2021年5月29日土曜日

20210529 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」 pp.403-408より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」
pp.403-408より抜粋
ASIN : B00J861M36

予感があった。私は中央道路に出て一散に門に向って駈けた。50米あった。門のあたりは反射燈に明るく照らし出され、番兵が一人立っている。門外の暗闇から一人の米兵が何かを叫びながら、こちらに駈けてくる。彼は忽ち門に着き、番兵と肩を叩き合い、抱き合って踊った。

 第一次大戦を取材したアメリカ映画をいくつか見ていた私は、この光景が何を意味するかを知っている。訊かなくてもわかっている。

 私は止った。この間に道路左側の大体本部から大隊長イマモロと副長のオラが駈け出して来ていた。いざとなると、さすがに職業軍人は足が速い。私が止る頃には門に着き、番兵と二言・三言交わすと、さらに外の収容所事務所の方へ駈けて行った。有刺鉄線を隔てた台湾人地区から大隊長の李も門に着き、すぐ両手をあげて、何か叫びながら引き返して行った。事態はいよいよ明白であった。

 私は廻れ右をした。歩むにつれて、柵を隔てた台湾人地区の中で音が起って行った。木を叩く音、ブリキを叩く音に、歓声が混った。他の中隊の幹部が駈けて来るのに遭う。

「何だ、一体」と聞かれた。

「イマモロが事務所へ行ってますよ。戦争は終わったらしい」と答えると「え」といってそのまま摺り抜けていった。

中隊本部の前には不安な人々が群れていた。中隊長は大隊本部へ行っていた。探照燈は依然として北東の空に動き、汽笛の音が続いていた。

「大岡さん、どうしたんですか」

「さあね、どうも戦争が終わったらしいですよ。樋渡さんが戻ればわかるでしょう」

「日本負けたんやろうか・・」

「まあ、そんなところだね」と暗闇から声がする。

「誰だ、おかしなこという奴は。出て来い!」と第四小隊長の上村がいう。群は曖昧に揺れるが、犯人は出て来ない。こっちも踏み込んで引きずり出す勢いもない。

「ちぇっやけに騒ぎやがるな」

と上村は喧騒が次第に高くなって行く台湾地区を見やりながらいう。何を焚いているのであろうか、方々に火の手が上がって高い椰子の梢を照らし出している。中隊長が帰って来た。小隊長の前に立ってぶつけるようにいう。

「日本が手を挙げたんだね。ラジオでやってたんだそうだ」

どよめきが起った。上村は「え、ほんとか、けっ、イマモロによく聞いて来なくちゃ」といって駈け出して行った。

「ふっ、何度聞いたって同じことさ」と中隊長は、呟いた。本部前の人影は音もなく散った。間もなく四つの小隊小屋にどよめきが起り、中に号泣の声が響き渡った。音は次第に各中隊に拡がり、収容所全体が一つの声となって挙がって行くように思われた。

一人の若い俘虜が泣きながら飛び込んで来て、中隊長にかじりついた。「樋渡さん、ほんとですか。嘘だといって下さい。嘘だと。まだ負けたんじゃないでしょう。負けるはずないです。ねえ、樋渡さん」

「さあね。まだ詳しいことはわからねえ。とにかくそう泣いたってしょうがねえよ。」中隊長は私の方をちらと見た。

「哭き叫ぶ言葉も尽きてますらおは土に打ち伏し崩れつつ止む」と俘虜の中の歌人が歌った。誇張されているが、多くの泣く人影が小屋の内外で抱き合い、もつれたのは事実である。

 空に上がった探照燈の光はいつか数が減り、汽笛の音も止んでいたが、収容所の騒ぎはいつ果てるとも見えなかった。台湾人地区のブリキを叩く音は続き、何か歌の合唱になって行った。

 第三小隊長の広田が飛び込んで来た。彼は俘虜の中の過激派である。

「樋渡さん、どうにもならん。みんな台湾子んとこ斬り込むちゅうて、外に集まっとる。野郎うれしそうに騒ぎやがって」といって台湾人地区を睨んだ。

「集まったのか。お前さんが集めたんじゃないのか」と中隊長は怒鳴った。

「そんなことない。みんな柵を乗り越して殴り込むというとる。ありたけの蛮刀集めとる」

「蛮刀?」といって中隊長は立ち上がった。

蛮刀は凶器であるから、俘虜は保管を許されず、朝倉庫から受領して夕方返納することになっている。しかし永い間にいつとはなく、所謂「員数外」が出来て、各棟不時の用に二本ぐらいずつは隠しているのである。

