2016年2月17日水曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」新潮社刊pp.137-138より抜粋 およびスタンリー・キューブリック監督「突撃」(1957) 終幕場面 20160218 

Directed by Stanley-Kubrick
ending scene

北杜夫著「どくとるマンボウ航海記」新潮社刊pp.137-138

「翌日は出港の予定であったが、三十年来の濃霧のため河口に四十隻の船がつまってしまい、出港できぬという。結局この霧のため二日半出港がのびた。

出港がのびると酒や煙草はシールされているので不足してくるし、むろんのことベルギーの金は使いきっている。私はまだ少々ドルやマルクを持っているが、今後どういう事態が起こるかわからぬので無駄には使えない。いつ出港になるかわからぬため上陸許可が出るのは午後も遅くか夜になってからである。

私はそれでも街へ出て行って、中央駅あたりの店で二、三枚の絵はがきを買い、一ドル紙幣をくずした残りで幾刻かを過ごした。

ある午後は映画を見た。西部劇の看板のでている館にはいって行ったら、なんだか様子がおかしい。古風なフランス軍の軍服なんかきたカーク・ダグラスがしきりと呼子を吹きながら突撃している。
西部劇は次週のもので。これは第一次大戦の仏軍の物語なのである。
英語をしゃべっているのだがとてもわからず、フランス語とオランダ語らしい字幕があるがこれは目に一丁字もない。
功をあせった上官がカーク・ダグラスの将校に無理な攻撃を命じて失敗してしまうのだが、最後に三人ばかりの兵士が死刑になってしまうところがよくわからない。また捕虜みたいなドイツ娘が兵隊の前で歌など唄うがこれまた関連がわからない。どうも未だにわからない。」

「どくとるマンボウ航海記」
ISBN-10: 4101131031
ISBN-13: 978-4101131030  北杜夫
 

金関丈夫著「発掘から推理する」岩波書店刊pp.52-56より抜粋 20160217

「万葉集」の巻一に、カグ山とミミナシ山との争いを歌ったものがある。争いの原因はウネビ山を中にした恋愛の三角関係である。

しかし、山と山とが恋愛したり、喧嘩したりするということは、いったい何のことだろう。
単なる擬人法で、山の名は借りものにすぎないのだ、と片づけるとしても、まことに不可解な発想法である。この歌の意味はいまだにはっきり説明されていない。

説明の手がかりは、まず恋愛のほうにある。
一方が男で他方が女でないと恋愛は成り立たない。
現に山のうちには、山城の男山とか、日光の男体山にように、性を有するものがあり、日光の文字も二荒(ふたら)のニコウをもじった吉祥字で、もとの二荒はふたつの神山である。 その一方が男体だから、ここにはちゃんと女体山(女貌山または如宝山)がある。 紀伊や大和の妹背山、大和の二上山も北が男岳、南が女岳である。
古い記載では、「常陸国風土記」に筑波山の西峰が雄神、東峰が雌神であったり、「肥前国風土記」には、杵島の三山の一つはヒコ神、一つはヒメ神、これにはミコ神、すなわち子供まであった。ウネビ山のミホトの地名は、いつも問題になるが、ウネビが女性なら、ミホト(女陰)のあるのは当然だろう。縦に削られた山の凹みにこの名をつけて読んでいる例は朝鮮にもある。

これらの例でわかるように、山には男神と女神とがあり、山にも性があるからには、これをそれぞれ、男神女神として祀る社会があったことになる。 一つの山が男女二峰に分かれているならば、これを祀る二つの社会も全体としては二つに分かれた、一つの集団だった、と考えられよう。 国分直一教授は下関市の蓋井島で、いまも部落が男山と女山とを祀る二つの集団に分かれていることを明らかにして、日本における双分社会の存在の問題に、一つの大きな手がかりを与えた。

古い姿を想像すると、これら男女の山神は、年一、二度の両集団の合同の祭りに、それぞれ男女の姿をとって出現し、和合の神事をいとなんだものらしい。
今も日本の多くの地方で、男女神の婚交の神事をやって、年の豊穣を祈るのは、そのなごりと見られる。 

讃岐の琴平神社の十月の祭りには、上の頭司と下の頭司、すなわち二つの宮座の頭のあいだに、婚礼の盃をとりかわす式が行われて、双分社会の合同の神事が、後世の宮座のそれに影響を与えていることを暗示している。

