2015年11月8日日曜日

中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.91-96より抜粋

一九九五年といえば、もう一つはやはりオウム事件である。天皇を弑逆し日本国に代えて別の国家を建設しようとしたのは平将門以来ではないか、私の反応は大時代かもしれぬが、暗黙の了解の大胆な侵犯という意味である。
前の政権を転覆するとか社会体制を変えようというのとはそもそも次元が違う。
オウムのこの試みは将門のように不成功に終わったと見たいが、宗教というものは何をするかわからないという一般的恐怖を後遺症としてゆめゆめ残さないようにしなければならない。
実際の宗教の圧倒的大部分は政治的・支配的野心とは無縁であろう。
しかし、この恐怖を利用しようとする勢力が出て、もし半世紀前の陸軍に対するような一般的恐怖が国を覆うならば、一九九五年は「大正デモクラシー」に比すべき「昭和後期デモクラシー」の終りの始まりということにならないか。
これに結びつき利用しようとする暗い勢力が出てくる可能性もある。
大戦下のように片言節句を聞きつけられると憲兵隊が呼び出しにくる遥か以前に、大正末期から昭和初期にすでに軍のことは触れないようにしなければならないという事なかれ主義があった。すでにマスコミを含めてこの風潮があるのではないか。われわれは恐怖を先取りして貝になりがちである。
ある時期以後は抵抗は孤立化し予め無力化されている。
二・二六事件に抵抗した昭和天皇はその結果すべて重臣のすべてを失って孤立化し、抵抗の余力を持たなかった。開戦直後の近衛もまた。何びとにもそういう状況の下では有効な抵抗を期待できないと思う。そう言い立てる論者は微妙な責任転嫁を行っているのではないだろうか。
もう一つ前、その時から「今」と思う時点は一九八九年である。冷戦の終了と昭和天皇の逝去とである。
私が生きている間に冷戦が終わるとは思っていなかった。
ましてどういう形で終わるかは想像がつかなかった。
私は一種の猶予期間を生きていた。それは私の中学一年生から五十五歳まで、すなわち実質的な一生涯に当たる期間であった。
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。
強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した、この両極化に逆らって自由見検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。
社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。
いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長所を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。
資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義がすでにソ連に対抗して生まれたものであった。
ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。
社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生きのびるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない。)
冷戦はソ連が米国式の軍備を整えたことから終末に向う。
このような「対抗軍備」では財力と技術力とにまさっているほうがイニシアティヴをとり、劣っている側はあらゆる不利を忍んでこれに追随しなければならない。わが国が買った米国国債の力もあって、八〇年代の米国の軍事力はソ連の追随できなおものになった。
戦略防衛構想(SDI)がほんとうに有効かどうかわからなくても、万一有効だったらおおごとであるから、ソ連軍はそれに備えなければならなかった。
一九八七年だったと思うが、アフガニスタン戦争において、首都カブールから飛びたつソ連の定期旅客機が熱線誘導ミサイルを逸らすために火炎弾を投下しつつ急上昇する報道写真を見た時、私はソ連の敗北を実感した。冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか。私にはわからない。もう一つ前、ここからは「今」だという時点を捜せば、それは一九〇四年から五年の日露戦争である。おまえは一九三四年生まれであって、日露戦争を知らないじゃないかといわれるかもしれない。
しかし、人は何らかの社会に生まれつく。私は日露戦争後の社会に生まれ落ちたのである。私にも日露戦争は遠い。実感がなく、錦絵のように遠景に溶け込んでいる。参戦者もおらず、実戦談も聞かなかった。江戸時代のほうが実感があるくらいだ。私の父方母方両祖父の実家の建物はいずれも私の生まれた時二五〇年を経ており、一方は取り壊されたが、他方は今なお鬼門の弁天様と裏鬼門のお稲荷様とともに存在している。しかし私が小さかった頃、日露戦争は昨日のごとくであった。そのように周囲の大人たちは語り合っていた。日露戦争が敗北に終わった場合を私は想像することができない。たぶん、私の世界の中で江戸に属する部分は残るだろう。その部分はそういう硬さを持っている。今の私の中にもどこか命脈を保っているぐらいだから。しかしその他は?
漱石、鷗外も日露戦争の戦後文学である。と同時に、太平洋戦争に至る過程の引き返し不能点がどこにあるかを考えた時、私は日露戦争の戦後処理に考えが行き着くのである。
ロシアに得られなかったところを中国に求めて大陸進出を考え、フィリピン領有と交換に朝鮮領有を米国に承認させる。そして一九一〇年、日本憲兵は、中国国籍をとり中国陸軍の近代化に努めていた川喜多大治郎を北京に暗殺する。この一連の過程がサイレント・マジョリティの支持を得た時、日本帝国の運命は決まったと私は思う。むろん抵抗はあったが、しかし、対中国親善外交を進めた佐分利公使が箱根に暗殺された時、外務省は彼の屍を越えて中国との関係修復を行わなかった。一人がテロリズムに倒れた時、政治方針が変るならば、テロリズムは成功といわなければならない。しかし、一人を倒しても何の変化も起さなかったテロリズムもたくさんある。テロリズムが支配層を脅かすのは支配層がすでに孤立化し、予め無力化されていた場合ではないかと私は思う。昭和天皇、近衛文麿の例ばかりでなく、昭和史はその例に満ちている。戦前の排英運動や日中戦争第一年末の南京陥落祝賀の群衆を思う時、あの勢いに誰が逆らえたかと思う。日中戦争も太平洋戦争も日露戦争ほどには私の時間を「今」と「昔」に分けるものではない。日中戦争は日露戦争の一つの帰結であって、挫折したシベリア出兵の延長である。そして太平洋戦争は日中戦争における「聖域」を叩こうとする、ベトナム戦争の「北爆」に当たるものであった。
そして私が戦後に入って行ったところは本質的には「辛うじて生き延びていた大正時代」であった。つまり日露戦争の戦後である。

「アリアドネからの糸」
ISBN-10: 4622046199
ISBN-13: 978-4622046196
中井久夫


20151108 英語学習遍歴について

A「どうも、最近は何か面白い本や映画を見つけましたか?」

B「いえ、最近は求職活動も少し複雑になってきまして、本もあまり集中して読んでいませんし、映画はここ最近めっきり観ていません。
実際これではマズイと思って、本を読んだり、映画を観ようとすると逆効果であるかもしれないので、まあ現在はこれでいいのかもしれません・・。
しかし同時に時折胃が痛むようになったのは多分この不安定な状況からくるストレスではないかと思います。
それでまあ、最近は牛乳を飲むようにしました(笑)。」

A「求職活動期間のストレスは確かにありますね・・。
人によっては髪の毛が抜けたり、白髪が急に多くなったりす
るのを見たことがあり、あとは食べ過ぎたりする人もいますね・・。」

