2015年9月25日金曜日

ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」三交社刊pp.95-99より抜粋

漠々と続く河筋に沿い、河の静かな曲がりに従い、あるいは、くねくねした航路の両側にそそり立つ絶壁に、重々しく船尾外輪がバタンバタンと水を打つ音を反響させながら、進んで行った。

樹また樹、何百万という鬱蒼たる巨大な樹々が、天を衝いてそびえ立っている。

その根元のあたりを、薄汚れた小さな蒸気船が、まるで、豪壮な柱廊の床をのろのろと這う一匹の甲虫のように、岸にしがみつくようにして、河の流れを這い上がって行く。

それは、人間の卑小さ、喪失感をひしひしと感じさせるものだったが、だからといって、憂鬱一点張りの感じでもなかった。

いくら卑小だとはいえ、この汚れっ面の甲虫は、とにもかくにも這い上がりを続けていく―それが、まさしく、船にやらせようとしたことなのだ。

巡礼たちはどこにたどり着くつもりだったのか、僕の知ったことじゃない。

何かを手に入れることのできる場所に行き当たりたいと思っていたに違いないさ!

僕としては、船はクルツに向って一歩一歩と近づいている―ただ、それ一筋の思いだった。ところが、困ったことに、蒸気のパイプが漏りはじめ、船足はガタ落ちになってしまった。

河筋は、僕らが進む前方には開けていったが、船が過ぎた跡は、また閉ざされてしまう感じだった。

それは、まるで、森がのっそりと河の流れに踏み入ってきて、僕らの帰りの路を塞いでしまうように見えた。

僕らは深く、より深く、闇の奥へ入り込んで行った。

死んだような静けさだった。夜中に、時々、樹々のカーテンの向こう側で鳴る太鼓のひびきが河を上がって来ることもあったが、それは、われわれの頭上はるかの大気のなかでたゆたうかのように、空が白むまで、仄かに残っていた。

その太鼓の音が、戦いを意味したのか、平和を意味したのか、それとも祈祷であったのか、知る由もなかった。

その音が絶えて、冷たい静寂が降りて来ると、ほどなく朝が明けるのだった。

木こりたちは眠りをとり、焚き火も燃え尽きて、誰かが焚き火の小枝を一本ポキンと折る音にもハッと驚かされることもにもなる。

いうなれば、僕らは、見知らぬ遊星のような様相を帯びた地球、歴史以前の地球の上を彷徨っていたのだ。

僕らは、深甚な苦痛と過酷な労役の末に手が届いた、ある呪われた遺産を所有しようとする最初の人間たちのように、自分らに思い描くこともできたかもしれぬ。

ところがだ。船が、流れの曲がり角をやっとこ回り終えたところで、重く、動きのない樹々の繁みの垂れ下がった際に、突然、イグサ造りの壁や尖った草葺き屋根がチラリと見え、ほとぼしる叫び声が聞こえ、黒い肢体の群れが乱舞し、手を打ち、足を踏み鳴らし、からだをゆさぶり、目玉をぎょろぎょろさせているのが、視界に飛び込んできた。

この黒々とした不可解な狂乱のへりをスレスレに、船はゆっくりと遡航の骨折りを続けた。

あの先史時代の人間たちが、僕らを呪っていたのか、祈っていたのか、それとも喜び迎えていたのか―誰が分かるだろうか?

僕らを取り巻くものへの理解から、僕らは断ち切られてしまっていた。狂人病院の中の熱狂的な狂躁に直面した正気の人間のように、僕らは仰天し、心中ぞっとしながら、まるで亡霊のように、その場を滑り抜けていったのだ。

理解もできなければ、記憶をたどることもできなかった。

なぜなら、僕らはあまりにも遠い所に来てしまったのであり、原始時代の夜を、ほとんど何の痕跡も―何の記憶も残していなく遠くに去ってしまった時代の夜を、いま旅しているのだったから。

「大地は大地とは思えぬ様相を呈していた。屈服した怪物が繋がれた姿なら、僕らも見慣れているが、しかし、あそこでは―あそこでは自由なままの怪物が目の当たりにすることができるのだ。
この世のものとは思えない―そして、あの男たちも―いや、彼らも人間でないのではなかった。
分かるかい、彼らも人間でなくはないのだという疑念―これが一番厄介なことだった。その疑念は、じわじわ迫って来る。彼らは、唸りを上げ、跳ね上がり、ぐるぐる回り、すさまじい形相をひけらかす。
だが、こちらを戦慄させるのは、彼らも人間だ―君らと同じような―という想い、眼前の熱狂的な叫びと、僕らは、遥かな血縁で結ばれているという想念だ。

醜悪、そうたしかに醜悪だった。しかし、もし君に十分の男らしさがあれば、君のうちにも、ほんの微かとはいえ、あの喧噪のおぞましいまでの率直さに共鳴する何かがあることを認めるのじゃないかな。
そのなかには、君にも―原始時代の夜から遠く遥かに離れてしまった君にも理解できる意味が込められているのはないか、という朧げな疑念だ。
考えてみれば何も驚くにあたらない。人間の心は何でもやれる―なぜなら、そのなかに、過去のすべて、未来のすべて、あらゆるものが入っているのだから。
あそこには、いったい何があったのだろう?
喜びか、恐怖か、悲嘆か、献身か、勇気か、怒りか―誰が分かろう?―しかし、真実というもの―時という覆いをはぎ取られた裸の真実のたしかにあった。
馬鹿な奴どもは仰天し震え上がるに任せておこう。
―男たるものは、その真実を知っている。
瞬ぎもせずにそれを直視できる。
だが、それには、河岸にいた連中と少なくとも同じぐらい赤裸の人間でなければならぬ。
その真実に自分の本当の素質をもって―生まれながらに備わった力で立ち向かわねばならないのだ。
主義?そんなものは役に立たぬ。あとから身につけたもの、衣装、見た目だけの服、そんなボロの類いは、一度揺さぶられると、たちまち飛び散ってしまう。
そんなものじゃない、一つのしっかりした信仰が必要なのだ。
この悪魔じみた騒ぎのなかに、訴えかけてくるものがあるかって?よかろう。僕にはそれが聞こえる。しかし、僕には僕の声もある。そして、それは、善きにしと、悪しきにしろ、黙らせることのできない言葉なのだ。
いうまでもないが、馬鹿者なら、すっかり腰を抜かしてしまうとか、繊細な感情とかいうやつのおかげで、いつも安全だ。
誰が、そこでぶつくさ言っているのは?
お前は、岸に上がって、一緒に叫んだり、踊ったりはしなかったじゃないか、と言うんだな?
そう、たしかに―僕はそうしなかった。繊細な感情からかって?冗談じゃない。繊細な感情なんて糞食らえ!そんな暇はなかったのだ。
いいかね。漏れ出した蒸気管に包帯をするのを手助けするために、僕は白鉛と裂いた毛布を持って右往左往していたし、舵取りを見張り、河床の倒木を避けて通り、どうにかこうにポンコツ蒸気船を動かすことで精一杯だったのだ。
闇の奥
闇の奥
ISBN-10: 4879191620
ISBN-13: 978-4879191625
ジョゼフ・コンラッド

藤永茂

闇の奥



King Kong Heart of Darkness





 


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