本日も昼過ぎ神保町に出向き、いくつかの書店を徘徊しておりました・・(笑)。そしてまた面白そうな書籍をいくつか見つけましたが、これも今後の課題とさせていただきたく思います・・(笑)。また、現在読書中の著作もありますので・・。
さて、それとは別件になりますが、本日の東京中心市街地では、明日の参議院議員選挙投票の最後のシメであったのか、様々な立候補者の選挙カーを見ることができました・・。
明日の選挙投票により、我が国の社会が(自身が考える)良い方向へ変化するのかどうかわかりませんが、とりあえず地元にて投票に行こうと考えております・・。
とはいえ、実際のところ、私はある出来事により、こうした(様々なレベルの)政治などに結び付く選挙などを、あまり信用しておりません・・。
そして、こうしたことを書いておりますと、否応なく、かつて師事したお師匠(歯科理工学)のことを思い起こします・・。
自慢するほどのことではありませんし、また、それ以前に、そうしたことを比較することは困難であるのでしょうが、私は他のことはさておき、少なくとも師匠運だけに関しては、かなり良いのではないかと思っております・・(笑)。
また、不図、現在思ったことであり、これは偶然でしょうが、さきほどの想起したお師匠の誕生日とは、丁度今この頃です(笑)。
この記事を読まれているかどうか不明ではありますが「お誕生日おめでとうございます!」。
このお師匠は様々な学問分野から世間での話題、噂話に至るまで大変博学であり、私がどうにか英語論文等の文献を読解することが出来るようになったのも、国内外での学会発表(実験、準備をも含む)が出来るようになったのも、様々な分析機器を操作することが出来るようになったのも、そして学位を頂くことが出来たのも、このお師匠のお蔭であるといえます・・。
そして、それらの多くは、間違いなく、それ以前の私では出来ない、出来るとは思っていなかったことです。
それ故、私は、このお師匠から多大な恩を受けているといえます・・。
その意味において、現在の私とは「果たして、その恩に十分報いているであろうか?」と考えてみますと、残念ながら報いていないといえます・・。
そのことから、一つにこの一連のブログ記事を書いている次第とも云えます・・。
また、同様に、このブログに関しては、その他の(大変)お世話になったお師匠の皆様からの恩に報いるため、続けている次第であるともいえます。
とはいえ、これまで一連のブログ記事が果たして多少なりとも、その恩に報いているのかどうかは、私自身では判断することが出来ませんが・・(苦笑)。
しかし、その一方において、ついさきほど閲覧されたブログ記事の記録、動向を見ますと、この師匠に関する記事の閲覧が多く、こうした面白い現象が見出されることが、ブログ記事を作成していて大変面白いと感じるところの一つです・・。
上記のような現象を見出すことが出来ず、ブログ記事を作成し続けることは大変困難いや、不可能であった(ある)のではないかと思います・・。
その意味において、この記事を含め、これまでの一連の投稿された記事を興味を持って読んで頂いている皆様、あなた方がどなたであるか分かりませんが、どうもありがとうございます。
今後、とりあえず365記事までは書いてみたいと考えており、また、その後も出来るだけ現在と同様のペースにてブログ記事を作成してゆきたいと考えておりますので、今後とも、どうぞよろしくお願いします。
最後に何故であるか分かりませんが、私はこのお師匠を思い起こしますと、ロバート・グレーヴス著の「この私クラウディウス」の以前に抜粋したカエサルについての記述が連想されるのです・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月、熊本にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の普及そしてそれに続く復興を祈念しております。
また、先日来の和歌山、紀南地域における大雨での被害、被災が少ないことを祈念しております。」
2016年7月10日日曜日
2016年7月9日土曜日
20160708 発信と着想のセンスについて・・☆☆☆
ようやくといいますか、遂にといいますか、とりあえずこれまでに投稿した記事が350に到達することが出来ました・・。そして、とりあえず次の目標は1年分、365記事までブログ記事を書いてみようと思います。
これまで一連のブログ記事を読んで頂いている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。
さて、本日の首都圏は日中気温が上昇し、若干蒸し暑く感じました。
また、それとは別であると思われますが、昨今の東京とは参議院議員選挙のためか、何となく一種騒然とした雰囲気があるように思われます。
そうした意味において、やはり東京とは、現在なお、我が国における様々な流行、潮流が(最も)顕著に表れる場所、つまり時代の先端といっても良いのかもしれません・・。
また、もう一つ面白いことは、そうした流行の現象、具体的状況が動画サイトなどでほぼ同時に見ることが可能であるということです。
そして、こうした現象を動画サイトなどにより国内外各地にてほぼ実況として見ることが出来るようになりますと、さきに述べた「東京が流行、潮流が(最も)顕著に表れる(あるいは各地に先がけて生じる)場所、つまり流行の先端」ということにも多少変化が生じてくるのかもしれません・・。
このことを少し進めて書きますと、情報技術の進化発展により国内地域間に存在する様々な発信力の相違がならされ、平坦化してゆくということになるのではないかと思われます・・。
そして、こうした技術の進化発展により「既存の地域間の力関係」の平坦化が為され、一種リセットされたような状況になりますと、その次の段階において、一体どのような要素(あるいは複数のそれ)により、新たな力関係が決まり、そして、どのような経緯を経て安定に向かってゆくのでしょうか?