B「私もタバコを止めてから太るかと思いきや、現在のところそうでもありませんね・・。
ただ、以前に比べ食べ物が美味しく感じるようになりましたので、もしかしたら今後太るかもしれませんので、気をつけます(笑)。」

A「ええ、タバコを止めると太るというのはよく聞きますので、もう少し継続して気をつけた方がいいかもしれませんね。
あ・・あと英論文や洋書なども継続して読まれていますか?」

B「ええ、一応読んでいます。
こういったのは続けていないと私の場合すぐに錆びてきてしまいますので・・。
しかし現在読んでいるものは文系分野の著作です。
しかし、これは著述の仕方が文系っぽくなく、理系に近いと思いますので結構飽きずに面白く読めています(笑)。」

A「もともと文系のBさんが英語は理系の文章の方が読み易いというのは何だか面白いですね(笑)。」

B「ええ、これは多分刷り込みみたいなものだと思いますが一番読み易いのは理系の文体で書かれた歴史に関する著作ではないかと思いますね・・(笑)。
これでしたら書いてある内容が日本語にて知っているものが多いので、英語を読みながら「これはこのことを書いてあるのだろうな。」などと推測しながら読むことが出来、そして「英語ではこういった表現でこのことを説明するのか。」などと感心しながら読み進めることが出来ます。」

A「ええ、それはよくわかりますね(笑)。
ある程度自分が知っている分野の洋書、英文などを読みますと、大体の意味は分かり、そしてそれを何冊か続けると、以前に比べ少し成長した様な感じを得ることが出来ますよね。
そして、そういうのを積み重ねますと、まあ、どうにかモノになるのではないかと思えるようになります(笑)。
ですから、私個人の意見としては、英語云々よりも先ずはじめに自分の専門分野におけるある程度の知識を持てば、自然とその延長として英語は習熟していくのではないかと思うのですが・・どうでしょうか?」

B「ええ、それは私も仰る通りであると思います。
もちろんグラマーも単語も会話も大事であるとは思いますが、それ以前に自分の専門あるいは得意分野を持てば、自然とその分野の英語でのコミュニケーションはある程度出来るようになるのではないかと思います。」

A「その点、近代日本における自然科学分野、理系全般とは、その始原が概ね欧米にありますので、習熟に伴い自然と現在の公用語としての英語に接する機会が増えていくと思います。
その意味で、専門分野を介して公用語である英語に接する我が国の自然科学分野の学問とは、文系に比べ、やはりノーベル賞などの世界規模での評価において多少有利な場所にいるのではないかとも思えます・・。」

B「確かにノーベル文学賞で候補にのぼる日本人の作家とは、海外での翻訳が多く為されている方ですよね・・。
そういえば先日読んだ夏目漱石の「三四郎」の英訳版の巻頭言をその作家が書かれていましたが、大変読み易い英語でした。
しかし、そういえば私は英語に関しては色々とありましたね・・。
二歳から五歳までスイスで過ごしたのですが、この時通っていた幼稚園がインターナショナルスクールでしたので、当時は英語を話していたようですが、帰国後、日本語に習熟するにしたがい英語は忘れてしまったようです(笑)。
その後、中学、高校、大学にて英語は多少得意な時期もありましたが、大体の期間は平凡な成績でした。
そして就職後、ホテルフロント勤務にてインバウンド(海外からの宿泊客)の担当をさせられることが多く、必要に迫られ辞書、電子辞書を引張出し、独習らしいことをしていたのが南紀在住時でした・・(笑)。
その後入学した文系院では学生人数が決して多いわけではないのですが、英語の講義は複数ありましたので、毎週予習をしておかないとみっともないことから、必要に迫られ勉強しました。
その後の歯科技工学校においては講義で歯科に用いる基本的英語を習いましたが、それに飽き足りず、家にあった本を読んだりして多少能動的な努力もしました。
そして歯系院では担当教授が所属院生、修了生を集め英論文の輪読会を毎週水曜日の朝八時から開催されていましたので、これも予習をしておかないとみっともないので必要に迫られ勉強しました。
そして、この時以来、多少能動的になり、本屋の洋書コーナーやアマゾンなどで洋書、古書を少しずつ購入する様になりました。
また、講座の准教授の先生と歯科理工学に特化した洋書の輪読会も行いましたが、これも大変勉強になりました・・。
その様な状態を経て、帰郷後に出席を許された都内大学大学院の外国人留学生向けの英語による国際関係論の講義は大変面白く感じることができました・・。
そしてその後職を得た九州においては留学生、外国人教員、PDが多く、今考えてみますと大変良い環境であったのではないかと思います・・。
ともあれ、現在また求職活動を継続しておりますが、どの様な場所においても、自身の用いる言語、文体、思想を客観視するための道具としての英語とは、なかなか重要ではないかと思います。
しかしながら、現在小学校低学年あるいは小学校就学以前から英語を勉強させようとする風潮は「少し違うのではないか?」と思いますが、どうなのでしょうかね?」

A「どうもありがとうございます・・(笑)。
Bさんの英語遍歴については以前伺ったものと同様でした。さて、私もたしかに英語を勉強する前段階において、とりあえず母国語である日本語に習熟する必要があるのではないかと思います・・。
正直、以前は漢文や古文などはカビの生えたような役立たずの代物と思っていましたが、何だか現在の様な御時勢になるのであったら、もう少し敬意と熱意を持って勉強しておけば良かったと思いますね・・(苦笑)。
しかし、こういった風潮で思い出すのは決して誹謗、中傷のつもりではないのですが、ハングル文字により漢字の記憶を大幅に失ってしまった韓国です。
それはそれで歴史の流れであり仕方ないのかもしれませんが、そうなるとPCなどの普及は確実且つ急速に我々の漢字の記憶を風化させていますね・・(苦笑)。」

B「たしかにそうですね・・そして、それは仕方ないことなのでしょうか?」


2015年11月3日火曜日

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力について

A「どうも、お久しぶりです。その後お元気でしょうか?」

B「うん、まあどうにか元気でやっていますよ。
とはいえ最近はずいぶん寒くなり朝晩が少し辛くなってきました・・まあ、毎年のことだけれども(笑)。」

A「ええ、私も様々なところに住んできましたが、どこでも冬の寝起きが辛いことには変わりがありませんね(笑)。」

B「まあ、よほど南の方に行けば、また話は別かもしれないけれど、そうすると今度は昼間の暑さが辛いことになりかねないからねえ・・(笑)。」

A「ええ、そうですね。
そう考えますと、案外日本列島は特別に寒くも暑くもない、すごし易いところなのかもしれませんね。」

B「そうだね。
多分地域によって若干のブレはあるかもしれないけれども大体はそうじゃないかな。
あと前の君のブログに書いてあったけれども日本列島は火山が多くて、その副産物・副次的要素として温泉も多いのだけれど、この季節になるとまた温泉が恋しくなるね(笑)。」

