A「ここ最近また書籍の抜粋が続いていますが、何か変化でもあったのですか?」
B「いえ、特にそういったわけではありませんが、このところ自身の作成した文章が続いていましたので、少し趣向を変えてみようと思った次第です。
しかし、またしばらく書籍の抜粋を続けていましたら、不思議なことにまた自身の文章を作成してみたくなってきました・・(笑)。
ですから、次に投稿するブログ記事は自身の作成した文章にしてみようと考えております。」
A「まあBさんのことですから、毎日何かしら少しずつ読んでいると思いますが、そういった書籍をキーボードを通して書写することもまた、単なる読書とはまた違った刺激になるのでしょうね・・。」
B「ええ、それはそうですね、ですから勉強などでもノートを書くことが重要なのではないでしょうか?
また、そのように考えてみますと、私は文系院生の頃は講義などでもノートを書くことは少なかったのではないかと思います・・。
講義などでは、どちらかというと予習の方が大事であったような気がしますね・・。
また、フィールド・ワークなどの際は、その時々に考えたことを記したり、スケッチのようなものを描いたりしておりましたが、それらは能動的な記録、筆記として、ある程度意味があったのではないかと思います。
とはいえ、現在それらを見てみますと「果たして何を意味しているのであろうか?」と考えたり、あるいはその稚拙さに赤面するようなものも少なからずあるように思います・・(苦笑)。
そして、その後の歯科技工学校では講義科目の多くがはじめてのものであり、かなり興味を持って講義ノートを作成していた記憶があります。
また、文系の世界にドップリ浸かっていた当時の私にとって、こうした講義はかなり実在感をもって迫ってくるものがあったのではないかとも思います。
その後、歯系院生の頃は、とにかく実験データが多く、それらの一つ一つ全てを記録しておかないと抽出される様々な傾向、そしてその後に続く考察ができませんので、記録しておりましたが、それらは実験装置の横に設置したPCのエクセル・ファイルに直接入力しておりましたね・・。
そしてそれと併行して、各々試料の実験時における特徴をノートに記してもいました。
その後、エクセル・データとノートを較べてみて、何かしら面白い発見はないかと考えてみるのも、なかなか面白いものがありました・・(笑)。」
A「ううむ、まあ特に理系学問分野は信頼できるデータがあってのものですからね・・。 ともあれBさんはその様な感じでPCデータ、実験ノートを作成していたのですか・・。
しかし一方、試料作成は、それとはまた別ですよね・・。
そのように考えると、実験を必要とする多くの理系学問分野とは、一種職人のような部分も多くあるのでしょうね。」
B「ええ、たしかにその様な部分は多くあると思います。
それでも私はどちらかというとスロー・スターターでして、徐々に実験にはまっていったような感じがあります。
ですから、そのはじめにおいては、どちらかというと受動的に実験をして、データを取っていたような感じでしたが、実験が進むにつれて、加速し能動的になっていった様な感じでしょうか・・今考えてみますと・・。
そして、今考えてみますと、それは指導してくださった先生の手腕に多く由来するものであると思います・・。」
A「ええ、そういったことは何となく私も理解できますね。
それに、時間をかけて凍結した氷の方が、早く凍結したそれよりも溶けにくいといわれますからね・・ですから、それはそれで構わないのではないでしょうか?
また、何かを継続するという意味においては、そういったBさんのような性質の方が都合が良いのかもしれませんよ(笑)。」
B「はあ、どうもありがとうございます・・。
しかし、その氷のハナシは本当に人間の精神についても適用することができるのでしょうかね?
というのは、時折人間の精神などについて考えてみますと、かねてより巷で流布している人間の性質、精神などに関する様々な意見とは、互いに矛盾しているものが多いのではないかと思う一方、信頼できるとされる医学的なデータに基づく人間の性質、精神についての見解とは、あくまでも人間の性質、精神に対しての直接的な言及ではなく、何かとの反応、対応の結果として見られる傾向、見解であるように思われるのです・・。
そして、そのように考えてみますと、我々は一体どのようにして人間一般のものとして性質、精神への知覚を得ることができるのでしょうか?
それに加えて、どのようにして過去からの人間の精神的活動の蓄積としての歴史、文化などを認識しているのでしょうか?」
A「・・はあ、なんだかずいぶん高踏的なハナシになってきましたね・・(笑)。
まあ、たしかに先程の氷の話は人間の精神について適応出来るものであるかどうかわかりません・・。
しかし、こうした観念的なことは一般的にたとえを用いて説明することが多いのではないでしょうかね?
たしか聖書にもそのようなことが書かれていませんでしたかね・・。
ともあれ、そうした表現から、その観念および関連の実在、正否についての疑問が生じると思うのですが、これをさかのぼると、御存知でしょうが演繹、帰納的な考え方の違いに結び付くのではないでしょうか?
そして、さきほどのBさんの疑問とは、演繹的な発想からもたらされたのではないかと思いますが・・。
さらにハナシを進めますと、演繹的な発想を用いて人間の性質、精神などといった形而上的なことへの見解を得ることは難しいのではないでしょうか?
これは帰納的発想あるいは経験論的なものの積み重ねによって徐々に形成されてゆくものなのではないでしょうか?
そしてその最大公約数的なものが一般的に通じるものとしての人間の性質、精神への見解ということになるのではないでしょうか?」
B「・・はあ、なるほどたしかにいわれてみますと私の疑問とは演繹的な発想であったかもしれませんね・・。
とはいえ、こうした意見もまた必要ではないかとも思います。
何故ならば、そうした意見を発信することによって、さきほどのAさんの御意見を聞くことができたのではないかと考えるからです。
まあ、多少開き直りの気味はありますが・・(苦笑)。」
A「はああ、なるほど、それは何だか弁証法的に基づくような意見ですね(笑)。
そうすると、演繹、帰納あるいは理系、文系といった異なった分野から発信される意見を正面からぶつけあわせることにより、高次の見解を得ることができるのかもしれませんね・・。
しかし、そうするとまた議論の重要性が問題となってくるわけですね・・。」
B「ええ、そうですね、そうした議論が成立するための基礎的なインフラの整備、発展が今後の我が国の社会において重要なのではないでしょうか・・?