それは可視化出来そうなものに例えますと、高温の炉内にて焼成されつつある陶材内部でミクロレベルにて生じていること、あるいは日本列島を俯瞰した状態で1467~1615の大名、領主の支配領域の変化、変遷を高速度にて見ているようなものであるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、このような流れ、動き(動態というのだろうか?)とは、古今様々な社会の歴史においてよく見られることであると思います。
しかし、そうした流れ、動きのモデル内のどの部分が、我が国の現状にピッタリと適合するものであるかは分かりません・・。
(これは本当に難しいことではないかと思います・・。)
しかし、同時に現在とは、少なくとも10年程前(2006あたり)に比べますと社会全体として、より多くの熱を帯び、不安定な状況であるということは云えるのではないかと思います・・。
おそらく、それは決して嬉しいハナシではないと思いますが・・(苦笑)。
しかしながら、考えようによれば、こうした熱を帯び、不安定な時代にブログ記事を通じて何かしら発信することが出来ているということは、決して悪いことばかりでもないのかもしれません。少なくとも自身にとっては・・。
そして、ここまで書いていて不図思うことは「こうした状況のなか、ブログ記事の作成は継続したまま、それを書く場所、地域が変化したら、一体どのような変化が生じるのであろうか?」ということですが、これに関しては、今後すぐに変わることはないと思います・・。
また、それと若干関連するかもしれませんが、昨年この時期に記したブログ記事「八幡宮、喜捨、放生会について」を読んでみますと、その文体は現在に比べ硬く、また着想は現在のそれよりも多少深く、鋭いのかもしれません・・(苦笑)。
こうした着想とは、現在になり思い返してみますと、異なる地域に住むことにより、少しずつ生じ、蓄積してきたのではないかと思われます・・。
また、その意味において、現在の私(の精神)とは、良く云えば当時とは異なる言語の層におり、悪く云えば若干、着想の源泉が枯渇しているのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、同時に最近作成した記事の中にも「悪くない出来かもしれない・・。」と思われるものもいくつかありますので、まあ、さきに記した程には深刻なものではないのかもしれません・・(笑)。
しかし本当に「継続は力なり」なのでしょうか・・(笑)?
これは今現在イマイチよく分かりません・・。
とはいえ、ここまで興味を持って読んで頂いていた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の大地震により被災された熊本地域の今後の速やかな復旧そして、それに続く復興を祈念しております。
これまで一連のブログ記事を読んで頂いている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。
さて、本日の首都圏は日中気温が上昇し、若干蒸し暑く感じました。
また、それとは別であると思われますが、昨今の東京とは参議院議員選挙のためか、何となく一種騒然とした雰囲気があるように思われます。
そうした意味において、やはり東京とは、現在なお、我が国における様々な流行、潮流が(最も)顕著に表れる場所、つまり時代の先端といっても良いのかもしれません・・。
また、もう一つ面白いことは、そうした流行の現象、具体的状況が動画サイトなどでほぼ同時に見ることが可能であるということです。
そして、こうした現象を動画サイトなどにより国内外各地にてほぼ実況として見ることが出来るようになりますと、さきに述べた「東京が流行、潮流が(最も)顕著に表れる(あるいは各地に先がけて生じる)場所、つまり流行の先端」ということにも多少変化が生じてくるのかもしれません・・。
このことを少し進めて書きますと、情報技術の進化発展により国内地域間に存在する様々な発信力の相違がならされ、平坦化してゆくということになるのではないかと思われます・・。
そして、こうした技術の進化発展により「既存の地域間の力関係」の平坦化が為され、一種リセットされたような状況になりますと、その次の段階において、一体どのような要素(あるいは複数のそれ)により、新たな力関係が決まり、そして、どのような経緯を経て安定に向かってゆくのでしょうか?
それは可視化出来そうなものに例えますと、高温の炉内にて焼成されつつある陶材内部でミクロレベルにて生じていること、あるいは日本列島を俯瞰した状態で1467~1615の大名、領主の支配領域の変化、変遷を高速度にて見ているようなものであるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、このような流れ、動き(動態というのだろうか?)とは、古今様々な社会の歴史においてよく見られることであると思います。
しかし、そうした流れ、動きのモデル内のどの部分が、我が国の現状にピッタリと適合するものであるかは分かりません・・。
(これは本当に難しいことではないかと思います・・。)
しかし、同時に現在とは、少なくとも10年程前(2006あたり)に比べますと社会全体として、より多くの熱を帯び、不安定な状況であるということは云えるのではないかと思います・・。
おそらく、それは決して嬉しいハナシではないと思いますが・・(苦笑)。
しかしながら、考えようによれば、こうした熱を帯び、不安定な時代にブログ記事を通じて何かしら発信することが出来ているということは、決して悪いことばかりでもないのかもしれません。少なくとも自身にとっては・・。
そして、ここまで書いていて不図思うことは「こうした状況のなか、ブログ記事の作成は継続したまま、それを書く場所、地域が変化したら、一体どのような変化が生じるのであろうか?」ということですが、これに関しては、今後すぐに変わることはないと思います・・。
また、それと若干関連するかもしれませんが、昨年この時期に記したブログ記事「八幡宮、喜捨、放生会について」を読んでみますと、その文体は現在に比べ硬く、また着想は現在のそれよりも多少深く、鋭いのかもしれません・・(苦笑)。
こうした着想とは、現在になり思い返してみますと、異なる地域に住むことにより、少しずつ生じ、蓄積してきたのではないかと思われます・・。
また、その意味において、現在の私(の精神)とは、良く云えば当時とは異なる言語の層におり、悪く云えば若干、着想の源泉が枯渇しているのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、同時に最近作成した記事の中にも「悪くない出来かもしれない・・。」と思われるものもいくつかありますので、まあ、さきに記した程には深刻なものではないのかもしれません・・(笑)。
しかし本当に「継続は力なり」なのでしょうか・・(笑)?
