2017年10月4日水曜日

20171003 批判精神の地域性と土性骨・・★★

昨日投稿分記事も思いのほか多くの方々(54)に読んで頂いておりました。あるいはこうした主題とは、現今の我が国社会において重要度が増しつつあるのかもしれません・・。

しかしながら、
重要度が増したからといって今後それが良い方向に変化していくのかとは未だ分からず、実際のところあまり期待を抱くことは出来ないと考えます。

そして、それ故に自身はこれまでの文系学問を改編し、より学際的・分野横断的な学問として学ばれることになる方が良いのではないかと考えるのです。

何かしら原理的な文系学問に基づいた意見を述べた際の我が国における一般的な反応とは、とりあえず持ち上げるか、嗤って茶化すか、よく分からない怒りを以って対応するかといったものが主であり、そうした意見に対し反論であれ、疑問を呈するなりの正面からの真摯な対応をするということは、あまりないのではないでしょうか・・?
(我が国では正面からの議論とは粗野・粗暴との印象を受けるのか、議論の文化が定着し一般的になることはない・・。あるいは根源において社会が理屈よりも情感を重視する女性向けもしくはその好みにより決まっているのかもしれない・・とはいえ、どの文化においても最終的にはそこ(女性向けもしくはその好み)に価値を決める『何か』があるのではないかと考えるが・・では、この『何か』が主たる原因であるのか?)

そのためか、良くも悪くも現在の我々の社会とは、いわゆる地アタマの良い(とされる)お笑い芸人的スタンスもしくはイジリ方が最大公約数的にカッコ良いものとされるのではないかと思われます・・(苦笑)。

ともあれ、これはおそらくかなり以前から続く我が国における傾向であり、そうした一種の批判精神の系譜について考えてみますと、それは近代化以前の落書狂歌といったものがあるのではないかと思われます。

おそらく、そうした遠回しあるいは直接的でない、時代の権威筋とされる知識・知性より発せられた言説・政策等に対する批判とは、相手に対して正面からの批判を言えない状態より生じるものであり、それはそれである種の賢さを要するものであると云えます。

くわえて、こうした批判精神とは、おそらく明治初期に各地にて広がった自由民権派による当時の権威筋に対する批判精神とも、多少は被る部分もあるのかもしれませんが、その背景にあるものとは本質的には決して同じではないように思われるのです・・。

具体的にそれは都会的か地方的か、あるいはどの程度の深さ(技巧性の程度?)からの批判精神であるかといったことが異なるのではなかかと思われます・・。

あるいはまた、それら双方の精神(都会的にして技巧的なもの・地域的にして朴訥な要素を重視するもの)とは、表層にの『批判的』という点において類似しているのかもしれませんが、その思想としての粘り強さの点においては大きく異なり、地域のいわゆる土性骨といったものは、こうした一見あまりパッとしない、ドン臭いともとられがちな精神から発せられているのではないかと思われるのです・・。

また、それと同様の背景に基づき、以前投稿のブログ記事にても述べた都市部出身の長編小説を書ける作家は少ないといった言説にもまた一脈通じるのではないでしょうか?

そして昨今の社会様相について考えてみますと、さまざまな情報の地域全般への浸透度が高まったことによってか、これまた良くも悪くも地域全般が都市化しているように思われます。

それはまた『批判精神』といったものに対しても何らかの影響を与えているのではないかとも思われるのですが、さて、その影響とは如何なるものでしょうか・・?

とはいえ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。












0 件のコメント:

コメントを投稿