2017年2月20日月曜日

20170220 主に二著作からの抜粋引用「海底二万里」および「発掘から推理する」

本日の首都圏は特に風が強く、町中にて設置してある看板が風により転倒している光景が数例見受けられました・・。

とはいえ、こうした風の強い日が少し続き、そして徐徐に春めいてくるのではないかとも思われますので、寒い時期ももうしばらくで過ぎて行くのではないでしょうか・・?

さて、当ブログについてですが、昨日投稿記事も本日の日中も含め、思いのほか読んで頂いており、作成者としてはとても嬉しく思うところです・・(笑)。

興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
それら記事の中でわずかでも共感出来たり、考えさせられる要素が認められるのでしたら、こちらも作成した甲斐があるというものです・・(笑)。

とはいえ、本日作成のブログ記事に関しては、主に書籍(二点)からの抜粋になることを予めお伝えします。

まず、唐突ではありますが、古事記の日向を舞台とするハナシにおいて登場する豊玉毘売とは、大きなワニの化身であったと描かれております。

また、同様に、出雲神話での大国主の関連するハナシに因幡の白兎がありますが、ここにもワニが登場します。

しかしながら、いかにハナシの舞台が古代であり棲んでいる生物も現代と若干異なるとはいえ、我が国に在来生物としてワニが棲んでいたということは眉唾ものです・・。

それ故、これらの神話に登場するワニとは実はサメ、ウミヘビなどを含めた『海神を象徴するもの』というのが、どうやらそれら神話の解釈における通説のようです・・。

また、これらの神話と類似するハナシとは中国南部、東南アジアに分布しているため、おそらく何れかの経路により、それらハナシのスジが古代の我が国にもたらされたものと考えられております・・。


そして、これらのことを前提として、以下に二編の書籍からの抜粋引用を試みます。

岩波書店刊 ジュール・ヴェルヌ著 「海底二万里」上巻p.365より抜粋引用

「一月一三日、ネモ船長はチモール海に到着し、東経一二二度に位置する同名の島を確認していた。
この島は表面積が一六二五平方里、ラジャ(インドの王、王族)に支配されていた。
それらの王族は、みずからがワニの子孫、つまり人間の起源としてもっとも気高い先祖から生まれ出たものどと自称している。
それゆえ、この島の河にはこれら鱗の生えた先祖たちが多数あり、特別な崇拝の的となっている。ワニは保護され、甘やかされ、褒めそやされ、養われている。若い娘が餌として与えられることもあるし、よそ者がこの神聖なるトカゲに手をかけようものなら、たいへんな目にあう。」

岩波書店刊 金関丈夫著 「発掘から推理する」pp.65ー66より抜粋引用

「日本でシッポのあった部族は、豊後の緒方一族が、「平家物語」以来有名になっている。
緒方は尾形で、この一族の人びとには、からだに蛇の尾の形や、鱗の形があったという。
鱗形のほうは、自族が海神すなわち竜(蛇)神の子孫だ、という伝承が強くのこっている。
緒方は大神氏の一支だが、この氏族や、伊予の河野や越智一族の家紋は鱗形だ。
鱗を家紋とするものは、平氏の一族にもあり、伊豆、相模の北条にもある。
平氏の厳島、北条の江ノ島は、九州の宗像の女神のわかれで、江ノ島の弁財天が竜女であったことは、「太平記」の時政榎島参籠のくだりで有名だ。
シッポは消失しても、宗像神をまつる部族は、家紋に蛇の鱗をのこすものが多い。
宗像は古くは胸形で、胸形とは胸に鱗形のあったことだ、と私はみている。
三角形、つまり鱗形のいれずみだったと思う。」

各々著された年代は大きく異なる(前1870・後1975)ものの、それらを統合する風習、観念が何かしら存在するのではないかと考えられるのですが、さて、如何でしょうか・・?