それはそておき、それぞれに男女神を祀る二つの社会の合同の祭事は、これらの外婚性の両集団の、定時の結婚や交易-市が立つ-の機会でもあった。

さきの筑波や杵島の山々に、男女の定時の集団婚の行われた記事があるのは、この山神の祭りと無関係ではない。

しかし、和合の前には、山と山との争いの場面があった。
相聞といえば恋愛そのもののように近ごろでは考えているが、これは男女が即興的な歌のやりとりをすることで、その歌は相手をやりこめて屈服させたり、屈服されまいと争ういわば歌あらがいである。
折口信夫博士は、平安朝の女房文学の発達は、この、境界(逢坂関)における定期の歌あらがいを考えないとわからないといっている。

この争いは結局の和合を予想したものだが、しかしそれを長びかせて、できる限りのレジスタンスをすることが必要だった。 沖縄の久高島では、ついこのあいだまで「刀自覓ぎ」の風習があり、それは婚礼の席上から、花嫁は山林に逃亡する。 十日、二十日はこれをアクセレートしなければ、和合による祈念の霊力が強まらない。 結婚には、単なる個人的な人間関係でなくて、個々の場合でもこうした、集団的な、宗教的な意味があったのだ。

この行事では、男女神の和合の結果として一身に両性をそなえたミコ神が誕生する。
これが絶大な霊力をふるい、あらゆる予想的の害物を退治して、その年間の安泰と豊穣とをもたらす。これが祭りのクライマックスである。

こうした行事は、東南アジアの農耕民のあいだでは広くのこっており、ジャワでは同じく性的、外婚的双分化社会の合同祭事で生まれた男女双生神の、ひどく劇的なロマンスとなってのこり、また芳賀日出男君の報告によると、インドのベンガル地方の、バロンという神劇では、女装の英雄が悪蛇を退治して、いけにえの娘を救うという。
日本では、これはある種の神話や物語に反映してのこっている。
オロチを退治する前のスサノオノミコトは、頭に櫛をさす。これは女装を意味している。
ヤマトタケルも女装してクマソタケルを退治する。
アマテラスも神功皇后も、大事の前には男装を必要とした。五条橋の牛若や、ヒヒ退治の岩見重太郎に至るまで、みなこれである。これらの神話は、社会の害を除くのにこうした双性の霊力を必要とした思想の反映である。

この思想から、単なる女巫や男覡ではなく、一身に両性をかねた双性の神人が崇められることにもなる。
琉球では、こうした神人を尊ぶ風が今でものこり、現に女装の覡が存在している。

われわれが発掘した鹿児島県種子島広田の、弥生前期末の遺跡から、昭和三十三年に見出した一体の人骨は、その装身具を一見したところでは女性としか思われない。しかし発掘者のあいだに討論を重ねたあげく、結局男性ときまった。

男性としては非常に女らしい男だ。
ところが、おもしろいのは、この人骨が他の男性人骨にはけっして見られない、豊富な装身具を身につけていることである。
同じような装身具は、この遺跡人の風習から見て女巫を思わせる数多くの女性骨にみられるものであるが、その中でも最も豊富につけているのがこの男である。
それのみならず、その額には、他には一例も見られない特殊な装身具をつけた跡がのこっている。
それを幅広の鉢巻の正面に固定して、若いときから常用した、そのために生じた骨の変化も見られる。
装身具といっても、これらはみな呪具である。すなわち、彼は霊力もっともあらたかな人物、最も畏怖された呪師だったということになる。
南島の、今ものこる双性神人の、最も古い祖先の一人だったということになる。

「発掘から推理する」
「発掘から推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫


2016年2月16日火曜日

20160216 ブログ閲覧者数について

A「先日のブログにて閲覧者数が増加したと書かれていましたが、その後はどうなりましたか?」

B「ええ、今現在のところ凡そ300~500程度で安定しております。それでも日によって随分偏差はありますが・・。」

A「はあ、そうですか・・そうすると、以前に比べ2倍程度の閲覧者数でどうにか安定しているということですね。
それで今後の目標などは何かあるのですか?」

B「・・とりあえず現在の目標は、自身の作成記事であれ、書籍からの抜粋であれ、記事を書き続けるといったところでしょうか?
閲覧者数といった具体的な数値を目標として定めてしまいますと、どうも私の場合、あまり上手くいかないのではないかと思います・・。
といいますのは、元来私のブログとは、多くの閲覧者を集めることを企図したものではありませんし、この後に及んでそうした方向に転進(笑)するのは、良いことではないと思うのです。
しかし一方において、閲覧して頂いているということは、どこかで念頭に置いてはありますが・・。
それ故、こうした記事を作成するということには、ある種のバランス感覚のようなものが多少なりとも求められるのかもしれません。
それが私にあるかどうかは別としても・・(笑)。」

