かつ日本政府は露、独、仏三国の運動が、或いは清国を誘引して条約の批准を拒止せしめついに再び砲火相間見ゆるの已むを得ざるに陥らんことを恐る、かかる出来事はなるべく未発に防遏するため内密に米国の友誼協力を望まざるを得ず、との旨を米国政府に告ぐべし、と命じたり。しかるに同月二十七日、露京発西公使の回電にいう、四月二十五日の電訓に基づき、本官は昨日露国外務大臣と長時間の弁論を費やし、力を尽くして露国政府をしてわが請求に対し都合よき回答をなさしめんとしたり、同大臣の顔色やや感動するところあるもののごとく見受け、今一応露国皇帝の叡慮を伺うべしと約せり、しかるに今日に至り、露国皇帝は日本の請求は露国の勧告を翻さしむるに足るべき十分の理由あらずとのゆえをもって、これを容納し給わずとの旨を述べたり、目下露国政府は運槽船をオデッサに派遣し軍隊回槽の準備中なりと風聞す、ゆえに露国の干渉は重大なるべきものと予期して覚悟しおかるる方安全なるべし、と。余は露国の回答は大概かくのごときものなるべしとは予期せしところなり。而して英国はいかにわが請求に対し回答せしか。あたかも西公使の回電と同日、倫敦発加藤公使の電報はこのときに到来せり、加藤公使はさきに余の電訓に接するや直ちに英国外務大臣に両見を求め具にわが政府の希望を述べたるに、キンバリー伯爵はすこぶる日本に対し好情を抱き居る様子なれども、諸大臣は、この事件に関し英国政府は一切干渉せざることに決定しおれり、而して今英国が日本に協力することはそもそもまた一の干渉にほかならず、事体一新面目を開くことなるをもって、内閣総理大臣ローズベリー伯爵と相談のうえにあらざればなにごとも回答し難し、との旨を述べ、かつ、露、独、仏三国にはたしてなにほどまでその異議を主張するやは確知せざれども、形勢すこぶる容易ならざるゆえに、日本はこれに対し十二分に覚悟するを得策とすべし、英国は平和を望むをもって日本が欧州各国と交戦に至るを欲せざるはもちろん、日清戦争の継続することもまたはなはだ好まざるところなれば、目下の葛藤を解除すべき機会あれば必ず尽力することを怠らざるべし、ただし英国は日本に対し友情を抱くといえど、露、独、仏三国もまた友邦のことなれば、英国はこの際彼此酌量してその威厳上自己の決断と責任とをもって運動するのほかなし、と付言したり。加藤公使はこのときすでに在伊国高平公使の電照にて伊国政府の意見を推知し居たるにより、英国外務大臣に向かい、暗にこの際事局を了結すべき名案なきやと問いたれども、同大臣は否と答えたるのみ。なおわが請求に対する英国政府の確答あり次第さらに電稟すべしといい越し、ついで二十九日、倫敦発同公使の電報によれば、英国外務大臣は同公使に対し、英国政府はうちに局外中立を守ることに一決したれば、今回もまた同一の意向を維持せんと欲す、英国は日本に対しもっとも昵懇なる友情を抱き居れども、同時に自国の利益をも考えざえるを得ず、ゆえに今日本の提議に協同して日本を助力する能わず、ただし露国は真実に決心するところあるがごとしといい、深く注意を与えたり、と報じ来たれり。これを要するに、英国は半呑半吐の間にわが請求を謝絶したるに過ぎず、また同日栗野公使の来電によれば、米国国務大臣は局外中立の主意と矛盾せざる限りは日本と協力することを承諾せり、而して講和条約の批准の件は在北京米国公使に電訓して、速やかなる実行することを清国に勧告せしむべしといえり、とあり。米国の政綱よりいえばこの回答は実に相当の語詞にして、そのわが国に対する友情の薄からざるを視るべし。さりとて局外中立の範囲内における協力といえばその極端の援助を望むに足らず。
2024年8月1日木曜日
20240731 中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.270‐272より抜粋
中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.270‐272より抜粋
ISBN-10 : 412160153X
ISBN-13 : 978-4121601537
2024年7月30日火曜日
20240729 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.149‐151より抜粋
株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.149‐151より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063
ナチス・ドイツの勢威の絶頂において開かれた一九三九年の国家の祝典において宣伝相ゲッベルスは彼らの文化指導原理を繰りかえし述べ「主智主義は国民の聡明を害する」として演説した。竹山は同年五月二日のDeutsche Allgemeine Zeitung紙から次のように訳出した、
「デモクラシーは、独裁国家に於いては精神の自由が抑圧されている、と言うが、かかる主張もわがナチス独逸に於ては、もはや何の印象をも喚起せぬのである。確かに独裁国家に於ては、精神の自由は、それが国家的利益と相容れぬ場合には、制限を受けるのである。デモクラシーに於いては、精神の自由はこの点では制限を受けぬかも知れぬが、しかし資本家の利益と相容れぬ場合には確かに制限を受けるのです、されば、ここに一つの疑問を呈出したいと思う、-そもそも精神的労働に従事する者にとって、彼の精神的労働を全民族の国民的幸福に従属せしむるのと、あるいは姿も見せぬ少数の金権閥族の資本主義的利益に従属せしむるのと、いずれがより快くまた栄誉あることであるか?…
吾人は断じて主智主義を以て国民的聡明と同一視してはならぬ。…過去数年間に於て、われらが国民的聡明は公共生活のあらゆる領域に於て真の奇蹟を成就した。今日わが国に於てなお僅かばかり生き残っている、リベラル・デモクラティックな主智主義がこの時期に於て為したところは、単に批評するのみであった。そうして、単に政治的のみならず、精神的にも、芸術的にも、文化的にも、とっくに任を終えた筈の西欧のデモクラシーにその範を求むるのみであった」
そしてゲッベルスは断言する、”Kultur hat ihrem Wesen nach nichts Wissen und vor allen niches mit kalrer Intellektualiat zu tun."「そもそも、文化とは、その本質に於て知識、なかんずく冷やかなる知性とは何の関係もないものである。文化は民族性のもっとも深くもっとも純粋なる生命の表現である。文化は民族の国民的威力と結合して、はじめてその真の意義を獲得する」。そして新聞人の使命も定義される。「ナチス・ドイツに於てはジャーナリストは国家と民族とその利益とに奉仕する者であるが故に、彼等は職業的に兵士及び官吏と同一視さるべき、光栄ある任務を荷なっている。デモクラシー国家に於ては、ジャーナリストは姿も見せぬ資本強権の文筆苦力にすぎない。…リベラルな国家に於ける精神の自由とは、単なる架空な作り話であって、インテリ愚衆をして、事実存在せざるある状態を存在するかに思い込ませるべく、暗示にかけるだけの役に立っている」。
