A「先日より読んでいる「楡家の人びと」は第二部の読了に至り、今後、第三部(最終部)を入手、読んでみようと考えておりますが、これは週末までとって置こうと思います。
その理由は、そちらの方が比較的ゆっくりと読むことが出来、また、週末までは、これまでに読んだ第一、第二部をもう一度読み返してみることに因り、より最終部たる第三部を面白く読むことが出来ると考えるからです。
とはいえ、これまでブログ記事にて記した通り、少なくとも私の場合、ある程度の長編小説を読む場合においては、ある程度の間隔、インターバルを設けた方が、よりスムーズに読み進むことが出来るのではないかということが今回の事例により理解、認識することが出来ました・・。
また、それと同時に、これまで継続的に作成しているブログ記事も、こうしたことをリアルタイムに記すことにより、記事数を稼ぐことが出来るということも理解、認識することが出来ました・・(笑)。
やはり、インプット・アウトプットおよびその均衡とはなかなか大事なものであるのかもしれません。
さて、そのアウトプットたるブログについてですが、昨日の記事投稿により470記事に至り、本日の記事投稿により500記事到達まで残り30記事を切ることになります。
そして500記事とは、それなりにキリがいいのですが、果たしてそれで一端記事作成を止めてみると、その後、どのようなことが生じるのかとは、なかなか興味深いものです・・(笑)。
それこそ、煮物などの具に出汁の味が染込むのは、熱を加えるのを止めた後であるといった極めて具体的な事例、(物理的な)現象から鑑みますと、自身の外部、周辺の出来事でなくとも、内面における何かしらの変化といったものが生じるのではないかとも予想されるのです・・。
いや、実際のところ、そうした変化とは、現在の私が考えるよりも、より小さなものであるのかもしれませんが・・(笑)。
とはいえ、以前にもブログ記事にて記した通り、これまでに各々記事の中身の濃さ、深さは別として継続的に文章を作成したことはありませんでしたので、これはこれで自身としては多少の意味があるものと考えます・・。
まあ、それもあくまでも自己満足に類するものであることは否定出来ませんが・・(苦笑)。
しかし、そのように考えてみますと、大抵の自身の根源から由来する能動性にしたがい、はじめた行動とは、その目標達成の感覚の有無、強弱とは、本質的には自身が決めるものであるのかもしれません・・。
もちろん客観的な評価基準もまた、一面においては重要であるとは考えますが・・。
そして、そうした視座から考えてみますと、果たして今回の投稿記事数500とは、適当な数値目標であるのでしょうか・・?
こうしたことは、残念ながら判然としませんし、あるいはそれが自身の自信のなさの表れであるのかもしれません・・(苦笑)。
そして、そのように考えてみますと、以前様々な条件にて行った実験において、そのNの多さに自身がこだわったことにも、こうしたことは何かしらの基層における類似性があるのかもしれません。
また、このことを記しておりますと、丁度この時期であったためか、作成した様々な条件の試料を有機溶媒(アセトン50・エタノール50)にて超音波洗浄(5分)を行い、試料ケース(ウェル)に収納し、観察のため、電子顕微鏡室に持ち込んだことを思い起こします・・。
しかし、この時に行う試料への蒸着処理(CVD)を通例の金でなく、より細かい導電被膜が得られる粒子の微細なオスミウムを用いていたならば、より良い観察画像を得ることが出来ていたのかもしれません・・。
とはいえ、こうしたことは電子顕微鏡の解像能との兼合いであり、あの場合は金で良かったのかもしれません・・。
また、この時に観察を試みたものは、ジルコニア基材に歯科用陶材を焼き付けた接着界面であり、これは試料の作製条件によっては、高倍率(~30000)にて観察してもあまり意味あるものではなく、単純に条件間による焼き付け、接着具合の比較画像を得るためであるならば、それで良かったのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に発生した熊本における大地震、昨今の山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早くの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年11月7日月曜日
2016年11月6日日曜日
20161106 470記事到達 文学から歴史 歴史から文学
お蔭様で昨日のブログ閲覧者数も1000人に到達しました。
また、それと同時に今回の記事投稿により総投稿記事数が470に到達します。
そうしますと、残り30記事にて500記事へ到達ということになりますが、これは直近の450記事から考えてみますと、今回の470記事到達とは、割合早かったものと感じております。
そして、年内中に500記事到達までの残り30記事の投稿ということになりますが、今年は残り50数日でありますので、まあ3日に2日程度の頻度にて新記事の投稿、更新を行っていけば、特に無理なく年内中に500記事に到達することが出来そうです。
とはいえ、そこであまり気を抜いてしまいますと、後になり、しわ寄せが来ますので、出来る限り毎日に近い状態にて500記事到達まで記事作成、投稿を行って行こうと考えております・・。
さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部も先ほど読了しました。
