2017年2月5日日曜日

20170204 どの程度の深さからの反応であるのか・・

昨日の記事投稿によって総投稿記事数が530に到達しました。そして今後はとりあえず今月中あるいは来月初旬までに550記事への到達を目標とします・・。

それにしても、これまで作成投稿してきた記事によって少しは何かが変わってきているのでしょうか・・?
まさに暗中模索ではありますが、とりあえずこれも実験と同様、作成し続けませんと分かりませんので継続しようと思います・・(笑)。

さて、昨日の投稿記事に書いた『観念的』についてですが、哲学あるいは思想などを扱う文系諸学問は実験を伴う理系諸学問と比較した場合、相対的に観念的であるといえます(当然ではありますが・・)。

また、これはあくまでも私見ではありますが、特に哲学、思想などを扱う文系学問の場合、その当初から明らかにセンスの有無がかなり重要な意味を持つと考えます。

それ故、大多数の方々は、こうした学問にどこかで接したとしても特に情熱を持つに至らず、通り過ぎて行くのではないかと思われます・・。

そして、これもまた私見ではありますが、この哲学、思想などを扱う学問のセンスとは、運動神経のように『少なくともあっても損はない』といった種類のものではなく、むしろ、そのセンスがあった方が変に悩み、そして疎外されることもまた多いのではないかと思われます・・(笑)。

また、自身はそのセンスが優れているとは考えません・・。

しかし一方、そうした学問がかねてより『好き』であり、また、そうした学問およびそうした雰囲気、環境に身を置いた経験はある程度ありますので、少なくとも他者からそうしたハナシを聞いた場合、どういった反応が適切であるかは感覚的に分かるのではないかとも考えます・・。

もとより、これはセンスではなく『慣れ』に分類されるものではありますが・・(笑)。

さて、現在書店に行きますと、昨今よりの古典、教養ブームが継続しているようであり、さまざまな関連書籍が出版され、中には大変面白そうな著作も少なからずありますが、それでも、それらの大半とは『当てを狙いに行っているのではなかろうか?』と思わせるものであり、さらにはテレビにて大々的に取り上げ宣伝している著作もあり、そうした異種連携の手腕には感心しますが、おそらく書籍とは本質的に食物と同様『本人がそれを食べたい、読みたいから食べる、読む』わけであり、そうした誘導戦術らしきものとは『どうも違うのでは・・?』と考えてしまうのです・・(苦笑)。

あるいはまた、そうしたものが時代精神を形成させる何かの力(凝集力)の要素ではあるのかもしれませんが・・。

しかしながら、ここで思うことは、そうした何処からのものであれ刺激に対する反応が、一体我々のどの程度の深さから生じている、発せられているのか?ということです・・。

このことは此処首都圏において特に強く感じ、考えさせられます・・。

また、おそらくそれは欧米諸国が我が国に対して古くから感じていることではないかとも思われます・・。

そして、そうした彼等の興味、関心に基づく実験が、我が国を何かの題材として扱ったさまざまな映画、書籍等が我が国において如何なる反応を示すか?ではないかとも考えられます・・(笑)。

先日公開された遠藤周作原作の映画「沈黙」とは、それが原作に忠実であるならば、現在の我が国において『反日』と認識されても仕方のない表現、文脈が少なからず見受けられると思われます。

それは数年前に公開されたアメリカ人女優が監督した映画作品「アンブロークン」と同程度に・・。

そして、ここまで書いており不図思い出したことは、以前実験の最中に話していた大学院生との雑談で、彼の出身地を舞台とした有名な小説があり、そのことについて尋ねてみますと、その返事とは、それまでとは変わってあまり浮かない声で
「・・いや、多分あそこに住んでいる人達のほとんどが、その作品の内容なんて実は知らない、気にしていないのだと思います・・。
実際にその作品を読み、内容を知っていたとしたら、それを観光に利用しようとは考えつかないと思うのですが・・。」

これは彼(愛郷心は強い)の考えが未だ若く、現実社会への認識が浅い、甘いのか、あるいは彼の述べる感覚が正しいのかわかりませんが、少なくとも、多少はさきに述べた内容にも関連するのではないかと思われましたが如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
おかげさまで530記事に到達しました。

