本日は帰宅が遅くなったことから、ブログ記事作成を止めておこうと考えましたが、さきほどまで会っていた方々との会話にて過去のことが思い出されたため、それを題材として何かしら書こうと思い立った次第です。
去る2010年11月初頭、私達はインドネシアのジョグジャカルタにて開催される学会に参加するため、鹿児島を発った。
とはいえ、鹿児島からインドネシアまでの直通便はないことから、一旦関西国際空港まで行き、そこからジャカルタ行きの便に乗ることとなった。
また、関西国際空港発ジャカルタ行きの便の出発時間が割合と早かったことから、前日に大阪入りし、なんばにて一泊することになった。
鹿児島を発ち、伊丹空港まで行き、そこから陸路にてなんばまで行ったが、なんばに到着したのは、たしか夕刻前、午後3~4時くらいであったと記憶している。
そのまま、何もせずに前泊地であるなんばの宿に滞在するのも面白くないと思い、私は南海線にてかつて滞在した和歌山まで足を伸ばすことにした。
南海線の和歌山市駅に着いたのは、夕刻であった。
その駅前の街並みは季節のためか既に薄暗かったが、それでも約3年振りの和歌山市駅に私は大興奮して、そのまま駅前の大通りを直進し、和歌山城を左手に眺めつつ三年坂通りまで出て、そこで左折、直進し、岡公園のところで右手に入り刺田比古神社に参拝した。
また幸いなことに、この時刻でも社務所は開いており、参拝の後に絵馬を一つ頂いた。
この絵馬はインドネシアまで持参し、帰国後お師匠のもとに送った。
この神社が古代豪族大伴氏の氏神を祀る一つの社であると聞いていたからだ・・。
この参拝により、この度の急きょの和歌山行きの目的を果たしたような気分となり、私は軽い足取りにて、和歌山市駅までぶらくり丁を経由しつつ帰った。
時刻は既に午後7時を過ぎており、殆どの店は閉まってはいたものの、かつて時折通ったカレー屋、交差点を渡ったところすぐにある和歌山ラーメン(中華そば)の店は開いており、厨房の排気口から流れてくる匂いにより和歌山在住時の記憶が刺激された・・。
そしてまた、去る四月に勉強会で和歌山を訪れた時もまたこれと同様の経験をした・・。
和歌山市駅に到着すると、特に理由はないものの後ろ髪を引かれる思いでなんば行きの切符を購入し、帰路についた・・。
なんばの宿に着後、既に時刻も遅かったことから私は学会に同行する院の先輩方と会うことなく、そのまま部屋に戻り、風呂に入ったのち、持参した小説ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著「影の獄にて」を読みながら寝入っていた・・。
翌朝の出発時刻は早く、ホテルロビーにて先輩院生等と待ち合わせインドネシアに向けて出立した。
学会開催地周辺(ジャグジャカルタ)では以前から続いていた近隣の火山噴火(ムラピ山)によってスケジュール通りの航空機の運航が危ぶまれていたが、関西国際空港発ジャカルタ行きの便は特に支障なく出発した。
飛行時間は概ね7時間程度であったが、この間、私は持参した小説を読んだり、寝入ったりを繰り返していた・・。
そうしてジャカルタには無事に着いたものの、我々の行く先とは、そこからさらに国内便に乗る必要性があり、この国内便が、さきの火山噴火によって、かなりスケジュールが乱れていた。
仕方がないので、我々は一通り空港内を徘徊し、出発便の待合所にてしばし時間を潰すことになった。
しばらく待合所にいると、周囲にも、同じ目的を持った日本人らしきグループが散見していることに気が付いた。
そこで我々は「あそこの日本人グループに飛行機は何時に飛ぶ予定か知っていますか?」と聞いてみようと内輪話をはじめた矢先、我々に話しかけてきた人がいた・・。
*続きはまた思い出した時に書いてみようと思います・・。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。
2017年5月28日日曜日
2017年5月26日金曜日
20170526 新規の知見・論証の仕方などについて・・
昨日分の投稿記事も思いのほか多くの方々に読んで頂けたようです・・。
さて、あらためてこの記事を読み直してみますと、記事前半部と後半部の書籍からの抜粋引用部の間に多少論理の飛躍が認められるとも思われましたが、輿論凝集の速度と、それを構成している各個人の意見、すなわち内面における活力とは、輿論の凝集速度が外部環境(機器の整備、上からの政策など)によって、より早くなると、その構成分子である各個人の内面の活力といったものは、その『速度』によって、一見活発に動いているように見えるものの、それは単に周囲の環境に対しての反応あるいは対応しているだけであり、この判断は難しいのかもしれませんが、厳密な意味での内面活力の発露、能動性、内発性といったものに関しては、必ずしも活性化しておらず、むしろ疲弊、劣化していることの方が多いのではないかと思われます。
特にそうした状態が継続する場合においては・・。
そして、そこまで書いてみてはじめて記事前半部と記事後半部の書籍からの抜粋引用部との間に断層のない何かしらの繋がりらしきものを見出すことが出来るのではないかと思われましたが如何でしょうか・・?