これは今現在イマイチよく分かりません・・。
とはいえ、ここまで興味を持って読んで頂いていた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の大地震により被災された熊本地域の今後の速やかな復旧そして、それに続く復興を祈念しております。
2016年7月7日木曜日
20160707 350記事 夏の(様な)日差しから・・・
A「昨日はあまり睡眠をとっておらず、現在も若干モウロウとしておりますが、とりあえず本日もまた何かしら書いてみようと思います・・。
本日昼間の首都圏は気温が上がり、既にして夏季の陽気ではなかったかと思われます・・。
とはいえ、こうした蒸し暑い街におりますと、不図「いや、この暑さは九州ほどではないな・・」と思いました。
以前のブログ記事においても記しましたが、夏場の九州、特に鹿児島の暑さ、その日差しの強さとは、彼の地に赴き、はじめて体験するものでした・・。
それ以前に在住していた南紀における日差しも強かったと思いますが、おそらく鹿児島市でのそれは、なお一層強かったのではないかと思います。
おそらく鹿児島市は環境的に都市、ある程度の大きさの市街地であるため、日差しによる暑さが内部に蓄積され易いのかもしれません・・(都市、街全体の熱伝導能が低い)。
しかし、そうであっても鹿児島市在住時の私とは、季節を問わず週末になると市街地に市電で出かけ、金生町、いづろ通、天文館通あたりで下車し、徒歩にて高見馬場、中央駅、工学部前、郡元、南鹿児島等を経て宇宿、脇田まで帰着するのが習慣となっておりました・・。
そして、この夏期における週末の散歩?とは、歩き始めてからわずか数分で汗が噴き出し、シャツ、その上に着たジャケットにまでそれが浸透しました・・。
それ故、おそらく当時の私とは、このような調子で盛んに発汗しており、さらにその後、夕刻過ぎには市内にある温泉に浸かっておりましたので、現在に比べ、あるいは年齢、年代の割には代謝が良かったのではないかと思います・・(笑)。
こうした習慣、生活サイクルから突然移動、変化し、首都圏の雑踏に呑み込まれるような生活を送るようになりますと、やはり何かしら心身に変化が生じていたのではないかと思います・・。
もちろん個人差、年代差、性差などにより、こうした変化の度合いとは大きく異なってくるのではないかとも思いますが・・。
ともあれ、現在は、かつてほどそうした変化、具体的には心身の不調といったものは感じられません。
また、かつて、この地、首都圏にて育ち、それ以外の国内地域を知らなかった頃の私と比べますと、どうしても、現在の首都圏での生活において
「これが普通なのだろうか?」
「これのどこが良いのだろうか?」
これが洗練されているということなのだろうか?」などと思うことが多々あります・・。
こうした疑問あるいは日常に生じる小さな悩みのようなものは、それを知らないでいた方が比較の対象を認識していないという意味において幸せであるのかもしれません。
しかし同時にそうした(一種純粋な)精神とは、持続可能性、発展持続性らしきものが経年に伴い、徐々に減衰してくるのではないかと思われますが、これを読まれた皆様は如何お考えになるでしょうか?
あるいは、そうした疑問、日常に生じる小さな悩みとは単に無駄なものなのでしょうか・・・?
さる四月に熊本にて生じた大地震による被害の復旧が速やかに為され、そしてその後の復興もまた同様に為されることを祈念しております。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。」
本日昼間の首都圏は気温が上がり、既にして夏季の陽気ではなかったかと思われます・・。
とはいえ、こうした蒸し暑い街におりますと、不図「いや、この暑さは九州ほどではないな・・」と思いました。
以前のブログ記事においても記しましたが、夏場の九州、特に鹿児島の暑さ、その日差しの強さとは、彼の地に赴き、はじめて体験するものでした・・。
それ以前に在住していた南紀における日差しも強かったと思いますが、おそらく鹿児島市でのそれは、なお一層強かったのではないかと思います。
おそらく鹿児島市は環境的に都市、ある程度の大きさの市街地であるため、日差しによる暑さが内部に蓄積され易いのかもしれません・・(都市、街全体の熱伝導能が低い)。
しかし、そうであっても鹿児島市在住時の私とは、季節を問わず週末になると市街地に市電で出かけ、金生町、いづろ通、天文館通あたりで下車し、徒歩にて高見馬場、中央駅、工学部前、郡元、南鹿児島等を経て宇宿、脇田まで帰着するのが習慣となっておりました・・。
そして、この夏期における週末の散歩?とは、歩き始めてからわずか数分で汗が噴き出し、シャツ、その上に着たジャケットにまでそれが浸透しました・・。
それ故、おそらく当時の私とは、このような調子で盛んに発汗しており、さらにその後、夕刻過ぎには市内にある温泉に浸かっておりましたので、現在に比べ、あるいは年齢、年代の割には代謝が良かったのではないかと思います・・(笑)。
こうした習慣、生活サイクルから突然移動、変化し、首都圏の雑踏に呑み込まれるような生活を送るようになりますと、やはり何かしら心身に変化が生じていたのではないかと思います・・。
もちろん個人差、年代差、性差などにより、こうした変化の度合いとは大きく異なってくるのではないかとも思いますが・・。
ともあれ、現在は、かつてほどそうした変化、具体的には心身の不調といったものは感じられません。
また、かつて、この地、首都圏にて育ち、それ以外の国内地域を知らなかった頃の私と比べますと、どうしても、現在の首都圏での生活において
「これが普通なのだろうか?」
「これのどこが良いのだろうか?」
これが洗練されているということなのだろうか?」などと思うことが多々あります・・。
こうした疑問あるいは日常に生じる小さな悩みのようなものは、それを知らないでいた方が比較の対象を認識していないという意味において幸せであるのかもしれません。
しかし同時にそうした(一種純粋な)精神とは、持続可能性、発展持続性らしきものが経年に伴い、徐々に減衰してくるのではないかと思われますが、これを読まれた皆様は如何お考えになるでしょうか?
