2022年3月14日月曜日

20220314 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン著 石塚雅彦・小林恭子 訳「チャーチル・ファクター」 pp.195-197より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳「チャーチル・ファクター」 pp.195-197より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

チャーチルはイギリス精神、つまりは不屈の魂そのものに生まれ変わりつつあった。あのふっくらと丸みのある頬、陽気さが漂う上向きの唇、実直そうな目を思い浮かべていただきたい。200年以上にわたり、ヨーロッパのどんな敵に対しても、荒っぽくも陽気な典型的イギリス国民として描かれるあの恰幅のいい紳士、ジョン・ブルがチャーチルに乗り移ったかのようだった。チャーチルは18世紀のナポレオン時代から出版物やプロパガンダで使われたこの典型的イギリス人像を思い起こさせる資質をふんだんに備えていた。

 ずんぐりとした体型、陽気で騒がしく、贅沢な暮らしを愛し、多くの人がうんざりするくらいの愛国心がある。しかしこの度を超えた愛国心こそ、第二次世界大戦の危機の最中において、最も必要なものだった。チャーチルのライバルとされた政治家ハリファックス、チェンバレン、外交官スタッフォード・クリップス、イーデン、アトリ―。彼らの愛国心はその域には達していなかった。

 当時、ほかのイギリスの政治指導者がトミー銃を手にし、その姿を写真に撮られていたらただではすまなかっただろう(実際に、今でも銃を手にして写真を撮られるのは政治家にとっては絶対の御法度とされている。銃に触ろうものなら広報担当者が金切声を出すだろう)。どの政治家も銃を持って様になるほどの威厳に欠けていたし、チャーチルのような個性、外見、カリスマ、切れ味を持っていなかった。

 戦時に国を主導し、深刻な不安感が広がるなかで国民を一つにまとめるには、政治家は、深く感情に訴える手法で「国民とつながる」必要がある。抗戦する理由を論理的に訴えるだけでは十分ではなかった。勇敢であれと強く勧めるだけでは不十分だった。

 国民を振り向かせ、励まし、焚き付ける必要があった。国民を笑わせ、さらに敵を笑えるようにできればなおよい。国民を動かすには、チャーチルは国民とイギリスの基本的な国民精神ともいうべきものを通じて、どこかで一体になる必要があった。

 ではイギリス人の主たる特徴とは何か。イギリス人たち自身にいわせればこういうことになろう。まずはどこかの国の人々とは違って、素晴らしいユーモアの感覚がある。シェークスピアが「オセロ」で酷い飲酒の歌をイアーゴやカッシオに歌わせてからというもの、イギリス人はオランダ人を泥酔させ、デンマーク人を酔い潰すほど酒が強いことを誇りとしてきた。イギリス人はまた、過度にやせている人には若干の不信感を持つ傾向がある(今やイギリスは世界第二の肥満体国だ)。そして一般的に、イギリス人は、自分たちの国は奇人、変人、変わり者の宝庫であると考えている。

 チャーチルの山高帽の下には、ユーモア、大酒のみ、肥満、変わり者という四つの特徴すべてが収まっていた。1940年時点でのチャーチルの役割を考えると、興味深いのは彼のこうした性格がそれだけ作為的だったのかという点だ。すべてが完全に無意識に自発的に発生したのだろうか?あるいは、チャーチルは本当に自己演出、情報操作の達人だったのだろうか?

