2015年10月22日木曜日

20151018 大学院での希望する専攻が変化した理由について【人生万事塞翁が馬?】

A「最近何か変わったことはありましたか?」

B「・・今のところ特にありませんが、タバコを喫うのを止めてから一ヶ月以上経ちました。これははじめの方はなかなか辛かったですが徐々に慣れてきましたね・・。それで思い出したのですが小林秀雄の講演で「タバコをやめた話」というのがありましたけれど、今考えますと確かにあれに通じることがあったように思いますね・・。


A「はあ、禁煙しているのですか・・それは今後も継続すると良いですよ・・。それにしても小林秀雄の講演と通じることとは具体的にどういったことですか?」

B「ええ、それはタバコを吸わないと文章が書けなくなるということです。これは何か関連があるのではないかと私は思います。ですから喫煙が現在よりも肯定されていた時代の作家、文士の写真などを見てみますと、タバコを持っていたり、喫っていたりしているのが圧倒的に多いですよね。そのことから多分タバコは少なくとも文章による創造に対しては何かしら影響するものがあるのではないかと思われるのです・・。」

A「うーん、それはタバコを喫わないもの書きから見れば、喫煙者の言い訳にしか聞こえないけれども、それでも、もしかしたら何かしらの影響があるのかもしれないですね・・・・。しかし、そう考えるとBさんのブログは一ヶ月以上前も自作の対話形式のものがありますが、これらは禁煙以前に書き溜めたものなのですか?」


B「いえ、禁煙を始めた九月初め頃の投稿でも題名が日付のものは基本的に書き溜めておいたものではなく、その時々に作成したものです。このブログは基本的に自転車操業ですから・・(笑)。」

A「・・それでしたら、喫煙と文章の創造性との関連性があるという小林秀雄の講演の内容も、その真偽の程を知りたくなってきますけれども・・?」

B「ええ、確かにそうなりますが、それは書く内容の緻密さ世間への影響、くわえてそれが職業ですから、状況が私とは大分異なるのです。また喫煙に至るまでのストレスの量も大きく違うのではないかと思われます・・。小林秀雄は講演のなかで禁煙をして半年くらいは本当に何も書けなかったと云っていましたので、これらを同列に扱うのは難しいのではないかと思いますが・・しかし、それでも傾向として類似したものが見出されたといった程度のことです・・。」

A「ふーん、もの書きが半年間何も書けないのは確かに辛いものがあるね・・。しかし、そうすると逆にそれだけ創造力に対して影響力を持っていた喫煙に対し興味が湧くし、禁煙をしてからどの様にして再び書ける様になっていったかの内面の推移に対して多少興味がわいてきますね・・。ああ、そうだ!内面の推移と云えば、最近用事があって**大学の近くに行きましたけれど、大分前に君が「**大学のヨーロッパ文化専攻の院に行きたい。」と真剣な顔で私のところに相談に来たことを思い出しましたよ・・(笑)。」

B「いやあ・・・よくそんな前のことを憶えていましたね・・。それは今となっては半分以上忘れかけていました(笑)。」

A「あの時は私もそれなりに真剣に色々と考えてみましたからね・・。」

B「・・ええ、その節は本当にどうもありがとうございました・・。そしてその時にAさんにも「とりあえず三年ぐらい社会で働いてみて、それでも院に行きたかったらまた考えればいいのではないか?」と云われまして「なるほど、そのようなものか・・。」と納得し、それで都合約五年**で働いたわけです。」

A「ああ、そうでしたね。しかし先ほどの内面の推移に関連して面白いと思うのは、当初ヨーロッパ文化専攻に行きたがっていた君が、五年後に地域学でしたか?まあ民俗学に近い様な分野へ、その関心が移ったのは、一体どういう理由からだったのですか?」

B「それは以前Aさんにお話したかもしれませんが・・端的に云いますと南紀での生活が原因ですね。初めて住んだ西日本、紀州の風土、環境に打ちのめされ、魅了されたのだと思います。それまで私は何の疑いもなく東京、首都圏のものが一番良いと思っていたのですが・・。前のブログでも書きましたが、多分、そういった風土、環境に含まれる何かしらの要素から影響を受けたのではないかと思います。また、そこまで話しますと思い出す出来事があるのでお話します。南紀に住み始めて間もない頃、紀伊半島に台風が接近して大雨が降っていたある晩、翌日が休みということもあり、また、はじめて接する南国の大雨に変にテンションが上がってしまい、大雨の中一人で夜のドライブに出かけることにしました。国道42号線から朝来のあたりで311号線に入り、富田川沿いに中辺路、本宮方面に走り、上富田町の鮎川を少し過ぎた辺りでヘッドライトが一匹の大きなカエルを正面から照らし出しました。種類はわかりませんが、当時の私にとってそれは見たこともないような大きなカエルでした・・。私は車を降りて、雨に打たれながら、時折ノドを動かし、やけに落ち着いているこのカエルとしばし対峙していますと、何故だか言い知れぬ畏怖らしきものを感じまして、そのカエルに御辞儀をして、再び車に乗り、来た道を直ぐに戻ることにしました・・。まあ、それだけの話なのですが、あの時は何故だかそうしなければならないと思ったのです・・。ああいう感覚は今では感じませんが、南紀に居た頃は何故だかわかりませんが、時折そういうのを感じました・・。一体ああいう感覚は何なのでしょうかね?しかし、それでも、今となっては特別に紀州に住みたいとは思いませんけれども・・。」

A「そのカエルの話は初めて聞きましたけれど、何だか土着の民話みたいで面白いですね。あるいはまんが日本むかしばなしを彷彿とさせます・・(笑)。それで、その話に何かオチみたいなものはあったのですか?」