あるいは、そうした疑問、日常に生じる小さな悩みとは単に無駄なものなのでしょうか・・・?
さる四月に熊本にて生じた大地震による被害の復旧が速やかに為され、そしてその後の復興もまた同様に為されることを祈念しております。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。」
2016年7月6日水曜日
20160706 対話形式のブログ記事の「はしり」について・・
A「昨日作成したブログ記事とは、いかなる原因によるものであるかわかりませんが、当初より閲覧者数がある程度伸びました。
また、この記事とは、さらに一昨日の記事に関して述べたものであり、そのことから「何かしらハナシが繋がっている方が閲覧者数は伸びるのかもしれない。」と短絡的に思いましたが、こうしたものは、そこまで単純ではないと思います・・(苦笑)。
とはいえ、一つの試みとして、昨日の記事のことから本日の記事作成をはじめてみました・・(笑)。
昨日の記事において、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のことを少し取り上げました。
この著作とは、題名からして若干重そうな感じを受けますが、文量としては決して多いものではなく、読んだ当時(30歳)の私としては、若干の読み難さを感じましたが、他の哲学、思想系の著作に比べれば、そこまで読み難さを感じさせることはないと思います・・。
しかしながら、一般的に哲学、思想系の著作とは、感性が瑞々しい若いうち(20代)により多く接した方が良いなどといわれますので、それら哲学、思想系の著作から、より多くの何かを感じ取るためには、その方が相対的に良いのかもしれません・・。
もちろん断言はできませんが・・。
また、そういった意味においても、さきの「論理哲学論考」とは、他の哲学、思想系の著作とは若干毛色が異なり、実験などに終始する理系大学院生の方々が、その実験作業の合間などに読まれたりすると、(もしかすると)思いもよらぬ面白い、劇的な効果が生じることもあるのかもしれません・・(笑)。
もちろん断言はできませんが・・。
そういえば、こうしたことを書いていますと、不図、以前SNS上にて、この著作(「論理哲学論考」)についての対話形式文章を記したことを想起しました・・。
また、そのことを想起しますと、当時SNS上にて記した対話形式の「論理哲学論考」に関する文章とは、もしかすると、私がある程度の期間、当ブログ上にて記してきた対話形式の文章の「はしり」のようなものであったのかもしれません・・・(笑)。
また、そこ(SNS上)で記された対話も、これまでのブログ上にて記したものと同様、概ね実際に為された対話に基づいておりますので、特に削除の必要はなく、そのままにしておりますが、同時に現在読んでみますと、ブログ全体としては少なからず恥ずかしい部分もありますので、見ないように(は)しております・・(笑)。
しかし、そのように考えてみますと、これまでに作成した一連のブログ記事も同様、後日恥ずかしく感じる時期がやってくるのでしょうか・・?
また、さらにこうした記事、文章そして文体とは、それを作成する環境、記述者の置かれた立場などから多少なりとも影響を受けるものなのでしょうか・・?
そのように考えた場合、今後、現在と異なる地域に在住することになり、このブログを継続するとしたら、私は一体どのような内容の記事をどのような文体にて記すことになるのでしょうか・・?
