2017年2月19日日曜日

20170218 文章作成と躁状態について・・

ヒトは自身が何かを創造、創作している状態を客観視することは出来ない。」と云われますが、それは一般的な創造、創作行為全てにも適用することができるのではないかと思われます・・。

そして、その意味において昨日投稿した記事内容に創造的な要素は見受けられないと考えます。

しかしながら、その主題であった「口語→文語の変換そして文体の獲得」には、ある程度の妥当性、事実が認められるのではないかとも考えます。

一方、我々とは、あまり深刻にこうしたことを認め合うことはしませんが「文体の獲得」とは、誰であれ、それなりの困難を伴うものなのではないでしょうか・・?

いや、それ以上に、そうしたこと(文体の獲得)とは日常生活を送る上において積極的に必要でもないことから、それは日常的な話題にもならないのかもしれませんが・・。

無論、自身もまた「文体の獲得」に対し未だ半知半解でありますので、あまり知ったようなことは書けませんが、そうであっても上記に述べたこと大体、事実に即していると考えます。

また、文章を書く際においては日常と多少異なった心的状態にある方が自然であるといったことを書きましたが、これは換言すると一種の『躁状態』に近いのではないかと思われます・・。

そもそも、ある程度の躁状態でなければ、公表を前提とするような文章など書くことはできないのではないでしょうか・・(笑)。

いや、もう少し表現を和らげますと「公表を前提とする文章を書く際においては躁状態である方が都合が良いのではないか?」といった感じになりましょう・・(笑)。

また、かつての文筆家で、ある種の薬品摂取を日常としていた方々とは、一面において、薬品を摂取することにより、いわば人工的に躁状態となり、その「勢い」を用いて文章を作成していたのではないかとも思われるのです・・。

さて、2012~2013年の自身を振り返ると、薬品云々はさて置き、躁と鬱の間を不安定に行き来していたのではないかと思われます・・。

そして、後知恵にはなりますが、異郷の地にて不安定な精神状態であったにしては、どうにかそれをまさしく『生きて』脱することが出来たのは、ひとえに周囲の方々のお蔭であったのではないかと思われるのです・・。

また、現在こうしてブログ記事作成を継続することが出来ていますが、今後、その内容の更なる向上、洗練をはかるため躁状態になれたら良いのでは・・?と正直、時折思うこともありますが、その後に何らかの反動つまり虚脱、慢性疲労、知力・精力の減退といった状態にならなければ、それもまた良いのではないかと思います・・(笑)【この反動は生命力を大きく摩滅させる力があります。】

そして何より、客観的に見て、書かれた文章の向上、洗練が認められるのであれば・・(笑)。

しかし、そもそも我々の社会には、躁状態になっている人間に対し特に水を差すことはなく、その行状、言動の成り行きを見て、機に応じ、それを流行、時代精神の源泉としたり、あるいはまた非難の対象ともするような傾向があるのではないでしょうか・・(笑)。【社会での凝集性の核となる心理的な要素とは、ある種、躁的なものではないだろうか?】

それは大昔の狩人から族長預言者予言者巫女宗教家殉教者将軍騎士冒険家芸術家資本家技術者革命家文筆家フェミニスト政治家軍人神がかり参謀医学者科学者に至るまで・・。

たしかにそれは人工知能AIには真似出来ない仕業であるようには思われますが・・・。

去る2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。



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