また、世界各地の民俗風習記録の集大成とも云える「金枝篇」は「海底二万里」刊行から20年後の1890年に刊行されました。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年、熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」


2017年2月19日日曜日

20170219 自然風土と精神の関係について・・躁と鬱およびハレとケガレ

おかげさまで昨日投稿した記事の閲覧者数は投稿翌日にしては増加しました・・。
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、昨日も関連する既投稿記事の大変興味深いご指摘がありましたが、これも早速活用させて頂きました。
『ご指摘どうもありがとうございます!』

さて、昨日投稿記事の題材とは主に「躁状態」についてでしたが、これは作家の北杜夫によると季節と関連があるとのことでした・・。

たしかに自身の場合も気温の上昇に伴い徐徐にテンションが上がっていくような実感があります・・(笑)。

また、おそらくこのことは季節毎の既投稿記事を比較して読んで頂けますと多少は納得して頂けるのではないかと思われます・・。

さらに、こうしたことは居住地の移動などによっても大きな影響を受け、精神を含む身体が移住先に落ち着くまで、ある程度の期間を要し、また同様に心身に対しても負担を強いるのではないかとも思います・・。

それ故「ある程度の高齢になった場合、移住はしない方が良い」と一般に云われているのではないでしょうか・・?

そして自身に関しても、やはり鹿児島在住初年目、二年目はじめとは、あまり調子が上がらず、元気も出ず、また、その気候、暑さのためか茫然とすることが多く、日に何度も実験室の流し場で顔を洗っていたことが思い出されます・・。

そうした経験から、私見ではありますが、鹿児島の自然風土(人間は少し違うかもしれない・・)とは、はじめて訪れ在住する人々に対しあまり歓迎的ではないと思われます・・。

これは和歌山、南紀、福岡市などと比べてですが、その(鹿児島の)自然風土とは、九州最南端の南国的といっても良い立地にありながら、大昔の周辺火山噴火・降灰の影響により、その地味は決して豊かではなく、全般的に南国特有の植生の横溢、旺盛さなどは、本州南端の南紀と比較した場合、むしろ南紀の方に軍配が上がるのではないかと思われます。

一方、日射量に関しては、やはり南紀以上に南国的であり、さらに鹿児島市内では降灰も同時期にあることから、その自然風土とは、やはり、はじめて住む人々にとっては、少なくとも歓迎的であるとはいえないと考えます・・。

とはいえ、そこで数年過ごし、ある程度適応出来たと思われる状態になりますと、今度は変に元気になってしまい、特に2012年秋頃はピークといってもよく、和歌山市某所にて開催された勉強会において、修士課程の頃は詳細については分からなかった銅鐸(紀州全土に出土例が多く、また、その分布も興味深い)についてを鋳造技術(歯科理工学においては必須)と関連させ、さらにトーマス・マン著「魔の山」からの抜粋引用をそのイントロに用いた至極奇怪な報告を行っていました・・(苦笑)。

ああした報告は現在では出来ないのではないかと思われます・・(笑)。

とはいえ、その報告の評判とは、そこまで悪いものでもなかったとも記憶しておりますが・・。

しかし、それを記憶として、現在、そういった(至極奇怪・現在では出来ない・そこまで悪いものではない)判断を下せるだけ、まだマシであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、あの当時の『勢い』とは、現在になり考えますと、また訪れて欲しいと思わないこともありません・・(笑)。

いや、むしろ、その後の反動さえなければ積極的に来て欲しいと思います・・(笑)。

そして、ここまで書いておりますと、今度は民俗学で、特に谷川健一が述べていた『ハレ・ケガレ』などについてを想起してしまうのです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」










20170218 文章作成と躁状態について・・

「ヒトは自身が何かを創造、創作している状態を客観視することは出来ない。」と云われますが、それは一般的な創造、創作行為全てにも適用することができるのではないかと思われます・・。

そして、その意味において昨日投稿した記事内容に創造的な要素は見受けられないと考えます。

しかしながら、その主題であった「口語→文語の変換そして文体の獲得」には、ある程度の妥当性、事実が認められるのではないかとも考えます。

一方、我々とは、あまり深刻にこうしたことを認め合うことはしませんが「文体の獲得」とは、誰であれ、それなりの困難を伴うものなのではないでしょうか・・?

いや、それ以上に、そうしたこと(文体の獲得)とは日常生活を送る上において積極的に必要でもないことから、それは日常的な話題にもならないのかもしれませんが・・。

無論、自身もまた「文体の獲得」に対し未だ半知半解でありますので、あまり知ったようなことは書けませんが、そうであっても上記に述べたことは大体、事実に即していると考えます。

また、文章を書く際においては日常と多少異なった心的状態にある方が自然であるといったことを書きましたが、これは換言すると一種の『躁状態』に近いのではないかと思われます・・。