A「ううむ、まあブログなどの場合、読んでいる方々が不特定多数ですからね。
そうした中で、思想的にあまり偏らず、同時に問題となりそうな言説を避け、それでありながら何かしら主張し続けるというのは、少なくとも、そこまで簡単ではないのかもしれません・・。
とはいえ、Bさんのブログ記事を読んでいますと時折Bさんの元からの志向、思想の地金らしきものが見えたりすることもありますが・・(笑)。

B「・・私の志向の地金ですか・・たしかにそういったものはあるとは思いますが、それはAさんから見て左右どちら寄りですか(笑)?」

A「ええ、それは昔からあまり変わらず多少右寄りな感じは受けます。
しかし同時にBさんの場合、その歴史、文化的な背景に対しての実感に基づいた知識あるいは敬意みたいなものを感じますので、昨今巷で流行している右寄りの言説とはまた少し違うような感じを受けます・・。
そして、それは右寄りであると同時に左寄りとも見えることがある何とも不思議なものなのですが、どうやらそれが近代以降の日本の右寄りといわれる思想の源流における特徴であるのかもしれません・・。」

B「はあ、それはどうもありがとうございます・・。
また、これまでブログを書いてきましたが、それにより何かイヤガラセらしきものを受けたこともありませんので、特に内容的に問題のあることは書いていないのではないかと思いますが・・。
あるいは単に泳がされているのかもしれませんが・・(笑)。
いや、これは自意識過剰ですね(苦笑)。」

A「まあ今現在Bさんのブログにそこまで影響力があるとは思えませんし、またブログの内容においても特に問題があるとは思えませんので、何れにせよ大丈夫だと思います(笑)。
とはいえ、戦前の社会においては、徐々に蒸返されていった感のある「天皇機関説問題」などもありますから、まあ気をつけるのに越したことはないと思います。」

B「ああ「天皇機関説」ですか・・先日読んだ新書「丸山真男の時代」にそのことが書かれていました。
それによると当時、蓑田胸喜という方が先導的な思想家であったようですが、あのくだりを読んでいますと、どうも現在の様々な報道との類似性を考えてしまいます・・(溜息)。
つまり、我々日本人には、何か絶対的な価値観を神聖視し、それに基づいて異端分子と思われるものの排撃をはじめると、まさにそれに飽きるまで続けるような傾向があるのかもしれません・・。
また、そのやり方においては、ある程度の人気者にして泳がせておいてから、おもむろに釣上げ、苦しんでいるところをおためごかし的な意見を投げつけて楽しむといった、大変湿気の多いところもまたあるのではないでしょうか・・?
そして、このような行為とは、見方を変えれば教育にもなり、またいじめにもなるので、善悪の判断が判然としないまま、今なお曖昧模糊として存在しているのではないでしょうか?
また、このような性質とは、これまでに我が国と戦ったことのある国々においては、ある程度共通の認識となっているのではないかと思いますが・・。
それは映画でいえば「戦場のメリークリスマス」「太陽の帝国」などにおいて見受けることができるのではないでしょうか?」

A「・・まあ、たしかに我が国には、そういったところがないともいえません。
そしてまた、そういったところをことさらに「無いもの」としようとするところに、これら諸外国は益々疑念を強くするようなところがあるように思えます・・。
かつての歴史におけるそうした行為の証拠とは、何も歴史的な資料だけによるものだけでなく、英訳された戦時中を舞台とした小説、あるいは邦訳されていない同様の小説などにおいても記されており、そこから得た視座に基づき現在の我が国の様々な動向を見れば、もしかしたら、そこには何の矛盾は感じないのかもしれません・・。
そして問題なのは、先方諸外国がそうした視座を我々には明示しないものの持っている一方、我々日本人はそれに一向に気付かず、良いこと尽くめの宣伝にて観光立国として安易に外貨を得ようとしようとしていることではないかと思いますが・・。」

B「・・随分手厳しい御意見であるとは思いますが、仰ることの意味はわかります・・。
しかし、そうしたいわば全体的な傾向を改善することは大変困難ではないかと思いますが、どうでしょうか・・?」
 
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。


Shuichi-Kato [A History of Japanese Literature] The First Thousand Years Vol.1 Kodansha international pp.91-92 20160216

The second spanning the establishment of Kyoto as capital in 794 and the discontinuation of the embassies to Tang China in 894 was a period in which imported Chinese civilization was gradually digested and submitted to a native transformation.