そしてそれを為すためには、やはり多少時間をかけてでも教養教育を充実する以外にないのではないかと思いますが・・。」
2016年2月1日月曜日
2016年1月31日日曜日
戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎著「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」中央公論社刊pp.66-69より抜粋20160131
ソ連軍の攻勢の結果、多数の日本軍第一線部隊の連隊長クラスが戦死し、あるいは戦闘の最終段階で自決した。また生き残った部隊長のある者は、独断で陣地を放棄して後退したとしてきびしく非難され、自決を強要された。日本軍は生き残ることを怯懦とみなし、高価な体験をその後に生かす道を自ら閉ざしてしまった。
一方、九月から十一月にかけて、ノモンハン事件の責任を明らかにするための人事異動が行なわれ、中央部では参謀本部次長、第一部長が予備役にまわされ、関東軍では軍司令官、参謀長が予備役に編入され、第二三師団では師団長がいったん関東軍司令部付となった後、予備役に入った。
また参謀本部第二課長、関東軍参謀副長、第一課全作戦参謀、重傷を受けた第二三参謀長が更迭された。
新しい幕僚の人選はできるだけ大本営勤務の経験者または堅実な者を選び、事件後関東軍の独断的行動は少なくなったといわれている。
大本営の稲田作戦課長は、新参謀次長の問いに対して、中央部がその意思を関東軍に強要しなかったのは、従来の悪習を踏襲したものであり、統帥上の大失策であった。
また関東軍中央と対等の観念を持ち、中央からの連絡を無視したことも満州事変以来の悪習であり、断固改革しなければならない、統帥の要は人にあり、関東軍をコントロールするには適正な人事が必要で、首脳部の更迭を実行すべきである、との意見を述べている。
一一月には中央部は、関東軍関係者と中央部が任命する委員より成る「ノモンハン事件研究委員会」を設置し、ノモンハン事件の再検討を始めた。
一方、九月から十一月にかけて、ノモンハン事件の責任を明らかにするための人事異動が行なわれ、中央部では参謀本部次長、第一部長が予備役にまわされ、関東軍では軍司令官、参謀長が予備役に編入され、第二三師団では師団長がいったん関東軍司令部付となった後、予備役に入った。
また参謀本部第二課長、関東軍参謀副長、第一課全作戦参謀、重傷を受けた第二三参謀長が更迭された。
新しい幕僚の人選はできるだけ大本営勤務の経験者または堅実な者を選び、事件後関東軍の独断的行動は少なくなったといわれている。
大本営の稲田作戦課長は、新参謀次長の問いに対して、中央部がその意思を関東軍に強要しなかったのは、従来の悪習を踏襲したものであり、統帥上の大失策であった。
また関東軍中央と対等の観念を持ち、中央からの連絡を無視したことも満州事変以来の悪習であり、断固改革しなければならない、統帥の要は人にあり、関東軍をコントロールするには適正な人事が必要で、首脳部の更迭を実行すべきである、との意見を述べている。
一一月には中央部は、関東軍関係者と中央部が任命する委員より成る「ノモンハン事件研究委員会」を設置し、ノモンハン事件の再検討を始めた。
研究討議の結果は、低水準にある日本軍の火力戦闘能力を飛躍的に向上させる必要がある、というものであったが、一方、物的戦力の優勢な敵に対して勝利を収めるためには、日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきである、とも述べていた。
日中戦争の初期、小畑敏四郎中将は、日本軍が中国軍相手の戦争ばかり続けていると、戦術が粗雑になり下手になると心配し、囲碁をする者が下手とばかり手合わせをすると手が落ちるのと同じだ、といったことがある。
当時の関東軍は、満州国の内政指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していた。
対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったといわれる。当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統率訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。
日中戦争の初期、小畑敏四郎中将は、日本軍が中国軍相手の戦争ばかり続けていると、戦術が粗雑になり下手になると心配し、囲碁をする者が下手とばかり手合わせをすると手が落ちるのと同じだ、といったことがある。
当時の関東軍は、満州国の内政指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していた。
対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったといわれる。当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統率訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。
また関東軍の作戦練習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神懸り的な指導で終わることがつねであった。
ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
また統帥上も中央と現地の意思疎通は円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張するん幕僚が向こうに意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。一方辻政信はソ連軍について、薄ノロと侮ったソ連軍は驚くほど急速に兵器と戦法を改良し、量において、運用において日本軍を凌駕した、革命軍の大きな特色というべきであろう、と述べている。満州支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには高度に進化した組織であった。しかし統治機関として高度で適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれたとき、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起したのである。中国侵略そしてその植民地的支配の過程で、日本軍の戦闘機関としての組織的合理化は妨げられ、逆にさまざまな側面において退化現象を示しつつあった。このような退化現象を起しつつあった日本軍の側面を初めて劇的な形で示したのが、ノモンハン事件であった。
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
ISBN-10: 4122018331
ISBN-13: 978-4122018334
戸部良一
寺本義也
鎌田伸一
杉之尾孝生
村井友秀
野中郁次郎
ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
また統帥上も中央と現地の意思疎通は円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張するん幕僚が向こうに意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。一方辻政信はソ連軍について、薄ノロと侮ったソ連軍は驚くほど急速に兵器と戦法を改良し、量において、運用において日本軍を凌駕した、革命軍の大きな特色というべきであろう、と述べている。満州支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには高度に進化した組織であった。しかし統治機関として高度で適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれたとき、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起したのである。中国侵略そしてその植民地的支配の過程で、日本軍の戦闘機関としての組織的合理化は妨げられ、逆にさまざまな側面において退化現象を示しつつあった。このような退化現象を起しつつあった日本軍の側面を初めて劇的な形で示したのが、ノモンハン事件であった。
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
ISBN-10: 4122018331
ISBN-13: 978-4122018334
戸部良一
寺本義也
鎌田伸一
杉之尾孝生
村井友秀
野中郁次郎
2016年1月30日土曜日
金関丈夫著「発掘から推理する」岩波書店刊pp.32-38より抜粋20160130
旧暦の五月は、もうそろそろ子供たちが水遊びをする時節である。端午の節句は、水死した楚の大夫屈原の霊をなぐさめる行事として起こったと説かれているが、もちろん屈原はこじつけだ。水死人の霊、すなわち水鬼は、たれの霊とは限らず最も恐るべきもので、なかまを作ろうとして、人々を水中に引き入れる。その難を避けるために、中国ではこの節句に水鬼をまつる。子供が鬼にとられぬようにそのからだに防御装置もする。端午の行事はいわば「河びらき」の行事なのである。
