為の根本における価値や意味といったものとは、どうも【浸透し易く、分かり易くするためか?】『経済功利的な目的一色』にて染め上げてしまっているようにも思えるのです・・【そうした目的によるものは厳密には能動性に基づくとは云えないと考えます・・】。
そして、これはおそらく現代においても高く評価されている明治日本において脱亜論および学問、特に実学の重要性を説いた思想家、教育家の考えに則していると思われがちですが、おそらくそれは間違いです・・。
さて、そこで以下に書籍からの抜粋引用を示します。
慶應義塾大学出版会刊 福澤諭吉著 「文明論之概略」pp.74-75
「コウカス」人種の男子相合し、不正不公の羈軛を脱して別に一世界を開き、人口繁殖せざるに非ず、財用富饒ならざるに非ず、土地も亦広くして耕すに余あり、自主事由の権は普く行われて国民又貧の何物たるを知らず、斯かる至善至美の便宜を得ると雖も、その一般の風俗に顕れたる成跡を見れば亦怪しむべし、全国の男児は終歳馳駆して金円を遂い、全国の婦人は終身孜々としてこの遂円の男児を生殖するのみ、これを人間交際の至善と云わんか、余はこれを信ぜずと。
以上「ミル」氏の説を見ても亦以て合衆国の風俗に就き其の一班を窺知るに足るべし。
右所論に由て之を観れば、立君の政治必ずしも良ならず、合衆の政治必ずしも便ならず。
政治の名を何と名るも必竟人間交際中の一箇条たるに過ぎざれば、僅かにその一箇条の体裁を見て文明の本旨を判断すべからず。
その体裁果して不便利ならば之を改るも可なり、或は事実に妨なくば之を改めざるも可なり。
人間の目的は唯文明に達するの一事あるのみ。
之に達せんとするには様々の方便なかるべからず。
随て之を試み随て之を改め、千百の試験を経てその際に多少の進歩を為すものなれば、人の思想は一方に偏すべからず。』
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
この作品は以前から話題になっていたものと聞かされ、本日書店にて立ち読みしてみたところ、たしかに面白いと思われたため、購入に至った次第ですが、この作品の面白さとは、これまでに読んだ小説のなかでも特異なものであり、また大変読み易いため、読後3時間程度にて200頁ほどまで読み進むことが出来ました。
とはいえ、そのためか、アタマの中は未だボーッとし、意識の半分程度は作品のなかにあり、正直なところ、本日はブログ記事の作成を止め、この作品を読むことに集中してみようかとも思いましたが、同時に、その作中に描かれている『何かを継続することの大事さ』といった意識が励起され、本日分の記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
この作品を読んでいて思い出すことは、自身もかつて部活動にドップリ浸かっていたことです・・。
また、この時期の記憶とは現在となっては、随分と縁遠いものとなっていたと感じておりましたが、やはり、そうした記憶とは、失われるものではなく、何らかの契機、刺激により、思い出すことが出来るようです・・。
そこから、小説をも含め文章を読むということには、その内容を感じつつ【自然に】記憶するのと同時に、自身の記憶に対し刺激を与え、想起の契機を与えるといったデュアルな意味合いがあると云えます・・。
また、勉強や研究などの本質もそうしたところにあるものと考えます。
それ故に、そうした行為とは継続が大事であり、また、ある程度継続して行っておりますと、何と云いますか、それが自転するようになり、あまり痛痒を感じずに、そうした行為をすることが可能になってくるのではないかと思われます・・。
そして、我々の社会において一般的に『本を読みなさい』と云われるその主たる理由とは、あまり明確に語られることはありませんが、こうしたところにあるものと考えます。
とはいえ、本を読むという習慣とは、本来、徐徐にそして能動的に得ていく、あるいは身体化されるものであり、決して人に云われたり、指図されたり、もしくは功利的な目的によって得られる、身体化されるようなものではないと考えます・・【このことも部活動に類似しているかもしれない】。
また、近代以降より現代に至る我が国において、さきに挙げた読書と同様『良い』とされる、さまざまな行為の根本における価値や意味といったものとは、どうも【浸透し易く、分かり易くするためか?】『経済功利的な目的一色』にて染め上げてしまっているようにも思えるのです・・【そうした目的によるものは厳密には能動性に基づくとは云えないと考えます・・】。
そして、これはおそらく現代においても高く評価されている明治日本において脱亜論および学問、特に実学の重要性を説いた思想家、教育家の考えに則していると思われがちですが、おそらくそれは間違いです・・。