B「いえ、オチという程のことでもありませんが、その後知ったのですが、丁度、車を降りた場所あたりから形の良い小さな山が見えまして、この出来事で、私は勝手にこの小さい山をこの地の神奈備山であると考えるようになりました・・(笑)。あとはその後に古代史をある程度勉強してみますと、この上富田町が紀伊半島西側の銅鐸出土地の最南端であることを知り、何だか不思議な偶然を感じました・・・。あとは同じく南紀在住時にサイクリングをしていて迷い込んだ場所が、古来より雨乞いをしていた場所であることをその後勉強をしていた時に知りました・・。この様なことはすべて偶然であり、また、南紀ではこういった伝承、伝説はよく調べれば至る所にありますので、特に不思議ではないのかもしれません。しかし、そういう場所に何回か引き寄せられたことは「もしかしたら何かあるのかしれない・・。」と考えさせるにも十分でしたね。そしてそういったことの意味、内容をその後に考えるための思考の枠組として、先ほどの以前より凝っていたヨーロッパの歴史、文化に関しての知識、考え方などはかなり役に立ったのではないかと思います。
しかしまた、現在では、そういった方法によってのみでしか母国日本の地域学、民俗学に対しても効果的なアプローチできないのかもしれません・・。そしてこれまた小林秀雄ですが、それと同じ様なことを書いていました・・。これは我々明治以降の日本人が持つ悲しい宿命であるのかもしれません・・。」

A「なるほど、それでどうにか話がつながりましたよ。それは人生万事塞翁が馬ということでしょうかね・・?」

B「ええ、そう願うところですが現状ではなかなか辛いものがありますね・・(苦笑)。」

A「まあ、それは分かりますがもう少しがんばってみてはどうですか?」

B「ええ、どうもありがとうございます。そうしてみます・・。」

20151021 自然環境と人間についてを基軸とした雑談

A「最近少し朝晩が寒くなってきましたが、お元気ですか?」

B「ええ、まあどうにかボチボチとやっております。
最近の良い出来事は一日のブログの閲覧者数が300人を越えたことぐらいでしょうかね?つい先日200人を越えたばかりでしたので、これは少し嬉しかったです。」

A「ああ、そうですか、それは良かったですね。そういえば、私も先日Bさんのブログを読ませてもらいましたけれど、それに書いてあった朝鮮人参、高麗人参の話とデンマークのとある地方の風習の話は以前Bさんから聞いたことがあったような気ががしましたけれども・・?」

B「・・・ええ、そうです。あの話はAさんが**に在住時、私が訪ねた際での会話に出たのではないかと思います。
あの時Aさんに日露戦争の時のロシア人捕虜の墓地や高名な**温泉のあの建物なども御案内して頂いて大変楽しかったです。しかし同時に、そこから鹿児島に帰るのに、えらく時間がかかったことも思い出しますね・・。フェリーで豊後水道を渡り九州に渡った後、日豊本線の臼杵駅から指宿枕崎線の宇宿駅まで行くのは本当に長く感じました(笑)。宮崎駅に着いた時に「こんなに時間が掛かるのか」と思ったくらいでした。確か駅構内のドーナツ店に入り、しばらくボーっとして電車待ちをしていた記憶があります(笑)。」

A「うん、私も宮崎はあまり行ったことがないけれど、あそこは南北に長いから、北と南では大分文化が違うんじゃないかな・・?」

B「ええ、多分そうではないかと思います。また、県南部と云いましても全てが旧薩摩藩文化圏というわけでもなく、日露戦争時の外相である小村寿太郎の出身である県南部に位置する飫肥藩などは、どちらかというと鎌倉時代以来ずっと薩摩の島津に抵抗してきた様なものですから・・っと、まあ、それを云いましたら薩摩と肥後の境にある人吉の相良氏などもそうなのですが・・。とにかく、あのあたりの文化圏は現在でも結構複雑なのではないかと思います・・こういうのは、なんだかヨーロッパにおけるスイスみたいな国を想起させますね(笑)。」

A「ああ、小村寿太郎はたしかに飫肥でしたね。そういえば先日読んだ本に書いてあった小村寿太郎の「日本人はとりあえず石を投げればその方向に行くからいい。」というのと戦争直後にマッカーサーが「日本人は12歳の子供である。」と云った内容は案外同じようなことを云っているのではないかなと最近不図思いましたね・・。」

B「ええ、それは多分仰る通りではないかと思います・・。
それで、また話は飫肥に戻るのですが、面白いことにこの飫肥藩の藩主の伊東氏というのは、天正遣欧少年使節の一人、伊東マンショの実家であり、またその元々の出自は静岡の伊東あたりの豪族でして、多分、源平合戦以後の九州にある平家没官領に入植した東国御家人ではないかと思いますが、この地域に土着した経緯なども面白いことに薩摩の島津、人吉の相良氏などと共通しているのではないかと思います。
ですから、あのあたりの武家文化というのは在来土着の南方的色彩の強い隼人文化と、後に移住した鎌倉御家人的な文化が様々な次元で拮抗、混交して出来た、まあ、一種独特、合金的なものであり、さらに云いますと、こういったことは各地方、地域においても同様にいえることではないかと思います。それ故、現在テレビなどで「サムライ」と横文字の発音でかっこよくスマートに云える様なものでは決してないと思うのですけれどもねえ・・。そして現在の我々の社会に見られるそういった傾向こそが先程Aさんの仰った小村寿太郎、マッカーサーの発言につながるのではないかと思うのです・・・。さらにこういった意見、発言を鷹揚に許容できない社会とはトーマス・マンが亡命の地で嘆いたナチス政権下のドイツに近いのではないかと思います。しかしこれは単なる思い過ごし、杞憂であって現在の日本はそこまでひどくはないのかもしれませんが・・・。」

A「うん、なるほどね・・云いたいことはなんとなく分かります。しかし、多くの時代を通じ経済活動などはそういった深度からつき動かされている場合の方が多いのではないかと思いますから、まあ、それはそこまで観念的になり、そして悲観的になることもないと思います。しかし、同時にこの様に「大丈夫ではないかな?」と思っていたら、いつの間にかよくわからない体制になっていることも実際にありますので、君の様に気を付けなければいけないのもまた事実だと思います・・。それにしても飫肥藩の伊東氏は元々静岡の伊東の出身だったのですね・・。それは初耳でした。・・・それでもたしかによく考えてみると四国においても類似した例はありましたね・・。京都の公家が土着して豪族化したものや、先ほどの例と同じく東国の御家人でそうなったのもありました。・・そしてそういった地域における時代文化の層の積層の過程などを調べてみると地域の歴史や文化などもより明確になり、面白いものになってゆくのかもしれませんね・・。」