教育の使命も同様に定義される。ヒトラーも自己の抱懐する世界観に則って若者を教育すべき旨を演説した、ヒトラーは年配の者に反対者のいることを知るがゆえに青年層に向って働きかける。「いわゆる自由なるものを排除することあるは当然である。次のように言う人間がいるであろう、「己の息子が何故労働奉仕なんかしなくてはならないのか。もっと高尚な仕事をしに生れたのだ。シャベルなんか担ぎ廻ってどうするのだ?何か精神的な仕事をしたらいいではないか」だが、おお君と、その君のいう精神とは一体何であるか!(Was Du, mein lieber Freund, schon unter Geist verstehst!)(再度、数十万の嵐の如き哄笑が支配する)。今、君の息子が西部地方で六カ月間ドイツの為に働いているのは、これは、君の全精神が一生の間ドイツの為になしえたよりも、事実に於てより大いなる事業である(群集は湧き上がる喝采を以て総統に賛意を表する)。しかも君の息子は、民族の内的分裂という最悪の迷妄をも排除すべく働いているのだ」。そしてヒトラーは脅迫をもまじえる、「吾人は勿論「働きたくないなら、働かぬでもよい」とは言わないのだ!」。
竹山は演説の文言が行動に移されたドイツの文化状況を「ルネサンス以来ヨーロッパの人本主義文化を開展せしめる原動力となった原理、-個人、その自由、その知性ーの否定」と規定し、「英仏側が勝てば、思考の自由は救われ得る。ドイツが勝てばそんなものはわれらから根底的に奪われるであろう」と結論した。日本は昭和十一年来日独防共協定を結び、十五年は九月には日独伊三国同盟が結ばれようとしていた。大胆な発言であった。
pp.149‐151より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063
ナチス・ドイツの勢威の絶頂において開かれた一九三九年の国家の祝典において宣伝相ゲッベルスは彼らの文化指導原理を繰りかえし述べ「主智主義は国民の聡明を害する」として演説した。竹山は同年五月二日のDeutsche Allgemeine Zeitung紙から次のように訳出した、
「デモクラシーは、独裁国家に於いては精神の自由が抑圧されている、と言うが、かかる主張もわがナチス独逸に於ては、もはや何の印象をも喚起せぬのである。確かに独裁国家に於ては、精神の自由は、それが国家的利益と相容れぬ場合には、制限を受けるのである。デモクラシーに於いては、精神の自由はこの点では制限を受けぬかも知れぬが、しかし資本家の利益と相容れぬ場合には確かに制限を受けるのです、されば、ここに一つの疑問を呈出したいと思う、-そもそも精神的労働に従事する者にとって、彼の精神的労働を全民族の国民的幸福に従属せしむるのと、あるいは姿も見せぬ少数の金権閥族の資本主義的利益に従属せしむるのと、いずれがより快くまた栄誉あることであるか?…
吾人は断じて主智主義を以て国民的聡明と同一視してはならぬ。…過去数年間に於て、われらが国民的聡明は公共生活のあらゆる領域に於て真の奇蹟を成就した。今日わが国に於てなお僅かばかり生き残っている、リベラル・デモクラティックな主智主義がこの時期に於て為したところは、単に批評するのみであった。そうして、単に政治的のみならず、精神的にも、芸術的にも、文化的にも、とっくに任を終えた筈の西欧のデモクラシーにその範を求むるのみであった」
そしてゲッベルスは断言する、”Kultur hat ihrem Wesen nach nichts Wissen und vor allen niches mit kalrer Intellektualiat zu tun."「そもそも、文化とは、その本質に於て知識、なかんずく冷やかなる知性とは何の関係もないものである。文化は民族性のもっとも深くもっとも純粋なる生命の表現である。文化は民族の国民的威力と結合して、はじめてその真の意義を獲得する」。そして新聞人の使命も定義される。「ナチス・ドイツに於てはジャーナリストは国家と民族とその利益とに奉仕する者であるが故に、彼等は職業的に兵士及び官吏と同一視さるべき、光栄ある任務を荷なっている。デモクラシー国家に於ては、ジャーナリストは姿も見せぬ資本強権の文筆苦力にすぎない。…リベラルな国家に於ける精神の自由とは、単なる架空な作り話であって、インテリ愚衆をして、事実存在せざるある状態を存在するかに思い込ませるべく、暗示にかけるだけの役に立っている」。
教育の使命も同様に定義される。ヒトラーも自己の抱懐する世界観に則って若者を教育すべき旨を演説した、ヒトラーは年配の者に反対者のいることを知るがゆえに青年層に向って働きかける。「いわゆる自由なるものを排除することあるは当然である。次のように言う人間がいるであろう、「己の息子が何故労働奉仕なんかしなくてはならないのか。もっと高尚な仕事をしに生れたのだ。シャベルなんか担ぎ廻ってどうするのだ?何か精神的な仕事をしたらいいではないか」だが、おお君と、その君のいう精神とは一体何であるか!(Was Du, mein lieber Freund, schon unter Geist verstehst!)(再度、数十万の嵐の如き哄笑が支配する)。今、君の息子が西部地方で六カ月間ドイツの為に働いているのは、これは、君の全精神が一生の間ドイツの為になしえたよりも、事実に於てより大いなる事業である(群集は湧き上がる喝采を以て総統に賛意を表する)。しかも君の息子は、民族の内的分裂という最悪の迷妄をも排除すべく働いているのだ」。そしてヒトラーは脅迫をもまじえる、「吾人は勿論「働きたくないなら、働かぬでもよい」とは言わないのだ!」。
竹山は演説の文言が行動に移されたドイツの文化状況を「ルネサンス以来ヨーロッパの人本主義文化を開展せしめる原動力となった原理、-個人、その自由、その知性ーの否定」と規定し、「英仏側が勝てば、思考の自由は救われ得る。ドイツが勝てばそんなものはわれらから根底的に奪われるであろう」と結論した。日本は昭和十一年来日独防共協定を結び、十五年は九月には日独伊三国同盟が結ばれようとしていた。大胆な発言であった。
2024年7月29日月曜日
20240728 株式会社岩波書店刊 金関丈夫著 大林太良編「新編 木馬と石牛」pp.68‐70より抜粋
株式会社岩波書店刊 金関丈夫著 大林太良編「新編 木馬と石牛」pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 : 4003319710