第二部は昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦すなわち真珠湾攻撃のあたりでハナシが終わっており、これが次の結末たる第三部にどのように続くのか楽しみです・・。
また、こうした長編小説を母国語にて著すことが出来る歴史・文化を持つ我が国とは、やはり様々な点において優れた要素を持っているのではないかと改めて考えさせられます・・。
しかし、そうは云いましても文化というものは、おそらく発展し続けるものではありません(この著作が著された時代に比べ現代の我が国が発展しているとは必ずしもいえない)。
具体的な刺激、精神の活性ながどといった要素が減衰、欠如していきますと、それはやはり衰頽、荒廃してゆくものであると考えます。
そして、そうしたものとは経済、文化的にある程度までの発展を遂げると必ずしも直線的にではありませんが、必然的に衰頽、荒廃に向かって行くのではないかと思われます。
そして、それが様々な国家、地域などの興亡の歴史における大雑把な枠組みであるように思います。
もっとも、こうしたことは既にかなり陳腐なこととして認識されているとは考えますが・・。
ともあれ、このような興亡の歴史の流れを一つ認識し、それに対する認識をさらに深化させるという意味において、さきに挙げた「楡家の人びと」とは、適当な材料になるものと考えます。
そして、このように何か一つの題材を深化させる過程において、必然的に近現代史から文学に結節、あるいは逆からのアプローチであれば文学から近現代史に結節するというのが一般的な文系学問の研究における見取り図であるように思います。
やはり、こうした意味でのタコツボ化とはあまり良いものではないと私は考えます。
ともかく、いくつかの分野において、ある程度の認識に達しますと、何といいますか、自然とそれら分野の認識の深層の方から根が生じ、それらが深層において絡み合うことにより、何とも表し得ぬ極めて個人的な学問体系が生成するのではないかと思われます。
こうしたことは、コトバを以て説明するより、実際にそういった人物の著した著作を読むことにより判然とするのではないでしょうか・・?
その私見による具体例として南方熊楠、金関丈夫などが挙げられると考えます。
また、多少スケールが異なりますが、これまでにブログ記事にて記した私の師匠の方々もまた、皆、そうした傾向があるのではないかと思われます・・。
そして、ここまで記していて不図ゲーテの言葉を思い起こしましたので下に示します。
「ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
また、それと同時に今回の記事投稿により総投稿記事数が470に到達します。
そうしますと、残り30記事にて500記事へ到達ということになりますが、これは直近の450記事から考えてみますと、今回の470記事到達とは、割合早かったものと感じております。
そして、年内中に500記事到達までの残り30記事の投稿ということになりますが、今年は残り50数日でありますので、まあ3日に2日程度の頻度にて新記事の投稿、更新を行っていけば、特に無理なく年内中に500記事に到達することが出来そうです。
とはいえ、そこであまり気を抜いてしまいますと、後になり、しわ寄せが来ますので、出来る限り毎日に近い状態にて500記事到達まで記事作成、投稿を行って行こうと考えております・・。
さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部も先ほど読了しました。
第二部は昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦すなわち真珠湾攻撃のあたりでハナシが終わっており、これが次の結末たる第三部にどのように続くのか楽しみです・・。
また、こうした長編小説を母国語にて著すことが出来る歴史・文化を持つ我が国とは、やはり様々な点において優れた要素を持っているのではないかと改めて考えさせられます・・。
しかし、そうは云いましても文化というものは、おそらく発展し続けるものではありません(この著作が著された時代に比べ現代の我が国が発展しているとは必ずしもいえない)。
具体的な刺激、精神の活性ながどといった要素が減衰、欠如していきますと、それはやはり衰頽、荒廃してゆくものであると考えます。
そして、そうしたものとは経済、文化的にある程度までの発展を遂げると必ずしも直線的にではありませんが、必然的に衰頽、荒廃に向かって行くのではないかと思われます。
そして、それが様々な国家、地域などの興亡の歴史における大雑把な枠組みであるように思います。
もっとも、こうしたことは既にかなり陳腐なこととして認識されているとは考えますが・・。
ともあれ、このような興亡の歴史の流れを一つ認識し、それに対する認識をさらに深化させるという意味において、さきに挙げた「楡家の人びと」とは、適当な材料になるものと考えます。
そして、このように何か一つの題材を深化させる過程において、必然的に近現代史から文学に結節、あるいは逆からのアプローチであれば文学から近現代史に結節するというのが一般的な文系学問の研究における見取り図であるように思います。
やはり、こうした意味でのタコツボ化とはあまり良いものではないと私は考えます。
ともかく、いくつかの分野において、ある程度の認識に達しますと、何といいますか、自然とそれら分野の認識の深層の方から根が生じ、それらが深層において絡み合うことにより、何とも表し得ぬ極めて個人的な学問体系が生成するのではないかと思われます。
こうしたことは、コトバを以て説明するより、実際にそういった人物の著した著作を読むことにより判然とするのではないでしょうか・・?