昭和8年(1933)、遼東半島の羊頭窪(ヤントウワ)というところを発掘したのが、ちょうどこの季節で、野山には馬蓮花(マアリエンホワ)の可憐な花が、いたるところ風にそよいでいた。家々の軒には、桃の枝や蓬などの駆除物がさがり、村の子供たちの手首や足首は、腕輪や脚輪をつけたように、五色の糸で巻かれていた。魂を身に付けるためのいわゆる「たま結び」である。魂を驚かさないように、子供の寝ているあいだに、そっと巻くという。水中の鬼たちに供える粽も、草のひもで幾重にも巻いて結んでいる。粽は見せかけだけの、魂の代用品で、鬼どもはこれでごまかされる。
このたま結びの色糸を、こうした特定の日に限らず、用心深くふだん身に付けているのが、首飾り、腕巻き、足巻きのたぐいで、多くは青色の珠を貫いた糸を巻く。いまのブレースレットやネックレスには、こうした前歴がある。ブレースレットもネックレスも幾重にも巻くのが本格である。ビルマのパダウン族の婦人などで、首や腕に銅輪を、あきれるほど巻いたのがいる。中国新石器時代の土製の腕輪は、死後につけられた明器であるが、糸を重ねた形を示すものがある。死人の魂を呪縛したつもりである。
装身具として文明人の用いる腕輪も、この腕巻きから変化したもので、指輪も、もとは指まきだった。台湾山地のパイワン族などは、今もそうした指巻きをつけている。物忘れは魂の不在から起こる。忘れものせぬように指をしばる風は今も残るたま結びの風である。
結婚式には、新郎が新婦の指に指輪にはめる。男の魂を女の身に結びつけるのである。旅立つ愛人のからだに紐を結ぶ。「いもが結びし紐吹き返す」と万葉人が歌ったのもこれである。今の原始民の風習からみて、このときには、こちらのからだから相手のほうへ、魂を導く動作が伴う。
腕輪が明らかにたま結びの用に使用されたことを示す例は、島根県古浦の弥生前期遺跡の小児人骨である。二歳の小児だから、もちろん成年以前のものだ。左腕に六個のハイガイ製の腕輪がはまっている。死後の魂を呪縛したもので、さきの土製の腕輪と同じである。一個だけでなく、いくつも用いることが、糸では幾重にも巻いた用意を語っている。
さて、魂が身体から離れぬようにするためには、腕、脚、胴体、首のような、しばりつけることができる場所以外に、防がなければならないもっと危険な場所がある。耳、鼻、口など、外に出口の開いている個所である。
死人に対しては、中国の古代人、玉器で栓をしてふさいでいる。日本の先史人もこれをまねて耳璫すなわち耳の栓などをはめているが、昨年発掘された飯塚市の立岩の弥生人の頭部には、耳、鼻、口の五孔をふさいだと思われる五つの栓が見出された。現代でも死体のあらゆる出口を、死の直後に綿でふさぐが、もともとは実用的の意味から起こったものではない。
このたま結びの色糸を、こうした特定の日に限らず、用心深くふだん身に付けているのが、首飾り、腕巻き、足巻きのたぐいで、多くは青色の珠を貫いた糸を巻く。いまのブレースレットやネックレスには、こうした前歴がある。ブレースレットもネックレスも幾重にも巻くのが本格である。ビルマのパダウン族の婦人などで、首や腕に銅輪を、あきれるほど巻いたのがいる。中国新石器時代の土製の腕輪は、死後につけられた明器であるが、糸を重ねた形を示すものがある。死人の魂を呪縛したつもりである。
装身具として文明人の用いる腕輪も、この腕巻きから変化したもので、指輪も、もとは指まきだった。台湾山地のパイワン族などは、今もそうした指巻きをつけている。物忘れは魂の不在から起こる。忘れものせぬように指をしばる風は今も残るたま結びの風である。
結婚式には、新郎が新婦の指に指輪にはめる。男の魂を女の身に結びつけるのである。旅立つ愛人のからだに紐を結ぶ。「いもが結びし紐吹き返す」と万葉人が歌ったのもこれである。今の原始民の風習からみて、このときには、こちらのからだから相手のほうへ、魂を導く動作が伴う。
腕輪が明らかにたま結びの用に使用されたことを示す例は、島根県古浦の弥生前期遺跡の小児人骨である。二歳の小児だから、もちろん成年以前のものだ。左腕に六個のハイガイ製の腕輪がはまっている。死後の魂を呪縛したもので、さきの土製の腕輪と同じである。一個だけでなく、いくつも用いることが、糸では幾重にも巻いた用意を語っている。
さて、魂が身体から離れぬようにするためには、腕、脚、胴体、首のような、しばりつけることができる場所以外に、防がなければならないもっと危険な場所がある。耳、鼻、口など、外に出口の開いている個所である。
死人に対しては、中国の古代人、玉器で栓をしてふさいでいる。日本の先史人もこれをまねて耳璫すなわち耳の栓などをはめているが、昨年発掘された飯塚市の立岩の弥生人の頭部には、耳、鼻、口の五孔をふさいだと思われる五つの栓が見出された。現代でも死体のあらゆる出口を、死の直後に綿でふさぐが、もともとは実用的の意味から起こったものではない。
生きた人間の出口からの、魂の脱出を防ぐためには、鼻中隔に棒を通したり、鼻翼や、耳たぶや、くちびるに孔をあけて栓をしたり、棒を通したりする。フランスの軍医ジャコビス・某(匿姓)は、百年ほど前のマレー(種族不明)の男性が、尿道開口部に接して横に孔をうがち、小さい木棒を通していたことを報告している。一種の快楽増進具だ、と彼は記載しているが、そうだったとしても、この奇異な風習の起こりはやはり、魂の脱出の門戸を閉じた閂だったとみるべきである。
栓にしても閂にしても、それで出口が完全にふせげるわけではないが、これは栓だぞ、閂だぞ、ということですむ。魂はルールを尊重する。身体変工のうちでも、もっとも派手な例の一つだが、しかしこれよりももっと奇抜な方法を用いる連中がある。
マッテスの報告(1872)によると、セレベスのブキ族は、病人の鼻や臍や、脚に、魚釣りばりをくっつける。からだから脱出しようとする魂は、これに鉤って引きとめられる。ハッドンはボルネオのパーラム河域のツルク族の男が、鉤状の石を身につけ、これで逃げ出そうとする魂を身につなぐのだと称したことを記している(1901年)。海部ダイヤ族の呪医は、指さきに釣りばりをつけ、逃亡しようとする患者の魂をひっかけて、生命をとりもどす(リング・ロス報告、1892年)。この鉤は文明社会の耳飾りにもしばしばのこっている。
鹿児島県、種子島の広田の弥生遺跡人には、貝製の鉤状の耳飾りをつけた女性人骨が数体発見されたが、男性人骨の左の手くびに、貝の管たまや小珠をとおした緒を、幾重にも巻きつけた跡があり、これに接して、女性の耳飾りと同形の、四個の鉤状貝製品が付着していた。
からだの開口部だけでなく、手くびにも、腕まきと併用して、魂をひっかける道具が使用されたのだ。同じ弥生時代の、各地の遺跡から発見されている奇妙な形の銅製の腕輪、その輪の一部から、さきの鋭く尖った鉤が、強く突出しているものが、ここで浮かび上がってくる。唐津市桜馬場出土のものは最も有名である。
考古学のほうでは、刺のあるくも貝製の貝輪からでた形だ、とまでは見当つけたが、その形体の意味はまだ不明である。しかし、腕まきを鉤にぶらさげるのと、腕輪の下をすりぬけた魂を、ひっかけてつなぎとめるとめに、つけられたのだ。
栓にしても閂にしても、それで出口が完全にふせげるわけではないが、これは栓だぞ、閂だぞ、ということですむ。魂はルールを尊重する。身体変工のうちでも、もっとも派手な例の一つだが、しかしこれよりももっと奇抜な方法を用いる連中がある。
マッテスの報告(1872)によると、セレベスのブキ族は、病人の鼻や臍や、脚に、魚釣りばりをくっつける。からだから脱出しようとする魂は、これに鉤って引きとめられる。ハッドンはボルネオのパーラム河域のツルク族の男が、鉤状の石を身につけ、これで逃げ出そうとする魂を身につなぐのだと称したことを記している(1901年)。海部ダイヤ族の呪医は、指さきに釣りばりをつけ、逃亡しようとする患者の魂をひっかけて、生命をとりもどす(リング・ロス報告、1892年)。この鉤は文明社会の耳飾りにもしばしばのこっている。
鹿児島県、種子島の広田の弥生遺跡人には、貝製の鉤状の耳飾りをつけた女性人骨が数体発見されたが、男性人骨の左の手くびに、貝の管たまや小珠をとおした緒を、幾重にも巻きつけた跡があり、これに接して、女性の耳飾りと同形の、四個の鉤状貝製品が付着していた。
からだの開口部だけでなく、手くびにも、腕まきと併用して、魂をひっかける道具が使用されたのだ。同じ弥生時代の、各地の遺跡から発見されている奇妙な形の銅製の腕輪、その輪の一部から、さきの鋭く尖った鉤が、強く突出しているものが、ここで浮かび上がってくる。唐津市桜馬場出土のものは最も有名である。
考古学のほうでは、刺のあるくも貝製の貝輪からでた形だ、とまでは見当つけたが、その形体の意味はまだ不明である。しかし、腕まきを鉤にぶらさげるのと、腕輪の下をすりぬけた魂を、ひっかけてつなぎとめるとめに、つけられたのだ。
広田遺跡の例で見るように、首飾りのもこの鉤が用いられている。先史時代にも、現代の原始民族にも、貝、骨、牙、石なその鉤状の飾りを首輪にぶらさげたり、はめこんだりする例は多い。勾玉はその一種である。勾玉は鉤状の石である。
もとは獣の牙から起ったとしても、動物の牙そのものが、餌を口から離さないための装置である。牙も勾玉も、その他の鉤状の飾りも、みなこの、魂拘禁具とみるべきであろう。