そもそも、ある程度の躁状態でなければ、公表を前提とするような文章など書くことはできないのではないでしょうか・・(笑)。

いや、もう少し表現を和らげますと「公表を前提とする文章を書く際においては躁状態である方が都合が良いのではないか?」といった感じになりましょう・・(笑)。

また、かつての文筆家で、ある種の薬品摂取を日常としていた方々とは、一面において、薬品を摂取することにより、いわば人工的に躁状態となり、その「勢い」を用いて文章を作成していたのではないかとも思われるのです・・。

さて、2012~2013年の自身を振り返ると、薬品云々はさて置き、躁と鬱の間を不安定に行き来していたのではないかと思われます・・。

そして、後知恵にはなりますが、異郷の地にて不安定な精神状態であったにしては、どうにかそれをまさしく『生きて』脱することが出来たのは、ひとえに周囲の方々のお蔭であったのではないかと思われるのです・・。

また、現在こうしてブログ記事作成を継続することが出来ていますが、今後、その内容の更なる向上、洗練をはかるため躁状態になれたら良いのでは・・?と正直、時折思うこともありますが、その後に何らかの反動つまり虚脱、慢性疲労、知力・精力の減退といった状態にならなければ、それもまた良いのではないかと思います・・(笑)【この反動は生命力を大きく摩滅させる力があります。】

そして何より、客観的に見て、書かれた文章の向上、洗練が認められるのであれば・・(笑)。

しかし、そもそも我々の社会には、躁状態になっている人間に対し特に水を差すことはなく、その行状、言動の成り行きを見て、機に応じ、それを流行、時代精神の源泉としたり、あるいはまた非難の対象ともするような傾向があるのではないでしょうか・・(笑)。【社会での凝集性の核となる心理的な要素とは、ある種、躁的なものではないだろうか?】

それは大昔の狩人から族長、王、預言者、予言者、巫女、宗教家、殉教者、将軍、騎士、冒険家、芸術家、資本家、技術者、革命家、文筆家、フェミニスト、政治家、軍人、神がかり参謀、医学者、科学者に至るまで・・。

たしかにそれは人工知能AIには真似出来ない仕業であるようには思われますが・・・。

去る2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。



2017年2月18日土曜日

20170217 口語→文語の変換装置とは・・

昨日の投稿記事において「文章を作成する際においては少しおかしくなっていた方が良いかもしれない・・」といった意味のとを記しましたが、これはある程度事実ではないかと思われます・・。

少なくとも文章を書いている間においては、多少異なった精神の相、あるいは対外的な応対時とは異なった状態でいる方が良いのではないかと思われます・・。

また、同じ言語を操るといった意味において、能弁、よく話す状態の方が文章が浮かぶかというと、それらはそう簡単には結節するものではなく、むしろあまり普段話さないでいる状態の方が文章は、よく浮かんで来るのではないかとも思われるのです・・。

何れにせよ、話し言葉と書き言葉あるいは口語と文語とは、少なくとも自身の場合においては簡単には結節する性質のものではなく、その結節に至るまでには、何かしらの変換装置らしきものを経ないと上手く行かないのではないかと思われます・・。

そして「では、その変換装置とは何か?」と問われた場合「おそらくそれは、習慣により醸成される文体ではないだろうか?」と返答します。

また極言すれば、これまで作成してきた一連のブログ記事とは、その継続においてはさまざまな要因が関与しておりますが、その当初よりの大きな「目的」とは「自らの文体の獲得」にあったということが出来ます。

このことは以前よりブログ記事にて度々取りあげてきましたが、これ(文体の獲得)が為されることにより、おそらく口語にて表現した事柄を文語に変換し整理して書くことを可能にするのではないかと思われるのです・・。

そして、その初期的な段階においては即物的な文章作成法ともいえる口語による対話形式が有効であったのではないかと現在においては考えます・・。

しかしながら、初期に多用した対話形式の文体とは、それをはじめた当初においては、自身の文章を書くことが出来ないことで、かなり真剣に悩んだ結果の苦肉の策であり、そこからはじめ、現在の状態までどうにか発展、継続出来たことは自身でも多少驚くことでもあるのですが・・(笑)。

また、この現在に至るまでの継続こそが、さきに述べた作動する口語➡文語の変換装置となり、あるいは完全とまではいかないが、部分的な意味での「文体の獲得」であったのではないかとも思われるのです・・。

そして、今後の課題とは、その更なる洗練、発展ではありますが、それがいかなる経緯により為されるのかとは、残念ながら現在では見当もつきません・・(苦笑)。

とはいえ、当初と比較した場合、ある程度の洗練、発展は認められるとも考えますので、ともかく記事作成を継続することにより、次の段階らしきものが見えてくるのではないかと思われます・・。