その私見による具体例として南方熊楠、金関丈夫などが挙げられると考えます。
また、多少スケールが異なりますが、これまでにブログ記事にて記した私の師匠の方々もまた、皆、そうした傾向があるのではないかと思われます・・。
そして、ここまで記していて不図ゲーテの言葉を思い起こしましたので下に示します。
「ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
20161105 文章、文体、認識の枠組みについて・・
A「先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部の200頁まで至りました。
こうした長編小説とは、ある程度期間のインターバルを設けて読むと、読書の進行が多少早くなるものであるのかもしれません・・(笑)。
また、この著作は自身の感想としては大変面白く、おそらくこの土・日曜日の間に第二部もまた読了に至るのではないかと思われます・・。
そしてその後さらに第三部(最終部)読了に至ったならば、今度は同著の英訳版を購入し読んでみようと考えております・・。
英訳された日本の小説とは、著作によっては(私にとって)大変高価なものもありますが、幸いなことに、この著作については比較的手頃な価格にて求めることが可能であるようです。
また、以前投稿したブログ記事においても記しましたが、この著作は、現代の若い方々が読まれると何か面白い、不思議な感覚、認識を得ることが出来るのではないかとも思います。
いや、こうしたことはむしろ一般的であり、あるいは論理一辺倒の科学的な論文などにおいても同様であるのかもしれませんが、我々とは、何かしらの著作、文章を読むことにより、肯定的、否定的であれ、そこから様々な感覚、認識を惹起します。
そして、その(感覚、認識の)蓄積、そしてそれらの精神内部における経時的な反応、化合等に加え、実際の経験を積むことにより、より大きな観念、思想といったものの核が徐徐に形成され、それが様々な形で文字、言語を以て表出されることにより、明瞭化、体系化された観念、思想と称するに堪えうるものとして顕現に至るのではないかと思われます・・。
そして、こうした営みとは無意識である場合も多いのではないかと思われますが、何れにせよ殆どの方々が日常的に行っていることであると考えます。
ただ、そこで特に重要であると思われることは、実際の経験とは、各人各様に日常生活を送る上にて得ているのでしょうが、それ(経験)を認識するための、あるいは認識の枠組み(言語化、評価)を形成するための基盤、母材(マトリックス)として、何かしらの文章、そしてその文体の果たす役割の大きさということです。
そして、これが各人各様である経験をある一定の方向へ収斂するものであると同時に、その個性、特徴を発揮する基盤でもあるということは、なかなか面白いことであると思われます・・。
その意味において広告、出版業界とは、依然として、ある程度大きな影響力を我々の社会に対し有しているのではないかと思われます・・。
しかしその一方、さきのブログにおいても記した通り、昨今、インターネットの普及により、膨大な情報が容易に広く入手可能となり、これまでのマスメディア、新聞、出版業界が関与、把持してきた認識の枠組みの重要性が希釈されつつあるということもまた事実であると思われます。
とはいえ、この認識の枠組みの重要性とは本質的(人間に付随する能力としての価値)には希釈される性質のものではないと考えます・・。
それ故、訪れつつある新しい時代においては、おそらく我々と文章そしてその文体(認識の枠組)の間にもまた、何かしら大きな変化が生じる、いや生じつつあるのではないかとも思われるのです・・。
それが如何なるものであるかは分かりませんが、あるいはこうしたこともまた、歴史の進行およびその方向性に対し、大きく関与しているのではないかと考えます。
また、それが古来より云われている「言霊」に関連するものであるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震、昨今山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」
こうした長編小説とは、ある程度期間のインターバルを設けて読むと、読書の進行が多少早くなるものであるのかもしれません・・(笑)。
また、この著作は自身の感想としては大変面白く、おそらくこの土・日曜日の間に第二部もまた読了に至るのではないかと思われます・・。
そしてその後さらに第三部(最終部)読了に至ったならば、今度は同著の英訳版を購入し読んでみようと考えております・・。
英訳された日本の小説とは、著作によっては(私にとって)大変高価なものもありますが、幸いなことに、この著作については比較的手頃な価格にて求めることが可能であるようです。
また、以前投稿したブログ記事においても記しましたが、この著作は、現代の若い方々が読まれると何か面白い、不思議な感覚、認識を得ることが出来るのではないかとも思います。
いや、こうしたことはむしろ一般的であり、あるいは論理一辺倒の科学的な論文などにおいても同様であるのかもしれませんが、我々とは、何かしらの著作、文章を読むことにより、肯定的、否定的であれ、そこから様々な感覚、認識を惹起します。
そして、その(感覚、認識の)蓄積、そしてそれらの精神内部における経時的な反応、化合等に加え、実際の経験を積むことにより、より大きな観念、思想といったものの核が徐徐に形成され、それが様々な形で文字、言語を以て表出されることにより、明瞭化、体系化された観念、思想と称するに堪えうるものとして顕現に至るのではないかと思われます・・。
そして、こうした営みとは無意識である場合も多いのではないかと思われますが、何れにせよ殆どの方々が日常的に行っていることであると考えます。
ただ、そこで特に重要であると思われることは、実際の経験とは、各人各様に日常生活を送る上にて得ているのでしょうが、それ(経験)を認識するための、あるいは認識の枠組み(言語化、評価)を形成するための基盤、母材(マトリックス)として、何かしらの文章、そしてその文体の果たす役割の大きさということです。