ISBN-13 : 978-4003319710
結論をさきにいえば、スサノオのオロチ退治の話は、外婚的双分制社会における通婚形式のー少なくともその記憶上の伝承のーまだ遺っている時代における、農耕民に一般的だった神婚の祭事から起こり、後世にいたって、それがいろいろと変化した結果、その一部を遺す伝説となり、民話となり、子供ばなしとなったと同様に、一つの神話となって遺された物語だ、というのである。話は一種の英雄神話に変化したが、その中にも原型は部分的に、かすかに遺っている。いまそれらの断片を手がかりにして、できたらもとの姿に復元して見ようというのである。
その手がかりはまず、川上から流れてくる箸である。他の話では、これが杖であったり、丹塗りの矢であったり、あるいは桃であったり、瓜であったりする。水にかづく斎女が、これを迎えて神とし、その一夜妻としてこれと交わる伊勢や賀茂の神事では、流れ寄る神木をミアレギといっている。「御生れ木」の意である。多くの伝説では、水辺の女がこれと交わって、英雄を生むことになる。あるいは、流れ寄ったものの中に、すでに小さ子が孕まれていて、これがのちに英雄となる。四世紀の「華陽国志」などに見える、夜郎国の英主竹王も、流れきたって洗濯する女の脚にまといつく竹幹の中にはらまれていた。女のこれと交わって英雄を生む話の方が、既生の小さ子の流れ寄るモーゼ説話の形よりは、原の形だったと思われる。
中国の浣女という話も、中唐あたりの感応的な詩の材料にしばしば用いられているが、何か思想上の前歴があったと思われる。桃太郎や瓜姫ばなしでは、川下の洗濯婆さんになってくる。ホトタタライススキヒメも、これはいまでは「あわてふためく」の意と解されているが、やはり濯ぎ女であったにちがいない。斎女が機を織り、水を潜いで、流れ下るミアレギを待つという形が、このような変化を見せている。
この流れ寄る棒が、竜蛇神を表すものだ、ということについては、それを傍証する多くの事例があって、すでに明らかになっている。かくして竜種の英雄神が誕生する。『日本霊異記』や中国の神怪譚に見える多くの話では、蛇子そのものを生むことにもなる。賀茂の伝説の雷神は、蛇神の顕現であり、蛇神はかくて天上につながる。華胥が雷沢の水辺に夢みて、蛇身人面の太皡を生む話は、この話の一部の脱落の姿であろう。
雷と竜とは同一物であり、これた年の稔りを左右する、という考え方は中国にもあり、神は雷となって山上に降り、蛇となって渓を下る。斎女のこれと交わることによって、天地の和合を求める、という考え方にも、いくらか中国風のスペキュラティーフな匂いがある。川上から流れくる箸の表象する世界はこれであるが、それ以前に、も少し素朴な、直截な、地上的な儀礼があったであろう、と私は考えている。天などには必ずしも関しない、地上の男女神の媾交によって、穀霊を刺激し、穀粒を孕ませようという、純然たる擬制呪法に基づく祭事が、あったにちがいない、と思っている。
第二の手がかりは櫛である。スサノオはクシイナダヒメを小形に変化させて、頭に挿したとなる。これは櫛をさしたことであり、女装したことである。ヤマトタケルや後世の岩見重太郎も、クマソやヒヒを退治するときに女装する。これらの英雄は、なぜ女装の必要があったか。
水辺の異物から、あるいはこれと交わった川下の女から生まれた小さな女の子は、からだの人なみに達しない、弱々しい姿をとる。それだからこそ、かくれた霊力が具わったので、桃太郎が子供の姿であるのは、必ずしも子供ばなしになり終わった後の変化ではない。元来が若童の形だったのだ。私の想像する祭事の場面で、一人まえの男がこれを演ずる場合には、女装をした優さ男、すなわち男女双性神の神の姿を彼はとる。けっしていま考えられているスサノオやヤマトタケルのような、荒あらしい英雄の姿ではなかった。それが一人まえの男の姿ではなかったにもかかわらず、非常な力をふるう、というところから、微賤であったり、怠けものであったりする主人公が、果報のもちぬしであるという、多くの民話が生れてくる。
第三の手がかりは霊剣である。スサノオはオロチの尾中に宝剣を得る。宋の「中呉紀聞」には、蛇尾が剣に化す話が見える。剣が元来山のものであり、山より下った蛇神に属していることについては、後にもふれるつもりである。
ISBN-13 : 978-4003319710
結論をさきにいえば、スサノオのオロチ退治の話は、外婚的双分制社会における通婚形式のー少なくともその記憶上の伝承のーまだ遺っている時代における、農耕民に一般的だった神婚の祭事から起こり、後世にいたって、それがいろいろと変化した結果、その一部を遺す伝説となり、民話となり、子供ばなしとなったと同様に、一つの神話となって遺された物語だ、というのである。話は一種の英雄神話に変化したが、その中にも原型は部分的に、かすかに遺っている。いまそれらの断片を手がかりにして、できたらもとの姿に復元して見ようというのである。
その手がかりはまず、川上から流れてくる箸である。他の話では、これが杖であったり、丹塗りの矢であったり、あるいは桃であったり、瓜であったりする。水にかづく斎女が、これを迎えて神とし、その一夜妻としてこれと交わる伊勢や賀茂の神事では、流れ寄る神木をミアレギといっている。「御生れ木」の意である。多くの伝説では、水辺の女がこれと交わって、英雄を生むことになる。あるいは、流れ寄ったものの中に、すでに小さ子が孕まれていて、これがのちに英雄となる。四世紀の「華陽国志」などに見える、夜郎国の英主竹王も、流れきたって洗濯する女の脚にまといつく竹幹の中にはらまれていた。女のこれと交わって英雄を生む話の方が、既生の小さ子の流れ寄るモーゼ説話の形よりは、原の形だったと思われる。
中国の浣女という話も、中唐あたりの感応的な詩の材料にしばしば用いられているが、何か思想上の前歴があったと思われる。桃太郎や瓜姫ばなしでは、川下の洗濯婆さんになってくる。ホトタタライススキヒメも、これはいまでは「あわてふためく」の意と解されているが、やはり濯ぎ女であったにちがいない。斎女が機を織り、水を潜いで、流れ下るミアレギを待つという形が、このような変化を見せている。
この流れ寄る棒が、竜蛇神を表すものだ、ということについては、それを傍証する多くの事例があって、すでに明らかになっている。かくして竜種の英雄神が誕生する。『日本霊異記』や中国の神怪譚に見える多くの話では、蛇子そのものを生むことにもなる。賀茂の伝説の雷神は、蛇神の顕現であり、蛇神はかくて天上につながる。華胥が雷沢の水辺に夢みて、蛇身人面の太皡を生む話は、この話の一部の脱落の姿であろう。