また、ハナシは変わりますが、本日は日中における閲覧者がいつになく多く「これは一体どうしたものか?」と思いましたが、何であれ、読んで頂いていた皆様、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において生じた大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

2017年2月17日金曜日

20170216 眺めた街並みから思ったこと・・文章について

本日の首都圏は日中、気温が四月並みまで上昇し、若干風は強く感じましたが、過ごし易かったと思います・・。

また、かなり久しぶりに井の頭線に乗りました・・。

乗車する電車が下北沢駅を通過の際は、その街並みを眺め、しばし感慨に耽っていました・・。

この街はかつて足しげく通い親しんだものでしたが、現在になり思い返してみますと、和歌山市のぶらくり丁、鹿児島市の天文館、騎射場、福岡市の天神、大名、西新などの方がかえって味わい深いのではないかと思われます・・。

特に天文館は週末の夜になりますと、何ともいえない面白い雰囲気になるのです・・。

また、これは夏になると、さらに、さまざまな熱気により一層拍車が掛かるのではないかと思われます・・(笑)。

現在思い返してみますと、夏の夜の天文館とはどうも一種、夢の中ような感じを受けるのです・・(笑)。

また、鹿児島在住時の週末はよく天文館に出向いておりましたが、在住期間の後半(2012~2013)とは、以前もブログ記事に書いた通り少々おかしくなっていました・・(苦笑)。

いや、しかし一方、この当時とは、それまでの人生において最も文章が滑らかに涌出していた時期であったのではないかと思われますので、もしかすると、人間とは、案外、多少おかしくなっている方が文章などはよく書けるのかもしれません・・(笑)。

そういえば、司馬遼太郎は「漢詩などを書く際の人間とは、英雄豪傑の心境といった、一種酔い(詩境)が回っている状態である」といったことをどこかで述べていました。

また、北杜夫はどこかで完璧に近いドイツ語の文章にて「ヒュペーリオン」を書いたヘルダーリンは三十代半ばで統合失調症を発症し塔に幽閉されたとも述べていました・・。

さらに、三島由紀夫は「文章とは、酒のようにその効果が普遍的ではないが、ある種の文章がある種の人々を酔わす性質がある、つまり文章とは元来酔う性質のものなのである」といった意味のことをどこかで述べていました。

それらのことから、程度は随分異なると思われますが、やはり当時の自身とは、如何なる経緯によるものであるか明瞭には分かりませんが、多少、上記と類似するメカニズムが精神に作用していたのではないかと思われるのです・・(苦笑)。

そしてまた、当時のことを、如上のように想起し述べますと、それに付随する景観として、天文館が浮かび上がってくるわけなのです・・(笑)。

とはいえ、であるからといって、天文館がそうした精神状態を惹起させるということではなく、あくまでも自身がそうした状態にあった時、偶然多く見た景観、街並みが天文館であったということです・・。

また、現在このようにブログ記事作成を継続している状況において、再度そのようになりたいか?と問われましたら、それは積極的に否定します・・。

ああした状態とは、他面において精神の燃焼速度が急加速している時でもあり、それが継続すると結果として何かしら反動的な効果、現象が生じるものと考えるからです・・。

それでしたら、現在のように多少呻吟しながらも、ほぼ毎日継続して書くことにより、わずかながらの漸進的な発展が為される方が余程良いと考えます・・(笑)。

しかし反面、かつての文筆家には破滅型に分類される天才肌の方々が少なからずおりましたが、現在はそうした文筆家の存在は、社会が許さなくなってきているのでしょうか・・?

そして、おそらくこうしたことにも『時代精神』は密接に関与しているのではないかと考えます。

あるいはまた、こうした題材はトーマス・マン著「トニオ・クレーゲル」の主題とも関連しているのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年の熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。」




2017年2月15日水曜日

20170215 眼の疲れおよびその改善から思ったこと・・

丁度140年前の1877年(明治10年)の本日2月15日、西郷隆盛を大将とする軍勢が東京の中央政府に向け出立しました。
そして、これが直接の契機となり、西南戦争がはじまりました。
その日は雪が降っていたとのことです・・。

さて、先日来より、どうも瞼が痙攣し、また眼の疲労感が続くため、色々と自分なりに試してみたところ、ここ最近遠くのものに焦点を当てて、ものを見るということをすっかり忘れていたことが思い出されました・・(笑)。