The results of this process had decisive significance in shaping the subsequent development Japanese culture and civilization.

Of the patterns and tendencies which emerged in the ninth century in such fields as politics, economics, society, language and aesthetics, some were preserved to the end of the Heian period, others survived to beginning or end of the Tokugawa period and some, particularly in the nature of politics and written and spoken Japanese language, are still making their presence felt today.


It is true that we can trace back the origins of the basis of the world view adopted by Japanese culture in succeeding centuries to the Nara period, but within that frame work most of the concrete manifestations of what is generally termed cultural tradition can be traced back to the ninth century only and no further.

In other words, the history of Japanese culture can be broadly divided into two-the first being the period up to the end of the Nara period, and the second from the ninth century to the present day.
The ninth century itself marks a turning point.


Looked at from a purely anthropological viewpoint, the ninth century was of no particular significance in the development of the Japanese race.

If one considers it in terms of the development from the settled agricultural society of the Yayoi period (c. 200 B.C-A.D.200) to today’s industrial society, the ninth century was not a watershed which has enormous significance.

Perhaps one of the most typical examples of the importance of the ninth century as a turning point can be seen in terms of the Japanese language.

As scholars of ancient kana-zukai (the use of the kana syllabary) such as, HashimotoShinkichi(1882-1945) have shown, the sound system of the Japanese language of the Nara period (in the Yamato region) had eight distinct vowel sounds and consonants which in some respects differ from those of today.

It was during the ninth century that the vowels were cut to the present day five and the consonants changed to approximate more closely those of today.

In other words the ninth century marks a period of substantial change and a turning point.

The ninth century also represents the period in which there was a transformation of the Japanese writing system, for it was during this time that the kana system was devised and became increasingly used in preference to the phonetically based mana system of the Nara period.

This invention of course led to the use of kana-majiri (mixed kana and Chinese characters) in the writing of literature, and although an obvious point, it is worth nothing that the writing system used in today’s newspaper fundamentally differed from that of that of the Manyoshu while the difference from that of the kokinshu, compiled in 905, is much less marked.

[A History of Japanese Literature]


  • ISBN-10: 4770029349
  • ISBN-13: 978-4770029348

  • Shuichi-kato



    2016年2月15日月曜日

    中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.51-55より抜粋20160215

    西南戦争についての一般の歴史的評価はここでくりかえさない。要するにそれは維新後における封建反動の極北を意味する大動乱であり、その終熄によって、初めて一切の封建復
    の可能性がその根を断たれたものとされている。
    このような解釈について、私は特別な異議申し立てようとは思わない。
    後述のように北一輝でさえ、それと同じ意味をこの内乱に認めている。遠山茂樹氏によれば、ここにおいて「明治維新の主体勢力であった倒幕派の政治的生命が終末し」し、明治の「絶対主義」が不動の基礎の上に打ちたてられることになるし、また井上清氏によれば、この乱における西郷の立場は、以下のように要約されることになる。
    「西郷隆盛個人は、反動ではなく、ブルジョア的改革の必要もよく承知していた。
    しかし彼は、多年生死をともにし、その力に頼って幕府を倒した士族大衆を、いまになって見すてることは絶対にできなかった。彼は叛乱が成功するとは思っていなかったであろう。しかもあえてじぶんの生命を彼をしたう士族大衆に与えたのである。
    大西郷の徳望と薩摩士族の勇猛を以ってしても、歴史の進歩にさからうものは、ほろび去るほかなかった。」
    (「日本の歴史」中)
    遠山氏のような見方が多分もっともオーソドックスな見解であり、西郷はそのまま倒幕派士族大衆の封建反動を象徴する人物と等置されることになる。