昨年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。



2017年2月4日土曜日

20170203 季節毎に変る読む著作の傾向について・・

本日の首都圏は若干気温も上昇し日中は比較的過ごし易かったのではないかと思います。

また、帰宅途中に書店に立ち寄りましたら、面白そうな書籍をまた幾つか見つけました・・。

私の場合、季節によって好んで読む書籍の傾向があるようで、理由は分かりませんが、寒い季節になると思想、哲学分野といった観念的事象を扱った著作を好んで読む傾向があるのではないかと思われます・・。

また、かねてより好んで読んでいた歴史系の著作とは、記述内容の抽象度により思想、哲学にも分類されるものがあります。

そして当初はそれこそ、さまざまな戦記・伝記といった、どちらかというと抽象度の低い著作を好んで読んでおり、また、この時期はかなり長く続きましたが、何時の頃か基本的には同じ歴史を扱ってはいるものの、抽象度が高い思想、哲学にも分類される著作を読むことが出来るようになり、さらにその後、どちらかというと、そちらの方を好むようになっていきました。

しかしながら、こうした思想、哲学に分類されるような著作全般とは、私見として夏の暑い盛りに読むのは困難であると思われるのです・・(苦笑)。

歴史を題材とした思想、哲学といった抽象度の高い著作一般とは書かれている内容が指し示す歴史の流れ、出来事が多岐に渡り、あるいは重層的、多義的であることが多いと云い得ます。

そのような著作とは、読解において、自身の持つ様々な歴史の流れをその都度適用して考えなければならないため、少なくとも当初においては、それなりに面倒な思考作業であるといえます。

ともあれ、それも読み進むに伴い、著者の述べたい歴史の流れのモデルが概容として理解、把握出来てきますと、徐徐に読み進むスピードが速くなっていく傾向があります。

こうした一連の流れ、過程とは、様々な機器のチューニング作業あるいは顕微鏡観察のピントを合わせる作業などとも幾分類似しているのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?

そして、上記のような過程により歴史を抽象、観念的に理解できる(と考える)ようになりますと、今度はそればかりに偏り、歴史の流れを把握する基礎となる文献、遺物、遺跡といったものの把握、理解が疎かになることもまた少なからずあるようです・・(苦笑)。

そして、こうした現象を『観念的』あるいは竹山道雄が述べるところに従えば『歴史の演繹的な理解』と評されるのではないかと思われます。

また、こうした視座つまり、ある前提となる観念的な定立に基づく(演繹的な)事物の把握、理解とは、その多くが間違った結論に至るとのとですが、この意見は自身の経験にも基づき妥当であると判断されます。

それ故、ハナシをふりだしに戻して考えてみますと、現在未だ寒いといえる季節において観念的著作を読むことを好んでいるものの、今後季節が春になりますと、実際に存在する事物に対しての興味へとまた移行するのではないかと思われます・・。

また、その時こそ、冬季に読んだ観念的著作と実在する事物との間の関連性がひらめき、それを文章として著し指摘することが出来るようになるのではないかとも思われるのです・・。

そして、この考えが単に観念的なものであるかどうかは、訪れる季節およびその時の自身が教えてくれるものといえます・・(笑)。

また最後に自己弁護のために書いておきますと、記述内容の全てにおいて、全くの自己矛盾がないというのもあまり面白くないのではないでしょうか・・(笑)?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。









2017年2月3日金曜日

20170202 ひらめき、読書、読解能力の低下について・・

A「昨日は特に理由があったわけではありませんが、記事作成を休みました。

とはいえ、このところ再度ほぼ毎日記事作成を行ってきましたので、ここで一休みするのも悪いことではないと思われます・・。

本日は若干帰宅が遅くなったことから再度記事作成を止めておこうと考えましたが、二日間連続で休むのもいささか気が引ける部分もあり、今現在このように書いております・・(笑)。

昨日は記事作成を休み、またPCの起動すらしませんでしたが、それでも思った以上の記事の閲覧があり、またその閲覧されている記事も多岐に渡っておりました。
また、それらの間に特に関連性らしきものは看取することができません・・少なくとも今現在までにおいては・・(笑)。

あるいはしかし、後日それらの間に何か「アッ!」と思わせるような関連性あるいはそれらを結節する何かしらの観念が思い浮かぶことがあるのでしょうか・・(笑)?