さて、そこで以下に書籍からの抜粋引用を示します。
慶應義塾大学出版会刊 福澤諭吉著 「文明論之概略」pp.74-75
ISBN-10: 4766416244
ISBN-13: 978-4766416244
『又英国の学士「ミル」氏著述の経済書に云く、或人の説に、人類の目的は唯進で取るに在り、足以て踏み手以て推し、互に踵を接して先を争うべし、是即ち生産進歩のために最も願うべき有様なりとて、唯利是争うを以て人間最上の約束と思う者なきに非ざれども、余が所見にては甚だこれを悦ばず、方今世界中にてこの有様を事実に写出したる処は亜米利加の合衆国なり。「コウカス」人種の男子相合し、不正不公の羈軛を脱して別に一世界を開き、人口繁殖せざるに非ず、財用富饒ならざるに非ず、土地も亦広くして耕すに余あり、自主事由の権は普く行われて国民又貧の何物たるを知らず、斯かる至善至美の便宜を得ると雖も、その一般の風俗に顕れたる成跡を見れば亦怪しむべし、全国の男児は終歳馳駆して金円を遂い、全国の婦人は終身孜々としてこの遂円の男児を生殖するのみ、これを人間交際の至善と云わんか、余はこれを信ぜずと。
以上「ミル」氏の説を見ても亦以て合衆国の風俗に就き其の一班を窺知るに足るべし。
右所論に由て之を観れば、立君の政治必ずしも良ならず、合衆の政治必ずしも便ならず。
政治の名を何と名るも必竟人間交際中の一箇条たるに過ぎざれば、僅かにその一箇条の体裁を見て文明の本旨を判断すべからず。
その体裁果して不便利ならば之を改るも可なり、或は事実に妨なくば之を改めざるも可なり。
人間の目的は唯文明に達するの一事あるのみ。
之に達せんとするには様々の方便なかるべからず。
随て之を試み随て之を改め、千百の試験を経てその際に多少の進歩を為すものなれば、人の思想は一方に偏すべからず。』
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年5月20日土曜日
20170519 「具体的な事象の文章による写生」と「抽象的にして分かりやすい文章」
A「本日は若干帰宅が遅くなりました。現在【24:46】より記事作成を開始するのも、いささか面倒ではありますが、とりあえず書いていくうちに何かしらの着想も生まれるであろうと考え、記事作成に取り掛かった次第ではありますが、どうやらそこまで簡単には行かないようです・・(苦笑)。
さて、本日も五月らしい陽気でしたが、この時期ですと南紀の場合は既に海開きが為され、また更に南の鹿児島では汗ばむほどの陽気であったように記憶しております・・。
このように思い出してみますと、鹿児島では年間を通じて、汗ばむほどの陽気の時期が長く、現在に比べて盛んに発汗していたように思います。
また、定期的に温泉に浸かっておりましたので、これも良い発汗作用をもたらしていたと思われます。
そして、こうした気候風土に慣れ親しんだ後、突如、関東、首都圏に戻り、住むことになりますと、若いうちは早々に順応することが出来、そうでもないのかもしれませんが、生活環境のギャップに心身共にショックを受け、朝の通勤電車や街の雑踏などに対しうろたえてしまい、よく分からない挫折感を味わったものでした・・(苦笑)【現在の私は路面電車が走る街の方が好きです。】。
しかしながら、現在ほぼ毎日のように作成している、このブログ記事とは、そのごく初期のものを除き、そうした環境での経験のなかで作成されたものです・・。
そうしますと、この決して良いとは決して云えない環境の中で受ける刺激がブログ記事作成に対してはある程度効果的であるのかもしれません・・【しかし、果たしてこの場合の「良い」とは、どういった意味なのであろうか・・?】。
とはいえ、同時に、そこで気付かされることは、それら記事の多くとは、自身の直接的な環境についてはあまり言及していないということです。
より多くの記事とは、書籍などを通じて得た知見に対しての経験からの言及であったり、以前在住した地域に対しての書籍、経験を通じての言及であると思われます・・。
これは半ば無意識的にそのようになったと云えますが、その理由とは、自身のことながらよく分かりません・・。
ただ、これはあくまでも私見ではあり、普遍的な見解であるかは分かりませんが、自身【主体】の具体的な周囲の事象に対する文章による写生よりも、幾分か抽象度を上げた観念的ともいえることを文章によって著す方が、何と云いますか、自身【主体が】の文体を得る上においては適しているのではないかと思われるのです・・。
そして、こうした文章にてある程度、分かりやすく明晰な文章を書くことが出来るようになれば、自然と具体的な事象の文章による写生もまた、ある程度は出来るようになるのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・?
