2017年11月26日日曜日

20171126 六世紀代における社会の変動と古墳造営の傾向について

さきにも述べたが五世紀代より六世紀初頭にかけてヤマト王権は列島各地に割拠していた土着豪族の制圧・服属を目的とする軍事活動を展開していた。

その最後の大規模なものがおそらく六世紀初頭、継体天皇御代における磐井の乱の鎮圧・平定であったと云える。

列島における一連の軍事活動に勝利をおさめた後、ヤマト王権は制圧・服属した地域に対し屯倉(ミヤケ)・国造・部の制度を導入し、土着勢力をヤマト王権内部に組み込み、税となる物品を収める倉庫を各地に築き、土着豪族をヤマト王権出先機関の長(国造)とし、王権に対し職業を通しての奉仕を行う集団(部民)もまた各地に設置した。

こうした国内での動きを反映したものが、さきに書いた六世紀代より爆発的に増加した群集墳であり、またそれと反比例するかのように、衰退したものが比較的大型の前方後円墳の造営であると云える。

これをさきに述べたヤマト王権の支配領域拡大(もしくは統一王権の成立)と連動させ考えると、土着豪族勢力の衰退に伴う、在地有力農民層の勢力拡大により、古墳造営が可能な層の絶対数が増加したことを示していると云える。

あるいはこれを異言すると、それまで土着豪族が地域の人々を使役し造営していた比較的大型の前方後円墳がヤマト王権による既存土着豪族勢力の制圧により、その造営が困難となり、その一方において、これまでは古墳の造営が困難であった有力農民層、あるいは新たに入植したヤマト王権の有力部民層などが、ある程度まとまって小規模の古墳を数多く造営したものが六世紀頃より爆発的に増加した群集墳であると云える。
(これは紀の川下流域、和歌山県和歌山市の岩橋千塚古墳群を実地に見学されることを推奨します。)

さらにこれを端的に表現すると、前方後円墳の造営が著しく減少するのに伴い、群集墳の造営が盛んとなり、そして、その背景にはヤマト王権の地方への勢力拡大と、陰の部分としての土着豪族勢力の衰退があると云える。

とはいえ、畿内ヤマト王権においては六世紀代においても大型の前方後円墳は造営され続け、有名なものとしては大阪府高槻市の今城塚古墳、奈良県橿原市の(見瀬)丸山古墳などが挙げられ、それぞれ継体天皇、欽明天皇の真の御陵ではないかと考えられている。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまでに日本列島において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。