また、それに関連して『これまでに作成した一連の記事において果たして新たな知見の指摘などはあったのであろうか?そしてそれは誰が判断するのであろうか?』といったことを書いたことがありましたが、おそらくその『新たな知見』というものにも幾つかの種類があり、それが比較的明瞭であるのが、おそらく理系学問分野のそれであると思われます・・。
自身は以前、そうした分野の一つにおいて、新たな知見とまでは行かなくとも、その一般化にわずかに寄与する程度のデータを示したことはあったのではないかと考えます。
とはいえ、そのデータも現在となっては既に過去のものであり、かつて私が行ってきた実験の対象であった歯科材料およびその加工機器の系自体がその後大きく進化発展を遂げたのです・・。
また、そのような進化発展が速い比較的新しい材料であったからこそ、当時、さまざまな従来の実験方法によって得た知見が新規のものとして認識されていたのではないかとも思われます・・。
そして、ここまで書き、期せずして記事冒頭部に述べたことと何やら類似するような感じを受けましたが、果たしてそれは気のせいでしょうか・・(笑)?
いや、ともかく、気のせいであろうがなかろうが、あくまでも個人的な考えではありますが、現在継続しているブログ記事の作成とは、一面において、その当時行ってきたことを自身への定着化、血肉化を試みるため、あるいは自身を燃え尽き症候群にしない(戻さない)ために行っているともいえるのです・・(苦笑)。
ここまで書きますと『その間に如何なる関連があるのか?』と思われるかもしれませんが、自身にとってはその間には多いに関連があるのです・・(笑)。
さて、ハナシを少し戻して、その他の『新たな知見』について考えてみますと、文系学問分野においては一般的に理系学問ほど、それが明瞭ではなく、文系学問においてはむしろ文章の運び、論の進め方といった『論証の仕方』に、より新たなものとしてのの価値が置かれていることが多いのではないかと思われます・・。
つまり、文系学問の場合、結果は既出の文献と同様であったとしても、その『論証の仕方』の方がより重要であると云えるのです。
無論、これは理系学問においても同様であり、その過程の厳密さが求められるのですが、しかし、理系学問においては、どちらかというと『結果における新しい要素』が我々の生活の変化に何かしら関与することが多いことから、そちらの方により重点が置かれるのではないかと思われますが如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺の諸地域にて発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
さて、あらためてこの記事を読み直してみますと、記事前半部と後半部の書籍からの抜粋引用部の間に多少論理の飛躍が認められるとも思われましたが、輿論凝集の速度と、それを構成している各個人の意見、すなわち内面における活力とは、輿論の凝集速度が外部環境(機器の整備、上からの政策など)によって、より早くなると、その構成分子である各個人の内面の活力といったものは、その『速度』によって、一見活発に動いているように見えるものの、それは単に周囲の環境に対しての反応あるいは対応しているだけであり、この判断は難しいのかもしれませんが、厳密な意味での内面活力の発露、能動性、内発性といったものに関しては、必ずしも活性化しておらず、むしろ疲弊、劣化していることの方が多いのではないかと思われます。
特にそうした状態が継続する場合においては・・。
そして、そこまで書いてみてはじめて記事前半部と記事後半部の書籍からの抜粋引用部との間に断層のない何かしらの繋がりらしきものを見出すことが出来るのではないかと思われましたが如何でしょうか・・?
また、それに関連して『これまでに作成した一連の記事において果たして新たな知見の指摘などはあったのであろうか?そしてそれは誰が判断するのであろうか?』といったことを書いたことがありましたが、おそらくその『新たな知見』というものにも幾つかの種類があり、それが比較的明瞭であるのが、おそらく理系学問分野のそれであると思われます・・。
自身は以前、そうした分野の一つにおいて、新たな知見とまでは行かなくとも、その一般化にわずかに寄与する程度のデータを示したことはあったのではないかと考えます。
とはいえ、そのデータも現在となっては既に過去のものであり、かつて私が行ってきた実験の対象であった歯科材料およびその加工機器の系自体がその後大きく進化発展を遂げたのです・・。
また、そのような進化発展が速い比較的新しい材料であったからこそ、当時、さまざまな従来の実験方法によって得た知見が新規のものとして認識されていたのではないかとも思われます・・。
そして、ここまで書き、期せずして記事冒頭部に述べたことと何やら類似するような感じを受けましたが、果たしてそれは気のせいでしょうか・・(笑)?
いや、ともかく、気のせいであろうがなかろうが、あくまでも個人的な考えではありますが、現在継続しているブログ記事の作成とは、一面において、その当時行ってきたことを自身への定着化、血肉化を試みるため、あるいは自身を燃え尽き症候群にしない(戻さない)ために行っているともいえるのです・・(苦笑)。
ここまで書きますと『その間に如何なる関連があるのか?』と思われるかもしれませんが、自身にとってはその間には多いに関連があるのです・・(笑)。
さて、ハナシを少し戻して、その他の『新たな知見』について考えてみますと、文系学問分野においては一般的に理系学問ほど、それが明瞭ではなく、文系学問においてはむしろ文章の運び、論の進め方といった『論証の仕方』に、より新たなものとしてのの価値が置かれていることが多いのではないかと思われます・・。
つまり、文系学問の場合、結果は既出の文献と同様であったとしても、その『論証の仕方』の方がより重要であると云えるのです。
無論、これは理系学問においても同様であり、その過程の厳密さが求められるのですが、しかし、理系学問においては、どちらかというと『結果における新しい要素』が我々の生活の変化に何かしら関与することが多いことから、そちらの方により重点が置かれるのではないかと思われますが如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺の諸地域にて発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月25日木曜日
20170525 意見統一の早さとその内容について思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】
既投稿の記事で、多くの閲覧者を得た記事を紹介する記事は時折作成してみると良いのかもしれません・・(笑)。
さて、ここ最近は人と話していても、その人がどちらかといえば保守的な考え方であったとしても、社会におけるさまざまな価値が混乱していると認めることが多いように思われます・・(まだまだNは少ないですが・・)。
あるいは、こうしたことは通常であっても都市部において、より顕著に認められることである(価値の新陳代謝が激しい)と思われますので、現状とは、それに拍車が掛かってきているということになるのかもしれません・・。
そして、その原因の一つであったのか、あるいは結果であったのか分かりませんが『とりあえず表層さえ良ければいい』といった野狐禅的ともいえる考えが(特に都市部、首都圏において)普通、自然となっているように思われます・・。
無論、自身においても、そのことに無縁ではなく、正直なところこの記事を書いていても、多少身につまされるものがあるのですが・・(苦笑)。
また、おそらく社会のある部分においては、変わることなく、脈々と続いている文化といったものも少なからずあるのでしょうが、一方、大々的な宣伝、広告活動が為される都市部、首都圏においてはマスメディアと、そうした広告主企業が連携協力(結託)して、さきに述べたような価値の混乱、そして『表層さえ良ければ・・』といった、見方によれば活気はあるものの、いささか上滑りな一連の文化を惹起、助長しているようにも思われるのです・・。
とはいえ、昨今こうしたことは各方面においても見受けられることであり、あるいはこうした各方面での一連の現象とは聊か短絡的であるかもしれませんが、スマートフォンの普及と何かしら関連があるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?