また、さらに思うことは、さきの抽象度を上げ、且つ分かりやすく明晰とも云える文章を書くことが可能になれば、それは環境の変化に対しても、ある程度の柔軟性を以って対応することが出来るのではないかとも思われるのですが、これも如何でしょうか・・?
現在これらは未だ感覚的な仮説ではありますが・・。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
さて、本日も五月らしい陽気でしたが、この時期ですと南紀の場合は既に海開きが為され、また更に南の鹿児島では汗ばむほどの陽気であったように記憶しております・・。
このように思い出してみますと、鹿児島では年間を通じて、汗ばむほどの陽気の時期が長く、現在に比べて盛んに発汗していたように思います。
また、定期的に温泉に浸かっておりましたので、これも良い発汗作用をもたらしていたと思われます。
そして、こうした気候風土に慣れ親しんだ後、突如、関東、首都圏に戻り、住むことになりますと、若いうちは早々に順応することが出来、そうでもないのかもしれませんが、生活環境のギャップに心身共にショックを受け、朝の通勤電車や街の雑踏などに対しうろたえてしまい、よく分からない挫折感を味わったものでした・・(苦笑)【現在の私は路面電車が走る街の方が好きです。】。
しかしながら、現在ほぼ毎日のように作成している、このブログ記事とは、そのごく初期のものを除き、そうした環境での経験のなかで作成されたものです・・。
そうしますと、この決して良いとは決して云えない環境の中で受ける刺激がブログ記事作成に対してはある程度効果的であるのかもしれません・・【しかし、果たしてこの場合の「良い」とは、どういった意味なのであろうか・・?】。
とはいえ、同時に、そこで気付かされることは、それら記事の多くとは、自身の直接的な環境についてはあまり言及していないということです。
より多くの記事とは、書籍などを通じて得た知見に対しての経験からの言及であったり、以前在住した地域に対しての書籍、経験を通じての言及であると思われます・・。
これは半ば無意識的にそのようになったと云えますが、その理由とは、自身のことながらよく分かりません・・。
ただ、これはあくまでも私見ではあり、普遍的な見解であるかは分かりませんが、自身【主体】の具体的な周囲の事象に対する文章による写生よりも、幾分か抽象度を上げた観念的ともいえることを文章によって著す方が、何と云いますか、自身【主体が】の文体を得る上においては適しているのではないかと思われるのです・・。
そして、こうした文章にてある程度、分かりやすく明晰な文章を書くことが出来るようになれば、自然と具体的な事象の文章による写生もまた、ある程度は出来るようになるのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・?
また、さらに思うことは、さきの抽象度を上げ、且つ分かりやすく明晰とも云える文章を書くことが可能になれば、それは環境の変化に対しても、ある程度の柔軟性を以って対応することが出来るのではないかとも思われるのですが、これも如何でしょうか・・?
現在これらは未だ感覚的な仮説ではありますが・・。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月18日木曜日
20170518 さまざまな関連性について思い付く時とそれを書き著す時・・
A「どうしたわけか、昨日の投稿記事は1日でかなり多くの方々に読んで頂けました・・。
時折こうしたことが生じるのですが、それらの理由とは、今もってよく分かりません・・(苦笑)。
さて、ここ最近の朝の通勤時は、必要により、ある種の文献を読むことにしているのですが、やはり朝の時間にて読んでいる方が多少はアタマに入り易いようであり、とりわけ、自身がこれまでに取り組んだことのない分野での概論的な文献の読み込みとは、この時間【朝】が最も有効ではないかと思われます・・。
それに対し、夜の時間の読書とは、これまでに読んだ書籍の再読あるいは、それに関連するものを追加的に読むのに適しているようであり、その効果とは現時点においてはよく分かりかねるところではありますが、同時にそれはほぼルーチンと云っても良いのではないかと思われます・・。
そして、そのような読書スタイルにて得た知見とは、何かの機会でボーッとしている時に突如として脳裏に想起され、次いで、それに関連すると思われる、普段は意識されない他の既存の知見と結び付き、思わぬ繋がりを発見することになるのですが、この時点で多少、意識は明瞭化されるものの、それでも「ああ、この繋がりは面白いな・・憶えておいて、いつかブログ記事のネタにしよう・・」といった感じに収束し、再度ボーッとした状態に戻るといった感じが多いです・・(笑)。
これに関しては本日帰宅時の電車内にて生じたことから比較的明瞭に記憶しており、現在このように文章として著している次第です・・。