A「そうですね・・私も鹿児島市在住時は週末に市内の温泉に行っていました。鹿児島は県内に多く温泉があり、市内中心部に近いところにもあります。ただ、それが愛媛、松山の道後温泉の様に古来より高名であったり観光地化されていないことから、何といいますか、地元の人々の日常生活に溶け込んでいるのです。ですから、これが今後観光地化してしまいますと、おそらく地元の人々は反対するのではないかと思います・・。」

B「へえ、鹿児島で温泉と云えば霧島や指宿が有名だけれども、市内にも温泉があるんだね。」

A「ええ、そうです。しかし道後温泉ほど古いものではないと思います。
それに特に九州南部はある程度の深さの穴を掘ると温泉が出るいわれていますから・・。
しかし現在の状況に立ち戻りますと、そこまで遠くなくていいですので、伊豆あたりの温泉に行ってみたいですね・・・(溜息)。」

B「伊豆ですか・・いいですね。
そういえば伊豆半島はフィリピン海プレートに属していて、これは日本列島でもここだけなんだよね。
それが原因かどうか分からないけれどもあそこはまた自然風土が何だか独特だよね(笑)。」

A「ええ、科学的ではないかもしれませんが、一般道で小田原、真鶴あたり通過し、静岡県に入りしばらく走りますと何だか空気が違ってくるような気がします・・。
そして同時に植生もまた南方的な横溢さを示すようになるのではないかと思います。」

B「なるほど確かに伊豆半島の空気や植生は関東とはどうも違うよね・・。そういえば前の君のブログでも似たようなことが書かれていなかったかな?」

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱の論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市の石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。
そして、この考えに銅鐸、銅剣、銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」


2015年10月31日土曜日

20151031 音楽、映画などについて【要修正】

A「どうも、その後お元気ですか?あとタテのものを横にする作業は進んでいますか?」

B「タテのものを横にするですか・・なるほど、面白いですね(笑)。ええ、一応メインの応募先はあくまでもアカデミアです。最近は私の様な変則的な履歴の人間も必要ではないかと思われるのです。また、その筋一本の正統な研究者の方々に対しても特にルサンチマンやコンプレックスは持っていないつもりです。もちろん、私は自分に満足している訳ではないのですが、同時に変った経験を割合多くさせて頂いたとも思いますので、むしろありがたいくらいです。ただ、そこで問題なのはその経験のより多くの部分を活かすことのできる職を自分で見出せていないということなのです・・(苦笑)。」

A「ええ、たしかにBさんの様な履歴は珍しいと思います。
それが良い方に活かされる職に就けるといいのですが・・。そういえばBさんは博士課程時の専攻の職に就く気はないのですか?それがあれば一番良いと思うのですが・・。」

B「ええ、たしかに以前はそう思っていました。また、昨年の春にそういった話もありましたが、残念ながら採用には至りませんでした。さらに私の場合は元々文系ですから、しばらく研究分野、分析機器、材料から離れた環境にいますと、いわゆる応力緩和(笑)が生じて、現在となっては以前からそうでしたが、かなり能力も怪しくなっているのではないかと思います。云ってみれば、南極物語でタロ、ジロを迎えに行ってみたらジロは野生化していましたという様な感じではないでしょうか(笑)?あるいは「唯これ天にして、汝の性の拙きを泣け」といった感じなのでしょうか・・?あるいは人によっては「親の因果が子に報い」のつもりなのかもしれません・・?ともあれ、この件に関しては一時期多少怒りを覚えましたが、その後就職出来ましたし、イヤなこともありますが同時に手応えもまた感じますので「まあ仕方なかったのかな・・」とも思えるようになりました。ただ、このことで今後理不尽と思われることをされましたら、その時はまた考えなければならないのかもしれません・・。」

A「ああ、そのあたりの事情の詳細は以前お聞きしました・・。それでもBさんは文系の院には当初から行きたかったのですよね?」

B「ええ、そうです。今考えてみますと、あの頃は遅蒔きの青春でした・・(笑)。私は学部時代には好きな数科目以外は部活動のために通っていたようなものでした・・。しかもその部活動についても私はあまり運動神経、センスが良い方ではなかったので、どちらかといえばダミーチームで赤いメッシュを着てプレーをしていることの方が多かったです(笑)。
しかしそのお陰で体力がつき暑さに強くなったのではないかとも思います・・(笑)。そして部活を引退した後、読書の趣味が再燃し、またある程度難解な書籍も読めるようになっていることに気付いて、さらに拍車が掛かった次第です。加えてこれは周囲の人達からの影響も大きかったですね・・。
それでまあ「院に行ってもう少し究めてみよう。」と思うようになりました。また、私は小さい頃から映画「インディ・ジョーンズ」やマンガ「マスター・キートン」などが好きでしたので、そういったのが基層としてあったのではないかなと思います。ちなみにフィールド・ワークや学会発表に出る時、私は「インディ・ジョーンズ」のテーマをかけて気分を盛り上げていました(笑)。

A「遅蒔きの青春ですか・・なるほど、たしかにそうかもしれませんね・・(笑)。それにしてもBさんのそういった趣味、傾向はわかります(笑)。それは現在でも変っていませんか?」

B「いえ、それはもう大分落ち着いてしまったのではないかと思います。それに現在は首都圏在住ですから音楽を聴く環境となる自動車を運転する機会は殆どありません。しかし確かに和歌山在住時は自動車運転の際によく音楽を聴いていましたね・・。ああ、それで思い出すのは、院のある行事で何人かが私の車に乗ることになり後部座席に座った方が車中でかけたクラシックの曲名を大体言い当て、演奏時の技術的な特徴を的確に指摘されたことです。そしてその中で「曲名がわからないけれどもとても良い曲である。」と指摘された曲があります。これは当時の私も曲名が分からずに映画「ジェファーソン・イン・パリ」のBGMで用いられていて良いと思ったのでサントラを借り、パソコンに「ジェファーソン・イン・パリ」の名前で保存していたものです。そして、この曲はバロック期の作曲家アルカンジェロ・コレリという人の「ラ・フォリア」という曲でした。また、後で知ったのですが竹山道雄がこの曲のことをどこかで書いていました。」