公の場でのチャーチルの光り輝くような個性は、チャーチル本人とその関係者がつくった伝説であったという見方をする人は少なからずいる。ただひとついえるのは、チャーチルの不遜さ、時に棘のある機知といった性格はまさにジョン・ブルそのものであった。


20220313 地域を特徴付けるものの考察と日常経験としての読書の意味

これまでに作成した【架空の話】にて、苗字から、その方の出身地を類推する描写がいくつかありましたが、こうした興味自体は、以前、ホテルにてフロントとして勤務していた頃からあり、たとえば、ある地域からの団体宿泊客が来訪の際、その添乗員もしくは幹事の方から、宿泊客の名簿をお預かりすることが多く、その名簿を眺めていますと、ある同じ苗字が複数見つかることがあり、そして、そうしたことが続きますと、次第に「ああ、この地域には、この苗字が多いのか・・。」といった、ある種の抽象化を行うようになります。

一たび、そうした抽象化を覚えますと、今度は、それをホテル宿泊客以外の日常生活においても用いるようになり、あまり多くはありませんが、その方の苗字から、出身地域を見出したこともあります。さらに、これまた、いくつかの記事にて述べましたが、ある地域に在住し、しばらく経ちますと、その地域特有の顔貌の傾向の種類なども、ボンヤリとながら分かるようになり、それはまた、n数が増えることにより、そのボンヤリが、わずかに明晰化され、そして、より実感として、さきの苗字と同様「ああ、この地域には、こういった顔貌の傾向が多いのか・・。」といった感覚を得るに至りますが、それでも、こうした認識には総じて「完全」というものはなく、とにかく、具定例としてのn数を増やしていくことにより、その精度を徐々に上げて「完全」に近づけるのが最善であるように思われます。

さて、この「顔貌の地域性」ですが、それらしき感覚を覚えるようになったのは、これもまた南紀でのホテル勤務の頃であったと記憶しています。南紀白浜は、古くからの温泉地であり、また海水浴場もあることから、特に夏季での観光客が多く、また勤務ホテルに隣接する白良浜の一帯は、さらに人口密度が高く、その中を行き来しつつ、フロント業務を行っていました。また、この時季はホテルとしては書入れ時でもあり、あまり休日も取れず、たしか22日間以上の連続勤務もありました・・。とはいえ、こうしたことは、現在になって責める気は全くなく、また、当時の我が国の少なからずの企業は、実質的には、そのような感じであったのではないかと思われます・・。

そうした視点からすると、たしかに我々の社会は変化しているのだと実感しますが、ともあれ、ハナシを「顔貌の地域性」に戻しますと、その後、大学院生として今度は和歌山市内に在住、生活をしていますと、また、そうした関心が生じてきましたが、この時は「顔貌」に、その関心を集約させることはなく「他の地域を特徴付ける(説明し易い)事物を見出そう」と考え、その対象としたものが、当ブログにて何度か述べている銅鐸でした。銅鐸への関心自体は、それ以前の南紀在住時からあったものの、それはいわば漠としたものであり、地域を特徴付ける事物として認識はしていませんでした。とはいえ、後になって考えてますと、そうした方向性の志向や統合を受けていない、いわば「混沌とした知覚の状態」といったものが、さまざまな実験曲線でのプラトーのようにあるのではないかとも思われてくるのですが、ともあれ、こうして私は、日常的な経験から銅鐸を当地域を特徴付けるものと設定した次第ですが、その背景には(一応)日常的な経験として、銅鐸に関する記述のある書籍を読んでいたということがあります。そして、ここまで作成していて、日常的な経験として、あまり実生活には密着し過ぎないで、且つ、ある種の事実を記述した文章を読み続けることが、意外と重要であるように思われてきましたが、さて如何でしょうか。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2022年3月13日日曜日

20220312 地域にて特有の傾向やパターンについて・・

昨日は病み上がりの感が少しありましたが引用記事を2本、新規にて作成・投稿しました。そして、本日に関しては「記事作成をせずに何冊かの書籍を読み進めた方が・・」と考えていましたが、さきほど、当ブロガーでの閲覧者数を見たところ、かなり以前に投稿し、また、ここ最近ではツイッターでの連携投稿もしていなかった、いわば「半ば忘れていた」とも云える記事がいくつか閲覧されていたことから、本日に関しても、何かしら作成しておけば、後日、誰かに読んで頂けることもあるかもしれないと考え、気を取り直し、現在作成している次第です・・。