雷と竜とは同一物であり、これた年の稔りを左右する、という考え方は中国にもあり、神は雷となって山上に降り、蛇となって渓を下る。斎女のこれと交わることによって、天地の和合を求める、という考え方にも、いくらか中国風のスペキュラティーフな匂いがある。川上から流れくる箸の表象する世界はこれであるが、それ以前に、も少し素朴な、直截な、地上的な儀礼があったであろう、と私は考えている。天などには必ずしも関しない、地上の男女神の媾交によって、穀霊を刺激し、穀粒を孕ませようという、純然たる擬制呪法に基づく祭事が、あったにちがいない、と思っている。
第二の手がかりは櫛である。スサノオはクシイナダヒメを小形に変化させて、頭に挿したとなる。これは櫛をさしたことであり、女装したことである。ヤマトタケルや後世の岩見重太郎も、クマソやヒヒを退治するときに女装する。これらの英雄は、なぜ女装の必要があったか。
水辺の異物から、あるいはこれと交わった川下の女から生まれた小さな女の子は、からだの人なみに達しない、弱々しい姿をとる。それだからこそ、かくれた霊力が具わったので、桃太郎が子供の姿であるのは、必ずしも子供ばなしになり終わった後の変化ではない。元来が若童の形だったのだ。私の想像する祭事の場面で、一人まえの男がこれを演ずる場合には、女装をした優さ男、すなわち男女双性神の神の姿を彼はとる。けっしていま考えられているスサノオやヤマトタケルのような、荒あらしい英雄の姿ではなかった。それが一人まえの男の姿ではなかったにもかかわらず、非常な力をふるう、というところから、微賤であったり、怠けものであったりする主人公が、果報のもちぬしであるという、多くの民話が生れてくる。
第三の手がかりは霊剣である。スサノオはオロチの尾中に宝剣を得る。宋の「中呉紀聞」には、蛇尾が剣に化す話が見える。剣が元来山のものであり、山より下った蛇神に属していることについては、後にもふれるつもりである。
2024年7月28日日曜日
20240727 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 pp.209-212より抜粋
河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻
pp.209-212より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375
データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。これは突飛で傍流の考え方だという印象を受けるかもしれないが、じつは科学界の主流をすでにおおむね席捲している。データ至上主義は科学における二つの大きな流れがぶつかり合って誕生した。チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版して以来の一五〇年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの八〇年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。データ至上主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する。
データ至上主義はこうして、動物と機械を隔てる壁を取り払う、そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える動きをすることを見込んでいる。
データ至上主義は、政治家や実業家や一般消費者に革新的なテクノロジーと計り知れない新しい力を提供する。学者や知識人にも、何世紀にもわたって私たちを寄せつけなかった科学の聖杯を与えることを約束する。その聖杯とは、音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する、第一の包括的な理論だ。データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第五番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本概念とツールを使って分析できるデータフローのパターンにすぎないという。この考え方はきわめて魅力的な。すべての科学者に共通の言語を与え、学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。音楽学者と経済学者と細胞生物学者が、ようやく理解し合えるのだ。
その過程で、データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。これまでは長い一連の知的活動のほんの第一段階と見なされていた。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。もはや人間は膨大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。
データ至上主義者は、母体である二つの学問領域にしっかりと根差している。その領域とは、コンピューター科学と生物学だ。両者を比べると生物学がとりわけ重要だ。生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生れたのだ。生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。
今日、個々の生き物だけではなく、ハチの巣やバクテリアのコロニー、森林、人間の都市などさまざまな形の社会全体もデータ処理システムと見なされている。経済学者はしだいに、経済もまたデータ処理システムだと解釈するようになっている。経済は、小麦を栽培する農民や、衣服を製造する労働者、パンや肌着を買う消費者から成ると素人は考える。ところが専門家にしてみれば、経済とは欲望や能力についてのデータを集め、そのデータをもとに決定を下す仕組みなのだ。
この見方によれば、自由主義資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する。資本主義は、すべての生産者と消費者を直接結びつけ、彼らに自由に情報を交換させたり、各自に決定を下されたりすることでデータを処理する。自由主義ではどのようにしてパンの価格を決めるのか?じつのところ、どのベーカリーも好きなだけパンを作り、いくらでも高い値段をつけられる。消費者も同じく自由に、買えるだけのパンを買うこともできれば、他の店で買うこともできる。バゲット一本に一〇〇〇ドルの値えおつけても違法ではないが、それでは買う人はいないだろう。
