2016年5月22日日曜日

20160522 ほぼ即興にて作成 コトバについて

A「ブログ記事が300を越えましたが、特に大きな心境の変化などはありません・・。

もう少し何かしらそういったものが生じても良いのではないかとも思いましたが、残念ながらといいますか、面白いことにといいますか、少なくとも今現在ではそのような感じです・・。

そこで、もう少し何かを書いてみれば、そうした変化を感じとることが出来るかもしれないという、いささか賭博者にも似た心境にて、この文章を書き始めることにしました・・(苦笑)。

それ故、現在記しているこの文章とは、書き始めた段階において明確な主題、テーマを特に定めておりません。

また、以上のような宣言に基づき文章を記した場合、一体どのような方向に文章が進んでゆくのかというのも、また考えようによれば面白いことであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、このように自身が文章を記す際の状態をあたかも第三者的な視点にて記すというのもまた、かなり困難ではないかとも思われます・・。

それは単純にその時間、空間が重複しているからではないでしょうか?

それに対し、これを過去のものとして対象化して書くことには上記ほどの困難さはないものと思われます。

そして、この困難さの要因とは、前記の
「それ故、現在記しているこの文章とは、書き始めた段階において明確な主題、テーマを特に定めておりません。また、以上のような宣言に基づき文章を記した場合、一体どのような方向に文章が進んでゆくのかというのも、また考えようによれば面白いことであるのかもしれません・・(笑)。」
と記したことにより端を発しているのではないかとも思われます。

少なくとも、それを記した者が、文字、言語およびその意味に対し、一般的な意味である程度正しい認識を持っているならば・・・。

そのように考えてみますと、こうしたコトバというものには何かしら自己の内面の精神?あるいは考え方の傾向などを規定するような性質があるのではないかとも考えさせられます・・。

そして、昔の人々はおそらく現在の我々よりも、コトバに接する機会が相対的に少なかったために、コトバに対して鋭敏な感性を持っていた,、いや保持していたのではないかと考えさせられます。

また言霊というコトバおよび概念も、おそらくそうした環境により自然と発生したのではないかと思われます・・。

その意味において、現在とは、コトバに対する感覚が特に都市部にて、それが氾濫しているが故に摩耗しているのではないかとも考えさせられることがあります・・(これはとても深刻なものであると思うことがあります)。

そして、そうしたことは、おそらく「そこで」書かれる文学、小説などに対しても少なからず影響を及ぼしているのではないかと考えさせられます・・。

さて、ここまで書いていて不図我に返り「そういえば、この文章とは、当初何を書くか定めずに書き始めたものである。」ということを思い出しました・・(笑)。

つまり、書き始めて、何か主題らしきものに遭遇(?)し、書き進めてゆくうちに当初の宣言を忘れ、その代わりにさきの遭遇した主題、テーマについて書いているという現象を認識したということになります・・。

そして、このことは多少こじつけ気味ではありますが、夏目漱石の「現代日本の開化」にて、たしかベルクソンからの引用で類似した考えが示されており、またそれに加え、小林秀雄がどこかで「ヒトは創造的である時、決して自己の客観視を許さない。」といったことを述べておりましたが、これらには何かしら上記のことに対し関連性があるのではないかと考えさせられます。

しかし、それはさておき、ここまで興味をもって読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、先月の熊本を中心とする大地震にて被災された地域の生活諸インフラの早期の復旧そしてそこからの復興を祈念しております。」


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