    井上氏の見解は士族大衆の封建反動という歴史的カテゴリイと、西郷個人とを切りはなしているところに微妙な含みが見られるが、その西郷個人についての見解がまだ井上氏からは述べられていないために、事情がやや曖昧である。

    率直に私の感想を述べるならば、歴史学者としての井上氏の立場からすれば、西南戦争は到底、「歴史の進歩にさからう」反動以外のものではありえず、そのシンボルとしての西郷もまた、歴史的人間として見るかぎり、たんに亡び去るにふさわしい過去の人物というほかはないはずであった。

    にもかかわらず、井上氏は、人間としての西郷に(ちょうどノーマンの嫌悪感とは逆に)、なんらかの愛着を禁じえないのではないだろうか。
    もしそうであるとすれば、私はいっそう井上氏の西郷論を聞きたいものと思う。
    それはともあれ、私の個人的な記憶をたどって見ると、西南戦争のイメージが私の中で大きく変わった契機が、やはり遠山氏の「明治維新」によってであった。
    つまり、それまでこの内乱のイメージは、錦画風の英雄挫折物語としてしか私の中にはなかったのだが、それがはじめて学問的な照明の下に浮び上がってきたという意味である。
    しかし、それだけではない。私がとくに遠山氏の著をあげたのは、実はその歴史分析の講座派的なみごとさに感心したというよりも、その西南戦争の記述の中に、私は呆然とさせるような小さなエピソードが挿まれていたからである。
    そしてそれが私の中の西南戦争のイメージときりはなせないものとなっているということがある。同書三三三頁に次のような箇所がある-
    (「此時に当り、反するも誅せらる」との窮地に追い込まれた西郷は、ついに二月、逸る部下に擁されて挙兵した。
    西郷起つの報は、自由民権派に大きなショックを与えた。熊本民権派は、ルソーの民約論を泣き読みつつ、剣を取って薩軍に投じた。)(傍点、引用者)
    この傍点部分今なお私を考えさせる。

    もちろん、西南戦争に流入したエネルギーの多様さと雑多さということを私もまた知らないわけではない。
     にもかかわらず、この内乱がルソーの名と結びつく意味をもったということは、いくらそこから非本質的な要素をとりのぞいたとしても、やはり私には刺激的なことがらであった。
    宮崎八郎の思想と経歴については、荒木精之の評伝「宮崎八郎」、この評伝を連載した「祖国」の宮崎兄弟特集号(昭和二十九年五月号)などのほか、私は知るところが少ないが、ここでは宮崎八郎その人が問題ではない。

    先にも言ったように、一般に最後の封建反動とされる西南戦争が、その参加者のあるものにおいては、ルソーの名において戦われたということをどう考えるというのが私の問題である。この事実を、事実として例外的な些事にすぎない、もしくは単純なナンセンスにすぎないとして無視するならば話はかんたんである。
    事実、当時の青年たちが、ミルにしろ、スペンサーにしろ、どんなに自己流に読んでいたかは知れたものではないと疑うとしても、そこには、幾分の理由がなくもないからである。しかし、もしそうでなかったとしたらどうなるか?
    宮崎八郎に限らず、民権派の青年で西南戦争に参加したものたちこそ、ルソーを正当に読んだとしたならどういうことになるか?
    ISBN-10: 4006002572
    ISBN-13: 978-4006002572