とはいえ、上述の「半ば忘れていた記事」が(何故か)閲覧されていることは、本日以外にも度々ありましたが、本日に関しては、その「半ば」が無い方がより適切と云える記事が読んで頂けていたことから、また少し新鮮に、こうした感覚を抱くのだと云えます。そして、そうした記事を具体的に示すことも検討しましたが、そうした記事を提示して、それが閲覧された理由などを考えることは、私としては多少面白いかもしれませんが、その過程をいくらかは興味を惹くようなカタチにて文章化が可能であるかと考えたところ、困難と思われたことから、これは実行せずに、その代替として先日ツイートした「こちらはまた手を加えて、新たな記事にしたいと」を実行しようと思います。

さて、国内であれ世界規模であっても、それまで慣れ親しんだ地域や場所から離れて他所に移り住み、そこでしばらく暮らしていますと、その地域や場所に住む人びとの顔貌や身体での特徴的な、ある種のパターン、もしくは傾向のようなものが認められるようになるのではないかと思われます。

そして、現在のように各種交通網が発達していなかった、つい200年ほど以前の社会においては、当然の如く、人びとの移動も現在と比較すると乏しく、そこから、より一層そうした地域にて特有の顔貌や身体的特徴のパターンや傾向を、強く認識することが出来たのではのではないかと思われます。

また、そのような認識の延長にあるものが、古語で大和朝廷側でない、いわば列島内東部での蛮族を示すコトバとしての毛人、蝦夷(えみし)といったものであると思われます。こうしたコトバは古語らしく直截的にその身体的特徴(毛が多い、エビのよう)を述べていると云えます。

そして、それら地域には、そうした身体的特徴が系譜のように、今なお続いているのではないかと思われますが、そこに、さきのパターンや傾向を関連付けることにより、ある方面からの、その地域の歴史の流れのようなものを認識することも可能であるように思われます。

しかしながら現代に至っては、人の往来も過去の時代と比較すると(概ね)活発であると云え、そこから、古来からの地域特有の身体的特徴なども認識し難い状況になっていると云えます。

自分の記憶から、あらためて、こうしたことを思い出そうとしますと、関西、九州、四国の何れであっても、それら地域の身体的特徴を真似することは困難であることから、地元の所作、コトバ使いなどをはじめとする、文化全般を真似ようと試みましたが、関東人によるそうした試みは、九州以外ではあまり歓迎されるものではなく、さらに、こちらもなかなか表面的な同化が出来ないことに苛立ち、次第に開き直り、そして、自前の人工的とも云える関東弁にて押し通すようになりました。

さらに、その結果として、それぞれ在住していた地域において、自分を「異邦人」であると強く認識するようになり、そして、それら在住する地域を殊更に客体化して見る姿勢が身に着いてしまったのではないかとも思われるのです・・。

しかし、このいわば自然に覚えてしまった習癖、あるいは視座のようなものは、出身地に戻ってからは、今度は、自分の出身地に対して向けられるようになっていましたが、私見としては、この経験が思いのほかに重要であったのではないかと、最近になっては思われるところです。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