そのように考えてみますと、かつて(自分なりに)盛んに研究に従事していた時期、そうしたことを人との対話などにおいて惹起され、あるいはまた、そうした観念の涌出とは朝の時間帯に突如として生じることが比較的多かったことが想起されます・・。

そこから比べますと、たしかに現在とは、その当時に比べ「ひらめき」に関しては大分疎遠になっていると考えられます・・(苦笑)。

加えて「ひらめき」が比較的盛んに訪れるのは日常的に書籍、文字を多く読んでいた時期であったともいえるのではないかと考えます・・。

その意味において今現在は読み進めている長編小説といったものはなく、既読著作の再読といった感じであることから、さきに述べたような感じを受けるのかもしれません・・。

そうしますと「さて、今度は何を読んでみようかな?」と考える次第ですが、これに関しても特に昨今は「徐徐に読んでみたくなる」といった感じであり、以前のようにたて続けに長編、学術書を読むといった芸当は出来なくなってきております・・(苦笑)。

また、たしかにこの点に関しては読書、読解能力の衰頽、低下を感じますが、その一方、こうした(しょうもないかもしれない)アウトプット(ブログのこと)に関しては過去に比べ盛んに出来るようにはなってきておりますので、案外これはこれで釣り合いが取れているのではないかとも思われるのです・・(笑)。

あるいは、これも単なる「言い訳」なのでしょうか・・(苦笑)?

そういえば先日久しぶりに会田雄次の著作を幾つか手に取って断片的に読んでみましたが、それらに書かれてあることの多くは現在の我が国にこそ適用することができるのではないかと思いました・・。

また、こうした過去の保守派の論客、知識人とされる方々が書いた文章、著作とは概して、現在そのように自他共に認める(そのような立場の)方々に比べ、書かれた行間から感じられる迫力、説得力が大きく異なるように思われるのです・・。

そして、こうした差異がある程度広く肯定されるものであるならば、その理由とは何であろうか?と考えてみますと、それは「経験」ではないかと思われます。

また、それは我が国の近現代前期(1868~1945)をさらに二分割(1868~1906・1907~1945)した際の前半・後半それぞれの時代精神の差異にもある程度いえるのではないかと思われますが、如何でしょうか?

「ヒトが制度を作り、その後は制度がヒトを作る」おそらく我々日本人とは、制度を以てヒトを作るということに関して、特に近代以降、あまりその手腕を発揮できていないのではないかと思われますが、これも如何でしょうか?

何れにせよ、太平洋戦争を経験された方々の著作一般とは、我々日本人が如何なる民族であるのかよく考えさせてくれます・・。

とはいえ今回もここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。

昨2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島周辺での大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」



2017年1月31日火曜日

20170131 岩波書店刊 エルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」―物理的にみた生細胞― からの抜粋

岩波書店刊 エルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」―物理的にみた生細胞― からの抜粋
pp.151ー152
「この最後の章で私が明らかにしようとおもうことは、一口でいえば、生きているものの構造について本書で学んだこと全体から、生きているものは物理学の普通の法則に帰着させることのできない或るやり方で働きを営んでいるという結論を出す準備が整ったに違いない、ということです。
しかもそれは生きている生物体内の一つ一つの原子の行動を指図する何か「新しい力」とか、あるいは力以外の何ものかが存在するということを根拠としているのではなく、生きているものの構造が、物理の実験室でいままで研究されてきたどんなものとも異なっているという理由に基づきます。
大ざっぱに説明すると、たとえば蒸気機関しかよく知らない技師が電気モーターの構造をみて一通り検べ終えれば、おそらくこの技師はそれが自分のまだ知らない原理に従って働いているという結論を出す準備が整っただろうというようなものです。
彼はボイラーなどでよく知っている鋼がここではコイルに巻かれている長い長い銅線として使われており、また梃や棒や蒸気筒などでよく知っている鉄がここでは銅線のコイルの内側をみたしていることに気がつきましょう。
彼はきっと、これは同じ銅と同じ鉄であり、自然界の同じ法則に従うに違いないと考えるでしょう。
この点で彼の考えは正しいのです。
その技師は、これほど構造が違っているのだから働き方が全然異なっているだろうと考えるのでしょう。
だが電気モーターはボイラーや蒸気もなしにスイッチ一つひねればまわりだすのだから、何か幽霊によって運転されるのだろうというような疑いを起こすことはないでしょう。」