「お前さんの棟はもう出したのか」

「いや、まだだ。まだある」

「そいつを持って来て貰おう」

と中隊長はいい放った。広田は何か口ごもった。中隊長は重ねて、「とにかくそれを持って来てくれ。連中は私が引き受けた。おい、小隊長集合」と小屋の後部にかたまっていた炊事飲の一人に命じておいて、台湾人地区襲撃隊の集まっているという中庭の方で出て行った。

 成程、中庭中央の暗闇に二十人ばかりの人影が動いているのが見える。中隊長の後姿が近づいて行く。私は随いて行かない。結果は明瞭だったからである。柵を越えるなんてそう簡単に出来ない上に、米兵に射たれる。台湾人が空騒ぎしたぐらいで、本気で命を賭けに行く者は、俘虜の中には一人もいないはずだ。 

 中隊長の演説している声が暫く聞えていたが、やがて笑いながら帰って来た。

「広田のおっちょこちょいには困ったもんだ。三小隊の奴等ばかりさ、やめるなら、最初からやるなんていわないもんだ」

四人の小隊長が集まった。彼等はみな眼を赤くしていた。

「木村は全く可愛い奴や、泣きながら飛びついて来やがって、ええところあるで、彼奴は」と人情家の第一小隊長の吉岡が興奮していった。木村というのは、さっき中隊長にも飛びついた若い俘虜である。彼は方々幹部に飛びついて歩いているらしい。

2021年5月28日金曜日

20210528 左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」 pp.29-30より抜粋

左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」
pp.29-30より抜粋

ISBN-10 : 4865281029
ISBN-13 : 978-4865281026

新聞は、内務班にはなかったけれども、中隊事務室に行けば割合読めたな。ラジオは内務班に置いてあった。さっき言ったように対馬は火力発電だったが、昼間はもちろん送電停止なわけだ。終戦の1945(昭和20)年は、陸軍官舎かの仕事で、寺田軍曹に引率されて、三人だったか四人連れだったかで営外に出ていた。鶏知川から高浜演習砲台のほうへ行ったら、向うでラジオの音がするんだよ。そして、誰か寝そべって聞いているんだ。「おかしいなぁ、送電停止のはずなのに今日はラジオが鳴っているが・・?」と思っていたよ。

 それで用を済まして帰ってきたら、もうラジオも聞こえなくなっていた。その時間だけ、玉音放送のため、特別に電気が通じていたのだな。営門を入ったら、林という屈強な上等兵が「日本は負けたぞ」と言うんだよ。何か冗談言っていると思ったね。私も、だんだん情勢が押し詰まってきて、「ああこりゃ、この対馬も玉砕だ、もう助からん」とは思っていたがね。「冗談言うな」と応えたら、「いや、今、玉音放送があったんだから間違いない」と言う。それでもまだ半信半疑だったが、晩になって、ラジオで再放送を聞いて、「あー、やっぱりポツダム宣言を受けたんだな」と判った。・・・・いや、昼間の玉音放送から夜までの間に、正式な訓示とかは何もなかったよ。

 それから、翌日の16日だったか次ぎの17日だったか、聯隊本部にあるいわゆる「御真影」を焼いて、それから、菊の御紋章を連隊長が力作のハンマーで割ろうとするんだが、連隊長も四十幾つで若くはないから、なかなか割れないんだ。そのときは、みんな巻脚絆・帯剣の軍装で並んでいた、こういう”式”があったなあ。

 戦争が終わったら、みんな腹の中じゃ喜んでいたようだったねぇ。ある曹長が町から帰ってきて憤慨していたよ。曹長は長い剣を吊っているんだが、それまでは言わば"軍人さん、軍人さん”ってへいこらしていた鶏知町の女たちから、「あんた、こんなもんぶら下げて何してんの」と軍刀を持ってからかわれたって。そういうものなんだよ。戦争中は戦争サマサマのようにしていたのに、終わった途端、軍籍にある者を馬鹿にする人間も現れる。