そして、これが各人各様である経験をある一定の方向へ収斂するものであると同時に、その個性、特徴を発揮する基盤でもあるということは、なかなか面白いことであると思われます・・。
その意味において広告、出版業界とは、依然として、ある程度大きな影響力を我々の社会に対し有しているのではないかと思われます・・。
しかしその一方、さきのブログにおいても記した通り、昨今、インターネットの普及により、膨大な情報が容易に広く入手可能となり、これまでのマスメディア、新聞、出版業界が関与、把持してきた認識の枠組みの重要性が希釈されつつあるということもまた事実であると思われます。
とはいえ、この認識の枠組みの重要性とは本質的(人間に付随する能力としての価値)には希釈される性質のものではないと考えます・・。
それ故、訪れつつある新しい時代においては、おそらく我々と文章そしてその文体(認識の枠組)の間にもまた、何かしら大きな変化が生じる、いや生じつつあるのではないかとも思われるのです・・。
それが如何なるものであるかは分かりませんが、あるいはこうしたこともまた、歴史の進行およびその方向性に対し、大きく関与しているのではないかと考えます。
また、それが古来より云われている「言霊」に関連するものであるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震、昨今山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」
2016年11月5日土曜日
20161104 インカーネーション(血肉化)について・・
本日もまた若干帰宅が遅くなり、おそらく明日(土)が休日でなければ、ブログの更新を断念していたのではないかと思われます。さて、先日より読みはじめました「楡家の人びと」はついさきほど第一部を読了しました。
次いで早速第二部を読みはじめようと思います。
この著作は三島由紀夫が激賞したとのことですが、たしかに舞台となった時代の文化、世相などを上手に描き、さらに、登場人物たちの人間関係および、その心理等の描写においても優れているのではないかと思われます。
これは野上彌生子著の「迷路」と比較すると、全体的に淡泊、あっさりしているのではないかと思われますが、私個人としては「楡家の人びと」の方が幾分か読み易いように思われます。
そして、この著作に関しても、今後機会を見つけ、その面白いと思った部分を抜粋引用してみたいと考えております。
また、比較的若い方々で、日本人作家の面白い長編小説を読んでみたいと考えている方々に対し、この著作とは恰好の対象となるのではないかと思われます・・。興味がありましたら、是非、読んでみてください。
そして、その中から現代との類似、相違点を見出し、その理由について考えてみるのもまたなかなか面白いのではないでしょうか・・?
あるいは、単に一つの長編小説として読んでみても、そこに描かれている内容とは、様々な意味において勉強になり、また楽しむことができるのではないかと思います・・。
以前もブログ記事にて記しましたが、おそらく本来の歴史(特に近現代史の場合)の勉強とは、一方において研究、学術書そして他方において、こうした物語、小説を読むことにより、なんといいますか、その時代の理性的な知識のみでない全体像らしきものが自身に血肉化(インカーネーション)されるのではないかと考えます。
そして、それが一つの時代、地域に対して為されたならば、その伝にて他の時代、地域に対してもまた同様に行うことが出来、さらに、それらを続けることにより、より大きな、そして精緻とも粗雑とも評し得る「柔軟な歴史全体に対する感性」といったものを得ることが出来るのではないかと考えます。
さらにまた、一度何かの分野において、そうした感性の知覚、認識に到達することが出来たならば、それは他の学問分野におけるそれ(感性)の知覚、認識をも多少容易にするのではないかとも考えます。
とはいえ、こうしたことは、もしかすると若い感性が柔軟な時期においてのみ適用、適応することが出来る性質のものであり、年齢を経るごとに、徐徐にこうしたことを為し得る(感性の)柔軟さが損なわれていくのかもしれません・・。
そしてまた、そうした認識を如何なる形であれ文字、コトバとして記すことは、記述の内容、方法によっては多少の危険を伴う一方、感性の柔軟さを保持するという意味において、多少寄与するところがあるのではないかとも、最近考えるようになりました・・。
また、ゲーテ曰く
「歴史についても、自然や一切の深いものについてと同様である。
過ぎ去ったものであろうと、現在のものであろうと、未来のものであろうと。
真剣に深くはいりこんで行けば行くほど、ますます困難な問題が生じてくる。
それを恐れず、勇敢に突進する者は、研究が進捗するにつれ、だんだん高く教養され、らくになるのを感ずる。」
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。
次いで早速第二部を読みはじめようと思います。
この著作は三島由紀夫が激賞したとのことですが、たしかに舞台となった時代の文化、世相などを上手に描き、さらに、登場人物たちの人間関係および、その心理等の描写においても優れているのではないかと思われます。
これは野上彌生子著の「迷路」と比較すると、全体的に淡泊、あっさりしているのではないかと思われますが、私個人としては「楡家の人びと」の方が幾分か読み易いように思われます。
そして、この著作に関しても、今後機会を見つけ、その面白いと思った部分を抜粋引用してみたいと考えております。
また、比較的若い方々で、日本人作家の面白い長編小説を読んでみたいと考えている方々に対し、この著作とは恰好の対象となるのではないかと思われます・・。興味がありましたら、是非、読んでみてください。
そして、その中から現代との類似、相違点を見出し、その理由について考えてみるのもまたなかなか面白いのではないでしょうか・・?