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2022年3月12日土曜日

20220311 集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻 pp.292-297より抜粋

集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻
pp.292-297より抜粋

ISBN-10: 4087607372
ISBN-13: 978-4087607376

ロシアを別とすれば、旧ソ連の共和国のなかで人口が最大で最も重要な国は、ウクライナである。歴史上、ウクライナが独立国だったことは何度もある。だが、近代の大半はモスクワが政治的に支配する地域の一つだった。決定的な出来事は1654年に起きた。ポーランドの支配にたいするコサック人の反乱を指導したボグダン・フメリニツキーが、皇帝に忠誠を誓うことに同意し、その見返りとしてポーランドにたいする反乱の支援を受けたのだ。そのときから1991年までのあいだ、1917年から1920年の短い期間に独立共和国だった以外は、いまのウクライナにあたる地域は政治的にモスクワの支配下にあった。だが、ウクライナは異なる二つの文化からなる分裂国だ。西欧文明と東方正教会の文明をへだてる断層線がウクライナの中心部を走っており、しかもその状態は何世紀もつづいている。かつてウクライナ西部は、ときにはポーランドやリトアニアやオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったこともあった。国民の多くは東方帰一教会の信者であり、東方正教会の儀式を行うが、ローマ教皇の権威を認めている。歴史的に、西部のウクライナ人はウクライナ語を話し、民族主義的な考え方をする傾向が強い。他方、東部のウクライナ人は圧倒的多数が東方正教会系であり、大部分がロシア語を話す。1990年代前半には、ウクライナの全人口の22%をロシア人が占め、ロシア語を母語とする人びとが31%を占めた。小中学校も、ロシア語で教育しているところが多数を占めた。クリミアは圧倒的多数がロシア人であり、1954年までロシア連邦の一部だったが、その年にフルシチョフがウクライナに帰属させた。建前のうえでは300年前のフメリニツキーの決意を認めたということである。

 ウクライナの東部と西部のちがいは、そこに住む人びとの意識にあらわれている。たとえば1992年末に、ウクライナ西部のロシア人の三分の一がロシアにたいする敵意に苦しんでいると答えたが、キエフでそう答えたのはわずか10%だった。東西の分裂が劇的にあらわれたのは、1994年7月の大統領選挙だった。現職のレオニード・クラフチュクは、ロシアの指導者と緊密に協力しあいながらもみずからを民族主義者と称していたが、西ウクライナの13州で勝ち、得票率が90パーセントを超えたところもあった。対立候補のレオニード・クチマは、選挙戦のあいだにウクライナ語の演説を練習し、東ウクライナの13州をクラフチュクに匹敵する得票率で獲得した。クチマは最終的に52%の得票率で当選した。事実上、1994年のウクライナの国民は1654年のフメリニツキーの選択をわずかの差で承認したことになる。この選挙は、あるアメリカ人の専門家によれば「西ウクライナのヨーロッパ化したスラブ人と、ロシア系スラブ人の考えるウクライナの理想像との分裂を反映し、それを明確にしさえした。それは民族の分裂というよりも、文化のちがいなのである」

 この分裂のために、ウクライナとロシアの関係には3通りの発展の可能性が考えられた。1990年代前半、両国のあいだには決定的に重要な問題が存在した。それは核兵器をめぐる問題であり、クリミア問題であり、またウクライナに住むロシア人の権利や、黒海艦隊や経済的な関係の問題であった。多くの人びとが武力衝突を予想し、そのために西欧の評論家のなかには、西欧はウクライナの核兵器保有を支持してロシアの侵略を防ぐべきだと主張する者もいた。しかし、重要なのが文明であるなら、ウクライナ人とロシア人とのあいだに武力衝突が起こることは考えられない。両者ともスラブ人で、大半が正教会系であり、何世紀にもわたって緊密な関係を保ち、両者のあいだの結婚もごく普通に行われている。大いに論争を呼ぶ問題をかかえ、どちらかの国にも過激な民族主義者の圧力がかかっているにもかかわらず、両国の指導者は努力を重ねて、こうした紛争の鎮圧におおむね成功している。1994年半ばのウクライナの選挙で、ロシア志向を明確にした大統領が選ばれたことにより、両国間の対立が激化する可能性は低くなった。旧ソ連の他の地域ではイスラム教徒とキリスト教徒のあいだに深刻な争いが起って、ロシアとバルト三国のあいだでも緊張が高まり、戦闘も勃発している一方で、1995年現在、ロシアとウクライナのあいだには武力衝突は事実上一度も起こっていない。