つまり、スマートフォンの普及した国の社会において周辺国際情勢が緊張すると『より速い速度にて』国内社会における国粋的、排外的傾向の増大、凝集といった現象が認められるようになるのではないでしょうか・・?
そして、それはスマートフォンの普及により増大、凝集といった『我々の内面における動的要素』は早くなるものの、同時にそれは活気はあるものの、いささか上滑りなものとなってしまうのではないかとも思われるのです・・。
そして、ここまで書いており不図想起した文章がありましたので、以下にそれを示します・・。
筑摩書房刊 丸山眞男著 「忠誠と反逆」pp.110-111より抜粋引用
『内面的な被縛感およびそれと不可分に結びついた忠誠の自発性が、忠君愛国象徴の普遍化に比例して弛緩し、体制への大量的なコンフォーミティが造出されるようになった日露戦争頃を境として、青年層とくに知識青年層の「遼陽の大激戦よりも寧ろ壮士芝居の評判に多く心を動かす」気風(徳富蘇峰)、「国家よりも個人を重んじ、政治家よりも俳優を志望する」傾向(三宅雪嶺)がいたるところで語られるようになった。
蘇峰が「憂ふべきは非戦論者にあらず無戦論者なり」として、「吾人は今日生噛りのトルストイ論を受け売りする輩に与せずと雖も、彼等は少なくとも眼中国家あり。
・・聊か与に談ずるに足るを認む。
但だその国家存亡の大事を余所に見て、何等の喜憂を覚えざる、無頓着の輩に至りては、殆ど済度の途に窮せざるをず。
・・・知らず、現在の青年に果たして此の無戦論者無きを証言し得る者ある乎」(「青年の風気」明治三十七年九月)といっているように、こうしたアパシイはまぎれもなく忠誠と反逆との双方からの隠退にほかならなかった。
しかしその由って来るところがどこにあるかは、自由民権的発想の「旧時代性」を指摘し否定することからその「平民主義」を発足させ「将来の日本」を展望した蘇峰によってではなく、かえって三宅雪嶺などの「伝統主義者」によって鋭く認識されている。
すなわち雪嶺は、「国家を無視するの思想の蔓延」憂慮する者が「大抵防止の方法として愈々益々教育勅語を普及すべしと」いうけれども「事実に於いて、勅語の奉読の、徒に形式に流るる」点を衝き、むしろそうした「冷国家」「熱個人」(蘇峰の表現ー前掲論文)の傾向こそ、明治政府が数十年前に、「民権運動の頓に興隆し、之に気勢を添ふるの青年になるより、苟も学校に奉職し又は在学する者は、決して斯かる運動に加はるべからざる旨を訓令し、尚ほ自由民権に類する思想を教科書より除かしめ」るといった教育方針が漸く結実したものである、「権力者は教育の心得のある凡物を使用するの便利を覚え、権威を仮して教育家を支配せしめ、予期の如く平穏無事なるを得たるも」結局「ニ三十年を経て予想以上の結果」をもたらすことになったと指摘した(「国民思想の頽唐を防ぐの便法」『想痕』大正四年、所収)。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺の諸地域において生じた地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
さて、ここ最近は人と話していても、その人がどちらかといえば保守的な考え方であったとしても、社会におけるさまざまな価値が混乱していると認めることが多いように思われます・・(まだまだNは少ないですが・・)。
あるいは、こうしたことは通常であっても都市部において、より顕著に認められることである(価値の新陳代謝が激しい)と思われますので、現状とは、それに拍車が掛かってきているということになるのかもしれません・・。
そして、その原因の一つであったのか、あるいは結果であったのか分かりませんが『とりあえず表層さえ良ければいい』といった野狐禅的ともいえる考えが(特に都市部、首都圏において)普通、自然となっているように思われます・・。
無論、自身においても、そのことに無縁ではなく、正直なところこの記事を書いていても、多少身につまされるものがあるのですが・・(苦笑)。
また、おそらく社会のある部分においては、変わることなく、脈々と続いている文化といったものも少なからずあるのでしょうが、一方、大々的な宣伝、広告活動が為される都市部、首都圏においてはマスメディアと、そうした広告主企業が連携協力(結託)して、さきに述べたような価値の混乱、そして『表層さえ良ければ・・』といった、見方によれば活気はあるものの、いささか上滑りな一連の文化を惹起、助長しているようにも思われるのです・・。
とはいえ、昨今こうしたことは各方面においても見受けられることであり、あるいはこうした各方面での一連の現象とは聊か短絡的であるかもしれませんが、スマートフォンの普及と何かしら関連があるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?