もとは獣の牙から起ったとしても、動物の牙そのものが、餌を口から離さないための装置である。牙も勾玉も、その他の鉤状の飾りも、みなこの、魂拘禁具とみるべきであろう。
だが、鉤状の装身具は、自身の魂の逃亡を防ぐだけが、その仕事ではなかった。南アメリカの各地のインディオに見られるように(フレーザー「金枝篇」)、外部からこちらへ侵入する邪霊を引きとめる効用もあったのだ。
弥生から古墳時代にかけて、多くは盾の表面にうたれたと思われる金具に、巴形銅器というものがある。
鋭い鉤が中心部から放射状にでたもので、ていねいなものは、盛り上がった中心部の頂からも、上に浮いて一つの鉤がとび出している。巴形銅器も日本考古学界の一つの謎である。しかし、盾そのものは敵の武器から身をまもるもの、敵の邪霊の侵入を引きとめるものが、この表面にとりつけらrた銅鉤だった、とみれば、この物の意味はよくわかる。平城京址から出土した「隼人盾」の紋様も「延喜式」では鉤といっている。
われわれのからだについている魂の一つは、魂魄二種のタマシイのうち、魄である。魄のツクリの鬼は精霊、ヘンの白はたましいの色を表わしたものと私は見ている。詳しい考証は省略するが、しかし白だといっても真っ白ではない。青白色だ。碧の字も白に従っているが、実はあお色である。白は同時に白昼の白で、明るいことである。碧は明るいあお色の玉のことだ。魄と碧とは、ことによると同語だったかも知れない。
われわれのからだについている魂の一つは、魂魄二種のタマシイのうち、魄である。魄のツクリの鬼は精霊、ヘンの白はたましいの色を表わしたものと私は見ている。詳しい考証は省略するが、しかし白だといっても真っ白ではない。青白色だ。碧の字も白に従っているが、実はあお色である。白は同時に白昼の白で、明るいことである。碧は明るいあお色の玉のことだ。魄と碧とは、ことによると同語だったかも知れない。
孔子の音楽の師匠の萇弘の死体が碧玉すなわち璧(あお色の玉)を尊んだのは、その色が魂と同色であるからで、その同色性によって、魂を引きよせ、その鉤でつなぎとめる。
腕輪や首輪に青色のビーズや石が好まれたのもこれで、水鬼をごまかすチマキは、新鮮なあお色でなければならなかった。滋賀県の曾束の風俗で、夏がくると子供のある人は、キュウリ(胡瓜)の青色新鮮な初なりを瀬田川に流す。子供が川に入ってガタロウ(河童)に引きこまれない呪いだという(「民俗文化」15号)のもこれであろう。
楚辞の九歌の、たま迎えのために水中に建てられるたま家は、もろもろの香草で青々と飾られ、そのさまは種子島などで見る日本の盆の精霊棚にそっくりである。チマキやキュウリで邪鬼をごまかすと同様に、同色の誘いによって、魂を迎える行事も歴史は古い。
魂の形については、チマキやキュウリは簡単だが、それでも休場の頭と細長い尻尾の形は具わっている。勾玉の形も単なる鉤ではなく、魂の形でもあるのだ。勾玉の着装の風俗は、琉球の祝女には今ものこっている。単なる装身具ではなく、その着装が、信仰上の事象だった証拠である。勾玉は日本で特に流行した。しかしけっして日本独特のものではない。さきの、ボルネオの例にもつながるであろうが、1939年ボールズ教授は、ハワイのオアフ島で、伸屈葬の人骨に着装された、典型的な勾玉を発掘している。いわゆる装身具の表わす根元の信仰は、日本、中国、南方ととわず、世界いたるところ共通である。日本だけの「特殊事情」は後進資本主義時代以後の産物である。
「発掘から推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫
魂の形については、チマキやキュウリは簡単だが、それでも休場の頭と細長い尻尾の形は具わっている。勾玉の形も単なる鉤ではなく、魂の形でもあるのだ。勾玉の着装の風俗は、琉球の祝女には今ものこっている。単なる装身具ではなく、その着装が、信仰上の事象だった証拠である。勾玉は日本で特に流行した。しかしけっして日本独特のものではない。さきの、ボルネオの例にもつながるであろうが、1939年ボールズ教授は、ハワイのオアフ島で、伸屈葬の人骨に着装された、典型的な勾玉を発掘している。いわゆる装身具の表わす根元の信仰は、日本、中国、南方ととわず、世界いたるところ共通である。日本だけの「特殊事情」は後進資本主義時代以後の産物である。
「発掘から推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫
2016年1月29日金曜日
照屋佳男著「コンラッドの小説」早稲田大学出版部刊pp.117-119より抜粋20160129
ライオネル・トリリングは「闇の奥」に関して極めて注目すべき発言を行った。
トリリングはフレーザーの「金枝篇」(The Golden Bough)程に現代文学に決定的に重要な影響を及ぼした本はないという事、つまるところフレーザーは現代文学の特徴をなす「日常的事実といふ絆からの解放」の手助けをしたといふ事、この解放の延長線上でニーチェの「悲劇の誕生」(Die Geburt der Trogodie)の受け取り方が決定されるに至つたといふ事を語つてゐる。
ニーチェは理性と秩序を旨とするアポロ的なものの理解のためにも、ディオニュソス的なもの、即ち原初の無秩序なエネルギーを理解する必要があると説いたのだが、現代の文学者は「ソクラテス(アポロ的なものの体現者)は英雄ではなくて悪党である」といふ理解の仕方に走り、「アリストテレスから突然解放されたといふ興奮」に駆られて、「人間の本質的な形而上学的活動を構成するのは道徳ではなくて芸術である」といふニーチェの発言に殊のほか共鳴し、ニーチェが明示した弁証法、即ちディオニュソスとアポロとの間にただならぬ弁証法などは滅却し、ディオニュソス的なもののみを真理として認知したとトリリングは述べる。
「金枝篇」と「悲劇の誕生」の現代における受け取り方を評して、トリリングは言つたのである、「原初の非道徳的エネルギーの発見とその神聖化程に現代文学の中で際立つてゐる所以を、マーロウが密林の原始林的な生を高貴なもの、或いは魅力あるもの、それどころか自由なもの、などと見做さず、寧ろ卑しいもの、むさくるしいものと看破すところに見出してゐる。(勿論トリリングは、原初の生が、むさくるしいがゆゑにマーロウを惹きつける面のある事を見逃してはならない)そしてトリリングがマーロウとクルツの相違を「普通人と精神の英雄との違ひ」と捉へる事は、「精神の英雄」に共鳴する現代の芸術家に関して、次のやうな注目すべき発言を行ふ機縁となる。
「芸術家、即ち人間の魂の歴史的原初、決して脱却される事など無く、我々がいま知つてゐるがままの人間性の中にしつかり据ゑられるに至つた原初といふ名のあの地獄に降りて行く者、そしてこの地獄の上にかぶせられた文明の味気ない嘘よりも地獄の実在性を好む者、さういふ現代が芸術家に関して抱いてゐる信仰の本質を成すのではないか」。
「日常的事実といふ絆からの解放」を欲しないマーロウと対立関係にあるのは、「大地を蹴つて大地から離脱した」(144)クルツに限らないといふのは注目していい事である。
勿論クルツがマーロウの最大の〈アンチテーゼ〉である事に変りはないが、「信仰無き巡礼達」も「白く塗りたる墓」の如き街の住人達も、日常的事実の意義を解しない点ではマーロウの敵対者であり、前者が噂話と中傷と陰謀とに明け暮れてゐるとすれば、後者は「金儲けと飲食と愚劣な夢を見る事」(152)に明け暮れ、「全き安全を信じ切つて」(152)「一つの危険に直面してゐながらこれを理解し得ず、不埒にも愚行を見せびらかすやうな真似をしてゐる」(152)。
この手合は、文化や社会の文脈から切り離された「真理」の危険に気づく事などないのである。
彼等が後生大事にかき抱く知識なるものは、マーロウをいらだたせるだけである。
「俺が知ってゐる事どもをやつらは到底知り得ないと確信した」(152)とマーロウは言ふのだが、ここで「闇の奥」でマーロウは人間を三種類に分類してゐるとするワットの指摘を援用したい。
即ちワットは言つている、マーロウは人間を
一、クルツのやうに野蛮に反応し、これに屈する人々、
二、野蛮に反応するけれど「念入りに作り上げられた信条」を抱き、これによって野蛮に抵抗し得る人々、
三、何にも気づかないので、全く反応しない馬鹿者ども、この三種類に分けてゐる、と。
マーロウ自身は二番目の種類に属すると看做し得るが、「白く塗りたる墓」に似た街の住人達について、「やつらの蒙を啓いてやらうといふ気持も別に起さなかつたが面と向つて嗤つてやりたい気持を抑へるのに苦労した、なにしろ愚かにも、ひどくもつたいぶつてゐたのだ」(152)とまで語つてゐる。
反省が一度として施された事のない日常性の中に棲息するこれらの人々は、己れの足の下に固い舗道があるといふ事、隣人や警官がゐるといふ事、醜聞や精神病院を恐れる気持があるといふ事、さういふ些細な事がどんなに大きな相違をもたらすかといふ事に思い至らないのである。
つまり、世論を囁く親切な隣人の警告さへの聞かれなくなつたやうな状況に投げ入れられた場合に、人が頼りにすべきものは何であるかに思ひ至る事がないのである。
「信仰なき巡礼達」も、この第三の種類に属するが、彼等の棲息する世界は、既述の通り、日常性のパロディーに他ならない。