B「ええ、それはまったく仰るとおりであると思います。
それにしても伊東で思い出すのは以前Aさんとレンタカーで伊豆半島一周したことですね。あれはなかなか面白かったです(笑)。どこでしたか、途中の漁港にある食堂で食べた金目鯛の煮付けと鯵のタタキ(なめろう)はとても美味しかったですね・・。あと、最近知ったのですが、満州事変の時の総理大臣であった若槻禮次郎の別荘が伊東にあった様なのですが御存知でしたか?」

A「いやあ、それは知りませんでしたね。しかし、あの辺りは戦前からそういう人達の別荘が多かった様ですからね。多分、東京に程近く、気候が温暖で、温泉があるからじゃないでしょうかね?」

B「・・なるほどです。ええ、確かに温泉は大事であると思います。私もこれまで何の偶然かわかりませんが、温泉がある場所に多く住んできましたが、今考えてみますと温泉は周辺の自然環境とセットと云いますかパッケージなんですね。
ですから多分、その温泉の泉質が持つ独特の空気、雰囲気がそれぞれの温泉街、地域文化の重要な部分を形成しているのではないかと思います・・。」

A「ええ、そうですね。たしかに温泉の湯気が持つ独特の香りは、その温泉での記憶を想起させますね・・。」

B「ええ、そうです。これを現在の科学技術を用いてリアル、精巧に再現した入浴剤を作ってみたら国内外で結構売れるのではないかと思いますがどうでしょうか・・(笑)。」

A「うん、それは実際に出来るかどうか分からないけれども、面白いかもしれませんね(笑)。」

B「ええ、それでもよく考えてみますと、この温泉とは、火山列島である日本の正の要素であり、そこから日本人の風呂好き、ひいては清潔好きといった特性は、根源的にはここから生じたのではないかとも考えられます・・。そしてさらにそこから精密工業などの清浄性が要求される工業などの発展が促されたのではないかとも思います。その意味において現在の特に首都圏、東京におけるマスク好きの傾向などは、何だかこれまでの日本における自然の恵みに基づいた清浄性の観念とは異なった、あるいは行き過ぎたものに見えてしまうのです・・。自然からの影響の排除を徹底することは、ある意味、自然の一部としての人間性自体を知らず知らずに掘り崩す行為なのではないかとも思えます・・それは結果的に人間を惰弱にし、外来からの侵襲を容易にしてしまうのではないかと思いますが、なんだかH・Gウェルズの「宇宙戦争」のオチみたいですね(笑)。あ、そういえば同じようなことを何処かでバートランド・ラッセルも書いていましたっけ。」

A「うーん、そういったことは私の世代では概ね当たり前のこととして肯定できるけれども、今の都会に住む人々はそういうことをもっともっとシビアにあるいは「科学的に」考えているのではないかな・・?」

B「うーん、そのようなものでしょうかね・・?」

2015年10月19日月曜日

司馬遼太郎著「歴史の中の日本」中央公論社刊pp.232-236より抜粋

徳川将軍家の大奥では、元旦に「おさざれ石」という儀式があった。

御台所は、午前四時に起床する。化粧を終えたあと、廊下に出る。廊下にはすでに毛氈が敷かれており、なかほどにタライが据えられている。そのなかに石が三つ並べられている。やがて御台所がタライの前に着座すると、むこう側にすわった中﨟が一礼し、

「君が代は千代に八千代にさざれ石の」

と、となえる。御台所はそれをうけて、

「いはほとなりて苔のむすまで」

と、下の句をとなえる。そのあと中﨟が御台所の手に水をそそぐ。そういう儀式のあったあと将軍家に年賀を申し述べる。

この元旦儀式は将軍家だけでなく、国持大名の奥にもあったという。そのもとは徳川家の創始ではなく、遠く室町幕府の典礼からひきついでいるのではないかと想像される。

明治二年(1869)、英国から貴賓がきた。それをもてなす場所は御浜御殿(浜離宮)ということに決まり、数人の英語のできる者が接待役になった。

ところで、貴賓が来た場合、奏楽が必要であった。こういう場合の奏楽のことは軍楽隊の雇い教師J・W・フェントン(英国人)が面倒を見ていたが、彼は接待役の詰所へゆき、日本の国歌はなんだと聞いた。

薩摩藩士原田宗助も接待役の一人であった。彼はあわてて上司にきくべく軍務官役所へかけつけ、おりから会議中であった藩の川村純義をよびだし、そのわけを話すと、川村は急に怒り出し、「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことがあるか、万事まかすということでオハンたちを接待役にしたのではないか」と怒鳴りつけて会議の席へもどってしまった。川村はのちに海軍大将になった人物である。

接待役の原田宗助は青くなったであろう。ともかく、御浜御殿へ戻って同役に相談した。この同役は乙骨太郎乙である。乙骨は旧幕臣で、徳川家が静岡に移されてからもそれに従い、徳川家立の沼津兵学校で英語を教えていた。その英語の技能を買われて、接待役を命ぜられている。乙骨は旧幕臣だけに大奥のしきたりを多少知っており、ふと「おさざれ石」の儀式を思い出し、こういうのはどうか、と言い、歌詞を口ずさんでみた。薩摩の原田は大いにおどろき「その歌詞ならわしくにの琵琶歌の中にもある」と手をうって賛成し、なにぶん火急のときであるだけにフェントンをよび、原田みずからがそれを琵琶歌のふしでうたってみせた。フェントンはこの奇態なふしまわしにおどろいたらしいが、とにかく多少の手なおしをして楽譜にとり、当日の間にあわせた。

君が代うんぬんというのは類似の歌が「古今集」にもある。また今様にもあれば、筑紫流の筝曲や薩摩琵琶歌にもあるところをみれば、この歌は「めでためでたの若松さま」と同様、古くはその家々のことほぎのためにうたわれていて流布していたものであろう。

