2015年9月25日金曜日

G・バタイユ著 酒井健訳「ニーチェについて 好運への意志」現代思潮社刊pp.179-182より抜粋

突然そのときがやってくる―困難、不運、そして裏切られた大きな興奮。そのうえ試練の脅威も加わる。私はぐらつく。
しかもたったひとりのままで。
私はどのようにして生に耐えてよいのか分からなくなる。
いやむしろ私はどうすればよいのかは分かっている。
自分を強固にし、己れの衰弱を笑いとばし、以前のように自分の道を行けばよいのだ。
だが今の私は神経がいらだっている。それに私は、酒を飲んだためにしまりなく乱れてしまっており、たったひとりであることを、待ち望んでいることを不幸だと感じている。
この苦痛は耐えがたい。ただしこれは、この苦痛がいかなる不幸の結果でもなく、単に好運が一時的に隠れてしまったことの結果にすぎないという限りでの耐え難さであるのだが。
(もろくて、つねに賭けの不安定さのなかにある好運。私を魅了するとともに消耗し尽くす好運。)
今こそ私は、自分を強固にし、自分の道を進もうと思う(私はもう開始した)。
行動するという条件で!
私は細心の注意をはらって自分の作品を書き表してゆく。
あたかもこの仕事に価値があるかのように。
行動するという条件で!
なすべきことを持つという条件で!
それ以外に私はどうやって自分を強固にできるというのだろう。
私はどうやって、何ものも癒してくれそうにないこの空虚に、このむなしさと渇きの感覚に、耐えうるというのだろう。
とはいえ、なすべきこととして私が持っているのは、唯一、これを書くということ、この本、すなわち私が、この世に何一つすべきことを持たないという自分の失望(絶望)を語ったこの本を書き上げるということだけなのだ。
衰弱の低点にあるこのときに、(衰弱といってもたしかに軽度のものであるが)、私は見抜く。私は、この世に、目的を、行動する理由を持っている。
この目的は定義しえない。
私は、険しくて、試練が続いている一本の道、途中で私の好運の光明が私を見捨てるなどということが絶対に起きないような道を想像してみる。
不可避なことを、来るべきあらゆる出来事を、想像してみる。
八つに引き裂かれているときにも、あるいは嘔吐感を催しているときにも、足の力が抜けてしまう衰弱時にあっても、さらには死の瞬間のときにさえ、私は賭けているだろう。
私のもとに到来し、倦むことなく自らを更新し、騎士が自分の伝令に先行するように毎日私に先行していた好運、いかなるものからも絶対に限定を受けなかった好運、夜のなかから放たれた矢のような私と綴ったときに私が呼び集めていた好運、この好運は、私の愛する人に私を結びつけ、最良のことと最悪のことのためにとことん賭けられることを望んでいる。
そしてもしも誰かが私のそばに好運を見つけるということが起きたならば、その人にはこの好運を賭けてもらいたい!
この好運は、私の好運ではない。その人の好運だ。
その人は、私と同じく、この好運をつかむことができないだろう。
その人は好運について何も知らないまま、好運を賭けるだろう。
しかしいったい誰が好運を賭けずして好運を見ることができるというのか。
私の文章を読んでくれている君、君が誰であろうとかまわない。
君の好運を賭けたまえ。
私がしているように慌てずに賭けるのだ。
今これを書いている瞬間に私が君を賭けているのと同様に君も賭けるのだ。
この好運は君のでも私のでもない。
すべての人の好運であり、すべての人の光なのだ。
はたして好運は、夜が今好運に与えているような輝きをこれまで持ったことがあるだろうか。
ニーチェについて―好運への意志 (無神学大全)
ニーチェについて―好運への意志 (無神学大全)
ISBN-10: 4329001071
ISBN-13: 978-4329001078
ジョルジュ・バタイユ

































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