こうしたものは正直、現在においては不可知であると思います。
そして、それは面白いことであるのか、あるいは不安を惹起させる要素であるのかもよくわかりません・・。
ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本を中心とする大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
また、この記事とは、さらに一昨日の記事に関して述べたものであり、そのことから「何かしらハナシが繋がっている方が閲覧者数は伸びるのかもしれない。」と短絡的に思いましたが、こうしたものは、そこまで単純ではないと思います・・(苦笑)。
とはいえ、一つの試みとして、昨日の記事のことから本日の記事作成をはじめてみました・・(笑)。
昨日の記事において、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のことを少し取り上げました。
この著作とは、題名からして若干重そうな感じを受けますが、文量としては決して多いものではなく、読んだ当時(30歳)の私としては、若干の読み難さを感じましたが、他の哲学、思想系の著作に比べれば、そこまで読み難さを感じさせることはないと思います・・。
しかしながら、一般的に哲学、思想系の著作とは、感性が瑞々しい若いうち(20代)により多く接した方が良いなどといわれますので、それら哲学、思想系の著作から、より多くの何かを感じ取るためには、その方が相対的に良いのかもしれません・・。
もちろん断言はできませんが・・。
また、そういった意味においても、さきの「論理哲学論考」とは、他の哲学、思想系の著作とは若干毛色が異なり、実験などに終始する理系大学院生の方々が、その実験作業の合間などに読まれたりすると、(もしかすると)思いもよらぬ面白い、劇的な効果が生じることもあるのかもしれません・・(笑)。
もちろん断言はできませんが・・。
そういえば、こうしたことを書いていますと、不図、以前SNS上にて、この著作(「論理哲学論考」)についての対話形式文章を記したことを想起しました・・。
また、そのことを想起しますと、当時SNS上にて記した対話形式の「論理哲学論考」に関する文章とは、もしかすると、私がある程度の期間、当ブログ上にて記してきた対話形式の文章の「はしり」のようなものであったのかもしれません・・・(笑)。
また、そこ(SNS上)で記された対話も、これまでのブログ上にて記したものと同様、概ね実際に為された対話に基づいておりますので、特に削除の必要はなく、そのままにしておりますが、同時に現在読んでみますと、ブログ全体としては少なからず恥ずかしい部分もありますので、見ないように(は)しております・・(笑)。
しかし、そのように考えてみますと、これまでに作成した一連のブログ記事も同様、後日恥ずかしく感じる時期がやってくるのでしょうか・・?
また、さらにこうした記事、文章そして文体とは、それを作成する環境、記述者の置かれた立場などから多少なりとも影響を受けるものなのでしょうか・・?
そのように考えた場合、今後、現在と異なる地域に在住することになり、このブログを継続するとしたら、私は一体どのような内容の記事をどのような文体にて記すことになるのでしょうか・・?
こうしたものは正直、現在においては不可知であると思います。
そして、それは面白いことであるのか、あるいは不安を惹起させる要素であるのかもよくわかりません・・。
ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本を中心とする大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
2016年7月5日火曜日
20160705 着想と記述形式について
昨日記したブログ記事を現在読んでみますと、その着想とは、なかなか面白いものの、その記述形式においては疲労のためか、稚拙な部分が多く見受けられたように思います。
とはいえ、それを記した私としては、その着想は理解できることから、ここで不図「こうした文章といったものは、その着想と記述形式何れが重要であるのか?」と考えるに至りました。
「文章を記す際に日常的に生じる、こうした疑問とは、案外奥が深いのかもしれません・・。」
また、こうした疑問とは、記された文章に対する認識の仕方により生じることが多いのではないでしょうか?
記された文章に対する認識の際、その着想あるいは論理形式、論拠の実証性に「より」重点を置いた代表的なものとして論文などが挙げられます。
それに対し、論理形式、論拠の実証性などよりも、押韻あるいは音声として読んだ際の読み易さ、音の美しさなどに「より」重点を置いたものとして詩あるいは音読を前提とした「ものがたり」などが挙げられるのではないかと思います。
こうした要素(実証性、論理性と押韻、音の美しさ)とは、時代、時代において、それぞれ特徴、あるいは特有の関係性があるようであり、また、同時に文章を記す際の主体のスタンスなどによっても変化するようです。
また、以前の研究分野にいた際、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に興味を持ち、能動的に読んでいたのは、おそらく当時必要に迫られ、日常的に読んでいた文献、研究分野の論文による影響が大きかったのではないかと思います・・。
こうした文献をある程度読んでおりますと、記されたコトバ、言語を交通標識の如く、何かの意味を象徴する記号のようなものとして認識、思考してゆく傾向があるのではないかと思います・・。
その意味において、特に、ある程度自身の専攻分野における論文等を読んでいると認識される方々は、さきに挙げたヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読まれてみると面白いのではないかと思います・・。
私の場合、この著作の読後、何だかよく分からない重苦しい感覚におそわれたことを思い出します・・(苦笑)。
おそらくそれは著者に対し「確かに仰る通りなのですが、コトバ、言語とは決して「それだけではない」と思うのでですが・・?」といった反対意見を述べたくなるような、あるいは、何といいますか「論理の牢獄に投げ込まれたような重苦しさ」ではないかと思います・・・(苦笑)。
しかし、その一方、不明瞭であり、主要な論点、論拠が見えない詩的なものの良さとは、未だに理解できませんので、その結果、お茶を濁すように「論理的、詩的双方の文章においても、それらがつながる結節点といったものがあるのではないだろうか・・?そして、私は私なりの泥縄的な方法によって、その結節点を見出してゆきたいです・・。」
といったことを述べるに至るのではないかと思います・・(苦笑)。
そして、ここまで記していて、不図、以前抜粋したロバート・グレーヴス著「この私、クラウディウス」の部分を想起しましたが、もしかするとこうした疑問とは、ある程度普遍的なものであるのかもしれません・・(笑)。
ここまで興味を持って、読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、さる四月の熊本での大地震によって被災された地域の生活諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。
とはいえ、それを記した私としては、その着想は理解できることから、ここで不図「こうした文章といったものは、その着想と記述形式何れが重要であるのか?」と考えるに至りました。
「文章を記す際に日常的に生じる、こうした疑問とは、案外奥が深いのかもしれません・・。」
また、こうした疑問とは、記された文章に対する認識の仕方により生じることが多いのではないでしょうか?