 二つ目の、もっと実現の可能性のある道は、ウクライナが断層線にそって分裂し、二つの独立した存在となって東側がロシアに吸収されるというものだ。分離問題が最初にもちあがったのは、クリミアに関してだった。クリミア共和国は人口の70%がロシア人であり、1991年12月の国民投票では、ウクライナのソ連からの独立にたいする支持がかなり高かった。1992年5月にクリミア議会はウクライナからの独立を宣言することを決議したが、ウクライナの圧力でその決議を撤回した。しかしロシア議会は、1954年のウクライナへのクリミア半島割譲を撤回すると決議した。1994年1月、クリミアでは「ロシアとの統合」を主張していた候補者が大統領に当選した。これによって一部の人びとが抱いた疑問は、「クリミアは第二のナゴルノ=カラバフやアブハジアになるのだろうか」というものだった。その答えは明確な「ノー!」だった。クリミアの新大統領が、独立を問う国民投票を実施するという公約をしりぞけ、キエフの政府と交渉したからだ。1994年5月、クリミア議会が1992年の憲法の復活を決議し、ふたたび難しい局面を迎えた。その憲法は、事実上ウクライナからのクリミアの独立を認めるものだったのだ。だが、このときもロシアとウクライナ双方の指導者が自制して、この問題が暴力に発展するのを防ぎ、二か月後にロシア寄りのクチマがウクライナの大統領に選ばれたことにより、クリミアの分離運動はおさまった。

 しかし、この選挙によって、ますますロシア寄りになりつつあるウクライナから西部が 分離する可能性がでてきた。ロシア人のなかには、それを歓迎する者もいるようだった。ロシアのある将軍はこう言った。「ウクライナ、というよりも東ウクライナは、5年か10年、あるいは15年のうちに戻ってくるだろう。西ウクライナなどどうにでもなれ!」だが、そのような東方帰一教会の影響下にありながら西欧寄りであるウクライナが存続できるのは、強力かつ効果的な西欧の支援がある場合だけだ。そして、西欧がそのような支援をするのは、西欧とロシアの関係が極度に悪化し、冷戦時代に似た状況になった場合だけだと思われる。

 三つ目のさらに可能性の高いシナリオは、ウクライナが統一を保ち、分裂国でありつづけ、独立を維持し、おおむねロシアと緊密に協力しあうというものだ。核兵器と軍隊の移転の問題が解決すれば、最も深刻な長期的問題は経済に関するものとなり、部分的に共有する文化と緊密な個人的関係によって、その問題の解決がうながされるだろう。ロシアとウクライナの関係が東欧にもたらすものは、ジョン・モリソンが指摘したように、フランスとドイツの関係が西欧にもたらすものと同じだ。後者が欧州連合の核をなすのとちょうど同じように、前者は正教会系の世界の統一に不可欠な核なのである。

2022年3月11日金曜日

20220311 東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.281-283より抜粋

東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.281-283より抜粋
ISBN-10 : 4488010512
ISBN-13 : 978-4488010515
 

電灯・・・当時、愚かな連中は未来がすぐそこにあるように感じていた。エジプトで地中海と紅海を結ぶ運河が開通して、アジアに行くのにアフリカを迂回する必要がなくなった(迂回航路が不要になって、多くの正直な海運会社が被害を受けることになる)。万国博覧会が開催された。その建築物を見ると、オスマンによるパリの解体工事はまだ序の口だったと思われた。アメリカでは東から西まで大陸を横断する鉄道の敷設が完成しようとしていた。ちょうど黒人奴隷が解放されたところで、この下等民族が国全体を侵略して、ユダヤ人よりひどい性悪の混血の溜まり場に変えてしまうに違いない。アメリカの南北戦争で潜水艦が登場し、水兵は溺死ではなく窒息死するようになった。両親の世代が吸っていた立派な葉巻は貧弱な紙巻煙草に変わり、一分で燃えつきて喫煙者の愉しみは消え失せた。しばらく前からフランス兵士は金属の箱に保存されて傷んだ肉を食べていた。アメリカでは、水圧ジャッキで建物の高層階に人を運ぶ密閉された小部屋が発明されたという噂だった。-土曜日の夜にジャッキが故障してその小部屋に人が二晩閉じ込められ、水と食料どころか空気がなくなって死んでいるのが月曜日に発見されたというニュースさえすでに届いていた。