2021年5月27日木曜日

20210527 記事作成の止め時の設定と作成前の葛藤について・・

 さすがにブログ記事を1500以上作成してきますと、時折「もう十分かもしれない・・。」と思うこともあるのですが、他方において「ある程度区切りの良いところまでは・・。」とも思い、そして、現在にまで至っているというのが、一面における、1000記事到達以降の当ブログ作成についての経緯であると云えます。

そうしますと「1500記事に到達した時点で、記事作成を止めることを宣言しておけば・・」とも思われるのですが、しかしながら、1500記事に到達した時点では、自らではあまり自覚することがなくとも、やはり、それなりに昂っているものであり、そして、そうした状態にて、文章を作成していますと、やはり「次の目標は1600記事への到達」といったことを書いてしまうようです・・(苦笑)。

そして、それに引き摺られて、その後も今に至るまでどうにか書き続けていますが、しかし、そうした無鉄砲、無計画振りの割には案外と当ブログは続いており、現時点で、当面の目標の三分の一以上までは到達しています。そしてまた、来月の出来るだけ早い段階にて、さきの目標の半分にまで到達したいとも考えています・・。

そういえば、当ブログでの記事作成と併行して、またいくつかの書籍を読み進めていますが、昨日からは、これまでの疲れが溜まったものか、これまでより、いくらか読書に身が入らなくなっていました。あるいは、読み進めている書籍の内容が頭に入ってくる割合が低くなったとも云えます。

ともあれ、こうしたことは、これまでにも数多く、数えきれないほどありましたが、こうした読書の際の読み手である自身のコンディションとは、なかなか大事な要素であり、これにより、理解して読むことが出来る書籍の多寡も決まってくると云えます。そしてまた、そのことは、インプットである読書と同様、アウトプットと云える当ブログにおいてもまた云えることであり、そうした事情を通して、作成した記事内容に優劣のようなものが生じるのだと思われるのです・・。

しかしながら、そうであっても面白く思うのは、良い状態にて作成したはずの記事が、必ずしも多くの閲覧者を得ているわけでもなく、何度か寝落ちしつつ作成した記事にて、多くの方々に読んで頂いているものも、少なからずあるということです・・。

そこから、やはり、こうしたブログ記事は「出来るだけ数多く作成した方が良い」となるわけですが、他方で、ある程度の期間、ある程度の記事数を、どうにか継続して作成した現在においては、まさに、この時点で「休むべきか書くべきか」の(いわばしょうもない)葛藤が生じるのです・・。

こうした葛藤は、蓄積した記事数に比例して大きくなるようであり、かつて、1000記事まで到達していなかった頃は、記事作成に至るまでの葛藤などは殆どなかったと記憶しています。そこから、現在のこの葛藤は、なかなか面倒と云えるのですが、実際に書き始めて、少し入り込んでみますと、何やら面白いもので、このあたりまで書き進めることが出来ているのです・・。しかし、そうであっても、こうした状態とは、その場ではあまり実感がないものの、それなりに体力も消耗しているようであり、書籍からの引用記事を作成した日と比べますと、疲れ具合が全く違うと云えます。そのため、先日、しばらくは書籍からの引用記事を中心として当ブログを進めていこうと考えたわけですが、しかし、それも5記事程度続きますと、何らかの反動によるものか、自らの文章による記事が無性に作成したくなるのです・・(苦笑)。そしてまた、しばらく書いて疲れるのです・・(苦笑)。

しかし、こうした作成方針?にて、どうにか今に至るまで続き、また、その進め方にて、記事題材については、そこまで深刻に困ることもなかったことから、今しばらく、このままで続けて行こうと思います。そして、次回からはまた、書籍からの引用記事にて、しばらく続けようと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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2021年5月24日月曜日

20210524 センサーの劣化と諺「転石苔むさず」について・・

 おかげさまで一昨日投稿の「特徴的な地域の歴史背景について」は、投稿後二日目にしては比較的多くの方々(50人以上)に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

地域の古くからの伝統には、それぞれ固有の価値があると考えていますが、鹿児島と同様、和歌山のそれも首都圏出身の私からしますと、大変興味を惹くものであり、また、そうしたことを在住期間の中で強く感じたことから、それまでの興味の方向性から変化していったのだと云えます。