記された文章に対する認識の際、その着想あるいは論理形式、論拠の実証性に「より」重点を置いた代表的なものとして論文などが挙げられます。
それに対し、論理形式、論拠の実証性などよりも、押韻あるいは音声として読んだ際の読み易さ、音の美しさなどに「より」重点を置いたものとして詩あるいは音読を前提とした「ものがたり」などが挙げられるのではないかと思います。
こうした要素(実証性、論理性と押韻、音の美しさ)とは、時代、時代において、それぞれ特徴、あるいは特有の関係性があるようであり、また、同時に文章を記す際の主体のスタンスなどによっても変化するようです。
また、以前の研究分野にいた際、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に興味を持ち、能動的に読んでいたのは、おそらく当時必要に迫られ、日常的に読んでいた文献、研究分野の論文による影響が大きかったのではないかと思います・・。
こうした文献をある程度読んでおりますと、記されたコトバ、言語を交通標識の如く、何かの意味を象徴する記号のようなものとして認識、思考してゆく傾向があるのではないかと思います・・。
その意味において、特に、ある程度自身の専攻分野における論文等を読んでいると認識される方々は、さきに挙げたヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読まれてみると面白いのではないかと思います・・。
私の場合、この著作の読後、何だかよく分からない重苦しい感覚におそわれたことを思い出します・・(苦笑)。
おそらくそれは著者に対し「確かに仰る通りなのですが、コトバ、言語とは決して「それだけではない」と思うのでですが・・?」といった反対意見を述べたくなるような、あるいは、何といいますか「論理の牢獄に投げ込まれたような重苦しさ」ではないかと思います・・・(苦笑)。
しかし、その一方、不明瞭であり、主要な論点、論拠が見えない詩的なものの良さとは、未だに理解できませんので、その結果、お茶を濁すように「論理的、詩的双方の文章においても、それらがつながる結節点といったものがあるのではないだろうか・・?そして、私は私なりの泥縄的な方法によって、その結節点を見出してゆきたいです・・。」
といったことを述べるに至るのではないかと思います・・(苦笑)。
そして、ここまで記していて、不図、以前抜粋したロバート・グレーヴス著「この私、クラウディウス」の部分を想起しましたが、もしかするとこうした疑問とは、ある程度普遍的なものであるのかもしれません・・(笑)。
ここまで興味を持って、読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、さる四月の熊本での大地震によって被災された地域の生活諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。
2016年7月4日月曜日
20160704 営利組織・ゲゼルシャフト(Gesellschaft)と共同体組織・ゲマインシャフト(Gemeinschaft)と海外文化と古墳について 閲覧者数100000人到達
A「冒頭から余談となりますが、つい先日より「はてなブログ」においてもブログ記事の公開をはじめました。
ここでの閲覧者数は未だ二ケタ代ですが、以前作成したブログ記事のなかで閲覧者の多いもの、個人的に気に入っているものをここにコピペすることにしました・・(笑)。
気が向きましたら、こちらもどうぞ読んでください。
また、今後機会、余裕が出てきましたら、それら内容の加筆修正を行ってゆこうと考えておりますが、さて、何時のことになるでしょうか・・(苦笑)?
また、ハナシは変わりますが、かつて我が国の社会科学分野の文献において
「日本の会社組織とは、会社という本来、営利の追求を目的とする、ドイツ語でいうところのゲゼルシャフト(Gesellschaft)であるはずのものが、特に我が国においては、それがゲマインシャフト(Gemeinschaft)・共同体組織、地縁、血縁社会)化する傾向がある。」
といったことが記されているものが多く見られたのではないかと思います・・。
また、山本七平のいくつかの著書などからも、そのようなニュアンスを看取することができるのではないかと思います。
ちなみに山本七平のこうした論点とは丸山眞男と被る部分が多く、そして、それを結節するものが小室直樹およびその思想であるのかもしれません・・。
ともあれ、私としては現場からの発想が根源に存在することが多い山本七平の著書に古くから親しんできました・・。
(これにはお師匠からの影響もあります・・。)
しかし一方、それら一つ一つの定点的な分析、論述および、そこからの歴史的背景への(センスの良い)飛躍そして、さらに、その分析、論述とは、丸山眞男の方が優れているのではないかと思うこともまた少なからずあります・・。
これを読んでくださっている方々はどのようにお考えになるでしょうか・・?
さて、それはさておき、さきに述べた我が国における様々な営利組織であるゲゼルシャフト(Gesellschaft)の共同体組織、ゲマインシャフト(Gemeinschaft)への変化の現象とは、特に現在においては、その「逆流」が生じているような漠然とした感じを受けます・・。
おそらく、これは現在様々なところにて報じられている格差の拡大、格差社会化などとも少なからぬ関連性があるように思います。
あるいは結句、こうしたものは、同様の現象に対する異なる視点であるのかもしれません・・。
また、こうした社会的な潮流とは、少なくとも我が国においては、国外の圧倒的な力、を持つ文明、何らかの国際的な強い傾向と対峙せざるを得なかった時に特に顕著に見受けられるのではないかと思いました・・。
また、先日読んだ我が国の古墳に関する書籍において
「古来より大陸(文化)の玄関口であった北部九州地域における古墳とは、その全般的な傾向として、副葬品の豪華さに比して、墳墓自体は小さく簡素であることから、この地域においては、古墳の埋葬者である地域の首長とは、あくまでも現世における指導者であり、特に近畿、関西において見られる巨大な墳墓が造営される神性を付与されたような宗教指導者的存在ではなかったのではないか?」
といったことが述べられていましたが、この分析から、もしかすると古代首長の埋葬様式における傾向の根底にも、さきに述べた営利組織、ゲゼルシャフト(Gesellschaft)と共同体組織、ゲマインシャフト(Gemeinschaft)的な要素の地域における濃淡、つまり一種の地域性などが看取されるのではないかと思いましたが、如何でしょうか?