では、そこから書いている内容の相を変え「具体的にどのような知見における関連性を見出したのか?」について書いてみようと思います。
それには先ずはじめに、昨日投稿記事の主題であった「地域性より影響を受けた会話の仕方、文体」が挙げられます。
そして、その具体的なものとして、つい先日ブログ記事にて書いた「矢屏風と古墳時代に呪術的要素の抽出により、さまざまな造形のモデルとなった靫との継続的もしくは隔世的な背景観念の類似性」が挙げられます。
さらに、それに関連するものとして挙げられるのは、大分以前に投稿した「古代の寺社における武器庫的側面の存在」に加え「鹿児島市の地名である鴨池、騎射場と近隣の神社である荒田八幡宮における放生会、喜捨そして流鏑馬を基軸とした【矛盾をも含む】結合あるいは包括」です。
これらは、さきほど電車内のボーッとした状態においては、何かしら関連し合う要素があるように強く思われましたが、現在こうしてそれを文章にて書き著しておりますと、不思議なことにさきほどは強く思った関連性が大分薄れてしまうように思えます・・(苦笑)。
おそらく、これは私の文章表現力が拙いことに由来しているものと考えます・・(苦笑)。
そして、その代替のように、不図想起されたことは、さきに書いた「ボーッとした状態における、いくつかの記事主題の関連性の明瞭とはいえない認識」と、以前ブログ記事に書いた「ユング心理学におけるコンステレーションについて」との関連性です・・。
・・こうしたことを、もう少し抽象度を変え、明晰に書き著すことが出来るようになりたいものです・・(苦笑)。
とはいえ、最後にこれら全てを包括するコトバが「持続する重低音・バッソ・オスティナート」であるのではないかと考えましたが、さて如何でしょうか・・?
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
時折こうしたことが生じるのですが、それらの理由とは、今もってよく分かりません・・(苦笑)。
さて、ここ最近の朝の通勤時は、必要により、ある種の文献を読むことにしているのですが、やはり朝の時間にて読んでいる方が多少はアタマに入り易いようであり、とりわけ、自身がこれまでに取り組んだことのない分野での概論的な文献の読み込みとは、この時間【朝】が最も有効ではないかと思われます・・。
それに対し、夜の時間の読書とは、これまでに読んだ書籍の再読あるいは、それに関連するものを追加的に読むのに適しているようであり、その効果とは現時点においてはよく分かりかねるところではありますが、同時にそれはほぼルーチンと云っても良いのではないかと思われます・・。
そして、そのような読書スタイルにて得た知見とは、何かの機会でボーッとしている時に突如として脳裏に想起され、次いで、それに関連すると思われる、普段は意識されない他の既存の知見と結び付き、思わぬ繋がりを発見することになるのですが、この時点で多少、意識は明瞭化されるものの、それでも「ああ、この繋がりは面白いな・・憶えておいて、いつかブログ記事のネタにしよう・・」といった感じに収束し、再度ボーッとした状態に戻るといった感じが多いです・・(笑)。
これに関しては本日帰宅時の電車内にて生じたことから比較的明瞭に記憶しており、現在このように文章として著している次第です・・。
では、そこから書いている内容の相を変え「具体的にどのような知見における関連性を見出したのか?」について書いてみようと思います。
それには先ずはじめに、昨日投稿記事の主題であった「地域性より影響を受けた会話の仕方、文体」が挙げられます。
そして、その具体的なものとして、つい先日ブログ記事にて書いた「矢屏風と古墳時代に呪術的要素の抽出により、さまざまな造形のモデルとなった靫との継続的もしくは隔世的な背景観念の類似性」が挙げられます。
さらに、それに関連するものとして挙げられるのは、大分以前に投稿した「古代の寺社における武器庫的側面の存在」に加え「鹿児島市の地名である鴨池、騎射場と近隣の神社である荒田八幡宮における放生会、喜捨そして流鏑馬を基軸とした【矛盾をも含む】結合あるいは包括」です。
これらは、さきほど電車内のボーッとした状態においては、何かしら関連し合う要素があるように強く思われましたが、現在こうしてそれを文章にて書き著しておりますと、不思議なことにさきほどは強く思った関連性が大分薄れてしまうように思えます・・(苦笑)。
おそらく、これは私の文章表現力が拙いことに由来しているものと考えます・・(苦笑)。
そして、その代替のように、不図想起されたことは、さきに書いた「ボーッとした状態における、いくつかの記事主題の関連性の明瞭とはいえない認識」と、以前ブログ記事に書いた「ユング心理学におけるコンステレーションについて」との関連性です・・。
・・こうしたことを、もう少し抽象度を変え、明晰に書き著すことが出来るようになりたいものです・・(苦笑)。
とはいえ、最後にこれら全てを包括するコトバが「持続する重低音・バッソ・オスティナート」であるのではないかと考えましたが、さて如何でしょうか・・?