彼等の特徴の一つは、「豪胆さを伴はずに無謀、大胆さを伴はずに強欲、勇気を伴はずに残虐」(87)であるところに存するのであり、そして「中央支所」の支配人の例が示すやうに、「組織する才能も、事を率先して始める才能も、秩序を保つ才能も無い」(73)ところにも、彼等の特徴は表れる。「彼等もまた「世論を囁く親切な隣人の警告さへ聞かれなくなつた状況下で、何を頼りにすべきか、頼りにすべきものが何であるかを知らない。そこで、「勝ち誇る健康」(74)が依拠すべき唯一のものとなる。
勿論さうなると、彼等の内面は、「健康の驕逸」を戒めた仏陀に倣つて言へば、空虚と化するより他はない。(第一の語り手がマーロウの坐している時の姿勢を仏陀に喩へてゐるところからすると、「闇の奥」を書いてゐた頃のコンラッドの頭の片隅を仏教思想が占めてゐたのかも知れない。
「信仰無き巡礼達」は、貪欲の炎や愚癡の炎に燃えてゐるとも評され得るのである。)彼等の空虚な内面に関してマーロウはかう発言せざるを得ないのである。
「コンラッドの小説」
ISBN-10: 4657909312
ISBN-13: 978-4657909312
照屋佳男
トリリングはフレーザーの「金枝篇」(The Golden Bough)程に現代文学に決定的に重要な影響を及ぼした本はないという事、つまるところフレーザーは現代文学の特徴をなす「日常的事実といふ絆からの解放」の手助けをしたといふ事、この解放の延長線上でニーチェの「悲劇の誕生」(Die Geburt der Trogodie)の受け取り方が決定されるに至つたといふ事を語つてゐる。
ニーチェは理性と秩序を旨とするアポロ的なものの理解のためにも、ディオニュソス的なもの、即ち原初の無秩序なエネルギーを理解する必要があると説いたのだが、現代の文学者は「ソクラテス(アポロ的なものの体現者)は英雄ではなくて悪党である」といふ理解の仕方に走り、「アリストテレスから突然解放されたといふ興奮」に駆られて、「人間の本質的な形而上学的活動を構成するのは道徳ではなくて芸術である」といふニーチェの発言に殊のほか共鳴し、ニーチェが明示した弁証法、即ちディオニュソスとアポロとの間にただならぬ弁証法などは滅却し、ディオニュソス的なもののみを真理として認知したとトリリングは述べる。
「金枝篇」と「悲劇の誕生」の現代における受け取り方を評して、トリリングは言つたのである、「原初の非道徳的エネルギーの発見とその神聖化程に現代文学の中で際立つてゐる所以を、マーロウが密林の原始林的な生を高貴なもの、或いは魅力あるもの、それどころか自由なもの、などと見做さず、寧ろ卑しいもの、むさくるしいものと看破すところに見出してゐる。(勿論トリリングは、原初の生が、むさくるしいがゆゑにマーロウを惹きつける面のある事を見逃してはならない)そしてトリリングがマーロウとクルツの相違を「普通人と精神の英雄との違ひ」と捉へる事は、「精神の英雄」に共鳴する現代の芸術家に関して、次のやうな注目すべき発言を行ふ機縁となる。
「芸術家、即ち人間の魂の歴史的原初、決して脱却される事など無く、我々がいま知つてゐるがままの人間性の中にしつかり据ゑられるに至つた原初といふ名のあの地獄に降りて行く者、そしてこの地獄の上にかぶせられた文明の味気ない嘘よりも地獄の実在性を好む者、さういふ現代が芸術家に関して抱いてゐる信仰の本質を成すのではないか」。
「日常的事実といふ絆からの解放」を欲しないマーロウと対立関係にあるのは、「大地を蹴つて大地から離脱した」(144)クルツに限らないといふのは注目していい事である。
勿論クルツがマーロウの最大の〈アンチテーゼ〉である事に変りはないが、「信仰無き巡礼達」も「白く塗りたる墓」の如き街の住人達も、日常的事実の意義を解しない点ではマーロウの敵対者であり、前者が噂話と中傷と陰謀とに明け暮れてゐるとすれば、後者は「金儲けと飲食と愚劣な夢を見る事」(152)に明け暮れ、「全き安全を信じ切つて」(152)「一つの危険に直面してゐながらこれを理解し得ず、不埒にも愚行を見せびらかすやうな真似をしてゐる」(152)。
この手合は、文化や社会の文脈から切り離された「真理」の危険に気づく事などないのである。
彼等が後生大事にかき抱く知識なるものは、マーロウをいらだたせるだけである。
「俺が知ってゐる事どもをやつらは到底知り得ないと確信した」(152)とマーロウは言ふのだが、ここで「闇の奥」でマーロウは人間を三種類に分類してゐるとするワットの指摘を援用したい。
即ちワットは言つている、マーロウは人間を
一、クルツのやうに野蛮に反応し、これに屈する人々、
二、野蛮に反応するけれど「念入りに作り上げられた信条」を抱き、これによって野蛮に抵抗し得る人々、
三、何にも気づかないので、全く反応しない馬鹿者ども、この三種類に分けてゐる、と。
マーロウ自身は二番目の種類に属すると看做し得るが、「白く塗りたる墓」に似た街の住人達について、「やつらの蒙を啓いてやらうといふ気持も別に起さなかつたが面と向つて嗤つてやりたい気持を抑へるのに苦労した、なにしろ愚かにも、ひどくもつたいぶつてゐたのだ」(152)とまで語つてゐる。
反省が一度として施された事のない日常性の中に棲息するこれらの人々は、己れの足の下に固い舗道があるといふ事、隣人や警官がゐるといふ事、醜聞や精神病院を恐れる気持があるといふ事、さういふ些細な事がどんなに大きな相違をもたらすかといふ事に思い至らないのである。
つまり、世論を囁く親切な隣人の警告さへの聞かれなくなつたやうな状況に投げ入れられた場合に、人が頼りにすべきものは何であるかに思ひ至る事がないのである。
「信仰なき巡礼達」も、この第三の種類に属するが、彼等の棲息する世界は、既述の通り、日常性のパロディーに他ならない。
彼等の特徴の一つは、「豪胆さを伴はずに無謀、大胆さを伴はずに強欲、勇気を伴はずに残虐」(87)であるところに存するのであり、そして「中央支所」の支配人の例が示すやうに、「組織する才能も、事を率先して始める才能も、秩序を保つ才能も無い」(73)ところにも、彼等の特徴は表れる。「彼等もまた「世論を囁く親切な隣人の警告さへ聞かれなくなつた状況下で、何を頼りにすべきか、頼りにすべきものが何であるかを知らない。そこで、「勝ち誇る健康」(74)が依拠すべき唯一のものとなる。
勿論さうなると、彼等の内面は、「健康の驕逸」を戒めた仏陀に倣つて言へば、空虚と化するより他はない。(第一の語り手がマーロウの坐している時の姿勢を仏陀に喩へてゐるところからすると、「闇の奥」を書いてゐた頃のコンラッドの頭の片隅を仏教思想が占めてゐたのかも知れない。
「信仰無き巡礼達」は、貪欲の炎や愚癡の炎に燃えてゐるとも評され得るのである。)彼等の空虚な内面に関してマーロウはかう発言せざるを得ないのである。
「コンラッドの小説」
ISBN-10: 4657909312
ISBN-13: 978-4657909312
照屋佳男
2016年1月28日木曜日
加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.220-225より抜粋20160128
君たちはいま、ユダヤ人排撃運動でさわいでいる。君たちというのは、ドイツ人だけのことではない。ぼくのような極東の住民からみれば、西ドイツばかりではなく、英仏の人たちもあわせておよそ西洋人ということになるが、君たち西洋人についておどろくのは、いかにも記憶力がよすぎるということだ。
戦後15年もして、今再びカギ十字があらわれると、すぐにさわぎ出すのは、アウシュウィッツで何百万のユダヤ人を、老若男女、ただユダヤ人なるが故に、毒ガス室へ送り込んで、組織的に、計画的に、一糸乱れず虐殺したヒトラー総統とその国家社会主義、ゲシュタポやSSの歴史を、忘れないからであろう。
そればかりではない。
君自身も、今の西ドイツ政府の高官が昔ナチに属していたことを思い出している。イギリスの新聞のなかには、アーヘン、ボン、ドルトムント、デュッセルドルフ、エッセン、ゲルゼンキルヘン、ケルンの刑事部長がのこらず、もとSSの高い地位を占めていた、ということさえ忘れていないものがある。何という記憶力だろうか。われわれは、そういったことをみんな忘れてしまう。
現に日本の諺には、水に流すということがある。
君たちからみれば、記憶喪失症とうけとられるかもしれないが、これこそは、昔のことを一切忘れて、幸福に暮らそうという日本の国民的伝統だといえるかもしれない。
江戸っ子は宵越しの金を使わない。
その日暮らしに、どうして過去を思い出す必要があろうか。日本の過去にも悲劇がなかったわけではない。
アウシュウィツほど組織的・計画的ではなかったようだが、とにかく無秩序で衝動的な南京大虐殺があった。
そのほか、戦後の東京裁判もさらけ出したように、「無責任な軍国主義者」の侵略と人権無視のあらゆる例があり、ゲシュタポの日本版・特高警察もあった。そういうことは、すべて昨日あったのだが、われわれの流儀では、昨日のことは水に流して綺麗さっぱりと忘れるのである。
今の日本政府の高官に、もと「無責任な軍国主義」政府の閣僚がいないわけではない。
その高官とは誰よりも総理大臣であり、絶対多数党の総裁である。
しかし、われわれ日本国民の少なくとも大多数は、その過去を一切水に流して、この総裁をいただく政党を支持し、あらゆる国政をあずけ、殊に国の安全保障に関しては、その「大東亜戦争」指導の手腕に鑑み、満腔の信頼をよせている。