A「はあ、そんなことがあったのですが・・。そういえば、そのジェファーソンとはトーマス・ジェファーソンのことですか?」

B「ええ、そうです。この映画は、確かフランス革命直前のトーマス・ジェファーソンがアメリカの駐仏公使をしていた頃を舞台にした映画です。」

A「はあ、そんな映画があったのですか・・それは面白そうですね知りませんでした・・。それにしてもBさんは主人公が異郷にいる映画がなんだか好きですよね(笑)。」

B「あ、確かにそうですね(笑)。先程の「南極物語」もそうかもしれませんし・・(笑)。それで今、不図思い出したのですが、続日本紀に記されている称徳天皇の頃の話で元々紀伊国の名草郡片岡の里の出自であった大伴部某が東北での戦に敗れ数代にわたり蝦夷の捕虜、俘囚であったのが朝廷の東北進出を機に脱出、再度朝廷に帰順を願い出て、それが聞き届けられたという話があるのですが、この片岡の里とは、現在の和歌山市の刺田比古神社周辺なのです。この神社の境内には岡の里古墳というのがあり、紀伊国在住の大伴氏のものであるとされています。また、それ以前にこの刺田比古とは大伴狭手彦のことであり、それらのことからまあ、古墳時代からこの辺りには大伴氏が住んでいたようです。しかし、この続日本紀の記述と刺田比古神社、岡の里古墳を結びつけた記述はこれまでに読んだ記憶がありません・・。ともあれ私は和歌山市に行きますと、大体この刺田比古神社に参拝に行きます。何故だかよくわかりませんが・・。しかしそういうのはあまり理由を考えても仕方のないことなのかもしれません。」

A「ええと・・刺田比古神社は知っていますよ。有名な八代将軍徳川吉宗のことを調べますと、大抵その出生後すぐのあたりで出てきますね。現在でしたらたしか巨石と陸奥宗光の銅像と機関車のある岡公園の近くにあるところですよね・・?」

B「ええそうです。そういわれますと大伴氏の末裔は「岡」のつく苗字の方が多いのかもしれませんね。あと和歌山でしたら和佐という苗字も大伴氏の後裔です。これは三十三間堂の通し矢で有名な和佐大八がそうですね。ですから和歌山は旧国造家の紀氏が現在も神主として存続しているという意味で出雲、熊本と似ているのですが、同時にその周辺に古来よりの神社もまた、さりげなく存続しているという意味で大変貴重であり且つ面白いと思います。」

A「はあ、なるほど・・日本も見ようによればなかなか面白いですね(笑)。」

B「ええ、私はそう思っています。」









2015年10月30日金曜日

20151030 竹山道雄著「昭和の精神史」講談社刊pp.113-119より抜粋

米国戦略爆撃調査団の証言記録によると、終戦当時の陸軍参謀次長の河辺虎四郎中将はつぎのようにのべている。
―参謀次長として、私は最後まで戦ひ抜くといふ意見を堅持してゐました。
今でもなほ、われわれは最後まで戦ふべきであつたといふ信念に変りはありません。
・・私は、たとへわれわれが上陸軍に痛撃を与へたりすることができないにしても、いな戦局がもつと悪化して重要地点を上陸軍に占領されても、第二のドイツとなる犠牲を払はうとも、とにかく戦争を続けるべきであると考へてゐました。

問―最後まで、とにかく抗戦するといふことが、陸軍全般としての態度なり意見だつたといはれるのですか。それとも、それは上級指導部の考へ方だつたのですか。

答―それは大体全陸軍を通じての考へ方であつたといへると思ひます。
・・私にあの時やめたのが正しかつたのか徹底的に抗戦した方が正しかつたのかは分りません。しかし、私自身に関する限りは、あくまで最後まで戦つたでせう。―

このような熱情を抱きながらも、この将軍は国策の終戦決定には従ってそれ以上の妄動はしなかったのだから、武人としての進退を非難されるところはないと思う。
しかし軍人が団体としては、その狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずったことは否定できなかった。
もし軍人がはじめから、このような武人精神はいだきながらも、しかもなおそれが守るべき限界を守っていたらどんなによかっただろうに、と残念である。
戦争終結は真にむつかしいことだったのだろう。
全国民は鼓舞され、勝った、勝つ、ときかされていたのだし、無条件降伏の宣言は発せられていて降伏すれば亡国と考えなくてはならなかったのだった。
そして陸軍はまだほとんど毀れない戦闘力を擁していて、責任からも面目からも不敗の信念からも、あくまでも戦おうとしていた。
その視野は狭く、その闘志ははげしかった。このころのアメリカ人が戦局をどう見ていたかを、リップマンの書いたもので読んだことがあるが、むこうにも厭戦気分はみなぎり日本の戦力を過大評価して、ことによったら波打際で撃攘されはしないかと心配していた。
「陸軍が自信を喪失するまでは終戦をはかることはできない。
うっかりそれをくわだてれば逆効果となって、平和のくわだてそのものが一掃されてしまう」―米内海相たちは層考えて時機をはかっていたということである。
このあいだにも、たくさんの将士が仆れていった。実に痛ましいことだった。
特攻隊や「七つボタン」は真に悲劇だった。あれがナチスのような人間奴隷視から生まれたのなら、まだしも救いはあるが、日本の場合はそうではなかった。
絶体絶命の窮余の戦術だった。その責任者の大西中将は自刃した。そして、あのくわしい日記「戦藻録」をつづった宇垣纏海軍中将は、みずから八月十五日に「まだ停戦命令がでてゐないから」とて、沖縄に特攻突入した。そのときのことを、この日記のあとがきにつぎのように記してある。
―参謀長は列の先頭に立ってゐる七〇一空大分派遣隊指揮官伊藤大尉に、
「指揮官、命令は五機の筈だったが・・・」と言ひかけると、伊藤大尉は若々しい頬を紅潮させて怒鳴った。