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月17日水曜日
20170517 会話の仕方、文体と地域性について・・
A「今回の記事投稿によって総投稿記事数が625となります。
これにより600記事から700記事への路程の四分の一に到達したことになりますが、毎度のことながら、そうした実感は皆無です・・(苦笑)。
その実感を感じることが出来れば、もう少しは新たな記事作成への意欲が湧くのかもしれませんが、こうしたものは無理をしても湧く性質のものではないようです・・(苦笑)。
とはいえ、一応記事作成は継続出来ておりますので、むしろ、このままの調子にて書き続け、実際に何かしらの変化が生じた際に、それを記事として書いた方が、後になり多少は面白くなるのではないかと思われます・・(笑)。
(果たしてこの一連のブログ記事とは何時まで保存するのであろうか・・(笑)?)
さて、現在新たに応募書類などを作成しておりますが、それら書類にて用いる文体と、当ブログ記事における文体とは、やはり多少異なるようであり、そのことから、気のせいであるのかもしれませんが、ここ最近、ブログ記事を滑らかに書くことが困難であるようにも思われるのです・・(苦笑)。
しかし、であるからといって記事作成を躊躇するのも、如何なものかと思われますので、とりあえず、あまりそうしたことを意識しないで書こうと思いつつ、現在、こうして記事作成を行っている次第です・・(案外こうした思い込みは有効であるのかもしれない・・)。
また、ここで書かずにいると、今後、さらに環境が大きく変化した場合においては、尚更、文章を書くことが困難になると思われますので・・(笑)。
そういえば、鹿児島在住時においては、概ね週に一回程度、ミクシィにて、こうした文章を作成していたと、以前ブログ記事にて書きましたが、その当時に作成された文章と比べ、現在作成している一連のブログ記事の文章とは、多少は読み易く、あるいは洗練されたものとなっているのでしょうか・・?
これに関しては、残念ながら、当時作成した文章が残っておりませんので、比較が困難ではあるのですが、さらに以前の和歌山在住時に作成した研究のネタ帳に書かれている内容と比べますと、ある程度の進化は認められるようですので、さきの鹿児島在住時のものと比較しても、現在【ここ最近】の文章とは、幾分かは読めるものになっているのではないかと考える次第です・・(笑)。
ただ、それと同時に現在思うことは、鹿児島在住当時に作成された文章の方が、全体的に即物的、簡潔であり、端的には理系的な文章としての傾向が強かったということです・・。
これは在籍していた研究分野の影響であるのか、あるいは地域性によるものであるのか判然とは分かりませんが、多少そうしたことをよく知る方々に聞きますと、概して九州とは、少なくとも文章においては即物的、簡潔なもの云いを好む地域特性があるとのことであり、これに関しては自身も肯定します・・。
また、そうした地域特性と関連してか、九州全体とは、医学を含めた理系学問分野の方が圧倒的に強い地域、社会であり、それは大学での学部、学科の編成などを見ても概ね理解出来るのではないかとのことでしたが、これも自身は肯定出来ます・・。
さらに、そこから彼の地における自身の会話の仕方もまた、さきに述べた文体と同様、現在とは明らかに違ったのではないかとも思われるのです・・(笑)。
とはいえ同時に、現在でのそれもまた、彼の地での会話の仕方から多大な影響を受けたものであり、その点において、現在の自身の会話の仕方とは『典型的な首都圏特有のそれ』といったものではなく、また、そこから首都圏における対話者が密かに違和感を感じることも少なからずあり得るのではないかと考えております・・(苦笑)。
しかし、そうであるからといって、たとえ都会的ではあっても、地域における会話の仕方(のみ)に通じていれば良いというわけでもなく、そうしたもの(会話の仕方、文体)を、ある程度、複眼的に保持している方が、こうした文章の作成、あるいは、さまざまな表現を用いる抽象的な議論を試みる上においては幾分かは好都合であるのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・?
とはいえ、今回もまた明確な結論といったものがない文章を書いてしまいました・・(苦笑)。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
これにより600記事から700記事への路程の四分の一に到達したことになりますが、毎度のことながら、そうした実感は皆無です・・(苦笑)。
その実感を感じることが出来れば、もう少しは新たな記事作成への意欲が湧くのかもしれませんが、こうしたものは無理をしても湧く性質のものではないようです・・(苦笑)。
とはいえ、一応記事作成は継続出来ておりますので、むしろ、このままの調子にて書き続け、実際に何かしらの変化が生じた際に、それを記事として書いた方が、後になり多少は面白くなるのではないかと思われます・・(笑)。
(果たしてこの一連のブログ記事とは何時まで保存するのであろうか・・(笑)?)