昨日は昨日、今日は今日。
そのとき巷に声あり、うたって曰く、昨日は日独軍事同盟、今日は日米安保体制と。しかし、ぼくのような一般庶民が過去を思い出すのは、そういう小さな巷の声よりは、むしろ日本人ならぬ西洋人の、途方もない記憶力に接しておどろき呆れるときだけなのだ。
岸さんがアメリカへ新安保条約の調印に出かける。するとアメリカの有名な週刊誌は、こう書く。
1920年に岸信介は東京大学法学部を卒業し、農商務省に入った。26年には最初の米国訪問。41年には商工大臣として、戦争を積極的に支持した。44年には戦局不利とみて東条追い出しを策し、戦後は戦犯として巣鴨に3年を過ごした。
その間、床掃除をし、西洋の本をよみ、詩をつくった、と。そして、その詩の一つを英訳で引用する。英訳からもう一度訳しなおせば、「わが名を犠牲にしても、後世に伝えたいのは、日本が正義の聖戦をやったということだ」というのである。―そんなことを、われわれ日本人自身はめったに思い出さない。
しかし、われわれが一切水に流しているのは、敗戦までの軍国主義や聖戦や南京虐殺ばかりではない。敗戦後の平和憲法や武装放棄や人権擁護の理想主義もまた綺麗さっぱり忘れようとしている。
君も知っているように、われわれの憲法の第九条には、戦争の放棄が規定され、その次に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と書いてある。この憲法は敗戦後、占領中にできた。それができたときに、総理大臣吉田茂は、議会で「自衛のための戦争を正義の戦争だと考えることは許さるべきでない」と説明した。
そればかりではない。
君自身も、今の西ドイツ政府の高官が昔ナチに属していたことを思い出している。イギリスの新聞のなかには、アーヘン、ボン、ドルトムント、デュッセルドルフ、エッセン、ゲルゼンキルヘン、ケルンの刑事部長がのこらず、もとSSの高い地位を占めていた、ということさえ忘れていないものがある。何という記憶力だろうか。われわれは、そういったことをみんな忘れてしまう。
現に日本の諺には、水に流すということがある。
君たちからみれば、記憶喪失症とうけとられるかもしれないが、これこそは、昔のことを一切忘れて、幸福に暮らそうという日本の国民的伝統だといえるかもしれない。
江戸っ子は宵越しの金を使わない。
その日暮らしに、どうして過去を思い出す必要があろうか。日本の過去にも悲劇がなかったわけではない。
アウシュウィツほど組織的・計画的ではなかったようだが、とにかく無秩序で衝動的な南京大虐殺があった。
そのほか、戦後の東京裁判もさらけ出したように、「無責任な軍国主義者」の侵略と人権無視のあらゆる例があり、ゲシュタポの日本版・特高警察もあった。そういうことは、すべて昨日あったのだが、われわれの流儀では、昨日のことは水に流して綺麗さっぱりと忘れるのである。
今の日本政府の高官に、もと「無責任な軍国主義」政府の閣僚がいないわけではない。
その高官とは誰よりも総理大臣であり、絶対多数党の総裁である。
しかし、われわれ日本国民の少なくとも大多数は、その過去を一切水に流して、この総裁をいただく政党を支持し、あらゆる国政をあずけ、殊に国の安全保障に関しては、その「大東亜戦争」指導の手腕に鑑み、満腔の信頼をよせている。
昨日は昨日、今日は今日。
そのとき巷に声あり、うたって曰く、昨日は日独軍事同盟、今日は日米安保体制と。しかし、ぼくのような一般庶民が過去を思い出すのは、そういう小さな巷の声よりは、むしろ日本人ならぬ西洋人の、途方もない記憶力に接しておどろき呆れるときだけなのだ。
岸さんがアメリカへ新安保条約の調印に出かける。するとアメリカの有名な週刊誌は、こう書く。
1920年に岸信介は東京大学法学部を卒業し、農商務省に入った。26年には最初の米国訪問。41年には商工大臣として、戦争を積極的に支持した。44年には戦局不利とみて東条追い出しを策し、戦後は戦犯として巣鴨に3年を過ごした。
その間、床掃除をし、西洋の本をよみ、詩をつくった、と。そして、その詩の一つを英訳で引用する。英訳からもう一度訳しなおせば、「わが名を犠牲にしても、後世に伝えたいのは、日本が正義の聖戦をやったということだ」というのである。―そんなことを、われわれ日本人自身はめったに思い出さない。
しかし、われわれが一切水に流しているのは、敗戦までの軍国主義や聖戦や南京虐殺ばかりではない。敗戦後の平和憲法や武装放棄や人権擁護の理想主義もまた綺麗さっぱり忘れようとしている。
君も知っているように、われわれの憲法の第九条には、戦争の放棄が規定され、その次に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と書いてある。この憲法は敗戦後、占領中にできた。それができたときに、総理大臣吉田茂は、議会で「自衛のための戦争を正義の戦争だと考えることは許さるべきでない」と説明した。
ところが今の総理大臣岸信介は、「自衛のための戦力は、憲法に矛盾しない」といい出している。
総理大臣の憲法解釈、それも肝心なところで、一体軍隊をもってはならぬという憲法なのか、もってよろしいという憲法なのか、ということの解釈さえ、10年そこそこのうちには豹変するわけだ。こういう便利なことが、自由自在に行われるのも、われわれ日本人が、10年まえのことは水に流して、一切覚えていないからである。
憲法制定議会で田中耕太郎さんは文部大臣であった。海野晋吉さんという日本人としてはめずらしく過去に拘泥する人が、「速記録」から引用している田中さんの第九条に関する説明は、こうであった。
「不正義の戦争を仕掛けてきた場合において、これに対して抵抗しないで不正義を許すのではないか、というような疑問を抱く者があるかも知れない・・併しながら・・不正義は世の中に永く続くものではない。
剣をもって立つ者は剣にて滅ぶ、という千古の真理について、我々は確信を抱くものであります。・・仮に日本が不正義の力に依って侵略されるような場合であっても、併しそれを抵抗することによって、我々が被るところの莫大な損失を考えて見ますと、まだまだ日本の将来の為にこの方を選ぶべきではないか・・戦争放棄ということも決して不正義に対して負ける、不正義を認容するという意味をもっていないと思うのであります。」
今いわゆる砂川裁判で最高裁判所が憲法解釈を論じるときに、田中さんは最高裁判所長官である。その判決はいう。
総理大臣の憲法解釈、それも肝心なところで、一体軍隊をもってはならぬという憲法なのか、もってよろしいという憲法なのか、ということの解釈さえ、10年そこそこのうちには豹変するわけだ。こういう便利なことが、自由自在に行われるのも、われわれ日本人が、10年まえのことは水に流して、一切覚えていないからである。
憲法制定議会で田中耕太郎さんは文部大臣であった。海野晋吉さんという日本人としてはめずらしく過去に拘泥する人が、「速記録」から引用している田中さんの第九条に関する説明は、こうであった。
「不正義の戦争を仕掛けてきた場合において、これに対して抵抗しないで不正義を許すのではないか、というような疑問を抱く者があるかも知れない・・併しながら・・不正義は世の中に永く続くものではない。
剣をもって立つ者は剣にて滅ぶ、という千古の真理について、我々は確信を抱くものであります。・・仮に日本が不正義の力に依って侵略されるような場合であっても、併しそれを抵抗することによって、我々が被るところの莫大な損失を考えて見ますと、まだまだ日本の将来の為にこの方を選ぶべきではないか・・戦争放棄ということも決して不正義に対して負ける、不正義を認容するという意味をもっていないと思うのであります。」
今いわゆる砂川裁判で最高裁判所が憲法解釈を論じるときに、田中さんは最高裁判所長官である。その判決はいう。
「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」
「自衛のための戦力の保持」を憲法が禁じているかどうかは判断を保留するが、「自国の安全と平和を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることは当然」憲法の趣旨に適っていると。「剣をもって立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理」の方は、もうこの判決のなかには出てこない。「千古の真理」とは、少し話が大げさすぎたのであろう。
千古どころか、10年もちこたえる真理もなさそうな気配だ。
「自衛のための戦力の保持」を憲法が禁じているかどうかは判断を保留するが、「自国の安全と平和を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることは当然」憲法の趣旨に適っていると。「剣をもって立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理」の方は、もうこの判決のなかには出てこない。「千古の真理」とは、少し話が大げさすぎたのであろう。
千古どころか、10年もちこたえる真理もなさそうな気配だ。