とはいえ、ここまで興味を持って読んで頂いて、どうもありがとうございます。
また、さる四月の熊本における大地震によって被災された地域の諸インフラの早急な復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
ここでの閲覧者数は未だ二ケタ代ですが、以前作成したブログ記事のなかで閲覧者の多いもの、個人的に気に入っているものをここにコピペすることにしました・・(笑)。
気が向きましたら、こちらもどうぞ読んでください。
また、今後機会、余裕が出てきましたら、それら内容の加筆修正を行ってゆこうと考えておりますが、さて、何時のことになるでしょうか・・(苦笑)?
また、ハナシは変わりますが、かつて我が国の社会科学分野の文献において
「日本の会社組織とは、会社という本来、営利の追求を目的とする、ドイツ語でいうところのゲゼルシャフト(Gesellschaft)であるはずのものが、特に我が国においては、それがゲマインシャフト(Gemeinschaft)・共同体組織、地縁、血縁社会)化する傾向がある。」
といったことが記されているものが多く見られたのではないかと思います・・。
また、山本七平のいくつかの著書などからも、そのようなニュアンスを看取することができるのではないかと思います。
ちなみに山本七平のこうした論点とは丸山眞男と被る部分が多く、そして、それを結節するものが小室直樹およびその思想であるのかもしれません・・。
ともあれ、私としては現場からの発想が根源に存在することが多い山本七平の著書に古くから親しんできました・・。
(これにはお師匠からの影響もあります・・。)
しかし一方、それら一つ一つの定点的な分析、論述および、そこからの歴史的背景への(センスの良い)飛躍そして、さらに、その分析、論述とは、丸山眞男の方が優れているのではないかと思うこともまた少なからずあります・・。
これを読んでくださっている方々はどのようにお考えになるでしょうか・・?
さて、それはさておき、さきに述べた我が国における様々な営利組織であるゲゼルシャフト(Gesellschaft)の共同体組織、ゲマインシャフト(Gemeinschaft)への変化の現象とは、特に現在においては、その「逆流」が生じているような漠然とした感じを受けます・・。
おそらく、これは現在様々なところにて報じられている格差の拡大、格差社会化などとも少なからぬ関連性があるように思います。
あるいは結句、こうしたものは、同様の現象に対する異なる視点であるのかもしれません・・。
また、こうした社会的な潮流とは、少なくとも我が国においては、国外の圧倒的な力、を持つ文明、何らかの国際的な強い傾向と対峙せざるを得なかった時に特に顕著に見受けられるのではないかと思いました・・。
また、先日読んだ我が国の古墳に関する書籍において
「古来より大陸(文化)の玄関口であった北部九州地域における古墳とは、その全般的な傾向として、副葬品の豪華さに比して、墳墓自体は小さく簡素であることから、この地域においては、古墳の埋葬者である地域の首長とは、あくまでも現世における指導者であり、特に近畿、関西において見られる巨大な墳墓が造営される神性を付与されたような宗教指導者的存在ではなかったのではないか?」
といったことが述べられていましたが、この分析から、もしかすると古代首長の埋葬様式における傾向の根底にも、さきに述べた営利組織、ゲゼルシャフト(Gesellschaft)と共同体組織、ゲマインシャフト(Gemeinschaft)的な要素の地域における濃淡、つまり一種の地域性などが看取されるのではないかと思いましたが、如何でしょうか?
とはいえ、ここまで興味を持って読んで頂いて、どうもありがとうございます。
また、さる四月の熊本における大地震によって被災された地域の諸インフラの早急な復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年7月3日日曜日
20160703 知恵の?柱・・
A「おかげさまで昨日の土曜日も閲覧者数が1000人に到達しました。
どうもありがとうございます。
正直なところ、ここまで継続してブログ記事の作成が出来るとは考えていませんでした(笑)。
しかし、世間には、さらに長い期間、継続してブログ記事を作成している方々も大勢いらっしゃるようですので、まあ、そんなに大したことではないのかもしれません・・(苦笑)。
さて、本日も特に主題を決めないで書きはじめた次第ですが、実際のところ、私の書く記事の内容とは、いくつかのパターン、分野に分類することが出来るのではないかと思います。
それは文学、思想、考古学、文化人類学、近現代史などといったものであり、パターンとしては、書籍からの抜粋引用、対話形式、独白形式といったところであると思われます・・。
では「それ以外には何をどの程度知っているのか?」と問われた場合「一応、世間的には歯科生体材料学で学位は頂いておりますが、現在のところ、その分野から離れていますし、また今後、アカデミアにて、そうした職に就かない限りにおいて、この分野のことは「店ざらし」になるのではないかと思います・・。」と答えるのではないかと思います・・。
また、言い訳、負け惜しみと聞こえるかもしれませんが、私の場合、基層にあるものが上述した分野でのいくらかの知識、学識であると思いますので、たとえ(世間的)表層にあるものが店ざらしによって風化あるいは吸収してしまっても、その下の基層にある部分とは、かねてより培ってきたその(学問の)日常性により、刺激を与え続け、能動性を持ち続け、その部分での知的好奇心、知性とは保持あるいはもしかすると進化、発展することが出来るのではないかと思います・・(笑)。
とはいえ、こうしたことは自他に対し「断言」はできませんし、また、そうしたことを述べるに際し、どうもその発露の仕方が(どうしても)観念的、抽象的になってしまう傾向があるのではないかと思います・・。