「長官が特攻をかけられるといふのに、たった五機で出すという法がありますかッ。

私の隊は全機でお伴します。」

これをきいた長官はツト前におかれた台に立って、

「皆、私と一緒に行ってくれるのか?」

「ハイッ」間髪を入れず、全員は返事と共に一斉に右手をふりあげた。かれらの純潔な心は死所を得る喜びに躍ってゐるかのやうであった。
「有難う」―

この出撃前の光景が写真にとってある。まことにこれこそ日本軍の光栄と悲惨だった。
それはまれにみる忠誠で勇敢な軍隊だった。
ただその一部の者が現実とずれた世界像に憑かれて、ほしいままの行動に奔ったために、あたら全体が国を亡ばすためにはたらいたようなことになった。
たしかに日本の軍隊には暗いところもたくさんあった。
戦後になってそれをいやというほど聞かされた。
しかし、いま多くの人々は、戦争の悪と軍人の悪とを混同しているように思われる。
また、その末期の症状を日本軍の本来の姿と考えているような気がする。
外地ではたくさんの残虐行為もしただろう。
しかしそれはおおむね戦地の昂奮や、あてのないひさしい駐屯での精神のバランスを失ったり、また相手がゲリラ戦闘員と非戦闘員の区別がつかなかったりしておこったことだった。すくなくともナチスのしたようなことはまったくなかった。あのような冷酷な計算による悪魔的な所業はなかった。内地でも末期になるほど感じのわるいことがあったが、しかしあのころは世の中全体が半ば発狂していたのだった。平常時の標準ではかることはできない。これらのことを弁護できるというのではないが、ただあれは満州事変以来じつにながい、目的も目途もはっきりしない、あてのない戦争だった。末にいたっての困難は言語に絶した。どんな軍隊でも、ああなったら頽落しないではすまなかっただろう。
しかも現代の戦争にはますます人間性は失われて、昔の騎士道も影がうすくなり、多くの国の軍隊が今までにない荒廃ぶりを示した。
すべての軍隊に軍隊固有の悪ともいうべき「真空地帯」があり、下士官気質といったようなものは単純な人々がおち入りやすい世界共通のものである。
私はドイツ軍の末期症状について呼んで、敗戦とはかくも似たものなのかとおどろいた。―戦後の日本軍隊への糾弾には、右のようなことがあまりにも酌量されていないと思われる。かつての日清・日露のころの日本軍の振舞は、世界で敬意をもって取沙汰された。
そのころとてもちろん暗い影はあっただろうけれども、今回とはちがっていた。
マッカーサー元帥は「同じ国の軍人とは思えぬ」といったとか。
(そして、いささか突飛な連想だけれど、日本婦人もわれわれの母親の年代の人といまの若い人では、同じ国の女とは思えぬほどにちがっている。軍人と女が別者になったのなら、国は変わったといえるにちがいない)。
私には、松井大将が死刑になる前に教誨師に語った感想が、歴史の本体を道破していると思われる。「国が変って、若い者が血気にはやって、とうとうこんなことになったと思うのです」この「若い者が血気にはやった」というのは、上述の第二期において中堅以下の軍人が政治意欲をもって、性急な実力行動にうったえたことをいうのであろう。
軍隊が独立した意志をもってそれを強行すれば、いかなる制度もそれを制することはできない。統帥権がどこにあろうと、それは問題ではない。最近にドイツで国防軍をつくるにあたって、統帥権の所属が問題になっている。それを大統領においても、首相においても、議会においても、軍部においても、ヒットラーの再出現をふせぐきめ手はない。軍隊を思想的にリードする者が出れば、それが勝つにきまっている。いまの自衛隊とて、もしそれが左右いずれのイデオロギーに染まれば、それが国を引きずることになろう。
日本では軍隊が無形無名の下克上のうちに政治化したのだった。まことに歴史に稀な例だった。それで、ヒットラーのように演説によって国民を納得させて、その総意を手中に収めることによって、かつて自分を弾圧した軍隊を支配するという、まわり道はなかった。
多く問題にされた統帥権の独立は、その歴史的由来にはあるいは封建制の温存があったのかもしれない。おそらく日本が英米仏のような近代民主国家として出発しなかったことを反映しているのだろうが、それはその出発当時の条件からきたことであって、軍が独立して政策を遂行するという規定をしたものではなかった。これが意識の中に顕在化したのは、軍縮問題の以来のことであって、それまでいわば眠っていた、あれこれの現象はあっても、それは歴史をうごかす力ではなかった。それ以後、政治化した軍人はこの「兵力量の決定と統帥権の独立」という難問題を活用した。そして、これを手がかりにして覇権を握った。総力戦時代の現代では、戦闘力のための統帥権ということを拡張解釈すれば、どこまでも拡張できた。統帥権の独立をもって、ただちに旧体制がファッショだったということはできない。もし軍があのように政治化しなかったら、たとえ統帥権が独立していようとも、またいかに軍部大臣の資格が制限されていようとも、問題はなかったろう。しかし、軍があのような団体精神に憑かれた以上は、たとえ統帥権がどこにあろうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、ああなるほかはなかったであろう。統帥権の問題が日本の命取りとなったのはそれが原因だったのではなく、むしろ結果だった。決定的だったものは、制度という前提条件ではなくて、そこにはたらいた意志だった。
昭和の精神史
昭和の精神史
ISBN-10: 4061586963
ISBN-13: 978-4061586963
竹山道雄




2015年10月28日水曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284-294より抜粋20151020

夢と芸術との関係は昔から注意されてきて、古いところではアリストテレスが、芸術家や哲学者が作品を生み出す際に、しばしば夢に教えられることがある事実を指摘している。
こうしたことを重要視するのは危険であるが話の順序として、夢を見ていわゆる「無意識的創造」を行ったと伝えられる芸術家の実例をあげよう。
ベートーヴェンは友人あての手紙のなかで書いてある。
「僕はウィーン行の馬車の中で眠った。夢のなかで、僕は遠い国へ旅をしシリヤにもインドにも行き又帰国し、最後にはイエルサレムにも行った。聖都は聖書のことを憶いださせた、と同時に、僕はカノンを考えついた。
目覚めるともうそれは消えてしまい、どうしても思い出せなかった。けれども翌日同じ馬車で帰る途中うつつに夢のなかの旅をつづけてみると、連想のおかげで僕はそのカノンを思い出した。僕はメニエライがプロチウスに飛びついたようにそれに飛びつき、三声にわけて歌わせることにした」。
リヒャルト・ワグナーも自伝のなかでこう書いている。
「死ぬほど疲れきって、私はぐっすり眠ろうと固い寝床に横になった。けれど眠れなかった。やがて私は夢遊病者の状態におちいった。不意に、私は急流に沈んでゆくような気がし、そのくだける音が変帆ホ長調のように思えた。
それははげしく流れて比喩的なオルペドウロになった。
私は波頭が私の頭上高くうちあうのを感じながら現つの夢から目覚めた。自分がうまくゆかないで苦しんでいた「ラインの黄金」の前奏曲を幻に見ていたのだ」。
もっとも著名なのはタルティーニの場合であろう。
老後彼が語ったところによると、彼は悪魔に魂を売った夢を見、悪魔に自分のヴァイオリンを手渡してみた。
「ところが実に驚いたことに、悪魔が完璧な腕前で演奏するのを聞かされたことです。
そのソナタは私の想像がいかに大胆に天空を馳せたとしても、到底太刀打ちできぬほどいみじくも美しいものでした。私は歓喜し、我を忘れ、魔法にかかったように思いました。私は息もできず、そこで目が覚めたのです。
私はヴァイオリンをとり、今聞いたあの曲に比べればどのくらい劣っているかわかりません」。
画家としてはラファエロの話をブラマンテが伝えている。「ある夜ラファエロは、それまでもしばしばあったように聖母に祈る夢を見、感動して目覚めた。闇のなかに、彼の寝台の前の壁が映っていた。よく見ると、壁には未完成のマドンナの姿が優しい光につつまれ、完全に、また生けるがごとく懸かっていた。その神々しさは云わんかたなく、その姿は今にも動くかと思われた。否、本当に動いていると見えた。しかし特に驚くべきことは、ラファエロが生涯求めていたもの、彼がおぼろに予感していたものが、その像の中に見出されたことである。彼がふたたび寝たかどうか憶えていないが、翌朝起きた時は生まれ変わったようだった。
なぜなら、その面影が永久に彼の魂と感動のうちに感銘されたのだから。こうして彼は聖母を心深く宿る姿に描くことができた」。作家の例は枚挙に暇ないが、ヴォルテールは「アンリアード」第一部の変形を夢にみた。
「私は目覚めていてはいえないようなことを夢を見ながらいった。こうして私の理想のあるものは私の意志でなく私の方から働きかけることなくしてできあがった」。
またプーシュキンは次のように語る。
「私はエゼキエル書の断章をよみ、ふかく心を打たれました。私が「予言者」のなかで言葉を変えて歌ったのはそれです。その断章は数日間頭にこびりついていましたが、ある夜私はその詩を書きあげました。私は起き上がって書き出したのですが、どうもその詩の言葉は夢に見たものとしか思われません」。
別の箇所で彼はこうも述べている。「時折、夢の間に不思議な詩の文句を見つけます。それは夢ながら素晴らしいものです」。そのほか、コルリッヂは夢から「クーブラ・カーン」を作り、ドストエフスキイは主人公たちやある場面の夢をみて「未成年」を書く気持を起し、トルストイは短編「何を私は夢に見たか」を書いたと伝えられている。
だがはじめに述べたように、こうした例を誇大に評価するのは間違いである。人々は素朴に天才たちを讃えるために、誇張して語り伝えたという点を考えねばならない。
エリスも「実際の睡眠中に時として行われた天才人の創作活動や、彼らが夢のなかでうけた暗示などに言及する必要はまずあるまい」と述べた。
たとえばコルリッヂの詩の場合にしても、実は阿片の影響の下であって、正常な睡眠中になされたのではないと仮定してもよいこと、タルティーニの場合でも、その曲が夢のなかでつくられたと断定する根拠はいささかもないことを指摘している。
ただこれらの挿話から、いかに彼らの自我が強く欲求していたかということ、彼らがやがて産みだそうとしていたものにたして彼らの魂がいかに意欲し模索していたかを感じとって頂ければよい。