pp.154ー156
「いずれにせよ、繰り返し何度でも強調すべき点は、物理学者にとってこのような事態は先例がないので、ありえそうもないと思えるばかりでなく、実に驚愕すべきことだという点です。
一般の人が信じているところに反して、物理法則により支配されている規則正しい物事の成り行きは、原子が高度の秩序をもった配列をしていることの結果ではなく、原子の配列状態が、周期性の結晶の場合またははなはだ多数個の同種の分子からなっている液体あるいは気体の場合のいずれかの場合のように、同じ配列がはなはだ多数あることに基づいて出てくる結果に他なりません。
化学者が実験室でははなはだ複雑な分子を取り扱う場合でさえも、必ず莫大な数の同様な分子を相手にしています。
或る特定の反応がはじまってから一分後には半数の分子が反応を終えており、二分後には四分の三が反応を終えているという場合がありましょう。
だが、仮に或る特定の分子の(反応)経路を追跡することができるとしても、その分子がすでに反応を済ませたものの中にあるか、まだ反応を起こしていないものに含まれているかどちらかであるかを予言することはできません。
それはまったく偶然のことがらです。
私は単に理論的に推測してこういっているのではありません。
それは、われわれがただ一個の小さな原子団あるいはただ一個の原子の運命を観察することがどうしてもできないからというのではありません。
事実それを観測できる場合も少なくありません。
しかしその場合にはいつでも必ず完全な不規則性が見出されるのであって、それらを合わせて平均してはじめて規則性が生まれます。
その例はすでに第一章で説明しました。
液体の中に漂っている一個の小さな粒子のブラウン運動はまったく不規則です。
しかし同じような粒子が多数あれば、それぞれの粒子の不規則な運動によって全体としては規則的な拡散の現象が現れます。

ただ一個の放射性原子が崩壊するのは観察することができます。(或るものを放射しそれが蛍光膜に当たると目がチラチラした光を放ちます。)

しかし放射性原子をただ一個だけ取り出したとすると、その寿命を予言することは健康な一羽の雀の寿命をあてるよりもずっと困難です。

事実その原子の寿命については次のこと以上何もいえません。

すなわち、その放射性原子が生きている限りいつまでたっても(しかもその寿命は何千年あるかもしれないのですが)、次の一秒間の間に崩壊する確率は、確率自身の大小にはかかわらず、同種の放射性原子が多数あれば、その結果として正確に指数関数に従う崩壊の法則が出てくるのです。」

エルヴィン・シュレーディンガー
「生命とは何か」
ISBN-10: 4003394615
ISBN-13: 978-4003394618



2017年1月30日月曜日

20170130 文体の進化について思ったこと(多少具体的に)

A「本日首都圏は4月並みの気温まで上昇したとのことでした。
たしかに本日は外に出ていても特に寒いと感じることはありませんでした・・。

これが続けば良いのですが、しかし明日になりますと例年通りの寒さに戻るとのことであり、大変残念に思います・・(嘆)。

しかし、もう少し長い期間で考えてみますと、以前(1月初旬~半ば)に比べますと、多少は暖かくなり、また陽も長くなっていると感じますので、既に季節は徐徐に春に向かいつつあるのでしょう・・。

その一方、自身のブログ記事に関しては本日今現在もまた主題の着想に至らず「さて、どうしたものか?」といった感じです・・(苦笑)。

また新たな書籍は読んでいるのですが、これはさきのブログ記事にて取りあげた北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」に触発された為か、精神分析についての著作であり、そこには「共同幻想」といったコトバが比較的多く見受けられます・・。

そして、こうした精神分析、心理学に関連する著作を読んでおりますと、それまである程度自明のことであると考えていた事柄に対し、疑問を持ち、またそれを考えるきかっけとなるのまでは良いのですが、一方、その著作にてて述べられている主張、説などを、ある程度「理解出来た。」と実感しないまでは、現在為されている文章の着想に対しては、どうも阻害する『何か』があるのではないかと思われるのです・・(苦笑)。(本当であるのか?)

