2016年5月22日日曜日

トーマス・マン著 関泰祐・望月市恵訳「魔の山」上巻 岩波書店刊pp.449‐452より抜粋20160522

「ベーレンスとヨーアヒムとは二人とも、べらべら口から出まかせにしゃべりつづけるハンス・カストルプを、恥ずかしくないのだろうかというように見つめた。しかし、ハンス・カストルプは話の内容に熱中していて、照れるどころではなかった、彼は絵をソファーの上方の壁にあて、このほうがずっと光線のあたりぐあいがよくないかとたずねた。そのとき女中が盆に湯とアルコールランプとコーヒー茶碗をのせて持ってきた。顧問官はそれを喫煙室へ持って行くように命じてからいった、

「それでしたら、あなたはほんとうは絵よりも第一に彫刻に興味をお持ちになるべきだったでしょう。・・いや、そこのほうが光線がよくあたりますとも。そんな明るみへ出せる作品だとお考えでしたらな。・・・つまり、造形美術にです、これはもっとも純粋に、専門的に人間一般を対象としていますから。しかし、湯が蒸発してしまわないうちにどうぞ」

「そうですね、造形美術」とハンス・カストルプはほかの二人と隣りの部屋へ移りながらいったが、絵をもとの壁へかけることも、下へおくことも忘れ、額縁の下をつかんで隣りへ持ちこんだ。「ほんとうですね、ギリシャのヴィーナスとか競技者とかいう彫刻には、人文的なものがもっとも鮮明にあらわれていて、ほんとうはああいうのがほんもので、ほんとうに人文的な芸術なんでしょうね、よく考えてみると」

「しかしあのかわいいショーシャについていうと」顧問官はいった、「あれはどっちみち絵画むきでしょうね、フィディアスにしても、名前のおわりがモーゼふうのもう一人の彫刻家にしても、彼女のようなご面相には鼻じわをよせたでしょうよ、私の想像では。・・・いったいどうなさるんです、そんな下手くそな絵をなぜまた苦労して持ちあるかれるんです?」

「ありがとう、僕はこの絵をしばらくこの椅子の足へ立てかけておきましょう、しばらくここでもしっかり立っていますから。しかし、ギリシャの彫刻家たちは顔にはあまり関心を持たなかったのではないでしょうか。かれらには体が問題であって、そこがたぶん人文的なところだったのでしょう。・・・ところで、婦人の造形性、これは脂肪でしょうか?」

「脂肪ですとも!」と顧問官は、壁にはめこまれた戸棚を鍵であけて、コーヒーの道具を取り出しながらきっぱりと答えた。それはトルコふうの筒状のコーヒー挽きと、長い柄のついたコーヒー沸かしと、挽いたコーヒーと砂糖とを入れる二重容器とであって、どれも真鍮製であった。「パルミチンに、ステアリンに、オレイン」顧問官は脂肪の成分を数えあげ、ブリキ缶からコーヒー豆をコーヒー挽きのなかへ入れ、ハンドルをまわしはじめた。「こうして私は初めから最後まで自分でやるんです。ひとしお風味がよろしいので。―あなたはいったいなんだとお考えでしたか?不老長寿の仙薬とでもお考えでしたか?」

「いいえ、僕も知ってはいたんです。しかし、そう聞かれると、やはり不思議な気持がするんです」

三人は喫煙室のドアと窓のあいだの隅に陣どり、東洋ふうの彫りのある真鍮板がはめこまれている籐のテーブルをかこんで坐った。コーヒーの道具は、タバコの道具とともにそのテーブルにのせられていた。ヨーアヒムは絹のクッションをいくつもおいてあるトルコふうの長椅子にベーレンスとならんでいたし、ハンス・カストルプ小さい脚輪のついた肘掛椅子に腰かけて、ショーシャ夫人の肖像画をそれへ立てかけていた。床には華麗な絨毯が敷かれていた。顧問官は、長柄のついたコーヒー沸かしへ砂糖をすくいこみ、それへ湯をそそぎ、アルコールランプの火の上へかけて煮えたたせた。やがてコーヒーは円い茶碗に注がれて褐色に泡立ち、すすると強いあまり味がした。

「それに、あなたの造形性もです」とベーレンスはいった。「あなたの造形性も、造形性といえるのでしたら、もちろんこれも脂肪です」とベーレンスはいった。「あなたの造形性も、造形性といえるのでしたら、もちろんこれも脂肪です、婦人の脂肪ほどではありませんが。私たち男性の脂肪は、一般に体重の二十分の一にすぎませんが、婦人のは十六分の一を占めています。この皮下脂肪組織がなかったら、だれもアミガサダケそっくりの姿になりましょう。年をとるにつれて脂肪がなくなり、だれもが知っているあまり美しくないくたくた皺ができます。脂肪がどこよりもぎっしりついているのは、婦人の胸と腹と太腿で、要するに、私たちの気持ちを少しでもわくわくさせる場所です。足の裏も脂肪が多くて、くすぐったいです」

ハンス・カストルプは筒状のコーヒー挽きを両手でひねくっていた。コーヒー挽きは、セット全体がそうであったように、トルコ製というよりもインドかペルシャの製品らしく、真鍮のにぶい色の地から明るく浮きでている彫りの様式がそれを暗示していた。ハンス・カストルプはその彫りがなにをあらえあしているかがわからずにながめていた。それがわかると思わず顔を赤くした。「さよう独身者むきの道具ですよ」とベーレンスはいった。「だから私は鍵をかけて保管しているんです。女中には目の毒になるかもしれませんから。あなただったらそれほど危険はないでしょう。私はこれをある婦人患者からもらったんです、ここに一年ほど滞在の栄をたまわったエジプトの王女から。ごらんのようにどれにも同じ模様がくりかえされています。こっけいでしょう、ねえ?」

「そうですね、かわっていますね」とハンス・カストルプは答えた。
「ハハ、僕はもちろん心配ないですよ。それに、考えようによっては、厳粛で荘重なこととも考えられるですから。—コーヒーセットにはやはりあまりしっくりしないでしょうが。
古人はこういうものを棺にといどきつけたそうですね。
むかしは淫猥なものと神聖なものとは、いくぶん同じだったのですね」「いや、その王女はというと」とベーレンスはいった、「これはどうも前者がお好きだったようです。
それに、私は彼女からとても上等のシガレットをもらいましたよ。
飛び切り上等のシガレットで、第一級の機会にだけ奮発することにしています」。そういって壁の戸棚からけばけばしい色の小箱を取り出して客にすすめた。
ヨーアヒムは踵をあわせて辞退した。
ハンス・カストルプは一本取りだして、そのすごく長くて太いシガレットを吸ってみたが、金色のスフィンクスがついていて、ほんとうにすばらしい味であった。」
魔の山
魔の山
ISBN-10: 4003243366
ISBN-13: 978-4003243367




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