彼らには強烈な力が内在していた。だから夢を見た。偶然夢があって何物かが生まれたのではなく、事実はその逆である。通俗的に好んで伝えられるインスピレーションなども同様である。手をこまねいて天からおとずれるものなどありはしない。たとえ本人自身が意識していないにせよ、彼の無意識ないし不意識が長い間求め、もがき、探り、そして感じとった産物なのである。
夢は一つの象徴であり、波間にあらわれた氷山の一角にすぎない。海面下に沈んだ膨大な部分のあることを忘れて、これらの話をうけとっては皮相な見方をまぬかれないであろう。
 ここで触れねばならないことに、夢の目的の問題がある。フロイトはすべての夢を過去の願望の象徴と考えたが、ユングなどはこの解釈は後向きのものであり、もう一つ前向きの解釈がなされてよいとしている。
前向きの解釈というのは、未来にむかってなんらかの目的をもつというので、それでなければ前述の創造現象を説明することがむずかしい。

空想ということになると、さらにこの傾向は強くなる。

 空想は覚醒時の現象であるから、夢と同様の産物であるにせよ、もっと現実性がいりこんでいて、もっと意識的のものである。
われわれは現実に直面して不満をもつものであり、架空の世界に逃げこみ、かりそめの満足を求める。

ひとり取り残されたシンデレラと同様、田舎者は都会を夢み、腹のすいたビフテキを頭に描き、旧軍人がふたたび無敵皇軍の威容を思うなど、食欲、性欲、権勢欲などを満たそうとする。



これが行動の面にあらわれたのが子どもの遊びで、彼らは葉っぱを浮かべて舟と見たて、地面に線をひいて家のつもりでいる。

空想は現実逃避にはちがいないが、ユングのいう前向きの傾向の一面を有している。子どもの遊びが、未来の生活のための目的をもっていることを考えれば、この前向きの一面が、創造というものにつながるのである。

 空想にもあらゆる段階がある。
 創造者は強烈な自我をもち、したがって欲求がつよく不満もつよい人間であるといってもいい。
彼らは現実社会に適応しにくい。

よりよきもの、より美しいもの、より真なものを求める。

またより奇怪なもの、より醜悪なもの、より罪深いものを欲求するかも知れない。
空想の世界ではすべてお束縛がとかれる。

時間も空間も無視され、はじめてわれわれは無限を意識することができる。

自由という言葉は空想の世界でのみ可能である。

「狂気したことのない人は遂に幸福を知らぬ人間だ」というラムの言葉にしても、そうした意味で受けとられるだろう。だが、いかに魅惑にみち、可能性にあふれた空想にしても、それだけでは客観的な価値はない。それは閉ざされた世界であり、そうした不毛の夢想なら、われわれすべてがなしている訳だ。これに意識的な操作が加えられ、現実性、社会性をおびてこそ、芸術作品としてわれわれの財宝にもなりうるのである。マラルメはいう。「暗示する―これこそわれわれの夢である。この神秘を完全に駆使することが象徴を構成する」。

創造の母体はあくまでも「夢」であり、創造者の秘密をとくになんらかの意味で、夢、幼児、無意識といった問題にふれないわけにはいかない。
彼らが空想にふけりやすいところは幼児に似ている。性格的には分裂気質、内閉的といったものと密接につながっている。

 創造的空想が、視覚、嗅覚、聴覚などから誘導されてくることは多くの実例がある。シラーはいう。「最初に情緒のある音楽的基礎があらわれる。」ついで詩的観念が生じてくる」。
クライストは、音楽が自分の思想に言葉の衣服を着せる基礎だ、と述べ、レーピンはリームスキイ・コルサコフの音楽から「イワン雷帝」の題材を得た。
コンドラーチェフの画法は、「なにか曲が奏でられ、まだ写実的乃至空想的な形象が視覚に浮んでこないうちは、リズムを線で画く」ことで、「メロディはどれも各その一定の色」であらわされた。またアセスは「リズムをつけて手足を交互にふるダンサーの絵を見て」オペラ「ラゴルスキイ王」を作り、真赤なケシの花からコルサコフは「カシュチュイ」を作曲せずにいられなかった。嗅覚の例としては、腐敗した林檎の香とシラー、松露の香とバイロンなどがあげられよう。空想から作品が生まれる創造の過程をドストエフスキイは苦役と呼んだ。彼の兄宛の書簡。「兄さんはそんな理論を持たれるか、そんな場面を大急ぎに書き上げねばならないと考えるか。どこもかしこも大変な労作なのです!プーシュキンの軽快な数行の詩も、易々書かれていると見るまでには、どのくらい長く推敲し書き直したかわからないのです。―私はたとえばある場面をすぐ書き上げても、数ヶ月、一年以上も書き直しに要します」。ショパンはサンドの伝えるところによると、或一音の変転のために数週間を身をもだえして子どものように泣いた。フロベールは一ページ半書き上げるのに十二ページを書き汚した。セロフはある肖像画を描くのに九十回ポーズを変えさせた。