国歌「君が代」が誕生するについてのはなしは諸説あり、たとえばフェントンからいわれた軍楽伝習生頴川吉次郎が当時の砲兵隊長大山巌に告げ、大山は同藩の野津鎮雄や大迫貞清にはかって薩摩琵琶歌のなかからこの歌詞をえらびフェントンに示したともいい、これが痛切になっている。おそらく火急のおりだからいくつもの系路で人が動いたのであろう。しかしモトのモトは、右の話がどうやら本当らしい。

この原田宗助というひとは、このあと明治四年、東郷平八郎らとともに英国に留学し、造兵技術を学び、最後は海軍造兵総監などになっている。この原田が後輩の沢鑑之丞(のち海軍技術中将)に話し、沢がこれを書き留めている。

「しかしおれのうたったふしとは、だいぶちがっている」

と原田はいったという。たしかに原田がうたってフェントンが譜にとった「初期君が代」はどうも間のびがして威厳がなかった。そういう理由で、政府ではのち海軍雇いのドイツ人エッケルトに相談したり、雅楽の音律を入れたりして改訂した。それが、明治十三年である。

もっともその時分の日本人の多くはこの国歌をきいたこともなかったし、国歌があるということすら知る者もすくなかった。なざならば国歌が実務上必要であったのは遠洋航海として他国を訪問する機会の多い海軍であり、げんに海軍がおもにつかっていた。祝祭日につかうようになったのは明治二十六年からである。

とにかく筆者にとって原田宗助のはなしがおかしかったのは、戊辰戦争からの砲煙がやっとしずまって新都へ諸藩兵があつまったころ、つまり川村純義にとって多忙なとき、そういう相談をもちかけられて「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか」と下僚を一喝し、その一喝からこの歌が起源を発しているということである。いまひとつおかしいのはこの歌がもとはといえば徳川家の大奥の儀式の歌であり、旧幕臣である乙骨太郎乙がそれから発想して提案したのに「君が代」起源説の通説では大山巌などが大きく正面に登場して、徳川大奥の元旦儀式や乙骨という要素がまったく消されてしまっているということである。このことは、歴史というものの奇妙さについて、きわめて暗示的な課題を含んでいるように思われる。

歴史の中の日本

  • ISBN-10: 4122021030
  • ISBN-13: 978-4122021037

  • 司馬遼太郎




    司馬遼太郎著「歴史の中の日本」中央公論社刊pp.253-256より抜粋

    ある夏、妙なとりあわせだったが、林房雄氏が前にすわっていて、その横に安岡章太郎氏がすわっている。林氏は周知のように愴気のありすぎる論客で、酒の勢いで安岡氏を相手に喧嘩腰になった。もっとも喧嘩というものではなく、ああいう酒の飲み方なのかもしれないが、相手の安岡章太郎という人はこまったことに議論になると立技も寝技もできる人で、よせばいいのに相手になっている。どうせ酒間の議論だからすぐ話題がとぶ。
    「武士武士というが、武家屋敷なんぞは小さいものだ」
    ということを林氏がいいだした。林氏の母方の方は豊前だったか豊後だったかの小藩の藩士で、石高で勘定する家である。石高で勘定するのはたとえ小禄でも高等官なのだが、その家が林さんの子供のころの目にはびっくりするほど小さな家だったという。一概にはいえないが、そういう場合が多い。藩によってはちがうが、たとえば石州津和野四万三千石の藩の、御典医という威張った家だった森鴎外の家などは八十石で、その家屋はちょうど戦後のすぐの都営・市営住宅のように小さい。その川むこうにあるおなじ御典医で九十石の西周の家も同様である。林氏の子供のころの記憶は正しいであろう。
    ところが、安岡氏はこれに異論をたてた。自分の父の生家は大きい、というのである。どうもまわりが一町四方ほどあって、建物も堂々としているという。林氏が、そんなばかなことがあるか、と怒りだした。酔っているから、仕方ない。
    じつをいうと、安岡氏のいうほうも、それはそれで正しいのである。安岡氏の家は土佐安芸郡の郷士で、身分は林氏の母方よりもひくく、藩の高等官ではない。軍隊でいえば下士官の身分である。ところが土佐郷士というのは身分こそひくいがその多くは広大な田地をもち、小作農をかかえており、その本態はかつては戦国期には地侍で、所の大名が陣触れするとかれらは小作農の一人二人を足軽・小者としてひきつれ、出陣してゆく。こういう地侍が、他の分国では江戸期には大庄屋・庄屋になった。土佐の場合はある政治的理由から多くが郷士という階級をあたえられた。土佐では郷士が庄屋を兼ねることがあり、要するに農村の旦那衆というのが本態なのである。屋敷が大きいのは、それが武家であるからではなく、旦那衆であるからなのである。モミ干し庭もひろくとらなければならないし、庄屋として藩への年貢米の取次ぎをするから、米俵をおさめる蔵は大きくなければならない。場合によっては村落での裁判もやるから白洲もつくっておく。自然、屋敷が宏壮であることが必要になってくるのである。宏壮であっても、しかし郷士は藩吏として職をえても高等官にはなれず、せいぜい警察でいえば平巡査程度にしかなれない。石高で勘定される家は、たとえ小さな家にすんでいても、器量次第では仕置家老(一代家老)にまでのぼれるというのが、日本の封建制度のおもしろさの一つなのである。
    日本の封建制のおもしろさとしてこの話と関連するが、元来、百姓屋敷というものは、いかに働きがよくて収入のいい百姓でもその座敷に勝手に欄間をつくることはゆるされなかった。藩や幕府(天領の百姓の場合)に献金をして、その公許を得ねばならないのである。
    さらにそれ以上に大層なものは、門をつくることであった。庄屋門とよばれている、あの堂々たる門(鴎外の生家の門などは形ばかりのものである)は、戦国期の地侍階級がそのまま庄屋階級になった場合はべつとして、ふつう、代々献金をかさねかさねして莫大もない献金のすえに「苗字帯刀ゆるし」を得てはじめて建てることができるもので、私など、地方に取材に行って山間の朽ちた百姓屋敷の門などをみるとき、それを思うと、ときに息をわすれるような感慨をおぼえる。
    もっとも、いま村々をあるいていても、門構えの農家が多い。げんに私は大阪の東郊にすんでいるが、このあたりは大正期にすでに都会化されたが、旧村を抱き込んで街がある。私どもの土地では、この旧村のひとびとは自分の居住区をムラナカとよんでいる。私は毎日その村中をつききって隣りの駅前まで散歩にゆくのだが、ムラナカの家はどの家もふるびて堂々たる庄屋門をもっている。これは、右のはなしとはちがうのである。このムラナカは元禄期までは一面の沼であった。元禄期に大和川が改修されて土地が干あがり、耕作可能地ができた。そこで各村の次男、三男坊がきて一村できたというから、古い村ではない。大正期にこのあたりが都市化するにつれ、農家は地主になり、金が入ったりしたが、金が入るとすぐ家を建てかえるのはむかしもいまもかわらない。どの家も、まっさきに庄屋門を建てたのは、それが前時代には金力の象徴のようなものだったからだろう。前時代には、庄屋門の背景に気の遠くなるような献金とそれを可能にする富力があったのだが、明治後は、門の改築費さえあれば建てることができる。
    明治維新は、自作農以上の百姓にとって一つの意義は、門を勝手につくってもよいということで、家道楽が風習になっている淡路島などではさかんに門が建てられたという。明治の開化の象徴はザンギリ頭や洋服だけでなく、前時代の庄屋門の禁制解除ということにもあったにちがいない。
    歴史の中の日本
    ・ISBN-10: 4122021030
    ・ISBN-13: 978-4122021037
    司馬遼太郎