あるいは、単に一つの長編小説として読んでみても、そこに描かれている内容とは、様々な意味において勉強になり、また楽しむことができるのではないかと思います・・。
以前もブログ記事にて記しましたが、おそらく本来の歴史(特に近現代史の場合)の勉強とは、一方において研究、学術書そして他方において、こうした物語、小説を読むことにより、なんといいますか、その時代の理性的な知識のみでない全体像らしきものが自身に血肉化(インカーネーション)されるのではないかと考えます。
そして、それが一つの時代、地域に対して為されたならば、その伝にて他の時代、地域に対してもまた同様に行うことが出来、さらに、それらを続けることにより、より大きな、そして精緻とも粗雑とも評し得る「柔軟な歴史全体に対する感性」といったものを得ることが出来るのではないかと考えます。
さらにまた、一度何かの分野において、そうした感性の知覚、認識に到達することが出来たならば、それは他の学問分野におけるそれ(感性)の知覚、認識をも多少容易にするのではないかとも考えます。
とはいえ、こうしたことは、もしかすると若い感性が柔軟な時期においてのみ適用、適応することが出来る性質のものであり、年齢を経るごとに、徐徐にこうしたことを為し得る(感性の)柔軟さが損なわれていくのかもしれません・・。
そしてまた、そうした認識を如何なる形であれ文字、コトバとして記すことは、記述の内容、方法によっては多少の危険を伴う一方、感性の柔軟さを保持するという意味において、多少寄与するところがあるのではないかとも、最近考えるようになりました・・。
また、ゲーテ曰く
「歴史についても、自然や一切の深いものについてと同様である。
過ぎ去ったものであろうと、現在のものであろうと、未来のものであろうと。
真剣に深くはいりこんで行けば行くほど、ますます困難な問題が生じてくる。
それを恐れず、勇敢に突進する者は、研究が進捗するにつれ、だんだん高く教養され、らくになるのを感ずる。」
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。
2016年11月3日木曜日
20161103 北杜夫著「楡家の人びと」を読み始めました。
先日より次に読んでみたい著作として挙げていました北杜夫著「楡家の人びと」上巻を購入し読んでおりましたが、大変面白く既に200頁過ぎまで進みました。
この長編小説は以前読みました野上彌生子著「迷路」に比べ、その文体が割合軽く、あまり疲れず自然に読むことが出来ていると思われます。
また、時代背景としては「迷路」とほぼ同じではありますが、その書き出しは多少「楡家の人びと」の方が古いといえます。
加えて、共通する要素としては、双方著作の主要人物として地方を地盤にする代議士が登場することであり、そこを基軸として描かれている部分、章とは、戦前の政界の実態を知る上でなかなか参考になるのではないかと思われますが、同時に、果たして戦後の政界も、その当時(戦前)と基本的にはあまり大きく変化していないのではないだろうか・・?とも、こうしたことに関しては門外漢ながらも考えさせられます。
そしてまた、これら著作の時代背景と同時代に幼少期を過ごしたともいえる加藤周一の著作「羊の歌」もまた「楡家の人びと」を読んでおりますと、何故か思い起こされます。
これに関しては、主要な舞台となる地域が近いということもまたあるのかもしれません・・。
とはいえ、こうした著作とは、我が国の近現代史を知る上において実に有益であると同時に文学作品として優れている(考えさせられることが多い)のではないかと思われます。
もし興味を持たれた方々は是非読んでみてください。
しかし一方、何故であるかその理由はよくわかりませんが、特に現今の我が国において、良いものとして取り上げられる著作、映画化される著作、作品とは、こうした歴史の流れを故意に省いた、あるいは曲解に近い解釈が為されたものであることが多いように思われるのです・・(私は歴史の日本近現代史の専門家ではないが、それに関しての著作などは人並みには読んでいると考えます。)。
それ故、時折「今後、こうした実際の歴史の流れを(上手く)描いた著作が我が国において生み出されることはあるのだろうか?」と考えてしまうことがあります。
また、そうした著作が今後現れるのは、近い将来、これまでの何といいますか、ウソにまみれた、インチキくさいパラダイム、時代精神が終焉を迎えた後ではないだろうかと思われるのです・・。
一言にて述べますと、おそらく現代とは、これまで情報産業(新聞、出版、映画会社等)が様々な手練手管を以て、押さえつけていた国民の好奇心、創造性がインターネットといった新たな情報入手手段により、既存のそれら(情報産業)が発していたものが、決して時代精神を精確に反映しておらず、むしろ、その「ねつ造」により(自己および協力、出資者の)利益の誘導を行っていたことが広く理解されつつあることにより、不信感を高め、そのどうしようもなさに嫌気がさしつつあるといったところではないかと思われるのです・・。