さて、現在新たに応募書類などを作成しておりますが、それら書類にて用いる文体と、当ブログ記事における文体とは、やはり多少異なるようであり、そのことから、気のせいであるのかもしれませんが、ここ最近、ブログ記事を滑らかに書くことが困難であるようにも思われるのです・・(苦笑)。
しかし、であるからといって記事作成を躊躇するのも、如何なものかと思われますので、とりあえず、あまりそうしたことを意識しないで書こうと思いつつ、現在、こうして記事作成を行っている次第です・・(案外こうした思い込みは有効であるのかもしれない・・)。
また、ここで書かずにいると、今後、さらに環境が大きく変化した場合においては、尚更、文章を書くことが困難になると思われますので・・(笑)。
そういえば、鹿児島在住時においては、概ね週に一回程度、ミクシィにて、こうした文章を作成していたと、以前ブログ記事にて書きましたが、その当時に作成された文章と比べ、現在作成している一連のブログ記事の文章とは、多少は読み易く、あるいは洗練されたものとなっているのでしょうか・・?
これに関しては、残念ながら、当時作成した文章が残っておりませんので、比較が困難ではあるのですが、さらに以前の和歌山在住時に作成した研究のネタ帳に書かれている内容と比べますと、ある程度の進化は認められるようですので、さきの鹿児島在住時のものと比較しても、現在【ここ最近】の文章とは、幾分かは読めるものになっているのではないかと考える次第です・・(笑)。
ただ、それと同時に現在思うことは、鹿児島在住当時に作成された文章の方が、全体的に即物的、簡潔であり、端的には理系的な文章としての傾向が強かったということです・・。
これは在籍していた研究分野の影響であるのか、あるいは地域性によるものであるのか判然とは分かりませんが、多少そうしたことをよく知る方々に聞きますと、概して九州とは、少なくとも文章においては即物的、簡潔なもの云いを好む地域特性があるとのことであり、これに関しては自身も肯定します・・。
また、そうした地域特性と関連してか、九州全体とは、医学を含めた理系学問分野の方が圧倒的に強い地域、社会であり、それは大学での学部、学科の編成などを見ても概ね理解出来るのではないかとのことでしたが、これも自身は肯定出来ます・・。
さらに、そこから彼の地における自身の会話の仕方もまた、さきに述べた文体と同様、現在とは明らかに違ったのではないかとも思われるのです・・(笑)。
とはいえ同時に、現在でのそれもまた、彼の地での会話の仕方から多大な影響を受けたものであり、その点において、現在の自身の会話の仕方とは『典型的な首都圏特有のそれ』といったものではなく、また、そこから首都圏における対話者が密かに違和感を感じることも少なからずあり得るのではないかと考えております・・(苦笑)。
しかし、そうであるからといって、たとえ都会的ではあっても、地域における会話の仕方(のみ)に通じていれば良いというわけでもなく、そうしたもの(会話の仕方、文体)を、ある程度、複眼的に保持している方が、こうした文章の作成、あるいは、さまざまな表現を用いる抽象的な議論を試みる上においては幾分かは好都合であるのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・?
とはいえ、今回もまた明確な結論といったものがない文章を書いてしまいました・・(苦笑)。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月16日火曜日
20170516 言語文化の背景にある社会文化そしてそこにある【圧力】
A「本日は久しぶりにホンモノの理系、技術方面のハナシを伺うことが出来ました・・。
そうしたハナシはやはり聞いていて大変面白く、また勉強になります。
また、同時に、そうしたハナシには【我々が日常的に接する】ウソや変に婉曲的な言い回しがなく、概して率直であり、聞いていて大変気持ちが良いものです・・。
こうした率直なモノの云い方『のみ』にて世の中を渡ることができれば、さぞかし気持ちが良いだろうとは思うところではありますが、おそらく、我が国の言語文化いや、その背景にある社会文化には、そうした言語の使用を封じ込める圧力のようなものがあるのではないかと思われます・・(苦笑)。
とはいえ、そうした要素もまた、我が国古来からの文化、伝統であり、またそれが我が国特有とされる『繊細な感性』とも密接に関与しているとも思われますので、そう簡単には、非難あるいは除去できるようなものではないのかもしれませんが・・。
しかし、そうであったとしても、そうした社会文化に存在すると思しき圧力に呑み込まれ、【知らずに】屈服し、自身の言語を失う、放棄してしまうことは、出来る限り避けた方が良いのではないかと考えます・・。
また、山本七平が、その著作内にて軍隊教育に関して、類似したことを述べていたと記憶しておりますが、著作では、日々生活にて用いる言語の統制、強制、徹底化により、徐々に話し方、考え方なども固定され、パターン化されてしまい、さらに、さきに述べたような古くからの社会文化による圧力も加わり、独特の社会、雰囲気(内務班)が形成されるといったことが述べられていましたが、ここまで書いておりますと、自然、大西巨人著の「神聖喜劇」が思い起こされてきます・・(笑)。
この著作は、これまでに何度か当ブログにて扱いましたが、現在、この記事を書いており、ある程度判然としたことは、山本七平著の旧日本軍(帝国陸軍)を扱った諸著作とは「神聖喜劇」を読む際の良い参考資料となることであり、また、その関係性とは、可逆的なものであるとも云えるということです・・。
そして、ここまで書いていて、次に思い起こされる欧米の著作とは、察しの良い方はお分かりになっていたかもしれませんがジョージ・オーウェル著「1984」です・・。
この著作においては意図的な言語の改変、集約化(言語の削減)の様子が書かれておりましたが、ここでも、その結果として、話し方、考え方などが固定、パターン化され、ある意味『理想的な』全体主義社会が成立するとのことですが、このことは現在の東アジア情勢を考える上において、未だなお解決されず、示唆するものが多分にあるのではないでしょうか・・?