    『正調 田原坂』


    2016年2月14日日曜日

    中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.46-51より抜粋20160214

    維新における西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くこととなるであろう。ある意味において、明治元年の日本の維新は西郷の維新であったといいうると思う。」これはよく知られているように、内村鑑三がその西郷論(「代表的日本人」所収)において記した文章の一節である。
    内村はその西郷論のサブタイトルを「新日本の建設者」としているが、おそらく汗牛充棟もただならぬ西郷論のうち、もっとも熱烈純粋な賛美をささげたものが内村のこの文章だろう。そこに描かれている西郷は、あたかも「天」の啓示をうけた「聖人哲人」のごとき存在であり、ほとんど、「クロムウェル的の偉大」をそなえた霊感的な人物であった。そしてまた、「日本人のうちにて、もっとも幅広きもっとも進歩的なる人」でさえあった。
    すべてそのような頌示を、内村はその素朴雄渾な文章に綴っているのであるが、おそらくこのよに単純明快な熱烈さをもって西郷を語ること自体、あたかも西郷のような人物が現在では見られなくなったのと同じように、今では失われてしまった一時代の精神の姿を記念することがらかもしれない。(これが書かれたのは明治27年のことである。)
    しかし、西郷に対するこのような無条件の賛美ということは、おそらく現代の良識にとって、多大の抵抗感なしには到底容認しがたいことがらであろう。なぜならば、たとえば以下のような脈絡において西郷の歴史的な位置づけを行うことは、ほとんど一種の通念となっているからである。
    「征韓論争は、日本歴史における一つの大きな山をなすものである。この論争による明治6年の政府の分裂、ひいては西郷、板垣、副島、江藤ら多数官吏の辞職にひきつづいて、士族の反乱は散発的ではあったが、またも激烈となった。
    かくて主戦派の敗退の直接の帰結としてその直後の2年間には武装叛乱がいくたびか組織された。かように征韓論は結局内乱と西郷の死と膨張論者の一時的敗北に終ったが、しかし、この敗退にもかかわらず、外征の主張はその後永年のあいだ日本の極右反対派の採用するところとなった、西郷とその側近者の失敗から教訓を得た次代の膨張論者、たとえば福岡玄洋社の創立者らは反抗の新たな技術を完成し、侵略宣伝を高度化し、ついに西郷の死後20年にして膨張政策の目標を達成せしめることになった。」
    このような見解-すなわち、西郷がもっぱらその後の日本の大陸侵略思想をインスパイアした最大の源流であり、同時にまた右翼的ファナチシズムの模範でもあったとする見方は、一般に西欧の日本研究者にとっては自明のことがらのようである。たとえば、オクスフォードのリチャード・ストーリイ氏もまた次のように書いている。
    「西郷の武力によるプロテストは、もちろん彼自身の見地からすれば、決して反乱というべきものではなかった。
    彼は天皇の意志に背こうとしたのではなかった。
    なぜなら天皇は君側の奸によってその聖明を蔽われているのだから、西郷はかれらを権力の座から一掃しようとしたにすぎない。
    こうした精神的態度は、日本古来の起源をもつものであるが、あらゆる極右国家主義者に共有のものであり、おびただしいテロ行為を自ら正当化する理由を提供したものである。・・西郷の反乱はある意味では日本の封建勢力の最後の抵抗であったが、しかしそれが極端なウルトラ・ナショナリズムの理念によってひきおこされたというかぎりでは、それは今なお黒い影をはるかな未来にまでなげているのである。」
    すなわち、ここでは、おそらく国学者の一派によっていだかれた神国思想にもとづく膨張主義と、封建的ファナチシズムとのもっとも純粋な結合形態が西郷隆盛であるとされており、したがってその影響力は、先のノーマン氏の引用にあるようなプロセスをたどって、日本の超国家主義にもっとも純粋強力な作用を及ぼしえたと考えられているのである。
    こういう解釈にしたがうかぎり、西郷に対する生理的嫌悪感のごときものさえいだかれるとしても不思議はないかもしれない。ノーマン氏のような純正な歴史家が、西郷の中にある忌まわしい原始的な要素-男色趣味をともなう未開性のごときものを感じとっていることも(幾分その後のファシストたちのイメージの遡及的投射という気味がなくもないが)それなりに理解しがたいことではないであろう。
    ここでは、問題を浮き上がらせるために、西欧の歴史家の見解だけを引用したが、それが日本の近代史家たちの影響を多分にうけたものであることは、想像にかたくないはずである。日本の近代史家たちも、さすがにノーマン氏やストーリイ氏のように、西郷を直ちにファシスト的アウトローズの原型とみなすほど単純でないにせよ、西郷をもって近代日本のコースを反動的に逆転せしめようとした人物とする点においては、おおむね一致しているとみてよいであろう。
    少なくとも、それ以外に、征韓論、西南戦争のシンボルとしての西郷を統一的に理解する視座はありえないとするのが一般かもしれない。
    西郷に対する歴史家の冷淡さには、上述のようなファシスト的大陸侵略派の源流というイメージのほかに、もう一つの根拠がある。それはかんたんにいえば、彼が大久保利通や木戸孝允、伊藤博文や山県有朋に比べて、近代日本の造成にほとんどなんらの貢献も果たしていないではないかという評価である。なるほど、倒幕の軍事行動において西郷はかなりの役割を果たした。しかし。それさえも大村益次郎の指導力に比べればいくらか曖昧であるし、とくにその政治的能力にいたっては、ほとんど問題にもならないという見解がそれである。
    この場合には、西郷は反動と侵略のシンボルとしてではなく、まさに近代的な思考力と知識の欠乏という点から軽んじられるのである。そしてそのことは、その当時の同僚たちもまた、折りにふれて言及したところであった。
    「・・今日、西郷、桐野、篠原ら、官位剥奪の御沙汰あり、余人はともあれ、西郷は十二年前の知人にて、爾後同氏の国家に尽くせしもの少なからず。
    忠実寡欲、ことにのぞみて果断あり、ただ短なるものは、当時の形勢に暗く、大体を見るに能わずして疑惑その間に生じ、一朝の憤怒を以ってその身を亡ぼし、その名を損う。実に歎惜にたえず、人世の大遺憾なり云々」
    (「木戸孝允日記」)
    「・・・余人らはここにいたりて頗る西郷を疑えり。彼はよし維新の元勲として威権赫々と世人の瞻仰を受くるに至り、余らもまた尊敬しつつありといえども、その政治上の能力は果たして充分たりや否やという点につきては、頗るこれ疑えり。不幸にしてその疑念は一転して失望となれり。失望はさらに一転して苦心と変じたり。云々」
    (「大隈伯昔日譚」)
    この後者の批評は、岩倉使節団の外遊中、留守内閣をあずかった西郷の政治的無能を述べたものだろう。後年になっても大隈は「西郷も骨を故山に埋めてすでに三十年、とうとう歴史上の大英雄、大豪傑となってしまった。あえて誹謗するのではないが、わが輩は決してそうは思わんのである」(「大隈伯百話」)
    となかなか辛辣であるが、その大隈もまた、西郷の純情と忠誠心だけはこれを認めているのである。
    要するに、木戸によれば西郷は大局の情勢を洞察するには余りに封建的な地方主義に偏局しており、大隈によれば近代的な政治・行政上の実務能力をまったく欠いていた。
    そして保守的な旧武士と階級によって、わけもなく鑚仰されるだけの厄介な存在であった。
    すなわち、内村鑑三ならばそこに天資の魂の素朴さと純真さとを見たであろうところに、当時の俊秀な政府官僚たちは、たんに無能さを見ただけであった。
    いいかえれば西郷は、近代国家とは何か、その操縦法はいかなるものかについてなんらの理解をもたなかったし、一般に当時の政治指導の主流をなしていた「文明開化」の必要に対して音痴であるとみなされていたわけである。功績主義の見地からすれば、西郷は無意味・有害な西南戦争をしでかしただけであり、せいぜい維新変革の当然に予定しなければならない近代化のコースを阻止しようとした純情な夢想家だったということになる。
    ISBN-10: 4006002572
    ISBN-13: 978-4006002572