    徳力彦之助著「銅鐸は生きている」白川書院刊pp.43-50より抜粋20151015

    銅鐸について 4 および「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫pp.223-229より抜粋とあわせて読んでみてください。
    また
    小林秀雄講演 第8巻
    小林秀雄講演 第8巻
    ↑上に示すCDの「勾玉のかたち」の講演内容が今回の書籍抜粋内容と関係していると思います。

    鐘巻銅鐸
    冒頭に道成寺境内にて江戸時代に銅鐸が出土していることをお知らせします。

    以下書籍抜粋です。
    釣鐘とは、あらためて云うまでもなく、お寺に付属した仏具の一種である。
    お寺とは、立派な国宝になるような仏像が祀られて居る所である。
    そして又、そこには、行いすました高徳の聖が、その寺を守って居て、たまたま来合せた観光客に対しても、その人が、信不信にかかわらず、何か神秘な感情をもって、心にすがすがしい気持を懐かせてくれる清浄な場所がある・・筈だと、一般人は思い込んで居るのである。
    その聖地?にある仏具の一種!釣鐘、それが妙な象徴の芸術だと云って見た所で、一般の読者は、いや、それは心理学者がよく使うテスト用のインキのしみ(ロールシャッハ)みたいなもので、見方次第では、どのようにでも見えるものなのだ。
    この筆者は、よほどHな野郎だぐらいに思われるかも知れない。
    だが、お寺と云うものは、私に云わせれば、本来、汚水処理場の如きものである。
    汚物も流れ込むし、悪臭も発生する。
    それを、どうにか浄化して世間に還元する。
    お寺は人間精神の浄化作用をいとなむ所であって、お寺自体が、汚れのない所ではないのである。
    なるほど、表面はきれいである。が、きれいな事ではすまない汚物が、沢山溜まって居る所なのである。
    なる程、お祀りしてある仏様も立派だ、高徳の聖も居る。
    しかし、それだけで存続し得るお寺はない。
    次代を背負う筈の若い僧侶も沢山集まって来なければならない。
    これらの血気盛んな僧侶の卵たちは、この時点では、聖者でもなければ、高僧でもない。只の若者である。
    寺は、昔は、女犯は固く禁じられて居た。
    こうした大勢の若者が、一定の場所に閉じ込められて禁欲生活して居ると云うことはどういう事になるか。
    大きなお寺の附近の民家では、若い娘は、あぶなくて家に置く事も案ぜられているほどなのである。
    高僧たちが、自らの経験を生かせての温い思いやりから、境内の目立たぬ所に鐘楼を築いた事は、実にうまい考えであった。
    そして、この思い付きを受けて、これに答える作品を造り上げた制作者は、実に立派な芸術家であったと私は思う。
    一皮むいた中味は大へんなしろ物にもせよ、それをここまで立派な芸術に、昇華せしめた腕前は大したものなのである。
    このような見事な象徴芸術は、世界でも類が少ない。
    そしてこれが、何らの祖型もなく、試作らしいものも残って居ないで、いきなり一発で仕上げられたとなれば、それこそこの作者は天才中の天才である。
    レオナルド・ダビンチや、ミケランゼロや光悦などが、百人も束になってかかっても、かなわない程の大天才ではなかったかと、私は思うのである。
    [七]すり替えの芸術
    これまで、私はしばしば、象徴とか、抽象と云う、かっこいい言葉を使って来た。
    しかし、これらの言葉のもつ内容は大変あいまいでもあるので、ここではもっと明瞭にとらえて貰うために「見立てる」と云う言葉と、「すり替える」と云う言葉を使って説明する事にする。
    銅鐘が陽物の象徴であると云う事は、さらに明確に云うと、そのように「見立てる」事が出来ると云う事と、陽物を銅鐘の型に「すり替えた」と云う二つの見方が成立する。
    たとえば剣がある。矢が、又はステッキがある。これらは昔から陽物に「見立てられ」て居る。云わば、陽物の代名詞として使われて居る事は、御承知の通りである。
    知り合いの誰かに子供が生まれた。
    男の子か女の子かを問うかわりに陸軍さんですか?海軍さんですか?或いは大砲ですか、軍艦ですか、と問う。
    陸軍または大砲が男の子で、海軍または軍艦が女の子である事は云うまでもないが、これらは、もともと男の子や女の子を象徴するために造られたものではなく、ただ世人が勝手にそのように「見立て」て居るだけである。
    こう云う見立て方は、世界中共通であって、印度では象が、ヨーロッパではお寺のドームが陽物に見立てられて居る。
    釣鐘が、そのように「見立て」られても一向に不思議ではない。
    ところが「すり替え」の方は、それと反対である。
    例えば何か、その正体をはっきりする事が出来ない事情がある。
    そうした場合に、その正体を明確にしないで、他のものに似せて見せるのである。
    一例を挙げると、マリヤ観音と云う仏像?がある。