つまり、スマートフォンの普及した国の社会において周辺国際情勢が緊張すると『より速い速度にて』国内社会における国粋的、排外的傾向の増大、凝集といった現象が認められるようになるのではないでしょうか・・?
そして、それはスマートフォンの普及により増大、凝集といった『我々の内面における動的要素』は早くなるものの、同時にそれは活気はあるものの、いささか上滑りなものとなってしまうのではないかとも思われるのです・・。
そして、ここまで書いており不図想起した文章がありましたので、以下にそれを示します・・。
筑摩書房刊 丸山眞男著 「忠誠と反逆」pp.110-111より抜粋引用
ISBN-10: 4480083987
ISBN-13: 978-4480083982
『内面的な被縛感およびそれと不可分に結びついた忠誠の自発性が、忠君愛国象徴の普遍化に比例して弛緩し、体制への大量的なコンフォーミティが造出されるようになった日露戦争頃を境として、青年層とくに知識青年層の「遼陽の大激戦よりも寧ろ壮士芝居の評判に多く心を動かす」気風(徳富蘇峰)、「国家よりも個人を重んじ、政治家よりも俳優を志望する」傾向(三宅雪嶺)がいたるところで語られるようになった。
蘇峰が「憂ふべきは非戦論者にあらず無戦論者なり」として、「吾人は今日生噛りのトルストイ論を受け売りする輩に与せずと雖も、彼等は少なくとも眼中国家あり。
・・聊か与に談ずるに足るを認む。
但だその国家存亡の大事を余所に見て、何等の喜憂を覚えざる、無頓着の輩に至りては、殆ど済度の途に窮せざるをず。
・・・知らず、現在の青年に果たして此の無戦論者無きを証言し得る者ある乎」(「青年の風気」明治三十七年九月)といっているように、こうしたアパシイはまぎれもなく忠誠と反逆との双方からの隠退にほかならなかった。
しかしその由って来るところがどこにあるかは、自由民権的発想の「旧時代性」を指摘し否定することからその「平民主義」を発足させ「将来の日本」を展望した蘇峰によってではなく、かえって三宅雪嶺などの「伝統主義者」によって鋭く認識されている。
すなわち雪嶺は、「国家を無視するの思想の蔓延」憂慮する者が「大抵防止の方法として愈々益々教育勅語を普及すべしと」いうけれども「事実に於いて、勅語の奉読の、徒に形式に流るる」点を衝き、むしろそうした「冷国家」「熱個人」(蘇峰の表現ー前掲論文)の傾向こそ、明治政府が数十年前に、「民権運動の頓に興隆し、之に気勢を添ふるの青年になるより、苟も学校に奉職し又は在学する者は、決して斯かる運動に加はるべからざる旨を訓令し、尚ほ自由民権に類する思想を教科書より除かしめ」るといった教育方針が漸く結実したものである、「権力者は教育の心得のある凡物を使用するの便利を覚え、権威を仮して教育家を支配せしめ、予期の如く平穏無事なるを得たるも」結局「ニ三十年を経て予想以上の結果」をもたらすことになったと指摘した(「国民思想の頽唐を防ぐの便法」『想痕』大正四年、所収)。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺の諸地域において生じた地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月24日水曜日
20170524 これまで5月内で最も多く読まれた記事について・・
A「昨日分の投稿記事は思いのほか多く読まれており、少し驚きました。
さて、今月も後半に入ってよりしばらく経ち、もう間もなく6月となりますが今月5月にて最も多く読まれた記事は5月5日投稿分の『再び荷物の整理をしていて思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】』であり、次に多く読まれていた記事との差はあまり大きくありませんでしたが、ともかくそのような結果となっております。
おそらくこの記事は記事後半の書籍からの抜粋引用部が興味を惹いたのではないかと思われますが、たしかに、ここで述べられているような考えとは、おそらく我が国において少なくとも広くは認知されておらず、また現今の社会情勢においてもより一層、高等教育≒職業教育の傾向が強まってきているものと考えます・・。
とはいえ、それは社会の趨勢であり、それに対しあくまでも反対し続けるのも実際問題としては困難であると思われますので、たとえば、高等教育における医療・介護科目あるいは技術科目の選択必修化といったことは、自身の経験から、あながち悪いことではないと考えます・・。
何故ならば、我々人間とは、実際に手を用いる何らかの継続的な作業を通じて、より、その思考、思想が練れてくるのではないかと考えるからです・・。
つまりは、そのような実際の作業経験を通じ理系学問に対して興味が湧く方もいるであろうし、一方、そこでの経験から文系学問への興味が加速する方も少なからずいるであろうということです。
おそらく、作業経験が理系あるいは文系学問への能動的な興味に発展するのかとは、その個々人の基層にある天然の資質にかかっているものと考えます。
そして、当然ではありますが、そこには本質的には学問間の上下関係はありません・・。
そこではじめて、さきに挙げた記事抜粋引用部のミルの主張および同著者の文章を引き論を進めた福沢諭吉の精神とも、どうにか折り合いがつくのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?