    20160214  昨今の社会における不祥事について

    A「最近はどうも閣僚、国会議員の不祥事による辞任、かつての野球スター選手の逮捕など、どうも社会全体が慌しいですね・・。
    そして、これらの事件は何故この時期に集中しているのでしょうか?」


    B「・・さあ、それは何故かわかりません。
    しかし、それらを扱った報道、情報番組での取り扱いを動画サイトで見ますと、出演されている方々にあまり変わった意見もなく、また、おためごかし的、あるいは「騙された!」といった発言が多く見られ、あまり良い気分はしませんでした・・。」


    A「ああ、それは私も同感ですね、しかしテレビといった芸能業界とは昔からそのような不祥事がつきものですから、彼等がどんなに声高にそういった主張をしてみても、どうも観ている一般の我々からすると空々しく観えてしまうのではないでしょうかね?
    それよりも私は一連の事件について見聞きしますと「魏志倭人伝」に記されている「持衰」あるいはフレーザーの「金枝篇」における「殺される王」の記述を想起してしまいますね・・(苦笑)。
    そしてそういった一連のマツリを催しているのがテレビなどのマスメディアなのでしょうが、現今のネット社会の進化、発展により相対的に彼等(マスメディア)は自らの影響力の衰えを感じ、それでこうした一連のマツリ、事件を催しているようにも見えるのですが。」