しかし、そうであるからといって、その次に訪れるパラダイム、時代精神が現今のそれよりも上等なものであるとは決して言い切れず、あるいはむしろその劣化をも招き得るのかもしれませんが・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
この長編小説は以前読みました野上彌生子著「迷路」に比べ、その文体が割合軽く、あまり疲れず自然に読むことが出来ていると思われます。
また、時代背景としては「迷路」とほぼ同じではありますが、その書き出しは多少「楡家の人びと」の方が古いといえます。
加えて、共通する要素としては、双方著作の主要人物として地方を地盤にする代議士が登場することであり、そこを基軸として描かれている部分、章とは、戦前の政界の実態を知る上でなかなか参考になるのではないかと思われますが、同時に、果たして戦後の政界も、その当時(戦前)と基本的にはあまり大きく変化していないのではないだろうか・・?とも、こうしたことに関しては門外漢ながらも考えさせられます。
そしてまた、これら著作の時代背景と同時代に幼少期を過ごしたともいえる加藤周一の著作「羊の歌」もまた「楡家の人びと」を読んでおりますと、何故か思い起こされます。
これに関しては、主要な舞台となる地域が近いということもまたあるのかもしれません・・。
とはいえ、こうした著作とは、我が国の近現代史を知る上において実に有益であると同時に文学作品として優れている(考えさせられることが多い)のではないかと思われます。
もし興味を持たれた方々は是非読んでみてください。
しかし一方、何故であるかその理由はよくわかりませんが、特に現今の我が国において、良いものとして取り上げられる著作、映画化される著作、作品とは、こうした歴史の流れを故意に省いた、あるいは曲解に近い解釈が為されたものであることが多いように思われるのです・・(私は歴史の日本近現代史の専門家ではないが、それに関しての著作などは人並みには読んでいると考えます。)。
それ故、時折「今後、こうした実際の歴史の流れを(上手く)描いた著作が我が国において生み出されることはあるのだろうか?」と考えてしまうことがあります。
また、そうした著作が今後現れるのは、近い将来、これまでの何といいますか、ウソにまみれた、インチキくさいパラダイム、時代精神が終焉を迎えた後ではないだろうかと思われるのです・・。
一言にて述べますと、おそらく現代とは、これまで情報産業(新聞、出版、映画会社等)が様々な手練手管を以て、押さえつけていた国民の好奇心、創造性がインターネットといった新たな情報入手手段により、既存のそれら(情報産業)が発していたものが、決して時代精神を精確に反映しておらず、むしろ、その「ねつ造」により(自己および協力、出資者の)利益の誘導を行っていたことが広く理解されつつあることにより、不信感を高め、そのどうしようもなさに嫌気がさしつつあるといったところではないかと思われるのです・・。
しかし、そうであるからといって、その次に訪れるパラダイム、時代精神が現今のそれよりも上等なものであるとは決して言い切れず、あるいはむしろその劣化をも招き得るのかもしれませんが・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
20161102 医療系専門職の方々の院への進学について思ったこと・・
A「おかげさまで先月10月のブログ記事閲覧者数はこれまでで最高の22000人以上となりました。
これは1日に換算しますと大体700人以上の方々に閲覧して頂いているということになります。
また、新記事の投稿直後は、その内容に関連があると思われる記事の閲覧が多く、ここからもまた、さらに新しい記事の作成意欲を頂いております。
さて、本日はいくつかの歯科大学、歯科衛生士学校(短大、専門学校)等に所用のため行ってきました。
そこでお話しを伺い面白いと思ったことは歯科大学、歯学部とは6年制であることにより、その大学院となると4年制大学卒業後の大学院修士課程(主に2年制)といったものが存在しない、あるいは少ないということです。
そこで以前にもブログ記事にて記しましたが、4年制大学化しつつある歯科衛生士養成の学校をかつての専門学校あるいは短大であった時代に卒業され、その後、臨床経験を積まれ、向学心のある歯科衛生士の方々が、研究の為、大学院への進学を志した場合、前述の数の少ない修士課程にするか、あるいは修士課程を飛ばし歯科大学の博士課程に進学するのかとは、さきに述べた制度上により、その基準が意外と分かり難いのではないかということです・・。
あるいはこうした場合とは、既に修士課程が充実している同じ医療系の看護学科などの大学院に進学する方が適当であるのでしょうか・・?