とはいえ、そこで重要なことは、それら科目群【医療・介護・技術】が必修になる場合において、能動的な興味を惹起させずにそれらが単に創造的回避、処理の対象としてしまってはいけないということです・・。
【小林秀雄が『教育とは、教育者が現れることだ』とどこかで述べておりましたが、それはこうした意味もあるのかもしれません・・。
また、このことは高等教育のみならず、どの教育段階においても共通して云えることではありますが・・。】
おそらく、近代以降の我が国の教育制度とは、その早急な近代化、西欧化を推し進めるあまりに、制度、カタチの輸入、定着ばかりにこだわり、その持続的な発展性、持続可能性についてはあまり考えてこなかった、考える余地がなかったのではないかと思われることがあります・・。
【こうしたことは軍隊教育を具体例として述べられることが多い。】
そして、その悪弊とは、戦後期においても受け継がれた結果が現在のあまり芳しくない諸状況ではないかとも思われます・・。
そういえば、ここまで書いており不図思ったことは、先日読了した増田俊也著『七帝柔道記』の登場人物たちのハビトゥスは福沢諭吉著『福翁自伝』のそれに近いのではないかということです・・。
興味を持たれた方は是非読み比べてみてください・・(笑)。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
さて、今月も後半に入ってよりしばらく経ち、もう間もなく6月となりますが今月5月にて最も多く読まれた記事は5月5日投稿分の『再び荷物の整理をしていて思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】』であり、次に多く読まれていた記事との差はあまり大きくありませんでしたが、ともかくそのような結果となっております。
おそらくこの記事は記事後半の書籍からの抜粋引用部が興味を惹いたのではないかと思われますが、たしかに、ここで述べられているような考えとは、おそらく我が国において少なくとも広くは認知されておらず、また現今の社会情勢においてもより一層、高等教育≒職業教育の傾向が強まってきているものと考えます・・。
とはいえ、それは社会の趨勢であり、それに対しあくまでも反対し続けるのも実際問題としては困難であると思われますので、たとえば、高等教育における医療・介護科目あるいは技術科目の選択必修化といったことは、自身の経験から、あながち悪いことではないと考えます・・。
何故ならば、我々人間とは、実際に手を用いる何らかの継続的な作業を通じて、より、その思考、思想が練れてくるのではないかと考えるからです・・。
つまりは、そのような実際の作業経験を通じ理系学問に対して興味が湧く方もいるであろうし、一方、そこでの経験から文系学問への興味が加速する方も少なからずいるであろうということです。
おそらく、作業経験が理系あるいは文系学問への能動的な興味に発展するのかとは、その個々人の基層にある天然の資質にかかっているものと考えます。
そして、当然ではありますが、そこには本質的には学問間の上下関係はありません・・。
そこではじめて、さきに挙げた記事抜粋引用部のミルの主張および同著者の文章を引き論を進めた福沢諭吉の精神とも、どうにか折り合いがつくのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?
とはいえ、そこで重要なことは、それら科目群【医療・介護・技術】が必修になる場合において、能動的な興味を惹起させずにそれらが単に創造的回避、処理の対象としてしまってはいけないということです・・。
【小林秀雄が『教育とは、教育者が現れることだ』とどこかで述べておりましたが、それはこうした意味もあるのかもしれません・・。
また、このことは高等教育のみならず、どの教育段階においても共通して云えることではありますが・・。】
おそらく、近代以降の我が国の教育制度とは、その早急な近代化、西欧化を推し進めるあまりに、制度、カタチの輸入、定着ばかりにこだわり、その持続的な発展性、持続可能性についてはあまり考えてこなかった、考える余地がなかったのではないかと思われることがあります・・。
【こうしたことは軍隊教育を具体例として述べられることが多い。】
そして、その悪弊とは、戦後期においても受け継がれた結果が現在のあまり芳しくない諸状況ではないかとも思われます・・。
そういえば、ここまで書いており不図思ったことは、先日読了した増田俊也著『七帝柔道記』の登場人物たちのハビトゥスは福沢諭吉著『福翁自伝』のそれに近いのではないかということです・・。
興味を持たれた方は是非読み比べてみてください・・(笑)。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
20170523 迷信ではないと考えますが不可思議な現象:集合的無意識・シンクロニティー
本日も若干帰宅が遅くなり、日をまたいだ現在【24:22】より記事作成を開始しております。
また、さきほど気が付いたのですが、昨日の記事投稿によって総投稿記事数が630に到達しておりました・・(笑)。
そしてあと残り20記事にて600記事から700記事到達までの路程の半分に至るわけですが、おそらくそれは来月6月中には達成することが出来るのではないかと思われます・・。
さて、つい先日、文系の師匠より届いた封筒に先月刊行された書籍の序論部が掲載された冊子、別刷が同封されており、本日これを読了しました。
この書籍は主に歴史、国際政治について書かれたものですが、その序論部においては歴史の定義、語源よりはじまり、如何なる経路によって各国が保持する固有の歴史認識がさまざまな国際間での摩擦の原因となっていくかが述べられており、ある意味タイムリーであると思われました・・。
また、それに加えて、これまでに自身が作成したブログ記事においてもいくつか、歴史あるいは歴史認識を主題としたものがありましたのであるいはそれに対する一種の反応、返答であったのかもしれません・・。
また、こうしたことを書いており不図思い出されることは、これまでに開催された勉強会において、発表内容は各々に任され、また、その発表内容について互いに相談することなどないはずであるのに、それぞれの発表内容が関連していたり、あるいはその骨子部分となる論理のメカニズムに類似性が認められたことです・・。
勉強会後にこれを不思議に思い、他の出席者である知人に聞いてみたところ「ええ、それはたしかに不思議かもしれませんね、しかし、そういったことはあまり珍しいことでもないと思いますよ・・。」と、いたって平静な口調で返答されました・・(笑)。