    B「・・はあ、それはかなり穿った見方ですが、たしかに一理あるかもしれませんね。
    果たして彼等は何をもってそれらの事件を大ニュース(であるかのよう)に仕立てるのでしょうか?
    また、現今のテレビをはじめとするマスメディアがインターネット上の様々なコンテンツにより圧迫を受け、その反応として一連の事件が大々的に取上げられるというのは、読者、視聴者が、より強い刺激を求めているという彼等側の架空の命題に応じる姿勢によるものではないかとも考えさせられますね・・。」


    A「ええ、以前の彼等以外の情報発信媒体が存在しない時代においては、彼等はまさに「向かうところ敵なし」の状態であったのでしょうが、現在は海外メディアのサイト、あるいは国内メディアとは異なるものの、たしかな情報源となり得るような存在が独自で広く情報を発信することが出来る仕組みが存在しますからね・・。
    そういった意味において現在の国内メディアとはある意味ジリ貧の状態なのではないでしょうか?
    加えてテレビの報道、情報番組に出演されている多くの芸能人の方々の発言を聞いていても、インターネットなどで情報を得ている我々一般の人間とあまり変わりないような感じを強く受けますので、こうしたことからも、やはり何といいますか現在のテレビ業界をはじめとするマスメディア全般とは困難な状態に置かれているのかもしれません・・。」


    B「はあ、なるほど・・そして今のお話を聞いて不図思ったのですが、現在のテレビ番組に出演されている方々は、その番組が動画サイトにて保存され全世界から視聴される可能性があることから、あまり変わった意見などを云えず、ありきたりな反応しか出来なくなってしまったのかもしれませんね・・。
    そうすると、たしかにテレビ番組とは動画サイトといったインターネット上のコンテンツに押されているということになりますね・・。
    また、そのような状態に立たされたテレビ等のマスメディアに係る方々は、自らの立場を有利にするために一体どのようなことをするのでしょうか・・?」


    A「そうですね・・視聴者があまり疑問を感じないような状態になるように仕向けるか、あるいはインターネット上の様々なコンテンツとの共存をはかるのではないでしょうか?
    しかし、これらコンテンツの中には国内マスメディアでは手に負えないような国際的な組織もありますから、それはそれで大きな負の側面もまたあるのではないでしょうか?」


    B「なるほど、昨今の時代的潮流である国際化の影響により、国内のマスメディアも窮地に立たされつつあるというわけですか・・。
    そうしますと、こうしたことは我々からは随分縁遠いハナシであると思っていましたが、案外そうでもないようですね・・。」


    A「ええ、なかなか難しい時代になりつつあるのではないかと思います・・。
    そして、そこで重要になるのが、情報リテラシーではないかと思うのです。
    無論こうしたことは一朝一夕に身につけることは難しいと思います。
    また私も仕事柄色々と考えることはありますが、それでも「自分は情報リテラシーを持っている!」と胸を張って主張することはできません(苦笑)。
    ですから、やはり歴史などの人文社会科学的な教養といったものを能動的に持続して学び続けるような態度が必要になるのではないでしょうか?」


    B「まあ、多少Aさんの御専門の我田引水気味の主張のようにも聞こえますが、それでも仰ることには同意できます。
    しかし、現在書店などに行きますと、ハウツー本のコーナーに「教養」「歴史」と表題した書籍が並んでいる状態は「どうも違うのでは?」と思うのです。
    そして現在のいわゆる勉強ブームとは、これまでと同様、一過性の「様々な意匠」に過ぎないのではないかとも思いますが・・。」


    A「ええ、たしかにそうであるかもしれません・・。
    しかし、こうしたことはたとえ無意味である可能性が高いからといって、やらないよりかは、やった方が良いと思いますので、それでも良いのではないかと私は思っています。
    ただ、それと同時に、上からの柔らかな圧力、世間体、空気などから生じる、いわゆる「優等生病」とは、近代以降の我が国を滅ぼしてきた一つの大きな原因であるとも思いますので、何とも難しいところですね(苦笑)。
    その意味において140年、139年前の「神風連の乱」、「西南戦争」に立ち上がった方々とは、現在の我々に比べて、少なくとも自身の信条に対しては忠実であったのではないかと思うことがあります・・。
    そして彼等が政府軍の前に敗れたということは、日本近代の精神史にとって、どのような影響があったのであろうかとは、この時期になると不図考えてしまいますね・・。」