2019年5月19日日曜日

20190519 中央公論社刊 陸奥宗光著『蹇蹇録』pp.228-230より抜粋引用

『この日両国全権の会合終わりおのおの退出ののち、余は明日談判上予め打ち合わせておくべきことあるにより、特に李経芳を留め両人対坐して要談を始めんとしたる際、人あり怱卒戸を排して入り来たり、ただいま清国使臣、帰途、一暴漢のため短銃をもって狙撃せられ重傷を負いたり、暴漢は直ちに捕縛につけり、と報告せり。余も李経芳も事の意外なるに驚き、余は李経芳に対し、この痛嘆すべき出来事に就ては吾儕力のおよぶ限りは善後の策を講ずべし、足下は願わくは速やかに帰館し尊父の看護を尽くされたし、といい別れ、余は直ちに伊藤全権の遇所に到り相伴い清国使臣の旅館に往きこれを慰問したり、李鴻章遭難の飛報、広島行在所に達するや深く聖聴を驚かし奉り、皇上は直ちに医を派し下関に来たらしめ、特に清国使臣の傷痍を治療することを命じ給い、また皇后よりも御製の繃帯を下賜せられると同時に看護婦を派遣し給う等、すこぶる御待遇を与えられたり。かつ翌二十五日、特に左の詔勅を渙発し給えり。

朕思うに清国はわれと現に交戦中にあり。然れどもすでにその使臣を簡派し礼を具え式によりもって和を議せしめ、朕また全権弁理大臣を命じこれと下関に会合、商議せしむ。朕はもとより国際の成例を践み国家の名誉をもって適当の待遇と警護とを清国使臣に与えざるべからず。すなわち特に有司に命じ、怠弛するところなからしむ。而して不幸危害を使臣に加うるの兇徒を出す。朕深くこれを憾みとす。その犯人のごときは有司はもとより法を按じ処罰し仮借するところなかるべし。百僚臣庶それまたさらによく朕が意を体し、厳に不逮を戒めもって国光を損ずるなからんことを努めよ。

聖旨正大公平にして事理明確なるは、敵国使臣して感泣せしめたるべく、またわが国民をしてすこぶる痛惜の観念を起こさしめたり。この事変の全国に流伝するや、世人は痛嘆の情余りてやや狼狽の色を顕し、わが国各種公私の団体を代表する者と一個人の資格をもってする者とに論なく、いずれも下関に来集し清国使臣の旅館を訪いて慰問の意を述べ、かつ遠隔の地にあるものは電信もしくは郵便によりてその意志を表し、或いは種々の物品を贈与するもの日夜陸続絶えず、清使旅寓の門前は群衆市をなすの観あり。これ一兇漢の所為は国民全般の同情を表せざるところたるを内外に明らかにせんと欲するに出ずるものなるべく、その意ものより美しといえども往々いたずらに外面を粉飾するに急なるより、言行或は虚偽にわたり中庸を失うものもまたこれなしとせず。現に日清開戦以後わが国の各新聞紙はもちろん、公会に私会に人々相集まれば清国官民の短所を過大に言いふらし罵詈誹謗を逞しゅうし、ひいては李鴻章の身分に対してもほとんど聞くに堪えざる悪口雑言を放ちおりたる者が、今日俄然として李に対しその遭難を痛惜するにおいて往々諛辞に類する溢美の言語を出し、はなはだしきは李が既往の功業を列挙して、東方将来の安危は李が死生にかかるもののごとく言うに至り、全国いたるところ李の遭難を痛嘆するよりは、むしろこれによりて生ずる外来の非難を畏惧するごとく、昨日まで戦勝の熱に浮かされ狂喜を極めたる社会はあたかも居喪の悲境に陥りたるがごとく、人情の反覆、波瀾に似たるは是非なき次第とはいえ、少しく言い甲斐なきに驚かざるを得ず。李鴻章は早くもこの形情を看破したり。その後彼が北京政府に電報して、日本官民の彼が遭難に対し痛惜の意を表するは外面を飾るに過ぎずといえりと聞けり。余は内外人心の趨向するところを察し、この際確かに善後の策を施さざれば、或は不測の危害を生ずるやも測り難しと思えり。内外の形勢はもはやいつまでも交戦を継続するを許さざるの時機に迫れり。』
蹇蹇録』(中公クラシックス)
ISBN-10: 412160153X
ISBN-13: 978-4121601537

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