こうした不可思議ともいえる現象がいかなるメカニズムにて生じるのか分からず、あるいはそれ以前に発表された内容などの間に類似性を看取する自身の感性の方が少し普通ではないのかもしれないとも考えましたが、こうしたことを疑いはじめますとキリがなく、本当に普通ではなくなりそうでしたので、自身の日常的な感覚を信頼し、おそらく、こうした現象の背後にあるものとはユング心理学でいうところの集合的無意識、シンクロニティーによるものではないかと結論付けることにしました・・(笑)。
とはいえ、たとえその現象が集合的無意識から生じるシンクロニティーと称されるものであったとしても、それが何故、如何なるメカニズムにて生じるのかとは、依然分からず、また、おそらく今後も明瞭、論理的にこれを理解することは出来ないのではないかと思われます・・。
一方、あくまでも私見ではありますが一つ思うことは、こうした現象は、何かしら創造的な作業に熱中し、打ち込んでいる時期あるいはその直後の時期にどうも生じ易いのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した一連の地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
また、さきほど気が付いたのですが、昨日の記事投稿によって総投稿記事数が630に到達しておりました・・(笑)。
そしてあと残り20記事にて600記事から700記事到達までの路程の半分に至るわけですが、おそらくそれは来月6月中には達成することが出来るのではないかと思われます・・。
さて、つい先日、文系の師匠より届いた封筒に先月刊行された書籍の序論部が掲載された冊子、別刷が同封されており、本日これを読了しました。
この書籍は主に歴史、国際政治について書かれたものですが、その序論部においては歴史の定義、語源よりはじまり、如何なる経路によって各国が保持する固有の歴史認識がさまざまな国際間での摩擦の原因となっていくかが述べられており、ある意味タイムリーであると思われました・・。
また、それに加えて、これまでに自身が作成したブログ記事においてもいくつか、歴史あるいは歴史認識を主題としたものがありましたのであるいはそれに対する一種の反応、返答であったのかもしれません・・。
また、こうしたことを書いており不図思い出されることは、これまでに開催された勉強会において、発表内容は各々に任され、また、その発表内容について互いに相談することなどないはずであるのに、それぞれの発表内容が関連していたり、あるいはその骨子部分となる論理のメカニズムに類似性が認められたことです・・。
勉強会後にこれを不思議に思い、他の出席者である知人に聞いてみたところ「ええ、それはたしかに不思議かもしれませんね、しかし、そういったことはあまり珍しいことでもないと思いますよ・・。」と、いたって平静な口調で返答されました・・(笑)。
こうした不可思議ともいえる現象がいかなるメカニズムにて生じるのか分からず、あるいはそれ以前に発表された内容などの間に類似性を看取する自身の感性の方が少し普通ではないのかもしれないとも考えましたが、こうしたことを疑いはじめますとキリがなく、本当に普通ではなくなりそうでしたので、自身の日常的な感覚を信頼し、おそらく、こうした現象の背後にあるものとはユング心理学でいうところの集合的無意識、シンクロニティーによるものではないかと結論付けることにしました・・(笑)。
とはいえ、たとえその現象が集合的無意識から生じるシンクロニティーと称されるものであったとしても、それが何故、如何なるメカニズムにて生じるのかとは、依然分からず、また、おそらく今後も明瞭、論理的にこれを理解することは出来ないのではないかと思われます・・。
一方、あくまでも私見ではありますが一つ思うことは、こうした現象は、何かしら創造的な作業に熱中し、打ち込んでいる時期あるいはその直後の時期にどうも生じ易いのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した一連の地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月23日火曜日
20170522 「ジレンマ・悩み」と「慎重さ、思慮深さ」について対話形式
A「本日の首都圏は日中気温も上がり、夏日といっても良い日でした。
地域によっては30℃以上にもなったとのことから、本日は全国的に夏日であったと思われます。
また、自身に関しては帰宅が若干遅くなったことから、本日に関してはブログ記事作成を断念しようと思いましたが、何かしら書いておかないと、多少多少気が咎めることから、現在、日をまたぐ寸前ではありますが、記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
習慣とはなかなか恐ろしいものではありますが、今後もし他の文書等の作成により記事作成を断念する必要がある場合は、躊躇なく記事作成を断念したいと考えております・・(笑)。
そして、本日に関しては対話形式にて記事作成を行います・・。
A「どうです、最近何か変わったことはありましたか・・?」
B「いえ、特にありませんが、また幾つか応募してみようかという公募職種を見つけました。」
A「はあ、そうですか・・それで、その職種とはどんなものですか?」
B「ええ、今回見つけましたのも大学でのコーディネーター職です。
もしかしたら、ここ最近こうした職種の必要性が高まってきているのかもしれません・・。
とはいえ、その職種が自身に合っているのか、再度応募要項、職務内容等をよく読んでみて応募すべきか考えることにします。」
A「・・しかし応募しないことには何も始まらないけれども、一方で、そのあたりはとても重要ですからね、それでもこれまでの経験でBさんも御自身のことが以前よりかは、よく分かってきたのではないですか・・?」
B「・・まあ、たしかにそれはそうなのですが、しかし私の場合は御存知の通り何の因果か、これまでにいくつかの分野、職種を横断してきましたので、他の方々に比べた場合、何といいますか、未だに自身の『専門分野』というものが我が事ながらよく分からない、分かっていないのではないかと思うことがあるのです・・(苦笑)。
とはいえAさんの仰る通り、それらには応募しなければはじまりませんので、その相反する要素【応募しなければはじまらない:自身のことがよく分からない】が自身の中で何とも云えないジレンマらしきものを引き起こしているのではないかと思われるのです・・。」
A「しかしそれは何でも新たなことにチャレンジする時は皆そのような感じではないですか?
