古墳時代、ヤマト朝廷が近畿を基盤として西へ東へ、その版図を拡大させていた頃より、九州南部は、継続的な征服、統治が困難な地域とされたいた。くわえて、朝廷側からすると、この地域の人々は言語、文化などの点から異なる民族として見ていたようである。
記録によると、随分後の平安時代になっても、朝廷側は当地域の人々との意思疎通には通訳官を用いていたとのことである。
また、自身の経験からしても、これは全くの間違いではないように思われる。そして、平安時代末期の源平合戦の頃、同地域の多くは、平家方所領であったが、平家が壇ノ浦にて滅びると、それらは平家没官領となり、幕府によって新たに任じられた鎌倉御家人達が、13世紀半ばの三浦氏の乱(宝治の乱)の頃まで継続的に、この地に入植してきた。はるか後年、日露戦争での日本海海戦の勝利により高名となった東郷平八郎の祖先の出自もまた、こうして東国から入植した鎌倉御家人であった。
こうした先祖の出自を持つ家は、現在の鹿児島においても特に珍しいわけではなく普通に私の周りにもおられた。また同時に、そうした背景を現在においても見出せることには、九州南部の旧島津領は、全国的に見て、人口に対して占める士族の割合が顕著に高かったといった事情もあると思われる。
他国がおよそ二十人に一人程度が士族(約5%)であるとすると、旧島津領は、領内にて若干の濃淡はあるものの、およそ四人に一人が士族(約25%)であったとされている。これは、主に織田信長に始まり、豊臣、徳川両氏によって引き継がれた兵農分離政策があまり為されなかったことに由来しているとのことである。
さらに、島津氏は、これら時代の覇者達から、その存立を脅かされ続けたことから、特に国境(くにざかい)地域においては領土防衛の観点から、動員可能兵力の保持が要求されたのだとも云える。
そのため、旧島津領では、明治期の屯田兵の和式祖型モデルともいうべき、半士半農の所謂、郷士が多くいた。彼等は領内各要地に置かれた出城(外城)の周囲(麓)に集落を築き住んでいた。薩摩半島南部にある知覧の武家屋敷街並みも、こうした郷士集落の一つである。
少し極端に述べると、鹿児島をはじめとした旧島津領では、鎌倉時代以来の「機能する軍事組織」が、あまり姿を変えることなく、近代に至るまで生き永らえたのだとも云えるのである。
そしてまた以上のことから、この地域が維新回天期の戦に多くの兵力を動員出来、さらには我が国近代以降最大の内乱である西南戦争の震源地であったことは、ある意味、必然的なことであったとも云えるのである・・。
ともあれ国内各地域は、それぞれに歴史的背景があり、現在に至っていると云えるが、こと旧島津領の南九州地域のそれは、やはりなかなか特徴的であるように思われる。
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