    徳川期に切支丹が禁じられたので、マリヤの像を安置することが出来なくなった信者は、観音の形に似たマリヤ像を造ってこれを祀った。
    外観は観音像であるが、内容は全く違ったものに「すり替え」られて居るのである。これは観音像をマリヤに見立てたのではなく、初めからマリヤを造るべくして造ったのである。中国には換骨奪胎と云う言葉があるが、全くその通りである。
    釣鐘の場合でも、男女の性技と云ったものを、そのものズバリと表現する事は、太古は自由であったにしても、次第にモラルが発達するにつれて、その自由がはぐくまれてくる筈である。そして、そのものを別の、さりげないものにすり替える知恵が発展してくるのである。釣鐘の創作は、丁度、その時期に遭遇して居たのである。
    この場合、すり替えの内容を知って居るのは、一部直接関係のあった人だけで、この事を知らされて居ない人には、たとえそれが製作に関係あった人と雖も、そのすり替えに気付かずに居た人も多いと思う。このような作品は概して模倣する事は簡単であるが、それは単に外観だけの、表面に現れた形式だけの模倣にとどまるので、その内容を知らされて居ないため、必ず、どこかに形くずれが出て来るのである。その反対に、内容を知って居れば、その面では、益々精緻となり、完成への道が、積み重ねられるのである。若しも、この釣鐘が中国や朝鮮の模倣であって、その内容を知らずに日本で真似て造って居たものとすれば、これらの鐘は、その時点から型崩れが起きて居る筈であるが、事実は、白鳳の頃から始まった鐘造りは、平安から鎌倉期へかけて次第に精緻になっては行くが、型崩れはないのである。この事実は、その鐘の内容が何であるにせよ、それが工人から工人へ正しく内容が受け継がれて居たことを物語って居るのであって、この場合、たとえ祖型が中国・朝鮮であったと証明されたとしても、その祖型の上に、日本人の独創的な「すり替え」行われて居たと考えても大きな間違いはない筈と考えられる。所が、南北朝以降になると、どう云う理由だか、初めて型崩れが起きて居る。これは恐らくこの頃に、その創造の意図に関する伝承が断ち切られて、模倣だけが引き継がれた結果だと私は思う。このことは、現存する梵鐘の写真を見ても、どこまでが創造の積み重ねで、どこからが単なる模倣であるが、一見して見別けがつくが、その事は、しばらくおあずけにして置こう。ただ、この見事な創作品を前にして、せっかく長老たちが造ってくれた思いやりの作品を、あまりの見事なすり替えのために、俗物の塊りである若僧たちが、この贈り物の真の意味を理解出来たかどうかと云うのが、私らの心配の種なのであるが、そこは老婆親切で、ちゃんと解説まで用意してあると云う、至れり尽くせり振りであった。それは、道成寺縁起と云う、平安時代の中頃に出された「大日本法華検記」に出て居るのである。道成寺物語りの粗筋は、大抵の人は御存じの筈であるから省略するが、結末は、安珍が逃れて鐘の中へかくれると、追いかけてきた清姫が、毒蛇(竜)になって、その鐘を取り巻き、鐘は焼けて炎を挙げる。そのクライマックスの場面は、鐘胴と竜頭の関係を劇化して見せて居るのである。俗世間の我々仲間では、こんな話を聴いても、一向にエロでもなんでもないが、これが、抑圧された禁欲の世界の人達の間にあっては、まことに刺激的であったかも知れない。鐘楼はどこの寺でも、目立たない場所に造られて居る。寺では、初夜(午後八時)後夜(午前二時)に鐘を撞く。撞くのは若僧の役目である。暗夜の鐘楼での空想は、身、あたかも道成寺にあって、毒蛇に追いつめられるの思いを打ち消すのに、如何ほど苦労したことかと想像されるのである。所が、とんでもない道化師が飛び出した。頃はちょうど南北朝時代である。その名を観阿弥と云う。観世流謡曲の祖である。彼は、この道成寺物語のストリーを失敬して謡曲「道成寺」を作詞作曲したのである。観阿弥はもとより、釣鐘の裏側にこれほどの苦心があるとは知らない。ただ道成寺物語の筋書を頂戴しただけであるから、そのクライマックスの場面で、清姫が鐘の中へ入って、蛇体に変じて出て来ると云う、舞台技術上での変化に持って行ったのである。坊主が鐘の中へ入ると云うのは、安珍が鐘胴にすり替わり、大きく、固くなったところに話のおかしさがあり。その上へ、竜が襲いかぶさるから、人々はなる程と思うのであるが、女が鐘胴とすり替わったのでは、何の意味なのか一向に説明がつかないのである。模倣とは、この様に、その時点でたちまち型崩れが起きるのである。ちょうど、この観阿弥の出た頃、梵鐘にも乳の町のないものや、袈裟襷の乱れたものが出て、一般的には竜頭の型が崩れて、間延びして居るので、この頃が釣鐘の創造精神の断層であると、私は見て居るのである。親鸞聖人が妻帯を断行した後の時代でもあるから、も早、釣鐘の持つ特別な目的は不必要となったので、単なる鳴器としての梵鐘だけが残ったのであろう。話は別だが、今日、道成寺と名付けた歌舞伎や、おどりが十数種もある。いずれも女が鐘に入りこむタイプである。一犬虚をほえ、万犬実を云うのか?ここまで間違って来ると、如何に立派に演出されても、何だか白々しくて見る気が起こらないものである。
    銅鐸は生きている
    ASIN: B000J9GPVK