どのようにして芸術が生まれてゆくかという過程を、心理学的に解明することは可能であろうか。カントは、「予定を許さぬ創造的空想の遊戯三昧」という言葉を使い、はっきりと創造的現象にたいする実験的方法を否定している。ハルトマンは「創造の根底にある無意識的作用はいかなる場合にも自己観察を許さない」といい、リーボなども大体同じ意見を述べている。これにたいしヴントはいう。「空想の研究という課題は実験の課題と思われる。実験的方法のみが、対象と空想形象との間の関係を正しく支配する条件を意のままに変化させることができる」。
いずれにせよ、科学と芸術は次元の異なる存在であって、ある一側面をうきださす照明以上の役目を果たさないことは確かであろう。
グルゼンベルグの言葉は傾聴に価する。「もし創造心理学が芸術家の創造的空想の法則に関する学となるのを願うならば、それは形而上学的仮定や誘惑的イリュージョンから離れて、似而非なる「創造心理学」の樹立が可能なることを信じてはならない」。
トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。
マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
 この小説の主人公ハンス・カストルプは単純な「人生の厄介息子」であり、低地から隔絶されたダヴォスの療養所にはびこる「病菌」の実験材料にすぎない。対立した教育者たちは、この青年をそれぞれの自分の陣にひきいれようとする。だがあるときカストルプは吹雪に迷い、雪のなかで美しくも怖ろしい夢を見た。はじめ彼の前には、明るい霧雨のヴェールの下から、深い紺青の南海があらわれる。海浜の砂地の上では美しい太陽の子らが、楽しげに子どもっぽい、同時に品位にみちてつつましく、馬に乗ったり弓をひいたりして遊んでいる。それは見ていても胸がふくらみ温かくなるような光景だった。だがやがてカストルプは背後の神殿で行われているむごたらしい饗宴にも気づく。そこでは魔女のような老婆が白髪を乱し半裸体で、野蛮な落着いた様子で嬰児を裂いて食べている。彼はもろい骨が老婆の口の中でくだける音を聞き、醜悪な唇から血がしたたるのを見た。そこで彼は目ざめるが、それらの光景をどこかで知っているような気がする。
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?誰も自分の心だけで夢を生むのじゃなくて、めいめい思い思いの見様はしても、本当は無名で共同で夢を見るのではなかろうか。ある大きな塊があり、それが僕という一小部分を通して、僕は僕なりに、いつもその魂がひそかに夢見ている事柄を夢見るのだろう」。そしてカストルプは人間の地位と本領を考え、はきりと彼の「陣」をとる。「僕は人間の地位を夢に見、また人間の礼儀正しい聡明な恭謙な社会を夢に見た。その後ろの神殿では凄惨な血の饗宴が行われていることをひそかに考えているから、太陽の子らはあのように礼儀正しく麗しくいたわりあうのだろうか?」「死の冒険は生のなかにあって、それがなかったら生は生でなくなるだろう。そしてその真中、冒険と理性との中間こそ人間の位置すべき場所である。その真中の位置にあって、人間は上品にやさしくうやうやしく自己を遇さねばならない。なぜなら人間だけが尊いのであって、対立する考え方が尊いのではないからだ。対立しあう考え方も人間があってこそ存在するのだ。だから人間はどんな対立よりも尊いのだ。人間は死よりも尊く、死に耽溺するには尊すぎる。知性の自由を持つからだ。また人間は生よりも尊く、生に耽溺してしまうには尊すぎる。心に敬虔な気持をもつからだ。なんだこれは詩のようだぞ。人間についての夢の詩のようだ。僕はこれを覚えておこう」。
その通り、忘れさられたように見えたこの夢は、彼の魂の底ではずっと生きつづけていた。だから彼は「大きな無感覚」から目覚め、魔の山をくだるようになるのである。
ハンス・カストルプの雪中の夢を、後ろ向きの夢、前向きの夢という観点から眺めてみてもいい。たしかに「夢」はこの二面をもっているのだ。またどんな個人的の夢であっても、それは人間というものから、社会から切り離して存在するものではない。われわれは社会の一員であり、歴史というものに規定されている。またそれであるからこそ、個人個人の「夢」も、われわれの共通財産ともなりうるのである。われわれの「夢」の中には、人間の過去、現在、未来が含まれているのだ。
かつて、夢といえば無意味なもの、はかないもの、美しいものと考えられてきた。今日のわれわれは、夢に意味があることを知っている。それが溶鉱炉のどろどろしたたぎり、生臭いもの、醜悪なもの、抑圧されたものから成っていることを知っている。だが、人間はこの暗黒の中から、獣的なものの中から、絶えず美しいものを産み出しつづけてきた。われわれは「夢」の本質に目をそむけてはならぬ。いわゆる夢幻というヴェールをおしやり、きびしい認識の照明の下にさらしたとき、そこには執拗な生体の息吹きが、さまざまのエネルギーの葛藤が見られるだろう。芸術という面だけから見れば、大多数の「夢」は不毛の自慰に終り、いくばくかのものが見事な果実を結ぶ。

ISBN-10: 4122022657
ISBN-13: 978-4122022652

なだいなだ著「続娘の学校」中央公論社刊pp.148-154より抜粋20151028

はやいものだ。もう三年にもなるだろうか。NHKの番組で、私は、ある未来学者と名乗る人物っと討論したことがあった。討論には、まだ他にも二人ばかり参加していた。番組は、一九七〇年代に、私たちの地球がどうなるかをとりあげていた。
一方では、月に人間を送りこみ、それを通信衛星で世界の人たちがテレビ画像に見るという、大きな事件のあった直後でもあった。それは二十世紀の科学の進歩を、強く印象づける壮大なショウとでもいえるものであった。
だが、他方では、あちこちで、公害や自然破壊が起こって、ようやく問題になりかけていた。そして、それが、未来に、大きな不安をいだかせていた。