あるいは異言しますと、当時の生活の中で感じ得る和歌山の文化全般とは、驚きに満ち、興味を惹くに足るものであり、さらに、それらの歴史的背景を書籍などを通じて、どうにか知るうちに、徐々にそれら(実体験と書籍からの知識)が化合し、新たな、その地域、さらには我が国に対する価値観・感覚のようなものが形成されていったということになります。

それまでの私の自国の歴史に対する興味は、概ね16・17そして19・20世紀に集中していましたが、和歌山での生活によって、紀元前後あたりの弥生時代から古墳そして飛鳥時代の7世紀末頃までについても、地域の歴史を基軸として興味を持つに至りました。

そして、その端緒を明らかにすべく、記憶を辿りますと、それは一つではなく、たとえば、勤務していた白良荘グランドホテル近くの熊野三所神社境内にある火雨塚古墳、あるいは、休日の一人サイクリングにて迷い込んだ場所にあった古くからの祭祀遺構、そして、その付近にて銅鐸が出土していることを書籍から知ったこと、などであったと云えます。

当時は、そうしたことに対して自然に好奇心が刺激され、驚異の念を抱くことが出来ていましたが、現在の私は、以前にも書きました通り、そうした感性のセンサーはいくらか有意に劣化しているように感じられます・・(苦笑)。

つまり、ある程度大きな感動や驚きを惹起させるような出来事に遭遇することが少なくなったと云えるのですが、これは自分次第で再度、センサーの感度を高めることは出来るものなのでしょうか・・。

おそらく、これが現在の私にくすぶっている問題であると云えますが、これをどうにか解決するためには、能動的に遮二無二動く必要性があるように思われますが、この「能動的に遮二無二動く」こそが「若さ」が為し得る特権であり、これをある種の諦念のようなもので止めてしまうと「落着き」は得られるのかもしれませんが、他方で、若さに因る感性の瑞々しさは、減衰していってしまうのではないかと思われます。諺に云う「転石苔むさず」といったところです。

そういえば、この「転石苔むさず」は「A rolling stone gathers no moss.」の和訳ですが、それが意味するところは、同じ英語圏でも英国と米国にて異なるようであり、そこから、それぞれのお国柄のようなものが察せられます。私としては、活発に動くことを佳しとする意味の方に共感を覚えるところですが、同時に、さきに述べた事情から、そうも云い辛くなってきているのが現状と云えるのかもしれません・・(苦笑)。

また、そうしたことを考えてみますと、現在の我が国においても、この「転石苔むさず」の諺は、何やら感慨深いものであり、あるいは、1945年から現在に至るまでの戦後社会において解釈される、その意味合いの変遷を、さまざまな出版物等を通して検討してみるのも、なかなか面白いのではないかとも思われます・・。くわえて、現在の我が国においては、さきに述べたような「活発さ」そして「感性の瑞々しさ」が求められている状況であると思われますが、しかしながら同時に、国全体が収縮しているとも云える現状においては、それもまたキビしく、さらにそこから、全体的に安心や安全を求める方向性にて諸事進むようになりますと、負のスパイラルのようなものが発動してしまうのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


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2021年5月22日土曜日

20210522 特徴的な地域の歴史背景について

 古墳時代、ヤマト朝廷が近畿を基盤として西へ東へ、その版図を拡大させていた頃より、九州南部は、継続的な征服、統治が困難な地域とされたいた。くわえて、朝廷側からすると、この地域の人々は言語、文化などの点から異なる民族として見ていたようである。

記録によると、随分後の平安時代になっても、朝廷側は当地域の人々との意思疎通には通訳官を用いていたとのことである。

また、自身の経験からしても、これは全くの間違いではないように思われる。そして、平安時代末期の源平合戦の頃、同地域の多くは、平家方所領であったが、平家が壇ノ浦にて滅びると、それらは平家没官領となり、幕府によって新たに任じられた鎌倉御家人達が、13世紀半ばの三浦氏の乱(宝治の乱)の頃まで継続的に、この地に入植してきた。はるか後年、日露戦争での日本海海戦の勝利により高名となった東郷平八郎の祖先の出自もまた、こうして東国から入植した鎌倉御家人であった。