    20151008 ブログ記事の作成 精神衛生 人参、古来の風習について・・

    A「最近こちらは朝晩が結構寒くなってきましたが、そちらはどうですか?」


    B「ええ、基本的にそちらより、ここ関東の方が寒いと思いますが、この時期では、まだあまり大きな違いはないのではないでしょうか?」


    A「まあ、そうですね。
    そういえば秋といえば芸術の秋ですが、最近何か面白いものを見つけましたか?」


    B「いえ、最近は映画もテレビも御無沙汰です。
    一方、このブログ作成や、手近にある本の読み直しが最近習慣づいてきましたね・・。
    ブログの作成に関しましては、面倒くさいと思いつつも、周囲のよく分からないけれども面白い反応に支えられて続けているのが現状です。
    また、書籍の抜粋であれ、自身の文章であれ、こういうのを作っている最中はまた、何とも云えない別の感覚があるようです。
    しかし、そうではあるのですが、同時にブログの材料探しのために読書するのもどうも違う様な気がしますので、それは少し注意した方が良いかなと思いましたね・・。」


    A「ええ、何でも恣意的なニオイがするものは、それだけでどうも胡散臭く見えてしまいますからね。
    単純に楽しめなくなります。
    我々日本人は、よくわかりませんが、その「自然」っていう感覚をとても大事に大切にします(笑)。
    ですから、Bさんがブログの作成を面倒くさいと思うのは、それを楽しみにしておきたい、そして「出来るだけ自然なものをつくりたい。」という願望がそうさせているのかもしれませんね・・。
    さて、それで思い出しましたけれど、たしかルナールの「にんじん」に「主人公(にんじん)は自分の好きな玩具で遊ぶ時はできるだけ楽しくないように遊ぶ、そうしないと誰かにそれを奪われるから。」といった意味のことが書かれていましたけれど、ニュアンス的にはそれに近いものもあるのではないでしょうか?
    しかし案外創造力、創造性というものは、そういった多少不便、不足のある環境の方が生成し易いのかもしれませんね・・。
    最近の最新技術を駆使した映画などを観ますと、どうもそうではないかと考えさせられます・・。


    B「ええ、云われてみますと確かにそういった一面はあると思います。
    しかし私の場合、ブログ作成はあくまでも精神衛生のためであり、あるいは先ほどの創造力、創造性をどうにか維持、持続させるための手段であると認識しています・・。
    とはいえ、よく考えてみると、私のブログには創造的な要素はあるのでしょうか・・?
    その大半は多少ひねっているのもありますが書籍からの抜粋であり、自身の文章であっても、書籍からの抜粋に触発された考えを過去の会話に絡める程度のものですので、まあ創造性は意外に乏しいのではないかと思ったりもします・・。」


    A「創造性の詳細な定義は今現在、ここでは私もよくわかりません。
    しかし、それでも先ほどのことにも通じますが一つ云えることがあります。
    それは「目の前ににんじんを吊るされた馬の様にあまり力まない方が良いのではないか?」ということです。
    これも、さきほどの様に自然体にて選んだ書籍からの抜粋、作成文章の方が彼我双方から見て単純に楽しいと思いますからね・・。」


    B「ははあ、確かに私はすぐに力む、肩に力が入るクセがありますから・・最近はこれが冬季に生じる気分の落ち込みの原因になっているのではないかと思います。
    ともあれ、どうもありがとうございます。
    それは、確かにおっしゃる通りかもしれません・・。
    それにしても偶然かもしれませんが、今までの会話でAさんが「にんじん」という言葉を二回出されたのは何か面白いですね・・。
    その「にんじん」で私も思い出しましたけれども、これは確か小林秀雄がどこかで云っていたと思うのですが、その昔にんじんは大変高価な薬の原材料であり、今でも朝鮮人参、高麗人参などが有名なのですが、これを畑で一度栽培すると、生育の過程でにんじんが畑の土壌の栄養素を全て吸収するのか、あるいは、同じ過程で毒素を土壌内に放出するのかわかりませんが、とにかくしばらくその畑は使い物にならなくなるらしいのです。
    現在では多分こういったことは科学的に明瞭に解明されているとは思いますが・・。
    そしてさらにこの話で私が思い出すのはロバート・グレーヴスの「さらば古きものよ」の上巻に書いてあったデンマークのある地方における一族の風習です。
    それは奇数世代と偶数世代がそれぞれ交互に板金職と牧師職に就くというものであり、これを著者は「あながち悪い風習ではない。」と評価していました。
    こうした風習の背後にある考えとは、少なくとも現代日本ではなかなか見られない、そして同時に長い期間、何世代にもわたる人間に対しての深い洞察があるのではないかと考えさせられます。
    しかし一方、多分、明治以前の日本社会においても同様の風習はあったのではないかとも私は考えています・・。
    それらは明治維新以後の社会の大きな変化により徐々に形骸化、衰退していったのだと考えます。
    その他の伝統、風習と同様に・・。
    また、そういったことは現在でも進行しているのかもしれません。
    その意味で明治初年に生じた新政府に対する一連の叛乱とは、そういった在来の伝統、風習の衰退を拒否するものであったとも云えるかもしれません。
    また、古来よりの風習を全て因循姑息なものとして捨て去った代わりに得た新しい、代替のものは、それほど良いものであったのでしょうかね・・・?」


    A「うーん何だか夏目漱石の「現代日本の開化」や「三四郎」の冒頭部の広田先生との会話を想起させる様な発言ですが、確かにそういった側面はあると思います。
    そしてその後の太平洋戦争後の日本社会も同様に在来の文化、風習を衰退、破壊するものであったのだと思います・・。
    そしてそれと同時に現代社会のこの混乱とは、大きく見れば明治維新以降の、また小さく見れば太平洋戦争後の絶頂期であったバブル期以降の社会の様々な面での歴史からの評価がなされている状態ではないかと思います・・。
    そしてこの先の時代の価値観とは、良くも悪くもこの評価の上に築かれるのだと思います。」

    B「それはよくわかりますね・・。
    あまり楽天的な話にできないのが残念ではありますが・・・。
    しかし、この話自体は大変興味深く思いましたので、少し筋を変えてブログのネタにさせていただきます・・(笑)。」

    A「ああ、そうですか、どうぞ。」

    20151002 迦微、神、カミについて・・

    A「最近何か新しいことはありましたか?」

    B「ええ、今のところ、特に新しい動きはありませんね、一方で、つい先日ブログの一日の閲覧者数が200を越えたのは少し嬉しかったですね(笑)。」

    A「はあ、200越えはちょっとすごいですね・・。
    読んでくれている方が増えているのでしょうかね?
    あと応募されている職種の勤務地はやはり首都圏が多いのですか?」