こうした事情とは、実際にそれらを扱う部局に行き、お話しを聞かなければ、なかなかわからないものであるようです・・。
その一方において昨今、様々な医療分野において、今後、よりその重要度が増すと思われる分野がいくつも存在します。
そして、それらの分野において、これまで牽引的な役割を果たされてきた医療専門職の方々が、今後のキャリアアップなどを図り大学院への進学を希望した場合、その方々が、かつての学制下(専門学校、短大)での卒業生であったことにより、修士(主に2年制)あるいは博士(主に4年制)課程への進学を躊躇されるのであるとすれば「果たしてそれは仕方がないことなのであろうか?」と他人事ではあるのですが、どうも考えてしまうのです・・。
こうしたことを述べるのは、畢竟「いらぬお節介」であるのかもしれませんが、それでもやはり実際問題として、長い臨床経験のある歯科衛生士をはじめとする医療専門職の方々に対する大学院の出願資格等の内容の明確化、あるいはその内容の周知を何らかの方法にて図ることにより、その結果として平均健康寿命の延長あるいはバイオ系の研究での進展に寄与するところもあるのではないかとも思われますが、さて、こうしたことはもう既に考えられ、そして推し進められているのでしょうか?
とはいえ、私の場合、こうしたことに対する興味、関心とは、主に一つの歴史の進行に関与しているのではないかといった、かねてよりの狂言回し的存在への願望に因るものが大きいと考えております(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震での被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。今後ますます寒くなっていきますので。」
これは1日に換算しますと大体700人以上の方々に閲覧して頂いているということになります。
また、新記事の投稿直後は、その内容に関連があると思われる記事の閲覧が多く、ここからもまた、さらに新しい記事の作成意欲を頂いております。
さて、本日はいくつかの歯科大学、歯科衛生士学校(短大、専門学校)等に所用のため行ってきました。
そこでお話しを伺い面白いと思ったことは歯科大学、歯学部とは6年制であることにより、その大学院となると4年制大学卒業後の大学院修士課程(主に2年制)といったものが存在しない、あるいは少ないということです。
そこで以前にもブログ記事にて記しましたが、4年制大学化しつつある歯科衛生士養成の学校をかつての専門学校あるいは短大であった時代に卒業され、その後、臨床経験を積まれ、向学心のある歯科衛生士の方々が、研究の為、大学院への進学を志した場合、前述の数の少ない修士課程にするか、あるいは修士課程を飛ばし歯科大学の博士課程に進学するのかとは、さきに述べた制度上により、その基準が意外と分かり難いのではないかということです・・。
あるいはこうした場合とは、既に修士課程が充実している同じ医療系の看護学科などの大学院に進学する方が適当であるのでしょうか・・?
こうした事情とは、実際にそれらを扱う部局に行き、お話しを聞かなければ、なかなかわからないものであるようです・・。
その一方において昨今、様々な医療分野において、今後、よりその重要度が増すと思われる分野がいくつも存在します。
そして、それらの分野において、これまで牽引的な役割を果たされてきた医療専門職の方々が、今後のキャリアアップなどを図り大学院への進学を希望した場合、その方々が、かつての学制下(専門学校、短大)での卒業生であったことにより、修士(主に2年制)あるいは博士(主に4年制)課程への進学を躊躇されるのであるとすれば「果たしてそれは仕方がないことなのであろうか?」と他人事ではあるのですが、どうも考えてしまうのです・・。
こうしたことを述べるのは、畢竟「いらぬお節介」であるのかもしれませんが、それでもやはり実際問題として、長い臨床経験のある歯科衛生士をはじめとする医療専門職の方々に対する大学院の出願資格等の内容の明確化、あるいはその内容の周知を何らかの方法にて図ることにより、その結果として平均健康寿命の延長あるいはバイオ系の研究での進展に寄与するところもあるのではないかとも思われますが、さて、こうしたことはもう既に考えられ、そして推し進められているのでしょうか?