こうした先祖の出自を持つ家は、現在の鹿児島においても特に珍しいわけではなく普通に私の周りにもおられた。また同時に、そうした背景を現在においても見出せることには、九州南部の旧島津領は、全国的に見て、人口に対して占める士族の割合が顕著に高かったといった事情もあると思われる。

他国がおよそ二十人に一人程度が士族(約5%)であるとすると、旧島津領は、領内にて若干の濃淡はあるものの、およそ四人に一人が士族(約25%)であったとされている。これは、主に織田信長に始まり、豊臣、徳川両氏によって引き継がれた兵農分離政策があまり為されなかったことに由来しているとのことである。

さらに、島津氏は、これら時代の覇者達から、その存立を脅かされ続けたことから、特に国境(くにざかい)地域においては領土防衛の観点から、動員可能兵力の保持が要求されたのだとも云える。

そのため、旧島津領では、明治期の屯田兵の和式祖型モデルともいうべき、半士半農の所謂、郷士が多くいた。彼等は領内各要地に置かれた出城(外城)の周囲(麓)に集落を築き住んでいた。薩摩半島南部にある知覧の武家屋敷街並みも、こうした郷士集落の一つである。

少し極端に述べると、鹿児島をはじめとした旧島津領では、鎌倉時代以来の「機能する軍事組織」が、あまり姿を変えることなく、近代に至るまで生き永らえたのだとも云えるのである。

そしてまた以上のことから、この地域が維新回天期の戦に多くの兵力を動員出来、さらには我が国近代以降最大の内乱である西南戦争の震源地であったことは、ある意味、必然的なことであったとも云えるのである・・。

ともあれ国内各地域は、それぞれに歴史的背景があり、現在に至っていると云えるが、こと旧島津領の南九州地域のそれは、やはりなかなか特徴的であるように思われる。

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2021年5月21日金曜日

20210520 神保町~秋葉原の書店を訪ねて思ったこと

 本日は休日であったため、JRにて御茶ノ水まで行き、そこから徒歩にて明大通りを下り、駿河台下から神保町界隈に出て、何軒か書店を廻りました。とはいえ現在、都内は緊急事態宣言下であり、その中で書店は営業をしていましたが、古書店については、休業要請の対象となっていることから、界隈の古書店の大半はシャッターが下りていました。

緊急事態宣言下での書店と古書店の扱いは、発出自治体毎で異なるとのことですが、私としては、この扱いの違いが何に由来しているのか分かりかねるところです・・。

さて、そうした状況はともかく、いざ書店入ってみますと、当ブログと連携しているツイッターの投稿にて見た記憶のある書籍が少なからず並んでいることに気付かされ、それらの中で興味深いと思われたいくつかの著作を手に取って、それぞれ頁を開いてみますと、やはり面白く感じられ、以前購入した書籍が未だ読了に至っていないにも関わらず「さて、これは購入すべきであろうか?」と考えてしまうのです・・(苦笑)。

斯様に書店内にてしばし葛藤をした後、本日は新たな著作を購入することなく店を出て、近くの店でコーヒーを飲み、その後は靖国通り沿いに秋葉原まで歩きました。

そして、丁度、秋葉原駅前南通りに至り、高架下の先にあるBOOKOFFの看板が見えた頃に雨が強くなってきました。そこで、少し先を急ぎ高架下を過ぎると、先日訪れた時は店を閉めていたBOOKOFFが営業していたことから店内に入り、しばらく書籍コーナーにて物色していたところ、またいくつか興味深いと思われる書籍を見つけました。さきの神保町での書店と比べると、古書店にて安価であることから財布の紐も緩くなり、ここで新書を二冊購入しました。

さきに述べました通り、未だ現在、読み進めている書籍がいくつかある状況ではありますが、そうであっても、ある程度興味が持続すると思しきテーマの古書は、状態が良く、比較的安価である場合には、とりあえず購入しておいた方が良いと私は考えていますが、こと、こうした偶然にて出会う古書に関しては、やはり、私の知る限りでは、東京が最も充実しているように思われます・・。

また、上記のように徒歩にて興味を惹く書籍を見つける行為は、小学生の頃から続いていますが、私の場合、そうした中において「大きな影響を受けた」と云える著作に出会うことが多いように思われるのです。こうしたことは、他者による客観的な視座からは「単なる偶然」と評されるのでしょうが、そうした著作を読んでいて、何かしら強く感応する記述を見つけた際の(主観的な)感動とは、さきの評価では済まされない「何か」があるように思われるのです。