はじめから進む方向や答えが分かっていれば、そうした悩み、ジレンマは感じることはありませんが、同時にそうであれば、そこに進化、発展といったものは無いのかもしれませんよ・・(笑)。」
B「ええ、それも仰る通りではあると思いますが、しかし実際に応募する側の立場からしますと『見つけたら、ただ応募すれば良い』といったものでもなく、実際は意味のないことであるかもしれませんが【どうしても】色々と考えてしまうのです・・。何故ならば、それは、自身の職務、自身の人生の方向を変えるものとなるかもしれないですので・・また、私ももう、決して若いとは云えない年齢ですからね・・。
そして、このことに関しては確かに以前よりかは多少は慎重にはなったのかもしれませんが、同時にその慎重さとは、さきほどの悩み、ジレンマと比例して随伴するものではないかとも思われるのです・・。
またその一方で、自身の将来について考えた場合、こうした大学での職種に就き、わずかではあるかもしれませんが、何らかの寄与が出来ること以外、あまり想像することが出来ないのです・・。」
A「・・はあ、そうですか、そうした悩みとは確かに多少は深刻ではあるのかもしれませんが、しかし、そのような感じで考え込むことが出来るのも、さまざまな意味で現在であるからこそ可能なことであるのかもしれませんよ・・。
ですから、とりあえず現在は、そうした悩みから逃げることなく、大事にして、粘り強く応対し続ければ、どのようなカタチであれご自身で納得のいく答えを得ることが出来るのではないでしょうかね・・。」
B「・・そうですね、おそらく多少時間がかかるかもしれませんが、それ以外に有効な解決方法はないのかもしれませんね・・。
また一方で、こうしたことはあわてても仕方がありませんですし・・。」
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺の諸地域にて発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
地域によっては30℃以上にもなったとのことから、本日は全国的に夏日であったと思われます。
また、自身に関しては帰宅が若干遅くなったことから、本日に関してはブログ記事作成を断念しようと思いましたが、何かしら書いておかないと、多少多少気が咎めることから、現在、日をまたぐ寸前ではありますが、記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
習慣とはなかなか恐ろしいものではありますが、今後もし他の文書等の作成により記事作成を断念する必要がある場合は、躊躇なく記事作成を断念したいと考えております・・(笑)。
そして、本日に関しては対話形式にて記事作成を行います・・。
A「どうです、最近何か変わったことはありましたか・・?」
B「いえ、特にありませんが、また幾つか応募してみようかという公募職種を見つけました。」
A「はあ、そうですか・・それで、その職種とはどんなものですか?」
B「ええ、今回見つけましたのも大学でのコーディネーター職です。
もしかしたら、ここ最近こうした職種の必要性が高まってきているのかもしれません・・。
とはいえ、その職種が自身に合っているのか、再度応募要項、職務内容等をよく読んでみて応募すべきか考えることにします。」
A「・・しかし応募しないことには何も始まらないけれども、一方で、そのあたりはとても重要ですからね、それでもこれまでの経験でBさんも御自身のことが以前よりかは、よく分かってきたのではないですか・・?」
B「・・まあ、たしかにそれはそうなのですが、しかし私の場合は御存知の通り何の因果か、これまでにいくつかの分野、職種を横断してきましたので、他の方々に比べた場合、何といいますか、未だに自身の『専門分野』というものが我が事ながらよく分からない、分かっていないのではないかと思うことがあるのです・・(苦笑)。
とはいえAさんの仰る通り、それらには応募しなければはじまりませんので、その相反する要素【応募しなければはじまらない:自身のことがよく分からない】が自身の中で何とも云えないジレンマらしきものを引き起こしているのではないかと思われるのです・・。」
A「しかしそれは何でも新たなことにチャレンジする時は皆そのような感じではないですか?