いや、ぼくがいおうとするのは、10年もちこたえる真理があるかないかではない。いわんや、それが田中さんにとってあるかないかではない。おそらく文部大臣としての発言と最高裁長官としての法律解釈が、いくらかちがうのは、あたりまえなのかもしれない、ぼくがいいたいのは、そういうことではなく、君たち西洋人の過去にこだわり、もとナチの領袖を信用せず、10年まえの解釈を覚えていて、事ある毎に思い出すという式の窮屈なやり方に対し、わが日本の伝統的水流し方式が、どれだけ楽天的で、どれだけ和気あいあいとした人生と国家の妙法であるか、ということである。
たとえば敗戦直後にも、だれかが一億総ざんげという言葉を発明した。一億総ざんげというのは、皆がわるかったということで、裏返していえば、誰が特にわるかったわけではないということである。つまりあれほどのいくさのあとで、責任をとる必要のある人間は一人もいなかったというのだから、素晴らしい。一同これには大賛成をした。従っていわゆる「追放」さえ解除されれば、戦争責任問題は忽ち消えてなくなり、そもその戦争があったことさえ、ほとんど覚えていない。覚えているのは、敗けた戦争ではなく、勝った戦争、たとえば明治大帝と日露戦争だけだから、幸福になるのがあたりまえである。われわれは不愉快なことは一切忘れ、愉快なことだけを思い出すという心術に長じているので、これこそは人生の幸福を獲得する最高の方法だという悟りに達しているのである。君たちは忘れたくても、忘れられない。も少し鈴木大拙さんの英語の本でも読んで、心術を勉強しなければ、どうにもならないという気がする。
たとえば敗戦直後にも、だれかが一億総ざんげという言葉を発明した。一億総ざんげというのは、皆がわるかったということで、裏返していえば、誰が特にわるかったわけではないということである。つまりあれほどのいくさのあとで、責任をとる必要のある人間は一人もいなかったというのだから、素晴らしい。一同これには大賛成をした。従っていわゆる「追放」さえ解除されれば、戦争責任問題は忽ち消えてなくなり、そもその戦争があったことさえ、ほとんど覚えていない。覚えているのは、敗けた戦争ではなく、勝った戦争、たとえば明治大帝と日露戦争だけだから、幸福になるのがあたりまえである。われわれは不愉快なことは一切忘れ、愉快なことだけを思い出すという心術に長じているので、これこそは人生の幸福を獲得する最高の方法だという悟りに達しているのである。君たちは忘れたくても、忘れられない。も少し鈴木大拙さんの英語の本でも読んで、心術を勉強しなければ、どうにもならないという気がする。
それでは日本流の生き方とは要するに無原則ということだろうと君は考えるかもしれない。しかし、君のように原則に固執することこそ、理想主義的であって、現実的でないのだ。そういう理想や原則を持つことを、日本語では、まだ大人になっていないという。われわれとしては、西洋人を育成して、西洋人が一日も早く大人になることを、悲願としている。
「言葉と戦車を見すえて」
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380
「言葉と戦車を見すえて」
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380
2016年1月27日水曜日
加藤周一著「文学とは何か」角川書店刊pp.20-24より抜粋20160127
「ボヴァリー夫人はわたしだ」と、小説「ボヴァリー夫人」の作者はいいました。
フロベールのこの有名な言葉が示すように、文学とは作者がその体験を語るものです。しかしもっとも注意すべきことはその逆が必ずしも成りたたないということです。
われわれがわれわれの日常生活の体験を記した日記は、原則として、そのままでは文学ではありません。
文学における体験は、特殊な体験、正確にいえば、特殊な(文学的な)しかたで処理された体験です。
そのような体験とは、いったいどんなものか。―文学とは何であるかという問題は、まずここにはじまるといってよいでしょう。
たとえば、ある朝わたくしがコーヒーを飲んだとします。コーヒーはうまかった。その商標はしかじかで値段もあまり高くなかったということであれば、これからさきも同じ商標のコーヒーを飲もうというようなことを考えるでしょう。
われわれの日常的体験はこういうふうにしてでき上がり、記憶のなかに保存されます。もしそうでなければ、日常生活がうまくゆかない。
高くてまずいコーヒーを何度も飲んでいたのではしようがない。二度とそういうことをしないために、人はまずくて高いコーヒーにこりなければなりません。
コーヒーに「こりる」ばかりでなく、株や競馬や上役との喧嘩にこりて、「大人になる」必要があり、また必要ではないかもしれませんが、酒や女にもこりて、「酸いも甘いも嚙みわける」にいたれば、それに越したことはないでしょう。
日常的体験は、コーヒーの体験、株の体験、女の体験というぐあいに、それぞれ次の機会にそなえて役だつように分類され、記憶され、必要に応じて検討されるものです。
生の直後の具体的な体験が、日常生活における効用の基準から、ある程度まで抽象されるということがその特徴の第一であり、ふたたび同じ体験があるだろうという予想の下に、別の言葉でいえば、本来反復され得るものとして、ある特定の体験がとらえられるということが特徴の第二です。
科学的体験
科学的体験(あるいは経験)とは、日常的体験のこのような特徴が、自覚的に徹底させられ、方法的に組織化されたものにほかなりません。
うまいコーヒーを自然科学者は分析します。
その成文を見いだし、おのおのの成分の量を定め、一定成分の一定量が、一定のうまさを生むという現象に、うまいコーヒーを飲んだという日常的経験に還元します。
このように科学的にとらえられた現象は、日常的体験のように、多分同じようなことがふたたび起こるだろうではなく、条件を整えさえすれば必ず反復されると断言することのできるものです。コーヒーを飲むという日常生活になかでの偶然的な経験ではなく、科学的体系が定義する特定の目的のために、あらかじめ用意された単純な条件の下になされる経験もあります。それが、実験であって、実験はもちろん反復されることを前提とします。実験の不可能な科学、たとえば経済学においても、科学的経験の本質そのものにちがいはありません。わたくしがある朝うまいコーヒーを飲んだという特殊な経験は、任意の消費者と一定種類の商品との関係として一般化され、無限に反復され得るものとしてとらえられる。統計が可能となり、統計のなかでは、すべての人間が再生産過程の一要素を代表する象徴となるでしょう。
文学的体験
文学者が特定の具体的経験に加える操作は、科学者が加えるこのような操作とは正反対のものです。
図式的になることをおそれなければ、文学的経験と科学的経験とは、日常的経験をはさんでその両極にあるということもできます。
文学者とは、常に特定の具体的経験の特殊性と具体性とに注目するものです。コーヒーはその成分に還元されない全体であり、そのうまさは、商標に結びつくばかりでなく、さらに具体的にその朝のわたくしの気分にも、コップと匙のふれるかすかな音にも、また窓のそとの青空にさえも結びつくでしょう。あたゆる経験は、このような具体性においてとらえられるときに、けっして二度と反復されない、一回かぎりのものです。
文学者の語る体験は、一般化されない特殊性、反復されない一回性とのゆえに、われわれにとって価値のあるものですが、その価値は日常的・科学的な立場からは、意味のないものです。科学は、複雑なものを単純な要素に還元し、特殊な現象を抽象的な量として一般化し、無限に反復することの可能な現象から、無限の効果をひき出そうとする試み以外のものではありません。科学者はコーヒーの有効成分を抽出してインスタント・コーヒーをつくります。日常的立場にたつかぎり、そんなものはつくれませんが、できたものの重宝さは、身に沁みてわかるのであり、同じものをふたたび利用することによって生活を豊かにすることはできます。一回かぎりの体験は科学的に意味がないように、日常生活においても価値がありません。あるいはむしろ効用がないといった方がよいでしょう。
「文学とは何か」
ISBN-10: 4044094683
ISBN-13: 978-4044094683
加藤周一
フロベールのこの有名な言葉が示すように、文学とは作者がその体験を語るものです。しかしもっとも注意すべきことはその逆が必ずしも成りたたないということです。
われわれがわれわれの日常生活の体験を記した日記は、原則として、そのままでは文学ではありません。
文学における体験は、特殊な体験、正確にいえば、特殊な(文学的な)しかたで処理された体験です。
そのような体験とは、いったいどんなものか。―文学とは何であるかという問題は、まずここにはじまるといってよいでしょう。
われわれの日常的体験はこういうふうにしてでき上がり、記憶のなかに保存されます。もしそうでなければ、日常生活がうまくゆかない。
高くてまずいコーヒーを何度も飲んでいたのではしようがない。二度とそういうことをしないために、人はまずくて高いコーヒーにこりなければなりません。
コーヒーに「こりる」ばかりでなく、株や競馬や上役との喧嘩にこりて、「大人になる」必要があり、また必要ではないかもしれませんが、酒や女にもこりて、「酸いも甘いも嚙みわける」にいたれば、それに越したことはないでしょう。
日常的体験は、コーヒーの体験、株の体験、女の体験というぐあいに、それぞれ次の機会にそなえて役だつように分類され、記憶され、必要に応じて検討されるものです。
