2016年2月1日月曜日

20160201 ノートへの記録、および帰納、演繹法について

A「ここ最近また書籍の抜粋が続いていますが、何か変化でもあったのですか?」

B「いえ、特にそういったわけではありませんが、このところ自身の作成した文章が続いていましたので、少し趣向を変えてみようと思った次第です。
しかし、またしばらく書籍の抜粋を続けていましたら、不思議なことにまた自身の文章を作成してみたくなってきました・・(笑)。
ですから、次に投稿するブログ記事は自身の作成した文章にしてみようと考えております。」

A「まあBさんのことですから、毎日何かしら少しずつ読んでいると思いますが、そういった書籍をキーボードを通して書写することもまた、単なる読書とはまた違った刺激になるのでしょうね・・。」

B「ええ、それはそうですね、ですから勉強などでもノートを書くことが重要なのではないでしょうか?
また、そのように考えてみますと、私は文系院生の頃は講義などでもノートを書くことは少なかったのではないかと思います・・。
講義などでは、どちらかというと予習の方が大事であったような気がしますね・・。
また、フィールド・ワークなどの際は、その時々に考えたことを記したり、スケッチのようなものを描いたりしておりましたが、それらは能動的な記録、筆記として、ある程度意味があったのではないかと思います。
とはいえ、現在それらを見てみますと「果たして何を意味しているのであろうか?」と考えたり、あるいはその稚拙さに赤面するようなものも少なからずあるように思います・・(苦笑)。
そして、その後の歯科技工学校では講義科目の多くがはじめてのものであり、かなり興味を持って講義ノートを作成していた記憶があります。
また、文系の世界にドップリ浸かっていた当時の私にとって、こうした講義はかなり実在感をもって迫ってくるものがあったのではないかとも思います。
その後、歯系院生の頃は、とにかく実験データが多く、それらの一つ一つ全てを記録しておかないと抽出される様々な傾向、そしてその後に続く考察ができませんので、記録しておりましたが、それらは実験装置の横に設置したPCのエクセル・ファイルに直接入力しておりましたね・・。
そしてそれと併行して、各々試料の実験時における特徴をノートに記してもいました。
その後、エクセル・データとノートを較べてみて、何かしら面白い発見はないかと考えてみるのも、なかなか面白いものがありました・・(笑)。」


A「ううむ、まあ特に理系学問分野は信頼できるデータがあってのものですからね・・。 ともあれBさんはその様な感じでPCデータ、実験ノートを作成していたのですか・・。
しかし一方、試料作成は、それとはまた別ですよね・・。
そのように考えると、実験を必要とする多くの理系学問分野とは、一種職人のような部分も多くあるのでしょうね。」

B「ええ、たしかにその様な部分は多くあると思います。
それでも私はどちらかというとスロー・スターターでして、徐々に実験にはまっていったような感じがあります。
ですから、そのはじめにおいては、どちらかというと受動的に実験をして、データを取っていたような感じでしたが、実験が進むにつれて、加速し能動的になっていった様な感じでしょうか・・今考えてみますと・・。
そして、今考えてみますと、それは指導してくださった先生の手腕に多く由来するものであると思います・・。」

A「ええ、そういったことは何となく私も理解できますね。
それに、時間をかけて凍結した氷の方が、早く凍結したそれよりも溶けにくいといわれますからね・・ですから、それはそれで構わないのではないでしょうか?
また、何かを継続するという意味においては、そういったBさんのような性質の方が都合が良いのかもしれませんよ(笑)。」

B「はあ、どうもありがとうございます・・。
しかし、その氷のハナシは本当に人間の精神についても適用することができるのでしょうかね?
というのは、時折人間の精神などについて考えてみますと、かねてより巷で流布している人間の性質、精神などに関する様々な意見とは、互いに矛盾しているものが多いのではないかと思う一方、信頼できるとされる医学的なデータに基づく人間の性質、精神についての見解とは、あくまでも人間の性質、精神に対しての直接的な言及ではなく、何かとの反応、対応の結果として見られる傾向、見解であるように思われるのです・・。
そして、そのように考えてみますと、我々は一体どのようにして人間一般のものとして性質、精神への知覚を得ることができるのでしょうか?
それに加えて、どのようにして過去からの人間の精神的活動の蓄積としての歴史、文化などを認識しているのでしょうか?」

A「・・はあ、なんだかずいぶん高踏的なハナシになってきましたね・・(笑)。
まあ、たしかに先程の氷の話は人間の精神について適応出来るものであるかどうかわかりません・・。
しかし、こうした観念的なことは一般的にたとえを用いて説明することが多いのではないでしょうかね?
たしか聖書にもそのようなことが書かれていませんでしたかね・・。
ともあれ、そうした表現から、その観念および関連の実在、正否についての疑問が生じると思うのですが、これをさかのぼると、御存知でしょうが演繹、帰納的な考え方の違いに結び付くのではないでしょうか?
そして、さきほどのBさんの疑問とは、演繹的な発想からもたらされたのではないかと思いますが・・。
さらにハナシを進めますと、演繹的な発想を用いて人間の性質、精神などといった形而上的なことへの見解を得ることは難しいのではないでしょうか?
これは帰納的発想あるいは経験論的なものの積み重ねによって徐々に形成されてゆくものなのではないでしょうか?
そしてその最大公約数的なものが一般的に通じるものとしての人間の性質、精神への見解ということになるのではないでしょうか?」

B「・・はあ、なるほどたしかにいわれてみますと私の疑問とは演繹的な発想であったかもしれませんね・・。
とはいえ、こうした意見もまた必要ではないかとも思います。
何故ならば、そうした意見を発信することによって、さきほどのAさんの御意見を聞くことができたのではないかと考えるからです。
まあ、多少開き直りの気味はありますが・・(苦笑)。」

A「はああ、なるほど、それは何だか弁証法的に基づくような意見ですね(笑)。
そうすると、演繹、帰納あるいは理系、文系といった異なった分野から発信される意見を正面からぶつけあわせることにより、高次の見解を得ることができるのかもしれませんね・・。
しかし、そうするとまた議論の重要性が問題となってくるわけですね・・。」

B「ええ、そうですね、そうした議論が成立するための基礎的なインフラの整備、発展が今後の我が国の社会において重要なのではないでしょうか・・?
そしてそれを為すためには、やはり多少時間をかけてでも教養教育を充実する以外にないのではないかと思いますが・・。」

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