討論では、今のような形で未来に進んでは、地球が回復不可能な自然破壊をこうむる、科学の進歩をとめねばならない、という主張と、現代の科学技術をもってすれば、自然と調和した成長が可能だという主張がぶつかりあった。
一方は、科学の進歩は、私たちをしあわせてにしただろうか、と科学を否定し、科学者を嫌悪する口ぶりだったし、未来学者は、こうした人たちを、頑迷な無知な人間たちと呼んで衝突した。
未来学者は、小柄な人物だったが、非常に威勢のいい、エネルギーのかたまりのような人物だった。
なにしろ、日に十冊の本を読み、百枚の原稿を書き、数回講演をしてまわると、自分のタフぶりを自慢にする人である。
こちらは、そんな話を聞いただけで目がまわる。彼のいうことは、とても勇ましかった。

「何ですと、先は暗いですと。科学の進歩など不要ですと。公害ですと。なにをこわがるのです。これまでの人類の歴史にも、いくらも困難がありましたよ。人類は滅亡するなんてさわいだこともありました。
しかし、人類は、そのすべてを克服して、現在ここにあるんじゃないですか。しかも、科学の進歩によって克服して来たんです。それなのに、科学の進歩がいけない、進歩をとめろですと。冗談いっちゃいけない。公害なんて、なぜ恐れるんです。公害があるのはたしかです。しかし、これまでに、これほどのものを作りだして来た科学技術を用いれば、公害なんてものはかならず解決できますよ。
すぐに、工場なども無公害化できます。そもそも、現在の公害だって、科学の力で、PPmを測定しているじゃないですか。
昔だったら、こんな微量の物質を測定できましたか。科学の進歩のおかげじゃないですか。それに、生産をおさえろですと、経済成長がいけないですと。それなら、どうやって、公害対策の研究費を作るんですか」

私は医者である。医者というものは、科学者のかたわれである。その討論に加わっていた、ただ一人の科学者だった私は、一方から、被告のようにとがめられ、未来学者から強引な弁護をされ、非常に居心地のわるいところにすわらされた気分だった。科学の進歩にいいところが少しもなかったといわれると、それは極端すぎやしないかねえと答えたかったが、その未来学者のように、勇ましい弁護をされると、恥ずかしくて、聞いていられない気がした。その間、議論は進んだ。

「水俣病はどうです。科学技術の進歩は、悪をもたらさなかったといえますか」

「水俣病ですか。あんなものは、公害ではないですよ。あんなのは、れっきとした犯罪です。あんなチッソなんて会社は、びしびしと取り締まればいい。
チッソと、他の私たちの生活をゆたかにしている会社といっしょにしてもらったら、困ります。チッソが悪いのを、科学技術の罪だなんていうのは、あまりの飛躍です。
人殺しの犯人が一人いたからといって、人間全体が悪で、いいところはなにもないというようなものです」

「でも、川は汚れていないですか。カドミウムや水銀で。海はヘドロで汚れていませんか。空気はスモッグで。
そのため、私たちの生活は、めちゃめちゃになりかけていませんか」


「心配ありません。それはたしかにそうでしょう。しかし、それも科学技術の進歩によって解決できます。」


「でも、それまでの間はどうしますか」


「人間には適応力があり、公害でほろびるものがあっても、かならず生きのびるものがいます。
汚れた空気も平気、汚れた水をのんでもびくともせず、生き残った人間が、二十一世紀の洋々とした時代をになうことになる。
二十一世紀の未来は、公害に耐えた、たくましい人間たちの前に開かれるものなんです。」


私は、そのやりとりを聞いていた。
議論というのは、両極端がぶつかりあった方が面白い。
中間的の立場では、議論をしても影がうすくなる。歯切れも悪い。
私は、おしっこのがまんをしていて、その方ばかりを気にしていた。
だが、私は、未来学者の主張のあまりの勇ましさに、がまんしきれなくなって、口をはさんだ。討論に来た以上、参加しなければならぬ義務感もあったからである。私はいった。


「科学技術の進歩によって、公害問題は解決できるといわれましたが、あなたに自信があるのですか」

「自信があります」

断乎とした口調で、相手は答えた。

「それで、あなたは科学者なのですか。自然科学者なのですか」

「いいえ、未来学者です。経済学を勉強しました」

私は、困った顔でいった。

「私は、科学者のかたわれです。医者です。
だが、私は自信をもって、解決できるなんでいえないのです。
たとえば、医者だからいうのですが、ある人たちは、すべてのガンの治療は一九八〇年までに、薬で克服されるといいます。
しかし、まだ、その薬は、発見されていません。
だから、これから、発見しなければならないのです。
ところが、発見には運とか偶然がつきものです。その運や偶然を、科学者としては、期待できないのです。だから、別の面でも、同じではないか、ぼくは、そう思うんですがねえ」

相手は、私を見て、情けない科学者だという顔をした。

「どうして、あなたは、悲観的なのです。ガンの研究だって、大変な進歩をしているじゃないですか」

「それはそうです。もう、あと一歩という感じです。でも、エベレストの登山だってそうでしたが、あと一歩というところまで行っても、それからが難しいのはないですか。そりゃ、いつかは解決できるでしょう。ガンの問題もねえ。それから、公害の問題も。
だけど、公害によって、人類の大半がほろびる前にそれをやれという、タイムリミットを与えられても、自信をもって間にあわせられるだろうということは、できませんねえ」

「でも、人間にだって、公害に対する抵抗力というものがあります。次の世代は、公害になれるでしょう」

「いやいや、個人の適応力には限度があります。だから、現に公害病がでているのです。突然変異で、公害に強い人間が生まれることを適応と呼ぶのです。これは不可能でしょう。世代の交替が非常に多ければ、それも考えられます。たとえば、細菌のように、一日で、数十世代も交替するようだったら。でも、一世代が二十年かかって交替するような人間に、二十年で突然変異は可能性として考えられませんね」

相手の未来学者は、私にいった。

「あんたはまったくのペシミストですなあ。よく、これまで生きて来られたですなあ」

私は、今、その三年前のことを思いだす。
そして、私は、いよいよ自信をなくしている。
まったく、よく生きていられるなあと思う。たしかに、未来学者のいったように、科学の進歩は、いくつかの公害対策の技術の開発をみちびいた。排気ガスの基準に合格する自動車のエンジンも作られた。お前たち生徒も知っているように、私は十万円も高い金を出して、その公害対策車なるものを買った。だが、依然として、東京の空気は悪くなる一方な。なんだか、そんなものは、焼石に水のような気がするのだ。そして、最近の、水銀魚事件である。海の汚れはひどくなっている。私は、三年前、何もこのんで、暗く見ていたわけではない。私は、ペシミストだったわけではない。ただ、ありのままを見ていたのだ。私は、科学の進歩を、頭から否定はしない。ただ、進歩は着実にあっても、公害のひろまりとの追いかけっこごっこで、科学に分がなさそうだと思っただけなのだ。


  • ISBN-10: 4122004675
  • ISBN-13: 978-4122004672

  • なだいなだ