生の直後の具体的な体験が、日常生活における効用の基準から、ある程度まで抽象されるということがその特徴の第一であり、ふたたび同じ体験があるだろうという予想の下に、別の言葉でいえば、本来反復され得るものとして、ある特定の体験がとらえられるということが特徴の第二です。
科学的体験
科学的体験(あるいは経験)とは、日常的体験のこのような特徴が、自覚的に徹底させられ、方法的に組織化されたものにほかなりません。
うまいコーヒーを自然科学者は分析します。
その成文を見いだし、おのおのの成分の量を定め、一定成分の一定量が、一定のうまさを生むという現象に、うまいコーヒーを飲んだという日常的経験に還元します。
このように科学的にとらえられた現象は、日常的体験のように、多分同じようなことがふたたび起こるだろうではなく、条件を整えさえすれば必ず反復されると断言することのできるものです。コーヒーを飲むという日常生活になかでの偶然的な経験ではなく、科学的体系が定義する特定の目的のために、あらかじめ用意された単純な条件の下になされる経験もあります。それが、実験であって、実験はもちろん反復されることを前提とします。実験の不可能な科学、たとえば経済学においても、科学的経験の本質そのものにちがいはありません。わたくしがある朝うまいコーヒーを飲んだという特殊な経験は、任意の消費者と一定種類の商品との関係として一般化され、無限に反復され得るものとしてとらえられる。統計が可能となり、統計のなかでは、すべての人間が再生産過程の一要素を代表する象徴となるでしょう。
文学的体験
文学者が特定の具体的経験に加える操作は、科学者が加えるこのような操作とは正反対のものです。
図式的になることをおそれなければ、文学的経験と科学的経験とは、日常的経験をはさんでその両極にあるということもできます。
文学者とは、常に特定の具体的経験の特殊性と具体性とに注目するものです。コーヒーはその成分に還元されない全体であり、そのうまさは、商標に結びつくばかりでなく、さらに具体的にその朝のわたくしの気分にも、コップと匙のふれるかすかな音にも、また窓のそとの青空にさえも結びつくでしょう。あたゆる経験は、このような具体性においてとらえられるときに、けっして二度と反復されない、一回かぎりのものです。
文学者の語る体験は、一般化されない特殊性、反復されない一回性とのゆえに、われわれにとって価値のあるものですが、その価値は日常的・科学的な立場からは、意味のないものです。科学は、複雑なものを単純な要素に還元し、特殊な現象を抽象的な量として一般化し、無限に反復することの可能な現象から、無限の効果をひき出そうとする試み以外のものではありません。科学者はコーヒーの有効成分を抽出してインスタント・コーヒーをつくります。日常的立場にたつかぎり、そんなものはつくれませんが、できたものの重宝さは、身に沁みてわかるのであり、同じものをふたたび利用することによって生活を豊かにすることはできます。一回かぎりの体験は科学的に意味がないように、日常生活においても価値がありません。あるいはむしろ効用がないといった方がよいでしょう。
「文学とは何か」
ISBN-10: 4044094683
ISBN-13: 978-4044094683
加藤周一
2016年1月26日火曜日
20160126 トートロジー、東西の絵画技法について
A「とりあえず最前の記事により、ブログへの投稿が200記事を越えましたが、今後も出来る限り自身の作成した文章を投稿し続けようと考えております。
今後こうした行為を続けてゆくと何か起きるのか、起きないのかはわかりませんが、いずれにせよ、こうした行為を継続することには、わずかではあるかもしれませんが、何かしら意味があるのではないかと考えております。
そしてその意味とは何かと考えてみますと明確、判然とした答えはわかりませんが、それでも私の内面の力と外界よりの刺激が反応し続ける限り、たとえ多少断続的になっても、書けるところまで書いてみることには、少なくとも私自身に対しては多少の価値を持ち、また、一連のブログを読んでくださっている方々がいらっしゃることにより「これを継続してゆこう。」という気持ちを保持し続けることが出来るのではないかと思います。
これまで様々なことをほぼ思いつきのように対話形式を用い、またこれまでの対話での実体験を散りばめて一連の記事を書き続けてきましたが、その中には内容、主題の類似、重複がいくつも見られると思います。
こうしたことは、特に理系学問分野における執筆の場合などにおいては割愛され、圧縮、まとめられるものではありますが、一方においてトートロジーという言葉もあり、これは述べたい一つの主題を反復表現することであり、またゲーテも「私の発表した一切のものは、大きな告白の断片にすぎない。」といった意味のことをどこかで述べていましたので、これもおそらくさきのトートロジーに繋がるものがあるのではないかと思います。
では、このトートロジーにはどのような意味、効果があるのかと考えた場合、その一つに「ある主題を反復表現し続けることにより、その過程のなかで主題がより鮮明になり、また類似、派生概念の発見などにつながり、それがこれまでの学問、研究において指摘されていないものである可能性がある。」ということではないかと思います。
そして、これは多くの学術、芸術など創造的活動の過程において重要且つ必要不可欠な要素ではないかと思います。
そのように考えると、反復表現、トートロジーとは一見冗長と思われるかもしれませんが、それはそれである程度意味があることではないかと思われます。
また、同時にこれは一つの主題に基づいた他者との対話、議論によっても同様の効果を得ることが出来るのではないかとも思います。
そして、そうした対話、議論をある程度継続して行ってゆくと、いつのまにか自身の内において、そうしたことが出来るようになってゆくのではないでしょうか?そして、それを自問自答というのではないでしょうか?
ここまで書きますと、私の一連の対話形式のブログとは、この自問自答に対し実際に経験した対話の断片を挿入したものであることに気付かれるのではないでしょうか?
そして、今後は実際の対話の割合が減少することにより、このブログがより創造的なものとなってゆくのではないかと思います。
しかし一方、作成するものが創造的であることを早急に目指しすぎると、それは実際の冗長と思われる経験から出発していないことにより、あまりにも観念的、現実離れした考えに結果として陥ってしまう可能性が強いのではないかとも思います。
それ故、現在の私のブログとは、一面においては創造的要素の向上を目指しつつも、他面において、これまでの対話、議論の経験から離れることはいささか危険なのではないかとも思います。
しかし、こうしたことはあくまでも脳裏の片隅に留め、あまり意識することではないのかもしれません。
また、それはさておき、夏目漱石の小説家としての出世作ともいえる「我輩は猫である」とは、かねてより苦しんでいた神経衰弱を緩和するために高浜虚子に勧められ作成したものであるとされていますが、この作品の執筆により、それまで漱石が主に職務の必要性により居た硬質な文体の世界から解放され、自由に言語を操る経験を得ることにより生み出されたものではないかと考えます。
また、同様のことはウィンストン・チャーチルが欝症状を緩和することを目的として始めた絵画においても同様のことがいえるのではないかと考えます。
その一方において、我が国の前近代つまり欧米の影響を受ける以前の絵画とは、こうした執拗な描き方はあまり見受けられず、どちらかというと、水墨画あるいは書道の文字などのように、描く一つの線に精魂を傾けるような一種、居合い抜きにも通じるような特徴があるのではないかと思います。
そしてそうした特徴とは、さきに述べた反復表現、トートロジーにおいても関連があるのではないかと考えさせられます。
反復表現、トートロジーには対話、議論に通じる要素があるとさきに述べましたが、欧米の絵画と近代以前の日本の絵画における特徴の相違とは、反復表現、トートロジーが一つの基礎となる対話、議論文化の彼我の相違にも何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。
これはこじつけであるといわれると、たしかにその気味もありますが、一方において様々な文化とは、その国、地域の古来より続く文化的土壌で誕生、成長したものであり、それは本質的に移植することが困難なものではないかと思います。その意味で我が国とは古代より、そして近代以降は特に顕著に雑種移植文化であり、それを良い方向に進化発展させてゆく以外にないと思うのですが、それは彼我文化の相違をある程度把握、認識することによりはじめて可能となるのではないかと考えます。
しかし我が国の基層に近い文化には対象との一体化を強く指向ような傾向もありますので、こうしたことは、他国、他文化と我が国との関連を重視するような歴史像を把握、認識することにより、どうにか中和することが出来るのかもしれません。
今回は対話形式を採らずに書きましたが、今後はまたしばらく対話形式にて書いてゆこうと考えております。」
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