加えて、我が国の社会もまた、決してそれを『嗤う』ことは出来るものではないとも考えますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺を襲った地震によって被害を被られた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
そうしたハナシはやはり聞いていて大変面白く、また勉強になります。
また、同時に、そうしたハナシには【我々が日常的に接する】ウソや変に婉曲的な言い回しがなく、概して率直であり、聞いていて大変気持ちが良いものです・・。
こうした率直なモノの云い方『のみ』にて世の中を渡ることができれば、さぞかし気持ちが良いだろうとは思うところではありますが、おそらく、我が国の言語文化いや、その背景にある社会文化には、そうした言語の使用を封じ込める圧力のようなものがあるのではないかと思われます・・(苦笑)。
とはいえ、そうした要素もまた、我が国古来からの文化、伝統であり、またそれが我が国特有とされる『繊細な感性』とも密接に関与しているとも思われますので、そう簡単には、非難あるいは除去できるようなものではないのかもしれませんが・・。
しかし、そうであったとしても、そうした社会文化に存在すると思しき圧力に呑み込まれ、【知らずに】屈服し、自身の言語を失う、放棄してしまうことは、出来る限り避けた方が良いのではないかと考えます・・。
また、山本七平が、その著作内にて軍隊教育に関して、類似したことを述べていたと記憶しておりますが、著作では、日々生活にて用いる言語の統制、強制、徹底化により、徐々に話し方、考え方なども固定され、パターン化されてしまい、さらに、さきに述べたような古くからの社会文化による圧力も加わり、独特の社会、雰囲気(内務班)が形成されるといったことが述べられていましたが、ここまで書いておりますと、自然、大西巨人著の「神聖喜劇」が思い起こされてきます・・(笑)。
この著作は、これまでに何度か当ブログにて扱いましたが、現在、この記事を書いており、ある程度判然としたことは、山本七平著の旧日本軍(帝国陸軍)を扱った諸著作とは「神聖喜劇」を読む際の良い参考資料となることであり、また、その関係性とは、可逆的なものであるとも云えるということです・・。
そして、ここまで書いていて、次に思い起こされる欧米の著作とは、察しの良い方はお分かりになっていたかもしれませんがジョージ・オーウェル著「1984」です・・。
この著作においては意図的な言語の改変、集約化(言語の削減)の様子が書かれておりましたが、ここでも、その結果として、話し方、考え方などが固定、パターン化され、ある意味『理想的な』全体主義社会が成立するとのことですが、このことは現在の東アジア情勢を考える上において、未だなお解決されず、示唆するものが多分にあるのではないでしょうか・・?
加えて、我が国の社会もまた、決してそれを『嗤う』ことは出来るものではないとも考えますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺を襲った地震によって被害を被られた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月15日月曜日
20170515 女性の男装、男性の女装から思ったこと・・
一週間ほど記事作成を休んでおりましたが、特に大きな変化は生じなかったように思えます。
ただ、少し睡眠時間が増えたことからか、心持ち身体が楽になったようにも感じました。
とはいえ、その一方、やはり2年近く記事作成を継続していますと、習慣化するようであり、記事作成をしない日々とは、多少何かが抜け落ちたようにも感じられるのです・・(苦笑)。
それ故、本来はもう少し長く休息期間を設けるつもりではありましたが、昨日より再び記事作成を始めた次第です・・(苦笑)。
さて、そういえば、先日不図思ったことですが、我が国においては社会が混乱の時期に差し掛かると女性が男装、また男性が女装するような傾向が強くなるのではないでしょうか・・?