その後、意識して電車内などで遠くを見るように心掛けてから、この瞼の痙攣、眼の疲労感は大分改善されました・・。

そのことから、普段あまり意識しないで行っている行為の中に実は大切なことがあると改めて認識した次第です・・(苦笑)。
また、それに加え、普段目にする景色、景観とは、なかなか重要なものであるのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみますと鹿児島在住の頃は高温に熱せられた炉の中を覗いたり、同じく高温に調整されたバーナー炎を見ることが日常的にありましたが、やはりそれらの際とは、それなりに眼に負担をかけていたものと思われます・・。

それに加え、時間のかかる試料作製、実験の際は関連する先行論文、書籍などを作業合間に読みながら行っておりましたので、当時の方が余程眼を酷使していたのではないかと思われます・・(苦笑)。

しかしそれでも、当時は現在ほど、こうした眼の疲れを意識しなかったことは、単純に現在よりも若かったことによるのか、あるいは多分にそれらを楽しんで行っていたからであるのかもしれません・・(笑)。

そして、そのように考えて敷衍してみますと、二年前より継続し作成しているこのブログとは、たしかに現在でも度々その作成を面倒と思う反面、ここに至るまで疲労により挫折せず、どうにか継続出来ていることは、本質的に文章作成が好きであるからこそ可能であったのではないかとも思われるのです・・(笑)。

とはいえ、こうした自己に対する何かしらの判断とは、自他何れからによるものであれ、慎重に為されるべきであると考えますので、断定は差し控えますが・・。

そして、これもまた断定は出来ませんが、昨今よりの観察により、少なくとも投稿直後に多く読まれる記事とは、書籍からの抜粋引用よりも自身で作成したものの方が相対的に多いようです・・。

これは記事作成者からすれば嬉しいことであり、またそれがこれまでの継続を可能にした主たる外的な要因であるのですが、よく分からないことは「それらの記事が一体どのように読まれているのか?」ということです・・。

とはいえ、このことは特に現在突き詰めて考える、詮索する必要性もありませんので、あまり考えることはありません・・。
しかしながら、一方で時折発見する直近に投稿した記事に対する反応としてか関連、対応する内容の既投稿記事が示されることがあるのです。

こうした反応が可能な方とは一体どのような人間であるのか?あるいはどの程度の知的作業によりそれら反応が為されているのか?とは、記事作成者側からすれば、自然、なかなか興味深く思うところなのです・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

最近は岩波文庫版のジュール・ヴェルヌ著「海底二万里」上巻を読んでおります・・。

また、読んで頂いている皆様も時折は眼を十分に休ませましょう・・(笑)。

自身の場合、未だ慣れないためかスマホの画面は眼が特に疲れます・・。

昨年2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」








2017年2月14日火曜日

20170214 読んで頂いていた記事から・・主に書籍からの抜粋

丁度140年前本日の鹿児島の街とは大変なことになっていたのではないかと思われます・・。
明日2月15日とは西郷隆盛率いる軍勢が東京に向けて発った日です。
その日はこの地域のこの時期にしては珍しく雪が降っていたとのことです・・。
その当時の鹿児島には一体どのような『気風、精神風土』といったものがあったのでしょうか?
ここまで書いて不図、ある著作の一節を思い出しましたのでそれを下に示します。
そしてその内容に『地域の歴史を貫く何か』とは幾分含まれているのでしょうか・・?」