今度はずっと大きなスケールで考えよう。投資家はパンの需要増加を予測すると、遺伝子操作によって収穫量の多い小麦の品種を作り出すバイオテクノロジー企業の株を買うだろう。すると、そうした企業に投資が流れ込み、研究が加速し、小麦が前より多く、遠く供給され、パン不足が回避できる。たとえバイオテクノロジーの大手一社が間違った理論を採用して行き詰ったとしても、おそらく競争相手のなかにはもっとうまくやる企業もあり、期待どおりの大躍進を遂げるだろう。このように、自由主義資本主義のでは、データ分析と意思決定の作業が、独立してはいても互いにつながっている多くの処理者に分散している。オーストリアの経済学者の大家フリードリヒ・ハイエクはこれを次のように説明している。「当該の事実に関する知識が多くの人の間に分散しているシステムでは、価格はさまざまな人の別個の行動を調整する働きをなしうる」
pp.209-212より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375
データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。これは突飛で傍流の考え方だという印象を受けるかもしれないが、じつは科学界の主流をすでにおおむね席捲している。データ至上主義は科学における二つの大きな流れがぶつかり合って誕生した。チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版して以来の一五〇年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの八〇年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。データ至上主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する。
データ至上主義はこうして、動物と機械を隔てる壁を取り払う、そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える動きをすることを見込んでいる。
データ至上主義は、政治家や実業家や一般消費者に革新的なテクノロジーと計り知れない新しい力を提供する。学者や知識人にも、何世紀にもわたって私たちを寄せつけなかった科学の聖杯を与えることを約束する。その聖杯とは、音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する、第一の包括的な理論だ。データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第五番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本概念とツールを使って分析できるデータフローのパターンにすぎないという。この考え方はきわめて魅力的な。すべての科学者に共通の言語を与え、学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。音楽学者と経済学者と細胞生物学者が、ようやく理解し合えるのだ。
その過程で、データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。これまでは長い一連の知的活動のほんの第一段階と見なされていた。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。もはや人間は膨大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。
データ至上主義者は、母体である二つの学問領域にしっかりと根差している。その領域とは、コンピューター科学と生物学だ。両者を比べると生物学がとりわけ重要だ。生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生れたのだ。生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。
今日、個々の生き物だけではなく、ハチの巣やバクテリアのコロニー、森林、人間の都市などさまざまな形の社会全体もデータ処理システムと見なされている。経済学者はしだいに、経済もまたデータ処理システムだと解釈するようになっている。経済は、小麦を栽培する農民や、衣服を製造する労働者、パンや肌着を買う消費者から成ると素人は考える。ところが専門家にしてみれば、経済とは欲望や能力についてのデータを集め、そのデータをもとに決定を下す仕組みなのだ。
この見方によれば、自由主義資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する。資本主義は、すべての生産者と消費者を直接結びつけ、彼らに自由に情報を交換させたり、各自に決定を下されたりすることでデータを処理する。自由主義ではどのようにしてパンの価格を決めるのか?じつのところ、どのベーカリーも好きなだけパンを作り、いくらでも高い値段をつけられる。消費者も同じく自由に、買えるだけのパンを買うこともできれば、他の店で買うこともできる。バゲット一本に一〇〇〇ドルの値えおつけても違法ではないが、それでは買う人はいないだろう。
今度はずっと大きなスケールで考えよう。投資家はパンの需要増加を予測すると、遺伝子操作によって収穫量の多い小麦の品種を作り出すバイオテクノロジー企業の株を買うだろう。すると、そうした企業に投資が流れ込み、研究が加速し、小麦が前より多く、遠く供給され、パン不足が回避できる。たとえバイオテクノロジーの大手一社が間違った理論を採用して行き詰ったとしても、おそらく競争相手のなかにはもっとうまくやる企業もあり、期待どおりの大躍進を遂げるだろう。このように、自由主義資本主義のでは、データ分析と意思決定の作業が、独立してはいても互いにつながっている多くの処理者に分散している。オーストリアの経済学者の大家フリードリヒ・ハイエクはこれを次のように説明している。「当該の事実に関する知識が多くの人の間に分散しているシステムでは、価格はさまざまな人の別個の行動を調整する働きをなしうる」
2024年7月26日金曜日
20240725 本日の慶應義塾史展示館での企画展示室の拝観から想起されたこと