あるいはもっと端的にいいますと「そのように主張する際の根拠となる科学的なデータを示せ」と求められても、それが出来ない歯がゆさといったところかもしれません・・。
・・その根拠となるデータとは、しいて云えば、これまで継続して作成してきたブログ記事、あるいはそれ以前に作成した諸々の文章、取得した学位などといったことになるのかもしれません・・。
そして、たしかに、それら全てがなければ、揃わなければ、これまでブログ記事を作成することが出来なかったと思いますし、また、それは基層となっている文系学問分野における知識、学識「のみ」でも為すことが出来なかったのではないかと思います・・。
その意味において、いかなる経路を辿ってきたにせよ、私がここまで継続してブログ記事を記すことが出来た要因とは、これら全てが並存したことではないかと思います・・。
また、ここまで書いていて「知恵の七柱」という書籍の題名の意味とは、そんなところにあるのではなかろうか・・?などと勝手に思いつきました(笑)。
また、この「知恵の七柱」の著者とは20年近く年長の同国人である、バートランド・ラッセルの著書を最近再び読んでおりますが、大変面白く、様々な(科学的)根拠に基づく情報が飛び交う現在であるからこそ、精読に値するのではないかと思いました。
とはいえ、先日、ブログ上にて、この著書を読んでいることを題名を示さずにほのめかした「だけ」にも関わらず、この著書について多少触れた以前の記事を提示されていたことには内心ビックリしました(笑)。
それがどなたによるものであるか分かりませんが、こうした刺激によってもまた、これまで継続してブログ記事の作成をすることが出来ていることを忘れてはいません・・。
そしてまた、今回も、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
さきの熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念します。」
どうもありがとうございます。
正直なところ、ここまで継続してブログ記事の作成が出来るとは考えていませんでした(笑)。
しかし、世間には、さらに長い期間、継続してブログ記事を作成している方々も大勢いらっしゃるようですので、まあ、そんなに大したことではないのかもしれません・・(苦笑)。
さて、本日も特に主題を決めないで書きはじめた次第ですが、実際のところ、私の書く記事の内容とは、いくつかのパターン、分野に分類することが出来るのではないかと思います。
それは文学、思想、考古学、文化人類学、近現代史などといったものであり、パターンとしては、書籍からの抜粋引用、対話形式、独白形式といったところであると思われます・・。
では「それ以外には何をどの程度知っているのか?」と問われた場合「一応、世間的には歯科生体材料学で学位は頂いておりますが、現在のところ、その分野から離れていますし、また今後、アカデミアにて、そうした職に就かない限りにおいて、この分野のことは「店ざらし」になるのではないかと思います・・。」と答えるのではないかと思います・・。
また、言い訳、負け惜しみと聞こえるかもしれませんが、私の場合、基層にあるものが上述した分野でのいくらかの知識、学識であると思いますので、たとえ(世間的)表層にあるものが店ざらしによって風化あるいは吸収してしまっても、その下の基層にある部分とは、かねてより培ってきたその(学問の)日常性により、刺激を与え続け、能動性を持ち続け、その部分での知的好奇心、知性とは保持あるいはもしかすると進化、発展することが出来るのではないかと思います・・(笑)。
とはいえ、こうしたことは自他に対し「断言」はできませんし、また、そうしたことを述べるに際し、どうもその発露の仕方が(どうしても)観念的、抽象的になってしまう傾向があるのではないかと思います・・。
あるいはもっと端的にいいますと「そのように主張する際の根拠となる科学的なデータを示せ」と求められても、それが出来ない歯がゆさといったところかもしれません・・。
・・その根拠となるデータとは、しいて云えば、これまで継続して作成してきたブログ記事、あるいはそれ以前に作成した諸々の文章、取得した学位などといったことになるのかもしれません・・。
そして、たしかに、それら全てがなければ、揃わなければ、これまでブログ記事を作成することが出来なかったと思いますし、また、それは基層となっている文系学問分野における知識、学識「のみ」でも為すことが出来なかったのではないかと思います・・。
その意味において、いかなる経路を辿ってきたにせよ、私がここまで継続してブログ記事を記すことが出来た要因とは、これら全てが並存したことではないかと思います・・。
また、ここまで書いていて「知恵の七柱」という書籍の題名の意味とは、そんなところにあるのではなかろうか・・?などと勝手に思いつきました(笑)。
また、この「知恵の七柱」の著者とは20年近く年長の同国人である、バートランド・ラッセルの著書を最近再び読んでおりますが、大変面白く、様々な(科学的)根拠に基づく情報が飛び交う現在であるからこそ、精読に値するのではないかと思いました。
とはいえ、先日、ブログ上にて、この著書を読んでいることを題名を示さずにほのめかした「だけ」にも関わらず、この著書について多少触れた以前の記事を提示されていたことには内心ビックリしました(笑)。
それがどなたによるものであるか分かりませんが、こうした刺激によってもまた、これまで継続してブログ記事の作成をすることが出来ていることを忘れてはいません・・。
そしてまた、今回も、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
さきの熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念します。」
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