2016年1月27日水曜日

加藤周一著「文学とは何か」角川書店刊pp.20-24より抜粋20160127

「ボヴァリー夫人はわたしだ」と、小説「ボヴァリー夫人」の作者はいいました。
フロベールのこの有名な言葉が示すように、文学とは作者がその体験を語るものです。しかしもっとも注意すべきことはその逆が必ずしも成りたたないということです。

われわれがわれわれの日常生活の体験を記した日記は、原則として、そのままでは文学ではありません。

文学における体験は、特殊な体験、正確にいえば、特殊な(文学的な)しかたで処理された体験です。

そのような体験とは、いったいどんなものか。―文学とは何であるかという問題は、まずここにはじまるといってよいでしょう。

たとえば、ある朝わたくしがコーヒーを飲んだとします。コーヒーはうまかった。その商標はしかじかで値段もあまり高くなかったということであれば、これからさきも同じ商標のコーヒーを飲もうというようなことを考えるでしょう。
われわれの日常的体験はこういうふうにしてでき上がり、記憶のなかに保存されます。もしそうでなければ、日常生活がうまくゆかない。

高くてまずいコーヒーを何度も飲んでいたのではしようがない。二度とそういうことをしないために、人はまずくて高いコーヒーにこりなければなりません。

コーヒーに「こりる」ばかりでなく、株や競馬や上役との喧嘩にこりて、「大人になる」必要があり、また必要ではないかもしれませんが、酒や女にもこりて、「酸いも甘いも嚙みわける」にいたれば、それに越したことはないでしょう。

日常的体験は、コーヒーの体験、株の体験、女の体験というぐあいに、それぞれ次の機会にそなえて役だつように分類され、記憶され、必要に応じて検討されるものです。

生の直後の具体的な体験が、日常生活における効用の基準から、ある程度まで抽象されるということがその特徴の第一であり、ふたたび同じ体験があるだろうという予想の下に、別の言葉でいえば、本来反復され得るものとして、ある特定の体験がとらえられるということが特徴の第二です。


科学的体験

科学的体験(あるいは経験)とは、日常的体験のこのような特徴が、自覚的に徹底させられ、方法的に組織化されたものにほかなりません。
うまいコーヒーを自然科学者は分析します。
その成文を見いだし、おのおのの成分の量を定め、一定成分の一定量が、一定のうまさを生むという現象に、うまいコーヒーを飲んだという日常的経験に還元します。
このように科学的にとらえられた現象は、日常的体験のように、多分同じようなことがふたたび起こるだろうではなく、条件を整えさえすれば必ず反復されると断言することのできるものです。コーヒーを飲むという日常生活になかでの偶然的な経験ではなく、科学的体系が定義する特定の目的のために、あらかじめ用意された単純な条件の下になされる経験もあります。それが、実験であって、実験はもちろん反復されることを前提とします。実験の不可能な科学、たとえば経済学においても、科学的経験の本質そのものにちがいはありません。わたくしがある朝うまいコーヒーを飲んだという特殊な経験は、任意の消費者と一定種類の商品との関係として一般化され、無限に反復され得るものとしてとらえられる。統計が可能となり、統計のなかでは、すべての人間が再生産過程の一要素を代表する象徴となるでしょう。


文学的体験

文学者が特定の具体的経験に加える操作は、科学者が加えるこのような操作とは正反対のものです。
図式的になることをおそれなければ、文学的経験と科学的経験とは、日常的経験をはさんでその両極にあるということもできます。
文学者とは、常に特定の具体的経験の特殊性と具体性とに注目するものです。コーヒーはその成分に還元されない全体であり、そのうまさは、商標に結びつくばかりでなく、さらに具体的にその朝のわたくしの気分にも、コップと匙のふれるかすかな音にも、また窓のそとの青空にさえも結びつくでしょう。あたゆる経験は、このような具体性においてとらえられるときに、けっして二度と反復されない、一回かぎりのものです。
文学者の語る体験は、一般化されない特殊性、反復されない一回性とのゆえに、われわれにとって価値のあるものですが、その価値は日常的・科学的な立場からは、意味のないものです。科学は、複雑なものを単純な要素に還元し、特殊な現象を抽象的な量として一般化し、無限に反復することの可能な現象から、無限の効果をひき出そうとする試み以外のものではありません。科学者はコーヒーの有効成分を抽出してインスタント・コーヒーをつくります。日常的立場にたつかぎり、そんなものはつくれませんが、できたものの重宝さは、身に沁みてわかるのであり、同じものをふたたび利用することによって生活を豊かにすることはできます。一回かぎりの体験は科学的に意味がないように、日常生活においても価値がありません。あるいはむしろ効用がないといった方がよいでしょう。

文学とは何か

ISBN-10: 4044094683
ISBN-13: 978-4044094683

 加藤周一
 

0 件のコメント:

コメントを投稿