はじめから進む方向や答えが分かっていれば、そうした悩み、ジレンマは感じることはありませんが、同時にそうであれば、そこに進化、発展といったものは無いのかもしれませんよ・・(笑)。」
B「ええ、それも仰る通りではあると思いますが、しかし実際に応募する側の立場からしますと『見つけたら、ただ応募すれば良い』といったものでもなく、実際は意味のないことであるかもしれませんが【どうしても】色々と考えてしまうのです・・。何故ならば、それは、自身の職務、自身の人生の方向を変えるものとなるかもしれないですので・・また、私ももう、決して若いとは云えない年齢ですからね・・。
そして、このことに関しては確かに以前よりかは多少は慎重にはなったのかもしれませんが、同時にその慎重さとは、さきほどの悩み、ジレンマと比例して随伴するものではないかとも思われるのです・・。
またその一方で、自身の将来について考えた場合、こうした大学での職種に就き、わずかではあるかもしれませんが、何らかの寄与が出来ること以外、あまり想像することが出来ないのです・・。」
A「・・はあ、そうですか、そうした悩みとは確かに多少は深刻ではあるのかもしれませんが、しかし、そのような感じで考え込むことが出来るのも、さまざまな意味で現在であるからこそ可能なことであるのかもしれませんよ・・。
ですから、とりあえず現在は、そうした悩みから逃げることなく、大事にして、粘り強く応対し続ければ、どのようなカタチであれご自身で納得のいく答えを得ることが出来るのではないでしょうかね・・。」
B「・・そうですね、おそらく多少時間がかかるかもしれませんが、それ以外に有効な解決方法はないのかもしれませんね・・。
また一方で、こうしたことはあわてても仕方がありませんですし・・。」
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺の諸地域にて発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年5月22日月曜日
20170521 昨日購入した小説から 【文章から滲出するものとは・・】
本日の首都圏は日中気温が上がり、夏日といっても良い陽気でした。
また、昨日購入した小説も半分以上まで読み進みました。
途中幾つかの箇所にて目頭が熱くなり、身体が火照るのを感じましたが、昨日も書きました通り、小説の読書を通じて、こうした感覚を得ることは久しくありませんでしたので、これは名著、名作であると私は思います・・。
また同時に、あくまでも自身の経験に基づくことですが、この感覚は、昨今世間にて話題となり、各種メディアにて取り沙汰されていることから書店にて立ち読みした幾つかの小説からは得ることが出来なかったものであり、おそらく、それら作品の間には何らかの違いがあるのではないかと思われます・・。
そして、そうした作品間の『違い』から生じることについて、もう少し考えてみますと、その一つの大きな要素とは読者層ではないでしょうか?
たとえば、現在我が国が世界に誇るノーベル文学賞候補ともなる作家の読者層と、冒頭に挙げた作品の読者層とは明らかに違うのではないかと思われます・・。
あるいは両生類をして戦後以来の我が国社会を寓話化した傑作とも云える著作を著し世に問うた作家の読者層とも、冒頭の作品の読者層とは微妙に異なるのではないかと思われます・・。
もしくは、さらに端的に、記事冒頭に挙げた作品を著した作家は、何と云いますか一般的な意味での『女性受け』を考えず【主要登場人物に女性が極端に少ない】に、あるいは、ただただ御自身の経験されたことを小説化しただけであるのかもしれません・・。
とはいえ、そのことから作品内での描写は優れ、同時にノンフィクション作品、ルポタージュとはまた異なった【当事者が語ることによる】迫真性を文章にもたらし、読む者に対し畏怖、感動、喜びといった情動の伝達を可能ならしめているのではないかと思われます。
そして、ここまで書いており不図想起したことは、奇しくも、この要素【当事者、経験者が書くことにより文章に迫真性をもたらし、それが読者に対して何かを伝達する】とは、以前投稿のブログ記事において書いた歴史小説、歴史を扱った著作への自身の考えとも通底しており、さらにそれは以前、自身のブログ記事について尋ねた方が「鹿児島での経験を書いた記事に割合面白いのが多いです。」と返答されたことにも共通する何かがあるのかもしれません・・。
相手の顔、態度が見えない文語、文章ではあっても、そこから感知される情報の信憑性、真偽などは、読み手によっては【ある程度】精確に伝わってしまうものであるのかもしれません・・。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した一連の地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
また、昨日購入した小説も半分以上まで読み進みました。
途中幾つかの箇所にて目頭が熱くなり、身体が火照るのを感じましたが、昨日も書きました通り、小説の読書を通じて、こうした感覚を得ることは久しくありませんでしたので、これは名著、名作であると私は思います・・。
また同時に、あくまでも自身の経験に基づくことですが、この感覚は、昨今世間にて話題となり、各種メディアにて取り沙汰されていることから書店にて立ち読みした幾つかの小説からは得ることが出来なかったものであり、おそらく、それら作品の間には何らかの違いがあるのではないかと思われます・・。
そして、そうした作品間の『違い』から生じることについて、もう少し考えてみますと、その一つの大きな要素とは読者層ではないでしょうか?
たとえば、現在我が国が世界に誇るノーベル文学賞候補ともなる作家の読者層と、冒頭に挙げた作品の読者層とは明らかに違うのではないかと思われます・・。
あるいは両生類をして戦後以来の我が国社会を寓話化した傑作とも云える著作を著し世に問うた作家の読者層とも、冒頭の作品の読者層とは微妙に異なるのではないかと思われます・・。
もしくは、さらに端的に、記事冒頭に挙げた作品を著した作家は、何と云いますか一般的な意味での『女性受け』を考えず【主要登場人物に女性が極端に少ない】に、あるいは、ただただ御自身の経験されたことを小説化しただけであるのかもしれません・・。
とはいえ、そのことから作品内での描写は優れ、同時にノンフィクション作品、ルポタージュとはまた異なった【当事者が語ることによる】迫真性を文章にもたらし、読む者に対し畏怖、感動、喜びといった情動の伝達を可能ならしめているのではないかと思われます。
そして、ここまで書いており不図想起したことは、奇しくも、この要素【当事者、経験者が書くことにより文章に迫真性をもたらし、それが読者に対して何かを伝達する】とは、以前投稿のブログ記事において書いた歴史小説、歴史を扱った著作への自身の考えとも通底しており、さらにそれは以前、自身のブログ記事について尋ねた方が「鹿児島での経験を書いた記事に割合面白いのが多いです。」と返答されたことにも共通する何かがあるのかもしれません・・。
相手の顔、態度が見えない文語、文章ではあっても、そこから感知される情報の信憑性、真偽などは、読み手によっては【ある程度】精確に伝わってしまうものであるのかもしれません・・。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した一連の地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
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