とはいえ、これまでの(主観的な)記述内容が、客観性の光に照らした場合、どの程度の妥当性を持つのであるかは別として、そうした状況を文章にて著すといったこと自体は、少なくと無意味ではなく、それ(自身がその場で考えていることを文章化すること)もまた、着想の一種ではないかとも考えられます・・(笑)。

また、この種の着想、記述様式とは、これまで(ブログ記事作成の継続以前)行ったことがなく、あるいは過去の日記にて、その断片らしきものが散見されますが、それらはあくまでも断片であり、現在書いているこの文量程度までは至らず、加えてそれらにはハナシのスジといったものは見受けられません・・。

その意味において、現在書いているこの文章もまた、過去(明確に区切るとすれば、2015年6月半ば)においては書くことの出来なかった種類の文体であることから、その間には幾分かの進歩、進化らしきものが認められるのではなかろうかと考えるのです・・(笑)。

さらに実際的なハナシを追記しますと、文章がここに至るまでに要した時間とは60分に満たず、これは特に調子が良い、悪いわけではなく、平均的な所要時間であると、これまでの経験から云うことが出来ますが、これに関しても、さきと同様、過去に比べ進歩、進化の痕跡が認められると云えます・・(笑)。

しかし一方、過去の作成記事(2015年後半)の方が現今のそれらよりも優れていたと思われることもあり、それは書かれている主題の深さであると云えます。

初期に書かれた記事(書籍からの抜粋引用を除く)の多くは対話形式を採っており、また、そこに書かれている対話の大体70%程度は実際過去に為された対話であることから、その主題の深さとは、少なくともその半分は私の能力以外(対話者)に由来すると云えます。

それ故、現在の採っている独白形式にものよりも、主題が深いと感じるのではないかと思われるのです・・(苦笑)。

ともあれ、当時、文章(ブログ記事)作成のために採ったこの苦肉の策(対話形式)とは、独白形式のそれに移行するまでの有効な手段であったのではないかと現在では考えます・・。

そしてまた、これ(対話形式の文体)がある程度、普遍的にそうした(補助的)効果を持つのであるかは分かりませんが、自身としてはとりあえず書いておくに値することであるとは考える次第です・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

また、昨年2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」








20170129 アメ横に久しぶりに行って思ったこと・・

A「本日の首都圏はこの時季にしては気温が上昇し、日中は多少過ごし易かったと思います・・。

また久しぶりに御徒町のアメ横に出向き、相変わらずの喧騒の中、探しものをしておりました。

とはいえ、最近はインターネットによる通販サイトが大変発達しておりますので、よく考えてみますと何もアメ横で商品を探し、購入する必要性はないのかもしれませんが・・。

しかし、それでも個人的にはアメ横や秋葉原の電気街そして神田神保町の古書店街などには何かしら捨て去ることの出来ない魅力があると思うのです・・。

また、私はいくつかの地域に住み、それぞれ大変良いところであると思っておりますが、この点、つまり、何かしらの分野における圧倒的な商品量を誇る古くから市場街といったものに関しては、やはり東京の方が幾分優れているのではないかと思います・・。

そして昨今、そうした古くからの即物的ともいえる市場街が仮想空間上のインターネット通販サイトの市場規模拡大により押されつつあるというのは、少し抽象化してみますと、同じく昨今、さまざまな場面において見受けられる現象と同根であると考えることも出来るのではないでしょうか?

これは、地域の商品購買力、経済規模などを別にして考えてみますと、地域間の格差を平均化するものであるとは云えます・・。

また、それがある面における進化であり、他面における退化、劣化ではあるのでしょうが、何れにせよ、そうしたものが時代精神といったものの一側面であるのではないでしょうか?