 生活はますます便利になり、誰もが喜んでいた。離れた場所にいながら会話できる機械や、ペンを使わずに書く機会の研究が進んでいた。偽造すべき原本というようなものがこの先も存在するのだろうか。

 人々は香水店のショーウィンドゥに見とれていた。ワイルドレタスの樹液には肌を若がえらせる効果があるとされ、キナの増毛効果が称賛された。バナナのポンパドゥール・クリーム、カカオ脂の乳液、パルマ・スミレの白粉、これらはいずれも色っぽい女性をさらに魅力的にするために発明されたものだが、今ではお針子娘も使っていた。多くの仕立て屋で彼女たちに代わって縫い仕事をする機械が導入されはじめたので、お針子娘は愛人になる用意ができていたのだ。

 新時代の唯一の興味深い発明は、座って用を足せる陶製の便器だった。

 しかしこの私にしても、こうした目に見える人々の熱狂ぶりが帝国の終焉を示していたことに気づいていなかった。万国博覧会でアルフレート・クルップは見たこともない巨大な大砲を展示した、50トンの重量があり100ポンドの砲弾が発射可能だった。皇帝はとても気に入ってクルップにレジオン・ドヌール勲章を授与したほどであったが、ヨーロッパ各国に売りつけようとしていたクルップから武器の価格表が送られてくると、なじみの兵器会社を持っていたフランス軍上層部から注文を取りやめるよう説き伏せられた。一方、プロイセン国王がこれを購入していたことは言うまでもない。

 ナポレオン三世はかつての判断力を失っていた。腎臓結石のせいで、乗馬どころか食事も睡眠も取れず、保守派と妻の言いなりだった。彼らは今でもフランス軍が世界一だと信じていたが、実際は40万人のプロイセン軍に対してせいぜい10万人の兵士がいただけだ(あとになってわかったことだが)。すでにシュティーバーはシャスポー銃に関する報告書をベルリンに送っていた。フランスではシャスポー銃が最新鋭の小銃だと考えられていたが、実際はすでに博物館行きになりつつある代物だった。しかも、フランスにはプロイセンのような情報組織ができていないというのがシュティーバーの自慢だった。


2022年3月9日水曜日

20220308 読書やブログ記事作成の継続によって見えてくるもの・・【身体感覚?】

ここ最近の記事投稿の様子を見たところ、今月2月に入ってからは6日まで連続にて新規の記事投稿を行っていました。そこで、ここ数カ月での新規投稿の様子を確認したところ、その前の先月2月もまた、これと同程度での新規の記事投稿を何回か行っていることに気が付きました。
自身としては、あまり頑張らずに当ブログを続けて行きたいと考えていましたが、あらためて、これまでの投稿頻度を認識しますと、以前の1000記事到達に至るまでの期間(ほぼ毎日)と同様とまでは行かないもの、期せずとして、また、我が事ではありますが、それなりに頑張ってしまっているようにも見受けられます。

しかしながら、以前にも当ブログにて述べましたように、概ねこの程度の頻度にて新規投稿を行わないと、来る6月22日(当ブログ開始から丸7年)までに当面の目標である1800記事に到達することは困難であると思しきことから、多少先が思いやられはしますが、またしばらく、出来るだけ毎日、何かしら足掻いて作成して行きたいと考えています。

また、残念なことではあるのですが、同じくここ最近は、東欧地域にて国家間の全面戦争が勃発し、世界規模での緊張が高まっているのが現状と云えます。私が生きている間にも、世界の何処かで何度か紛争や戦争は生じていましたが、感覚的には、今回の戦争は、一方から他方へのまさしく侵略であり、しかもそれは、かつて帝国主義の時代での世界分割にも参画していた、いわば古くからの強国の後継国によるものであることが印象的でした。しかし同時に、こうした出来事を契機として、あらためて、この国の我が国に対する、あるいは近年の東欧および中東地域での活動を、書籍などを通じて情報を得て行きますと、徐々にではありますが、それらの中から、共通するいわば連続性のようなものが見えてくるのです・・。

