本日もまた若干帰宅が遅くなり、おそらく明日(土)が休日でなければ、ブログの更新を断念していたのではないかと思われます。さて、先日より読みはじめました「楡家の人びと」はついさきほど第一部を読了しました。
次いで早速第二部を読みはじめようと思います。
この著作は三島由紀夫が激賞したとのことですが、たしかに舞台となった時代の文化、世相などを上手に描き、さらに、登場人物たちの人間関係および、その心理等の描写においても優れているのではないかと思われます。
これは野上彌生子著の「迷路」と比較すると、全体的に淡泊、あっさりしているのではないかと思われますが、私個人としては「楡家の人びと」の方が幾分か読み易いように思われます。
そして、この著作に関しても、今後機会を見つけ、その面白いと思った部分を抜粋引用してみたいと考えております。
また、比較的若い方々で、日本人作家の面白い長編小説を読んでみたいと考えている方々に対し、この著作とは恰好の対象となるのではないかと思われます・・。興味がありましたら、是非、読んでみてください。
そして、その中から現代との類似、相違点を見出し、その理由について考えてみるのもまたなかなか面白いのではないでしょうか・・?
あるいは、単に一つの長編小説として読んでみても、そこに描かれている内容とは、様々な意味において勉強になり、また楽しむことができるのではないかと思います・・。
以前もブログ記事にて記しましたが、おそらく本来の歴史(特に近現代史の場合)の勉強とは、一方において研究、学術書そして他方において、こうした物語、小説を読むことにより、なんといいますか、その時代の理性的な知識のみでない全体像らしきものが自身に血肉化(インカーネーション)されるのではないかと考えます。
そして、それが一つの時代、地域に対して為されたならば、その伝にて他の時代、地域に対してもまた同様に行うことが出来、さらに、それらを続けることにより、より大きな、そして精緻とも粗雑とも評し得る「柔軟な歴史全体に対する感性」といったものを得ることが出来るのではないかと考えます。
さらにまた、一度何かの分野において、そうした感性の知覚、認識に到達することが出来たならば、それは他の学問分野におけるそれ(感性)の知覚、認識をも多少容易にするのではないかとも考えます。
とはいえ、こうしたことは、もしかすると若い感性が柔軟な時期においてのみ適用、適応することが出来る性質のものであり、年齢を経るごとに、徐徐にこうしたことを為し得る(感性の)柔軟さが損なわれていくのかもしれません・・。
そしてまた、そうした認識を如何なる形であれ文字、コトバとして記すことは、記述の内容、方法によっては多少の危険を伴う一方、感性の柔軟さを保持するという意味において、多少寄与するところがあるのではないかとも、最近考えるようになりました・・。
また、ゲーテ曰く
「歴史についても、自然や一切の深いものについてと同様である。
過ぎ去ったものであろうと、現在のものであろうと、未来のものであろうと。
真剣に深くはいりこんで行けば行くほど、ますます困難な問題が生じてくる。
それを恐れず、勇敢に突進する者は、研究が進捗するにつれ、だんだん高く教養され、らくになるのを感ずる。」
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。
0 件のコメント:
コメントを投稿