以前、当ブログにて述べたことがありますが、祖父母が住んでいた伊東市の家に主がいなくなって以降、そこに時々、伯父が行って泊りがけで草刈りなど庭の手入れなどをしていました。そして丁度同じ頃、私は和歌山から実家に戻り、歯科技工専門学校に通っていました。そうした状況もあり、夏季に伯父から「庭の手入れの手助けに来てほしい」との要望を受けて行ったことが何度かありました。実際、庭とは云ってもそこまで広くはありませんが、気候温暖な伊豆であると植物、樹木などの生育の具合も良いのでしょうか、盛夏の日中での庭の手入れは、頭と首にタオルを巻いて、防災用ヘルメットを被り、エンジン式の芝刈り機を用いて庭一面に生えた雑草を刈ったり、あるいは樹に登り余分な枝を払ったりなどで、それなりに時間を要する作業となり、雑談混じりではありましたが、日中は始終作業をしていました。やがて日が暮れてくると「そろそろ今日は終わろうか?」となり、18:00頃には作業を終えて道具を片付け、そして自動車で近くのスーパーマーケットまで夕食の買い出しに出かけました。そして戻ってから交替で入浴をして、買ってきた食材を卓上に並べ、伯父は好物のお酒を飲みながら、夕食(多くは地の魚の刺身)を食べつつ様々な話をされるのです。また、その際にテレビを点けていることが多く、時々、それを話題にして話を展開されることもあり、それらも興味深いものが多かったです。そうしたなか、敗戦記念日周辺での特集の一環であるのか、人間魚雷「回天」を題材とした横山秀夫原作、佐々部清監督による映画「出口のない海」が放映されており、二人とも、そうした題材には興味があることから、飲食をしつつではあれ意識を向けて鑑賞していますと、しばしば伯父が学生・院生時代に先輩や指導教員からお聞きしたと思しき戦時中の大学での話をされるのですが、それも興味深いものが多く、私の方は既にごく少量の飲酒により良い気分になっており、時には頷き、また時には不遜とも云える態度で疑問をぶつけていましたが、伯父もまた酔って良い気分になり、あるいは日中の肉体労働による達成感のためであったのか、鷹揚に受け答えをされていました。やがて映画も終盤に近づき、主要な登場人物である学徒出身の回天搭乗員たちが出撃による戦死、あるいは事故死などといった場面が続くようになると、二人とも言葉が少なくなり、やがて映画が終り、有名女性歌手によるエンディングテーマが流れてくると、伯父はティッシュペーパーで鼻をかみ「お酒を飲んでまた汗をかいちゃったからお風呂に入ってくるよ・・」と云って立ち上がり、タオルなどを取ってから、おもむろに私に「いやあ、悲しい映画だったね・・。しかし、当時、私がどこかの学生だったら特攻に志願していたかな?」と尋ねてきました。私は数秒間をおいて「・・ええ、伯父さんが当時の大学生でしたら、多分志願していたと思います。」と返事をすると「やっぱりそうかね・・。」と云って、もう一度ティッシュで鼻をかみ、こちらをちょっと見てから、風呂場の方に行きました。こちらを見た時の伯父の両目は少し赤くなっており、泣かれていたのかと思われましたが、態度や声色だけでは判然とはしませんでした。しかし、現在になり思い返し考えてみますと、あの時伯父は、やはり、少し泣かれていたのではないかと思われます。そしてまた、そのことは「弱さ」とも評されるような不名誉なことではないと私は考えます。
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ISBN978-4-263-46420-5
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電話番号:047-334-0030
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2024年7月24日水曜日
20240723 以前、熱心に読んでいた著作の記憶から思ったこと
当「ブロガー」にて作成したブログ記事をエックス(旧ツイッター)と連携をして、そこでさらにリポストなどをしているためであるのか、ここ数日間は、当ブログの1日毎での閲覧者数が通常の200~300人から増加していました。あるいはまた、他の要因があるのかもしれませんが、何れにせよ、より多くの方々に当ブログを閲覧して頂くことは、特に悪いことではないと考えますので、現在は2200記事到達後の休息期間とはしていますが、今しばらく、書籍からの引用記事を主として記事作成を継続したいと思います。そして、出来るだけ早い時期に次のある程度の区切りである2300記事まで到達したいと思っています。そうしたなか、昨日までの記事投稿により総投稿記事数は2330にまで至り、我がことながら、思いのほかに記事数のカウントが進んでいたことに少し驚かされました。また、そうした経緯から、私の場合、当ブログが(どうにか)9年以上にわたりこれまで継続することが出来た背景には、おそらく読書の習慣があったと云えます。もちろん、途中、仕事が忙しくなり、しばらく間を置くことも度々ありましたが、そうしたなかであっても、既読の著作のある記述を何かのきっかけで思い出しますと、その記述から引用記事を作成することは、特に抵抗も困難も感じることはなく、また周囲の知見のある方々に適法であるか問い合わせたところ、いくつかの注意点を頂きましたが特に問題はないとのことでした。そうした背景もあり、当ブログはこれまで、どうにか継続しているのだと云えます。また、読書と云えば、どうしたわけか、これまたここ数日、一連の当ブログから加藤周一による「日本文学史序説」の引用記事ではなく、それを題材とした記事がいくつか読んで頂いていたことが不思議そして面白く思われました。以前にも当ブログにて述べたことではありますが、当著作上下巻は鹿児島在住の期間に購入していましたが、そこでは身を入れて読むことはありませんでした。やがて、2013年9月に学位取得をして帰郷した頃から、それまでに積読状態であった著作をいくらか集中的に読むようになり、そして、当時、最も身を入れて読んだと思われるのが、さきの加藤周一による「日本文学史序説」上下巻です。これは2015~2017の期間での当ブログの投稿記事をある程度、注意して見ると、ご理解頂けると思われますが、当時はそこからの引用記事を少なからず作成し、また熱心にも同著作の英語版を古書にて全巻購入し、通読までは残念ながら出来ませんでしたが、努力もしつつ、それなりに楽しんで読んでいた記憶があります。当著作英語版は、その後の何度かの移動の際に、散逸してしまったのか、あるいは本箱の中に収納してあるのか、不明ではありますが、再度手に取って読んでみたいと思っています。そういえば、当著作の日本語版については、学位取得後すぐに開催された和歌山での勉強会の後の徒歩移動の際に市民会館(2021年閉鎖)近くのに架けられた歩道橋を渡っている際に「加藤周一の「日本文学史序説」はとても面白いですね。しかもこれは英語版も出ていますので、今後、どこかでまた「教養英語」のような科目をやらせてもらえるのでした、是非、この著作を教材として用いたいですね。」といったことを元気に宣っていたいた記憶があります・・(苦笑)。そして現在もまたおそらく、そうであるのでしょうが、こうした記憶が不図想起されますと「当時は何も知らなかったな・・。」と恥ずかしく思う次第です。