残念ながら、その共通する連続性のようなものは、未だ私の知識・見識が不十分であるため、判然と言語化することは出来ませんが、ともあれ、そうした「見えてくる」といった感覚が、歴史や、より実地に即したものと云える国際関係論などを学ぶ際にとても重要になってくるのではないかと思われるのです・・。

いうなれば、それは一種の身体感覚であるようにも思われますが、こうした感覚の育成においては、どうも我が国は苦手であるように思われるのです。他方において、これもまた身体感覚とも云える医科系の臨床技術などについて我が国は、いかなる文化的背景・文脈によるものか、古くから高水準を維持していると思われます。

そして、ここまで作成していて、不図、加藤周一による「今昔物語」について述べた文章が思い出されてきましたが、その文章は未だ当ブログに引用記事として投稿していませんので、後日あらためて、その文章を記事として投稿したいと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2022年3月7日月曜日

20220306 昨日投稿記事の閲覧者数から思ったこと【耐性低下を補うもの?】

おかげさまで昨日投稿の記事は、投稿翌日の自身オリジナル記事としては多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、本日は新規での記事作成は止めておこうと考えていましたが、さきの閲覧者数であったことから、何かしら作成しておこうと考えをあらためて、さきほどからPCに向かっています。

昨日投稿の記事により、総投稿記事数が1725に到達していました。そうしますと、先日1700記事到達の際に次なる目標として定めた1800記事までの路程の四分の一にまで達したことになります。

これは、進捗状況としての評価は分かりませんが、ともあれ、このまま記事作成を続け、今月末には1740記事、来る4月末には1760記事、その先の5月末には1780記事、そして、当ブログをはじめてから丸7年となる6月22日には、当面の目標である1800記事まで到達することも、そこまでは困難でなく可能であるように思われます。

異言しますと「当ブログ7開始7年を迎えるまでに、目標である1800記事までの到達が可能」ということになりますが、これは粗く考えて、今後6月22日まで、1月に20+α記事作成することにより達成される目途が立ち得ますが、同時にこれは現在の私からしますと、達成可能ではあるものの、いささかキツイようにも思われます・・。しかし他方で、作成する記事のうち、またいくらかを書籍からの引用、あるいは先日不図思い付いたアイデアになりますが、これまでに作成した各々【架空の話】に、さらに何かしら別の挿話あるいは関連する書籍からの引用などを記事に組み込み、それらを新たな記事としてカウントすることにより、いくらかは、キツさが和らいで、そして達成の目途もより立ち易くなるように思われます。

さて、そのキツさですが、これは年齢の上昇と伴に、その耐性が明らかに低下しており、昨日の投稿記事にて述べた院生時代の講義や実習が重なった日などは、アパートに帰宅して玄関を入ってすぐの場所で、そのまま寝落ちしてしまったこともありましたが、たしかにこれは、前日からの準備なども含めて、また高温の炎を扱うことから、それなりに体力を消耗し、疲労を伴うものであったと云えます。それ故、当時の私はこの時期にだけ、エネジー・ドリンク*ッド・ブルと*カリスエットを1:5程度で割ったものを500mlのペットボトルに入れて持っていました。

そうしたエナジー・ドリンクを飲む習慣がない私からしますと、その効果は明らかにあったと思われますが、同時にその常用はあまりお奨めしません。その理由は、こうしたドリンクは体力を前借りするようなものであり、その後の疲労の具合がより激しいものになると感じられるからです。

他方で、さきに述べた耐性の低下を補うためには、やはり、何かしらの運動が良いのではないかと思われますが、これは現在のところ休日の散歩にて、大抵は5㎞以上、そして多い日には10㎞以上歩いていますので、これは継続しつつ、さらに走ることにより、新たな記事着想を得ることが出来るかもしれないことから、今後、もう少し暖かくなってきましたら、かなり久しぶりではありますが、また走ってみようかと考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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