金関丈夫著 岩波書店刊 「発掘から推理する」pp.13-17

「中国の文献んで辺境の民族のことを記載するものに、しばしば「男逸女労」、すなわち女が労働す、男は遊んで暮らすように書いたものがある。台湾の高砂族や、琉球島民に関するものにも、その例が多い。
高砂族は最近まで、あるいは今なお、男は原則として労働はしない。ただ三年に一度、焼畑をするときに、山刀で山の木を伐る。これがほとんど唯一の労働である。
しかし、彼らは三年に一度の労働以外に、何もしないのではない。狩猟をする。それから、今は止まったが、敵対部族と戦争をする。そして、少なくとも一生に一度は、儀礼用の首狩りをする。
これが男の仕事だ。
狩りも戦争もないときは、のらくらと煙草をふかして遊んでいる。
ときどき子守りをおおせつかる。
その生活は江戸時代のさむらいそっくりだ。
といって、主君もちの養われ者ではない。
貧乏ではあっても、手内職をやるような落ちぶれ者でもない。さむらいの中でも、最も純粋なものだといえよう。
だから、日本の巡査どもが、道路を造るといってはひっぱり出す。宿舎を建てるからといって材木を担がせる。元来がさむらいの仕事ではない。強制と多少の賃金のほしさから、やるにはやるが、いさぎよしとしているわけではない。その賃金をごまかされたり、強制が過酷だったときに、山刀をふるって、役人どもの首をちょん切る。これが昭和五年(1930)の霧社事件の発端である。
大和朝廷が隼人を屈服させると、この徴用がやってくる。人に仕えることさえ知らなかったさむらいどもの耐え得るところではない。ある日、血の気の多いやつが、役人の首をちょん切る。
それがやがて大きな反乱にふくれあがる。これを繰りかえしたのが、大隅、薩摩の隼人の歴史だ、反乱以外に彼らの歴史はない。霧社の山人に霧社事件以外の歴史がないのと同様である。
昭和三十三年(1958)の夏、薩摩揖宿郡山川港付近の、成川の遺跡を発掘した。厚い火山灰砂層の下に、たくさんの隼人どもが眠っている。その文化は弥生期の終末から古墳期のはじめのものだから、ほぼ三世紀の初頭のものだ。
これを隼人と呼ぶには問題があろう。しかし欺かないのはその体質だ。頭は短頭で、身長は低い。頭形示数も推定身長も、現在の山川港付近の住民のものと、ぴったりと一致する。
脛骨のひどく扁平なことだけが、今の連中とちがっている。
これは彼らが脚の筋肉を今の連中よりもよく使用した、その生活の差からきたちがいだ。
三世紀から今日まで、薩南の住民に入れ替わりがなかったとすれば、その中間にいた隼人の、彼は近い祖先だということになる。
おもしろいのは、成川遺跡人の副葬品である。
男にも女にも、明らかに服飾具といわれるものはなに一つない。
男の墓には、ほとんど残らず鉄製の武器がある。
これだけ徹底的に服飾品がなく、またこれだけ旺盛な武器のでた遺跡は他にない。
その一角に立って見渡すと、古書にいう「男児辺野に死をいたす、馬革しかばねを包んで還葬さるべきのみ」といった気分が、この墓地にはみなぎっている。
彼らが尚武の民であったことは一目瞭然だ。その剛健の風は、婦女子にも及んでいた。真に薩摩隼人の名にふさわしい。
その当時彼らが、自らをハヤトと呼んでいたかどうかはわからない。
ハヤトはおそらくは他称で、自らはツォーあるいはこれに近い音で呼んだであろう。ツォーは熊襲(クマソ)のソウで、インドネシア一帯では「人」あるいは「我ら」をさす。
すなわち自族を意味する自称である。
「肥前国風土記」は、値賀島の白水郎(あま)は隼人に似て、その容貌や言語は、普通人と違っているといい、「大隅国風土記」にのこる隼人の語彙は、多くの学者によって、南方語に結びつけられている。
これだけで直ちに、隼人が南方渡来民だというのではないが、彼らが南方語を使用していた疑いは濃厚である。
その疑いの一つを挙げると、薩摩や大隅の地名で、ここには頭にイの音をいただくものが多い。藺牟田、伊佐、伊佐敷、市来、入佐、入来、伊集院、納薩、伊作、指(揖)宿、伊敷、伊座敷などがそれである。
これらは日本語としては、意味のとれないものである。
一方例は少ないが、他の地方では見られない知覧、知林のごとく尻が撥音で終わるものがある、これも意味はわからない。
ところで、頭にイをのせ、尻でラン、ロンをひびかす地名は、琉球をへて、台湾の東海岸から、フィリピン、さらに南方には非常に多い。
地域内にも連絡があり、台湾以南では、それがインドネシア語の地名であるわけだから、これから推理される結果は、いわずとも知れている。
「国造本紀」には仁徳朝に、薩摩にヲサすなわち通訳官のいたことが記録されているし、「続日本紀」には養老六年(722)に、大隅薩摩の隼人の乱の平定に功のあった通訳官に、勲位を授けたらしいことが見えている。
この記録の解釈が正しければ、八世紀なってもまだ隼人との折衝に、通訳を要したことになる。
ともあれ、いまわれわれの身体の中には、なんとなく南方戦士の族を愛しあこがれる血が流れている。
爛熟した文明の頽廃から救うのに、この血が有効でないとはいえないだろう。」