また、その頃(2013~2014)はまだ、当ブログは始めておらず、いわば就職活動とアルバイト以外に何をやって良いか分からないままの反面で、それまであまり身を入れて読むことが出来なかった類の書籍をどちらかというと享楽的に読んでいた時期であり、それがしばらく続くと、何が原因であったかは忘れてしまいましたが、ともあれ、それまでの私は「読む」と「書く」あるいは「インプット」と「アウトプット」を比較すると、圧倒的に「読む」といった「インプット」の要素が大きかったのですが、それが辛くなってきて、そして、そうした時期(2015年前半)に相次いで数人の方々から「ブログ(文章作成)を始めてみてはどうか?」といった主旨のアドバイスを頂いて、当ブログを始めた次第ですが、そこからこれまでに9年以上の継続、そして2230記事の投稿をしたこと考えてみますと、紆余曲折がありながらも、それなりによく続けたものだとも思われます。とはいえ、今しばらくまたこれを続けて、出来れば来年の6月に丸10年間となるまでは、どうにか継続したいと考えています。おそらく10年間継続すれば、とりあえず、一つの(それなりに)大きな区切であることから、当ブログをやめても後悔はしないか、あるいは著しく乏しいと思われるのです。そして、さきの「加藤周一の「日本文学史序説」については、その続きを、また別の近い機会に述べさせて頂きたいと考えています。
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2024年7月23日火曜日
20240722 慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編 pp.2‐4より抜粋
慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編
pp.2‐4より抜粋
1.慶應義塾医学所の開設と閉鎖
慶應義塾大学医学部が創設される以前、慶應義塾医学所が明治初期に短期間だけ存在した。福澤諭吉は青年時代に緒方洪庵の適塾に学び、科学の重要性を痛感したため、慶應義塾が自然科学の分野においても拡充されることを希望していたという。とりわけ実験的、合理的な西洋医学には関心が強く、2回目の渡米の際には多忙をきわめていたにもかかわらず、英語の医学原書も買い求めて帰国した。「福澤諭吉伝」によると、医者になるためにドイツ語を学びたいと言った塾生の前田政四郎に対し、福澤は、英語で医学修業ができるようにするので、ドイツ語を学ぶには及ばないと答えた。そして、福澤は早速邸内に住んでいた福澤塾出身の医師の一人である松山棟庵を呼び、自分が塾舎を建てるので、そこで教えて欲しい、そうすれば塾の医学校すぐに開ける、と言った。こうした経緯があり、それが医学所設立の動機付けになったと記されている。
福澤には江戸鉄砲洲時代の福澤塾以来、門下出身の医師も少なからずいた。松山はそのうちの1人で、子弟というよりも福澤とは親しい友人関係にあった。福澤は自ら出資して、明治6(1873)年に塾北側の空き地に学舎を建て、松山を初代校長として医学所を開設した。医学所は基本方針や会計を松山の自由裁量に任せたので、さながら松山の私塾の感があったという。慶應義塾医学研究所は設立の動機からもうかがえるように、ドイツ医学ではなく、英米の医学書をもって講義が行われた。予科3期、本科5期に分けられ、本科は主としてハルツホルン(Henry Hartshorne)の書をテキストとして使用した。
学生数は最盛期には100人を超えるまでになった。しかし、明治13年に廃校とせざるを得なくなった。その理由として、「福澤諭吉伝」では、医学所には多大な経費がかかるが、他に官公立の医学校・病院もできてきており、そうしたなかで無理算段をしてまで医学所を維持する必要もないと考え廃校した。と述べられている。また、慶應義塾医学所では英米医学を採用したが、明治政府が設立した大学東校(のちの東京大学医学部)はドイツ医学を採用し、当時全国各地に開設されていく官公立の医学校もすべてドイツ医学を主体とした。私立として新たに開校した長谷川泰の済生学者も、教師として東京帝国大学の卒業生または上級学生を採用したこともあり、ドイツ医学を教えていた。当時、官立大学卒業生を除けば医師になる国家試験を受けてそれに合格することが必要であったが、ドイツ語を知らずに英米の医学書のみを学んだ者が国家試験を通ることは容易ではなかった。このことも廃校の原因の1つとして考えられる。
また、その背景には慶應義塾そのものの経営難があったことも事実で、明治13年に慶應義塾出身者の有力者が集まって慶應義塾維持法が協議され、慶應義塾存続のための維持寄付金を5ヶ年賦で募ることが決められた。その申し込み総額は44000年に上り、松山棟庵も600円、当の医学所も当時としては大金の350円を払い込んだ。これにより慶應義塾本体は存続することができたが、慶応義塾医学所は廃校を免れることはできなかった。
2.医学部創設と北里柴三郎初代医学部長
福澤諭吉と北里柴三郎
慶応義塾大学医学部は大正6(1917)年に大学部医学科として創設された。その初代医学科長(大正9年以降、医学部長)には北里柴三郎が招かれた。北里は、慶應義塾の独立自尊の精神を福澤諭吉から最も感化され、共有する人物の1人であった。
北里柴三郎は、東京大学医学部を卒業したのち明治16年に内務省に入り衛生行政の道を選び、細菌学を専攻した。世界的な細菌学者で結核菌の発見者であるドイツのコッホのもとに6年間学び、困難とされていた破傷風の純粋培養に成功し、さらにベーリングとともにジフテリアの血清療法を発見した。ついで結核のツベルクリンの研究を行った。他国からの招きもあったがそれを断り、プロフェッソールの称号を得て明治25年5月に帰国した。
北里は、当時公衆衛生が普及せず伝染病が蔓延している日本に、まず伝染病研究機関を設立しようと考えたが、時の政府は東京帝大などの官立の研究環境を北里に迅速に与えなかった。緒方洪庵の適塾時代からの福澤の親友である長与専斎は、自らの志を生かす場が得られず落胆していた北里を見て、その顛末を福澤に伝えた。福澤は優れた学者を見殺しにはできないと一念発起し、同年11月、芝公園の一隅に所有する土地に北里を所長とする私立の伝染病研究所を創設し、北里がそこで自由に研究を行うことができるよう取り計らった。
この研究所は大いに繁盛したが、明治32年、研究所の運営をすべて北里に一任することを条件に、内務省管轄の官立伝染病研究所となった。この時北里は、これを受ければ独立自尊の精神が損なわれるのではないかと心配し、福澤に相談を持ち掛けたが、福澤から、北里の方針で経営が行われるのならそれで良いではないかと説得され、研究所を内務省の管轄とすることを受諾した。
ところが大正3年10月、時の大隈重信内閣は文教統一行政整理の名の下に、突然、北里に相談なく、伝染病研究所を内務省より文部省に移管し東京帝国大学医科大学の各科に分属させることを決定した。北里にとってこの移管は、設立経緯からいって納得できるものではなく、自身の主義である総合的な研究に適わないものであるとして、伝染病研究所所長を辞任し、全職員も北里とともに総辞職するという事態に発展した。文部大臣や内務次官からも強く留任を迫られたが、このとき北里の意思は固く、一切の妥協案も受け付けなかった。