また、同時に、我が国は、他国より物真似が巧みであるとの評価を受けることが多いようですが、あるいはその基層にあるものとは、こうした傾向ではないかとも思われます・・。
つまり、我が国において、他国の物真似をしなければならない時期とは、どちらかというと混乱している時期が多いと思われますので、それが、さきに述べた女性の男装、男性の女装が為される時期とも同調し易いのかもしれません・・。
しかし、私見となりますが、それらさまざまな真似の中で、性倒錯を基調とした文化とは、後世の日常文化、社会に影響を与えることは少なく、ただ非日常ともいえる演劇文化などの中で生きながらえ、後世に伝えられているのではないでしょうか・・?
また、こうしたことは、おそらく既に研究されてはいるのでしょうが、我が国の特徴の一側面を知る上において、なかなか面白く、興味深い視点であると考えます・・。
具体的なそれらとは、弥生時代の戦の先頭に立つ巫女、素戔嗚の八岐大蛇退治、日本武尊の熊襲征伐、とりかへばや物語、白拍子、女歌舞伎、歌舞伎、ええじゃないか、宝塚歌劇団、リボンの騎士、ベルサイユのばら、などが挙げられます。
そして、感覚的ではありますが、おそらく、我が国における、性倒錯を基調とした文化全般とは、どちらかというと、東北アジアに起源があるものではなく、東南アジアなどの南方に起源があるのではないかと思われます。
その理由を象徴的あるいは物理的に表現しますと、アジア北方地域においては、その気候風土の寒冷さが性差を溶解、混淆に至らしめることを許さなかったのではないかとなりますが、このことに関しても更なる精査が必要であり、我が国における性倒錯を基調とした文化の流行とは、あるいは地球規模での平均気温の変化などとも関連があるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、たとえそうであっても、その流行の背後に、一体如何なる集団心理、集合的無意識が作用しているのかとは、なかなか面白いのことではないかと思われるのですが・・如何でしょうか?
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
ただ、少し睡眠時間が増えたことからか、心持ち身体が楽になったようにも感じました。
とはいえ、その一方、やはり2年近く記事作成を継続していますと、習慣化するようであり、記事作成をしない日々とは、多少何かが抜け落ちたようにも感じられるのです・・(苦笑)。
それ故、本来はもう少し長く休息期間を設けるつもりではありましたが、昨日より再び記事作成を始めた次第です・・(苦笑)。
さて、そういえば、先日不図思ったことですが、我が国においては社会が混乱の時期に差し掛かると女性が男装、また男性が女装するような傾向が強くなるのではないでしょうか・・?
また、同時に、我が国は、他国より物真似が巧みであるとの評価を受けることが多いようですが、あるいはその基層にあるものとは、こうした傾向ではないかとも思われます・・。
つまり、我が国において、他国の物真似をしなければならない時期とは、どちらかというと混乱している時期が多いと思われますので、それが、さきに述べた女性の男装、男性の女装が為される時期とも同調し易いのかもしれません・・。
しかし、私見となりますが、それらさまざまな真似の中で、性倒錯を基調とした文化とは、後世の日常文化、社会に影響を与えることは少なく、ただ非日常ともいえる演劇文化などの中で生きながらえ、後世に伝えられているのではないでしょうか・・?
また、こうしたことは、おそらく既に研究されてはいるのでしょうが、我が国の特徴の一側面を知る上において、なかなか面白く、興味深い視点であると考えます・・。
具体的なそれらとは、弥生時代の戦の先頭に立つ巫女、素戔嗚の八岐大蛇退治、日本武尊の熊襲征伐、とりかへばや物語、白拍子、女歌舞伎、歌舞伎、ええじゃないか、宝塚歌劇団、リボンの騎士、ベルサイユのばら、などが挙げられます。
そして、感覚的ではありますが、おそらく、我が国における、性倒錯を基調とした文化全般とは、どちらかというと、東北アジアに起源があるものではなく、東南アジアなどの南方に起源があるのではないかと思われます。
その理由を象徴的あるいは物理的に表現しますと、アジア北方地域においては、その気候風土の寒冷さが性差を溶解、混淆に至らしめることを許さなかったのではないかとなりますが、このことに関しても更なる精査が必要であり、我が国における性倒錯を基調とした文化の流行とは、あるいは地球規模での平均気温の変化などとも関連があるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、たとえそうであっても、その流行の背後に、一体如何なる集団心理、集合的無意識が作用しているのかとは、なかなか面白いのことではないかと思われるのですが・・如何でしょうか?
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
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