株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.149‐151より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063
ナチス・ドイツの勢威の絶頂において開かれた一九三九年の国家の祝典において宣伝相ゲッベルスは彼らの文化指導原理を繰りかえし述べ「主智主義は国民の聡明を害する」として演説した。竹山は同年五月二日のDeutsche Allgemeine Zeitung紙から次のように訳出した、
「デモクラシーは、独裁国家に於いては精神の自由が抑圧されている、と言うが、かかる主張もわがナチス独逸に於ては、もはや何の印象をも喚起せぬのである。確かに独裁国家に於ては、精神の自由は、それが国家的利益と相容れぬ場合には、制限を受けるのである。デモクラシーに於いては、精神の自由はこの点では制限を受けぬかも知れぬが、しかし資本家の利益と相容れぬ場合には確かに制限を受けるのです、されば、ここに一つの疑問を呈出したいと思う、-そもそも精神的労働に従事する者にとって、彼の精神的労働を全民族の国民的幸福に従属せしむるのと、あるいは姿も見せぬ少数の金権閥族の資本主義的利益に従属せしむるのと、いずれがより快くまた栄誉あることであるか?…
吾人は断じて主智主義を以て国民的聡明と同一視してはならぬ。…過去数年間に於て、われらが国民的聡明は公共生活のあらゆる領域に於て真の奇蹟を成就した。今日わが国に於てなお僅かばかり生き残っている、リベラル・デモクラティックな主智主義がこの時期に於て為したところは、単に批評するのみであった。そうして、単に政治的のみならず、精神的にも、芸術的にも、文化的にも、とっくに任を終えた筈の西欧のデモクラシーにその範を求むるのみであった」
そしてゲッベルスは断言する、”Kultur hat ihrem Wesen nach nichts Wissen und vor allen niches mit kalrer Intellektualiat zu tun."「そもそも、文化とは、その本質に於て知識、なかんずく冷やかなる知性とは何の関係もないものである。文化は民族性のもっとも深くもっとも純粋なる生命の表現である。文化は民族の国民的威力と結合して、はじめてその真の意義を獲得する」。そして新聞人の使命も定義される。「ナチス・ドイツに於てはジャーナリストは国家と民族とその利益とに奉仕する者であるが故に、彼等は職業的に兵士及び官吏と同一視さるべき、光栄ある任務を荷なっている。デモクラシー国家に於ては、ジャーナリストは姿も見せぬ資本強権の文筆苦力にすぎない。…リベラルな国家に於ける精神の自由とは、単なる架空な作り話であって、インテリ愚衆をして、事実存在せざるある状態を存在するかに思い込ませるべく、暗示にかけるだけの役に立っている」。
教育の使命も同様に定義される。ヒトラーも自己の抱懐する世界観に則って若者を教育すべき旨を演説した、ヒトラーは年配の者に反対者のいることを知るがゆえに青年層に向って働きかける。「いわゆる自由なるものを排除することあるは当然である。次のように言う人間がいるであろう、「己の息子が何故労働奉仕なんかしなくてはならないのか。もっと高尚な仕事をしに生れたのだ。シャベルなんか担ぎ廻ってどうするのだ?何か精神的な仕事をしたらいいではないか」だが、おお君と、その君のいう精神とは一体何であるか!(Was Du, mein lieber Freund, schon unter Geist verstehst!)(再度、数十万の嵐の如き哄笑が支配する)。今、君の息子が西部地方で六カ月間ドイツの為に働いているのは、これは、君の全精神が一生の間ドイツの為になしえたよりも、事実に於てより大いなる事業である(群集は湧き上がる喝采を以て総統に賛意を表する)。しかも君の息子は、民族の内的分裂という最悪の迷妄をも排除すべく働いているのだ」。そしてヒトラーは脅迫をもまじえる、「吾人は勿論「働きたくないなら、働かぬでもよい」とは言わないのだ!」。
竹山は演説の文言が行動に移されたドイツの文化状況を「ルネサンス以来ヨーロッパの人本主義文化を開展せしめる原動力となった原理、-個人、その自由、その知性ーの否定」と規定し、「英仏側が勝てば、思考の自由は救われ得る。ドイツが勝てばそんなものはわれらから根底的に奪われるであろう」と結論した。日本は昭和十一年来日独防共協定を結び、十五年は九月には日独伊三国同盟が結ばれようとしていた。大胆な発言であった。
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