辞職した北里は私費を投じ、コッホ研究所、パスツール研究所と並び称される北里研究所を新たに開設した。なお、それより前、伝染病研究所所長時代に、北里の名声を聞いて肺結核の新治療を受けようとして診療を希望する者が増加したため、福澤が北里のために研究所とは別に結核専門病院として、福澤の所有地に「土筆ヶ丘養生園」を建てた。この病院の経営が好調だったため、伝染病研究所所長辞任の後にすぐに新しい研究所を作る資金繰りができたのであった。
pp.2‐4より抜粋
1.慶應義塾医学所の開設と閉鎖
慶應義塾大学医学部が創設される以前、慶應義塾医学所が明治初期に短期間だけ存在した。福澤諭吉は青年時代に緒方洪庵の適塾に学び、科学の重要性を痛感したため、慶應義塾が自然科学の分野においても拡充されることを希望していたという。とりわけ実験的、合理的な西洋医学には関心が強く、2回目の渡米の際には多忙をきわめていたにもかかわらず、英語の医学原書も買い求めて帰国した。「福澤諭吉伝」によると、医者になるためにドイツ語を学びたいと言った塾生の前田政四郎に対し、福澤は、英語で医学修業ができるようにするので、ドイツ語を学ぶには及ばないと答えた。そして、福澤は早速邸内に住んでいた福澤塾出身の医師の一人である松山棟庵を呼び、自分が塾舎を建てるので、そこで教えて欲しい、そうすれば塾の医学校すぐに開ける、と言った。こうした経緯があり、それが医学所設立の動機付けになったと記されている。
福澤には江戸鉄砲洲時代の福澤塾以来、門下出身の医師も少なからずいた。松山はそのうちの1人で、子弟というよりも福澤とは親しい友人関係にあった。福澤は自ら出資して、明治6(1873)年に塾北側の空き地に学舎を建て、松山を初代校長として医学所を開設した。医学所は基本方針や会計を松山の自由裁量に任せたので、さながら松山の私塾の感があったという。慶應義塾医学研究所は設立の動機からもうかがえるように、ドイツ医学ではなく、英米の医学書をもって講義が行われた。予科3期、本科5期に分けられ、本科は主としてハルツホルン(Henry Hartshorne)の書をテキストとして使用した。
学生数は最盛期には100人を超えるまでになった。しかし、明治13年に廃校とせざるを得なくなった。その理由として、「福澤諭吉伝」では、医学所には多大な経費がかかるが、他に官公立の医学校・病院もできてきており、そうしたなかで無理算段をしてまで医学所を維持する必要もないと考え廃校した。と述べられている。また、慶應義塾医学所では英米医学を採用したが、明治政府が設立した大学東校(のちの東京大学医学部)はドイツ医学を採用し、当時全国各地に開設されていく官公立の医学校もすべてドイツ医学を主体とした。私立として新たに開校した長谷川泰の済生学者も、教師として東京帝国大学の卒業生または上級学生を採用したこともあり、ドイツ医学を教えていた。当時、官立大学卒業生を除けば医師になる国家試験を受けてそれに合格することが必要であったが、ドイツ語を知らずに英米の医学書のみを学んだ者が国家試験を通ることは容易ではなかった。このことも廃校の原因の1つとして考えられる。
また、その背景には慶應義塾そのものの経営難があったことも事実で、明治13年に慶應義塾出身者の有力者が集まって慶應義塾維持法が協議され、慶應義塾存続のための維持寄付金を5ヶ年賦で募ることが決められた。その申し込み総額は44000年に上り、松山棟庵も600円、当の医学所も当時としては大金の350円を払い込んだ。これにより慶應義塾本体は存続することができたが、慶応義塾医学所は廃校を免れることはできなかった。
2.医学部創設と北里柴三郎初代医学部長
福澤諭吉と北里柴三郎
慶応義塾大学医学部は大正6(1917)年に大学部医学科として創設された。その初代医学科長(大正9年以降、医学部長)には北里柴三郎が招かれた。北里は、慶應義塾の独立自尊の精神を福澤諭吉から最も感化され、共有する人物の1人であった。
北里柴三郎は、東京大学医学部を卒業したのち明治16年に内務省に入り衛生行政の道を選び、細菌学を専攻した。世界的な細菌学者で結核菌の発見者であるドイツのコッホのもとに6年間学び、困難とされていた破傷風の純粋培養に成功し、さらにベーリングとともにジフテリアの血清療法を発見した。ついで結核のツベルクリンの研究を行った。他国からの招きもあったがそれを断り、プロフェッソールの称号を得て明治25年5月に帰国した。
北里は、当時公衆衛生が普及せず伝染病が蔓延している日本に、まず伝染病研究機関を設立しようと考えたが、時の政府は東京帝大などの官立の研究環境を北里に迅速に与えなかった。緒方洪庵の適塾時代からの福澤の親友である長与専斎は、自らの志を生かす場が得られず落胆していた北里を見て、その顛末を福澤に伝えた。福澤は優れた学者を見殺しにはできないと一念発起し、同年11月、芝公園の一隅に所有する土地に北里を所長とする私立の伝染病研究所を創設し、北里がそこで自由に研究を行うことができるよう取り計らった。
この研究所は大いに繁盛したが、明治32年、研究所の運営をすべて北里に一任することを条件に、内務省管轄の官立伝染病研究所となった。この時北里は、これを受ければ独立自尊の精神が損なわれるのではないかと心配し、福澤に相談を持ち掛けたが、福澤から、北里の方針で経営が行われるのならそれで良いではないかと説得され、研究所を内務省の管轄とすることを受諾した。
ところが大正3年10月、時の大隈重信内閣は文教統一行政整理の名の下に、突然、北里に相談なく、伝染病研究所を内務省より文部省に移管し東京帝国大学医科大学の各科に分属させることを決定した。北里にとってこの移管は、設立経緯からいって納得できるものではなく、自身の主義である総合的な研究に適わないものであるとして、伝染病研究所所長を辞任し、全職員も北里とともに総辞職するという事態に発展した。文部大臣や内務次官からも強く留任を迫られたが、このとき北里の意思は固く、一切の妥協案も受け付けなかった。
辞職した北里は私費を投じ、コッホ研究所、パスツール研究所と並び称される北里研究所を新たに開設した。なお、それより前、伝染病研究所所長時代に、北里の名声を聞いて肺結核の新治療を受けようとして診療を希望する者が増加したため、福澤が北里のために研究所とは別に結核専門病院として、福澤の所有地に「土筆ヶ丘養生園」を建てた。この病院の経営が好調だったため、伝染病研究所所長辞任の後にすぐに新しい研究所を作る資金繰りができたのであった。
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