    B
    「ええ、首都圏での応募職種もいくつかありますが、大体はそれ以外ですね。私は概ね首都圏にて育ちましたが、その後様々な地域にてある程度の期間住んでおりましたので、今となっては別に首都圏でなくとも一向に構わないのです・・。
    ただ、それと同時に思いますのは、自分が適応し易い地域と、そうでない地域があるのではないかということですね。」

    A「ああ、そういうのは確かにあると思います。
    一般的に若い頃は適応力や柔軟性があって、様々な地域にある程度容易に溶け込めると思うのですが、多分30歳くらいあたりから、徐々にそういった能力が喪失、衰えてゆき硬化していくのではないでしょうか?
    物質にたとえるとおかしいかもしれませんが、骨や歯みたいな感じではないでしょうかね?
    ですから私も正直なところ今となっては、あまり他の地域には移り住みたくはないです・・。」

    B
    「ああ、そういう感覚はよくわかります。
    ですから、現在応募中の職種も大体これまで住んだ場所に近いところのものが多いです。
    しかし事情も事情ですのであまりゼイタクもいってられないのですが・・(苦笑)。
    ただ、何でしょうかね、古くから他の地方、地域に行く時に「水に気をつけろ」などと云われますが、ああいうのは個人によってその反応が異なるために普遍的な一定の見解は見出しにくいのでしょうが、多分、地方、地域の水、大気、土壌などの中に人の心身に影響を与える何かが存在することを示しているのではないかと思います。」

    A
    「ええ、確かにそういうのは一つの地域にずっと住んでいたのではわからないと思います。
    ですから、そういう「実感」とは、ある程度年齢を重ね、他の地域に住んでみないとわからない相対的な感覚であるのかもしれませんね。」B「それは仰る通りであると思いますが、同時にその「実感」というものが科学的な視点から見た場合、案外間違いであったり、単なる思い込みであったりするらしいのです(笑)。しかしそれでも「実感」とは科学的な認識のために必要不可欠な第一歩目でもあるとも思いますが・・。」

    A「ええ、それは以前のBさんのブログ、たしか20150804で書かれていた文系、理系そして儒家、墨家との関係の前段階に近いものではないでしょうかね?あとは少し前に投稿されたベルクソンの「哲学的直観」からの抜粋文章にも似た様なニュアンスがあるのではないかと思います。」

    B「確かに仰る通りです。
    そこまで考えておりませんでしたが・・。
    ともあれ、科学的な方法、つまり実験、観察等により得られたある程度普遍的な方法による見解とは、こと神、神々の存在について応用してみますと、ややこしくなるのではないかと思います。
    しかしながら、そこを曲げて敢えて、神々の存在と、これまでの話を重ね合わせてみますと、このようなことが云えると思います。
    先日抜粋引用した小泉八雲著の「日本の心」にて「古びた神社などには人の心に聖性、神性を惹起させる何かがある。」といった意味のことが書かれていました。
    たしかに私自身はその感覚をよく理解できます。
    そして同時にその感覚は、多くの方々が共感されるのではないかと思います。
    そして、そこから更に進んで、では、その聖性、神性を人々の心に惹起させる原因の実体とは何であるのかと考えてみますと、
    それは、さきほど出ました地方、地域の水、大気、土壌などの中に含まれる人の心身に影響を与える何かではないかと考えるのです。
    そして、それら水、大気、土壌に含まれる心身に影響を与える何かとは、当然ながら微細なものであるとは思いますが、それが生物、細菌の様な働きによるものであるのか、あるいはMEMSの様な機械的な働きによるものであるのかは分かりません。
    しかし何れにせよ、古くから日本における神々とは、少なくとも一面において、この様な微細ながらも大きな働きをする何かであると認識されていたのではないかと考えます。
    これは本居宣長の「古事記伝」においてもカミのことを迦微(かみ)と記されており、その漢字、文字から、その様な意味があるのではないかと考えさせられます。

    A
    「ははあ、それで思い出しますのは、以前私がどこかで聞いた日本におけるカミの語源とは、酒の醸造などの醸す(かもす)と同一であるという意見ですね・・。
    そしてこの醸す(かもす)の醸造も発酵という微細な菌の働きによるものですから、まあ先ほどのBさんの仰った内容とも似ているのではないかなと思います。」

    B「ええ、それに日本国内で時折聞かれる地名の加茂(かも)もこれと同じ起源ではないかと思います。
    この言葉、音は、多分水稲耕作が始まった弥生時代の社会において何かしら意味するものがあったのかもしれません。
    ですから、この加茂という地名を持つ場所では銅鐸が出土したり、日本酒の醸造が古くから行われていたりします。
    こういうのは単なる偶然だけでは片付けられない何かがあるのではないかと思います・・。」


    A「なるほど・・。
    それにしても、そういった小さなものが大きな働きをするという古来からの考えは、その後、物語として「一寸法師」になったのかもしれませんね・・。
    そして、そのように考えますと、日本とは山林面積が多く使用可能な国土が狭小なために、何でも多収穫という明確な目的に基づく、小型化、集約化が為される傾向があるというのを会田雄次あとは李御寧の著作で読んだ記憶があります。」

    B「ええ、それらの著作は私も以前読んだと思います。ともあれ、日本人のこうした小型化、集約化の傾向、執念はほとんど無意識のレベルにまで達しており、よくよく考えてみますと教育においてもこの様な傾向があるのではないかと思います。
    しかし、教育とは、特に高等教育においては、根本的に工業製品を製造するのとはワケが違うのですから、今後何と云いますか背景思想における相変態が為される必要があるのではないかと思いますが、どうなのでしょうか?」

    A「うーん、それは大変難しい問題であると思いますが、同時に仰ることの意味もよく分かります・・。
    いずれにしても文系がカギであり、また、同時にBさんがコンラッドの「闇の奥」が好きな理由もそこらへんにあるのではないかと思います・・。」