とはいえ、私の場合、こうしたことに対する興味、関心とは、主に一つの歴史の進行に関与しているのではないかといった、かねてよりの狂言回し的存在への願望に因るものが大きいと考えております(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震での被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。今後ますます寒くなっていきますので。」
2016年11月2日水曜日
20161101 創造的な仮説の構築、手作業による認識、明瞭化
A「11月に入り、気温も徐徐に下がりつつあることが実感され、特に朝、起床時におけるこれからの季節とはなかなか辛いものがあります・・(苦笑)。
また、それと別件にはなりますが、本日は若干帰宅が遅かったこともあり、ブログ記事更新は無理をせずに止めておこうかと考えましたが「とりあえず」といった感じにて記しはじめましたところ、この程度まではスムーズに記すことが出来ましたので「さて、この後、どの程度まで行くことが出来るだろうか・・?」といった感じにて現在記しております・・(笑)。
そういえば、昨日投稿しました記事もまた、思いのほか、多くの方々に閲覧して頂きました。
そして、昨日のようなことを文章の主題としますと、特に近代以降においては、一つの時代、国における映像文化(主に映画、テレビ)と文字文化(小説、その他文章等)とは大きく関連し、おそらく双方文化において共通し、主流となる傾向そして流行の推移、変化の仕方などは、その時代精神を示しているものであるといえます。
こうしたことの認識とは、どうしても主観的なものに陥りがちではありますが、一方において、数値によるデータに基づく資料の検討、考察などから当初入りますと、またさきの「主観的」とは違った意味での変な方向に進んでしまうことが往々にしてあるため、これら創造的ともいえる仮説の構築と数値データの作成そしてそれに基づく検討、考察とは、ある程度関連させながら、あるいは双方の間を揺れ動きながら、進めていくのが単純に面白く、自然であり、それに加え柔軟性、持続可能性がある方法ではないかと思われるのです・・。
そして私の場合、こうしたことは試料の作製、実験、そしてそこからのデータの抽出といった手作業の一方、類似した先行研究の論文等を読むことにより、何といいますか、自身の行っている一連の実験作業の置かれた位置らしきものが認識され、それに伴い、今後の課題そして行うべき次の作業、実験といったことが浮かび上がってくるように思われます。
そして、主に理系の実験を扱う研究とは、概ね、こうした手法を通じ、ある一つの疑問、課題に対し、光を当て徐徐にピントを絞り、その像を明瞭化してしてゆく一連の作業ではないかと思われます・・。
また、こういした方法とは、よくよく考えてみますと、通常、手作業を用いることのない、文系においてもまた、同様の過程らしきものを経て、一つの認識およびその明瞭化に至るのではないかとも思われます。
とはいえ、この手作業を用いるか用いないかということが、おそらく特に若い、発展途上の感性に対して大きな相違といったものを生じさせるのではないかと自身の経験に基づき考えております・・。
そして、その一方において理系分野における文系的な創造的な仮説の構築に至るまでの綿密な関連文献の捕集といったこともまた重要な意味を意味を持つのではないかとも考えております。
また、ここまで記していて、何故だか不図、以前ある国際学会での発表の直前、次演者にて座っている際、上下の歯が当たり、カチカチと鳴るほど緊張していたことを思い起こしました・・(苦笑)。
しかし、このようなことを記している自身とは、実際のところ、当時より成長しているのでしょうか?
こうしたことは、イマイチよく分からないものです・・(笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での地震、昨今の山陰東部での大地震における被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして復興を祈念しております。」
また、それと別件にはなりますが、本日は若干帰宅が遅かったこともあり、ブログ記事更新は無理をせずに止めておこうかと考えましたが「とりあえず」といった感じにて記しはじめましたところ、この程度まではスムーズに記すことが出来ましたので「さて、この後、どの程度まで行くことが出来るだろうか・・?」といった感じにて現在記しております・・(笑)。
そういえば、昨日投稿しました記事もまた、思いのほか、多くの方々に閲覧して頂きました。
そして、昨日のようなことを文章の主題としますと、特に近代以降においては、一つの時代、国における映像文化(主に映画、テレビ)と文字文化(小説、その他文章等)とは大きく関連し、おそらく双方文化において共通し、主流となる傾向そして流行の推移、変化の仕方などは、その時代精神を示しているものであるといえます。
こうしたことの認識とは、どうしても主観的なものに陥りがちではありますが、一方において、数値によるデータに基づく資料の検討、考察などから当初入りますと、またさきの「主観的」とは違った意味での変な方向に進んでしまうことが往々にしてあるため、これら創造的ともいえる仮説の構築と数値データの作成そしてそれに基づく検討、考察とは、ある程度関連させながら、あるいは双方の間を揺れ動きながら、進めていくのが単純に面白く、自然であり、それに加え柔軟性、持続可能性がある方法ではないかと思われるのです・・。
そして私の場合、こうしたことは試料の作製、実験、そしてそこからのデータの抽出といった手作業の一方、類似した先行研究の論文等を読むことにより、何といいますか、自身の行っている一連の実験作業の置かれた位置らしきものが認識され、それに伴い、今後の課題そして行うべき次の作業、実験といったことが浮かび上がってくるように思われます。
そして、主に理系の実験を扱う研究とは、概ね、こうした手法を通じ、ある一つの疑問、課題に対し、光を当て徐徐にピントを絞り、その像を明瞭化してしてゆく一連の作業ではないかと思われます・・。
また、こういした方法とは、よくよく考えてみますと、通常、手作業を用いることのない、文系においてもまた、同様の過程らしきものを経て、一つの認識およびその明瞭化に至るのではないかとも思われます。
とはいえ、この手作業を用いるか用いないかということが、おそらく特に若い、発展途上の感性に対して大きな相違といったものを生じさせるのではないかと自身の経験に基づき考えております・・。
そして、その一方において理系分野における文系的な創造的な仮説の構築に至るまでの綿密な関連文献の捕集といったこともまた重要な意味を意味を持つのではないかとも考えております。
また、ここまで記していて、何故だか不図、以前ある国際学会での発表の直前、次演者にて座っている際、上下の歯が当たり、カチカチと鳴るほど緊張していたことを思い起こしました・・(苦笑)。
しかし、このようなことを記している自身とは、実際のところ、当時より成長しているのでしょうか?
こうしたことは、イマイチよく分からないものです・・(笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での地震、昨今の山陰東部での大地震における被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして復興を祈念しております。」
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