そして我々は、そうした時代精神からほぼ無意識のうちにさまざまな影響を受け、日々ものごとを考え、行動しているのですが、ここで大事であると思われることは、その時代に生じている現象、傾向に対し、抽象化を試み、その上で抽出される、ある程度簡素化された、さきの現象、傾向の『原理』(メカニズム、作用機序)に類似した『原理』が何時、何処の歴史の流れにおいて作用していたかを考えてみることです。

そうしますと、当然、対象となる歴史の流れを数多く且つ多面的に知っておいた方が、より深化させて現在対象とする現象、傾向を考え、そして洗練された結論を出すことが出来ると考えます・・。

これはつまり、考える時に『能動的に』引き出すことの出来る歴史の流れを、より多く持つということです。

そして、これがいわゆる『教養』といったものの一側面ではないでしょうか?

さて、現在、その進化発展が著しい人工知能であり、また、これには膨大な知識が内蔵されているのでしょうが、おそらく現今においては、あるコトバになっていない、流れ、動き、傾向といったものを感知、抽出し、それに対し能動的に見解を発し、さらにそれに関連させた知識(体系)を付加させ、考えを駆動させていくといった一連の活動に関しては未だ開発途上であり、さらに、そこに至るまでは今後も難しいのではないかと考えます・・。

しかし今後、もしそうなった場合『教養』とは、人工知能を指すことになるのかもしれません・・(苦笑)。

しかし、少なくとも現在においては『教養』とは、そういったものではなく、また本質的には、あくまでも人間に対して付与されるものであるとは考えるのですが如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

また2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復興を祈念しております。」








2017年1月29日日曜日

20170128 昨日探していた書籍について・・『どくとるマンボウ医局記』など・・

A「今回の記事投稿により総投稿記事数が525となります。

これはとりあえず次の目標である600記事へ到達するまでの四分の一の行程を過ぎたことになりますが、まだまだ先は随分長いように感じられます・・(苦笑)。

とはいえ、一歩ずつ進めていく以外、方法はありませんので、今回もまた記事を書いているというのが一面における現状であるといえます・・(笑)。

さて、昨日投稿の記事冒頭での「探していた書籍」とは北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」であり、当著作は、これまでに何度か読んでいるものの、現在読んでみてもなかなか面白い著作であると云い得ます(笑)。

現在、テレビドラマ、マンガなどで「医療もの」が流行しているようですが、それでしたら、この著作をドラマ、映画化してみるとなかなか面白いかもしれませんが、如何でしょうか(笑)?

しかし、現代のこうした大学医局、医療の現場においては、おそらく、この著作に書かれているほどの破天荒な行動、言動は出来ない、為されていないことから共感を得るに至らず、あるいは舞台を現代に移し別種の(現代に合わせた)そのような(破天荒な)ことが描かれるにしても、その場合においても、おそらく現実感がないことから同様にあまり共感を得るに至らず、あるいはそれ以前に(特に現代においては)そうしたことを映画、ドラマとして配給、放送することには、さまざまな意味での困難さが伴うのかもしれません・・(笑)。

またしかし、その意味において(こそ)、この著作を稀有、面白いものとしているのではないかと思われるのです・・。

加えて、当著作末尾に示されている著者と同医局に所属していたなだいなだによる解説では以下のように述べられています。

「医局記は北杜夫が医局員として生活していたころの回想である。それは彼が大学を卒業してから芥川賞を受賞し、エッセイ「どくとるマンボウ航海記」も馬鹿売れというほどの超ベストセラーになり、作家としての地位を固めるまでの時代に重なる。彼は彼の創りだしたユーモラスな饒舌的文体、法螺と思えば真実、真実と思えば法螺という、読む者をして牛若丸に翻弄される弁慶のような気分にさせる、いわゆるマンボウものの語り口でこの回想も書いた。だから読者が、ここに登場する人物も事件も、文体上の真実つまりは作家的に誇張されたリアリティーだと思われても不思議ではない。だが彼の三年後に同じ医局に入り、その時代を共に生きた仲間の一人として証言するが、この医局記には不思議と嘘がないのである。誇張も少ない。」

どうです、当著作を「おもしろそう・・」と興味を持たれた方々も多少はいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。」