とはいえ、残念ながら、ここ最近はこうした「強く感応する記述がある書籍」に出会うことは稀となり、あるいは私のこうした感性のセンサーが経年劣化をしているようにも感じられるのです。しかし他方で、こうしたことをあまり恥じることなく文章化することについては、以前では為し得なかったことですので、あるいは、こうしたセンサー的な感性と、こうした文章での表現が出来ることの間には、何やら相殺し合うような関係性があるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか。

そういえば、おかげさまにて、今回の記事投稿にて、総投稿記事数が1535に到達します。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます!



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2021年5月20日木曜日

20210519 株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

ISBN-10 : 4582767338
ISBN-13 : 978-4582767339


梅原(猛)それから先生、孔子と孟子とは人間も思想も大分違うんでしょうか。

白川(静)うん、大分違う。これは時代環境が違うんですね。僕はやはり「思想」というものはね、社会的なものであって、それぞれの社会の中で理想を求めていく訳ですね。だから同じ「国家」というものを考えても、ギリシャの都市国家で考える「国家」と、中国のような広大な地域で、多民族でしかも分割されずに一緒くたに、ごった煮ですわな、そういう状態になっている、その中で「国家」を考えると、一品料理で考えるのと、料理の仕方が違うんですな。だから孔子なんかの場合、そういう歴史的伝統の中で考えている。しかし戦国期の思想家は、「天下」という。彼等は「国家」という言い方をしないんです。複数の国家を含んだ天下なんです。そういう中での秩序を考える訳ですから、全然基盤が違うんです。

梅原 私は孟子が「後車数十乗」を連ねて諸国を廻ったと、先生の本で初めて知りましたが、孔子みたいに失敗したのと大分違いますね。

白川 あれは一種の政治運動なんです。もし適当な待遇をしなければ、別の国へ行ってこっちの国の不利なところをみんなばらすとか何とか言ってね、策動するんです。だから一種の政治集団みたいなものですよ。そして諸国を巡遊するんです。戦国時代ですから。

梅原 あの時代はそういうのが多かった訳ですね。

白川 あの時代はまた国家にしてもね、すぐれた思想家を集めて文化力でやろうとか。例えば斉の国は都を臨淄(りんし)というんですが、鄒衍(すうえん)とか、荀子、韓非子など、当時の思想家は斉の都へ集まったんです。都城の西方に稷門という門があって、斉の学堂があった。その付近に高級な住宅を与えて、学問研究をさせるため良い待遇をした。そこで、この稷門に栄えた学問を「稷下学」という。その時代が、斉の国が文化的に天下を支配する力を持った時代なんです。だから当時の学者というのは、単なる研究者じゃない、学問は同時に政治力であり、文化力であった。そういう形で学者も研究するし、政治家も利用する、そういう時代であった。

孔子と墨子ー職能集団、葬送と技術

白川 ところが孔子の時代は思想はまだ萌芽的な状態でね、教団としての組織を持ったものは孔子がかろうじて作った儒教と、墨子集団と、この二つしかない。両方とも一種の社会階級的な性格を持った集団です。儒家というのは、葬式からお祭までを含めた、宗教的な行事を担当する伝統を持った階層であった。墨子の方は、「墨」というのは入れ墨という意味ですがね、入れ墨を入れた受刑者がね、当時は罪というのは神に対する穢れであるという考え方であって、受刑者は神の徒隷として、神をお祀りする場所に奉仕させた。そこで色んな仕事をさせる訳ですね。だから墨子というのはね、あなたの言う、「ものつくり」として、兵器も造るし、城壁も造る。中国の城は大きな城壁を持っていますから、城を攻撃する雲梯という何段階にもなる梯子が要る。今の起重機みたいに、するすると伸びて城壁を越したり潰したりする機械を造る。

梅原 技術屋ですね。

白川 技術集団です。それが周王朝が滅びると雇ってくれる人がいませんから、独立して諸国を廻る訳です。「我々はこの城を潰すことが出来ますよ」とやる訳やね。だから彼等は初めから結束していなければ、力を発揮出来ない。儒家のようにね、個人の人格形成が基本であるというのとは、全然違う。