2024年6月9日日曜日

20240609 和歌山県での銅鐸出土傾向からの仮説

銅鐸は中国大陸、朝鮮半島での鐘(鐸)や鈴、あるいはそれらの系譜を引く、我が国の弥生時代中期から末期(紀元前5世紀頃~紀元2世紀末)まで主に西日本で用いられた青銅製の祭器である。

これまでに銅鐸は我が国全土で500点(口)ほど出土しており、それらの出土地域や状況などから、銅鐸は主として農耕に関連する祭祀に用いられていたと考えられており、出土状況の傾向としては、集落に近い里山の山頂近くの比較的平坦な斜面での出土例が相対的に多いと云える。

銅鐸は鐘身を吊り下げるための通し穴がある部位の「紐」、そして鐘本体である「身」、そして鐘身に装飾として洗練された鋳バリとも云える「鰭」により構成される。また、前述「紐」部位の矢状断での形状によって様式分類がされることもあり、様式の古い順から述べると、断面の形状が菱形に近い「菱環紐式」、その次に、この「菱環紐式」の外縁が平坦に延長された紐断面の「外縁紐式」、次いで、通し穴を用いて吊るし、鳴らす用途が乏しくなったためであるのか、「紐」部の強度を考慮せずに「紐」が大型化して、その断面が平坦になった「扁平紐式」、そして次に大型化した「紐」や「鰭」部に、立体の区分け線がある「突線紐式」へ、といった様式の変化が看取される。

また「紐」部でなく「身」についても時代毎での様式の変化があり、ごく当初は、装飾が乏しく祖型である大陸や半島での鐘や鈴に近いものであったのが、経時的に大型化して、そして鐸身面積も広くなり、そこに縄文時代以来の流水文や蕨手文などの装飾が施され、さらに鐸身全体には縦横の線が走り、それにより区分けされた区画に、人や動物などを題材とした装飾も描かることもあり、概して銅鐸は、その祖型から時代を経る毎に、大型化、高装飾化していったと云える。ともあれ、こうした装飾や線による文様の様式からも、さきの「紐」同様に様式分類される。さらに、そうした分類から、銅鐸祭祀集団や、それら銅鐸の作製集団の時代毎での変化の様相なども看取され得る。

さて、上記のような銅鐸の様式分類を視座として和歌山県での出土銅鐸の様相を検討すると、先ず第一に和歌山県は全国的に銅鐸の出土数が多く、前述の全国で500点のうち、伝聞を含めると40点以上が和歌山県での出土である。そして県内での銅鐸出土の様相は、県北部には最古段階ではないものの、比較的簡素で、大型とは云えない「外縁紐式」や「扁平紐式」の様式を持つ銅鐸の出土が相対的に多く、対して県南部では、そこから時代が下り大型化・高装飾化した「突線紐式」銅鐸の出土が相対的に多いと云える。こうした県内での銅鐸出土状況から、県南部では、新式とも云える「突線紐式」銅鐸が作製される時代になってから銅鐸祭祀が受容されたと考えられているが、そのほかには和歌山県を含む西日本で、弥生時代中・後期を通じて多く見受けられる高地性集落の動向と銅鐸出土の分布が関連するといった見解もある。それは、先述の県北部では、比較的古段階と云える「外縁紐式」や「扁平紐式」の銅鐸の出土が主であるが、それらの多くは丘陵部からの出土であり、対して県北部での新式の「突線紐式」は、河川の近くなどの平野部からの出土が多い。そして、この傾向は中紀の日高川流域にまで共通する。

そして、さらに銅鐸出土地を求めて南下すると、南高梅で有名なみなべに至り、ここでは、さきの傾向から一変して、新式の「突線紐式」を主とする銅鐸全てが丘陵地からの出土となり、そして、この傾向は、南紀の富田川流域にまで共通する。そこから、さらに南下すると紀伊半島最南端を経て半島東側の新宮市の経塚遺跡にて破砕された新式「突線紐式」様式銅鐸の破片20点ほどが出土しているが、これは名前(経塚)が示すとおり、後代の遺跡と混交しており、その埋納の来歴は、他の県内出土銅鐸のそれとは異なるものと考える。

ともあれ、そこから、紀ノ川流域の紀北から日高川流域の中紀までの地域と、南下した南部川流域のみなべ町から富田川流域の南紀までの地域では、新式である「突線紐式」銅鐸の出土地の傾向が異なり、前の県北部地域では、河川近くなどの平野部からの出土であり、後の南部地域では、丘陵地での出土となる。そして、この県南北での「突線紐式」銅鐸の出土傾向の相違は、弥生時代中・後期に出現する高地性集落が営まれた時期と関連し、端的に県北部では、高地性集落を営む必要性が比較的早くに失われ、住民は水稲耕作に適した平地に戻り、そして、それに伴い銅鐸も平地に戻され、その後、何らかの理由により銅鐸祭祀自体が廃されて、そして埋納されたといった推移の様相が考えられる。それに対して県南部では、銅鐸祭祀が廃されるまでのより長い期間、高地性集落が営まれ、そのため、その埋納も集落に近い丘陵地や山頂付近の山腹といった立地になったと考えられる。

しかし、これらもまた現時点ではあくまでも仮説であり、今後、何らかの新たな発見、出土などにより、当仮説もまた変化する可能性がある。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!





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2024年6月4日火曜日

20240603 以前に作成した文章の中にあるものについて

先月5月末に当ブログの総投稿記事数が目標としていた2200に到達したことから、現在、当ブログは休止中ではありますが、ブログ自体は止めたわけではありませんので、時々はこのように新規での記事作成・更新は行います。

また、今月の22日には当ブログ開設から丸9年となりますので、それまでには、また、ある程度は引用記事も含めて更新したいと考えています。引用記事のネタに関しては、まだストックは十分にあり、当ブログ作成に用いているPCの周囲に、平置きで20~30㎝の高さに積まれたものが5つほどあります。これらは、手に取り、しばらく頁を繰ってみますと、大抵は自分なりに興味深いと思われる記述に当たりますので、この偶然による書籍の選択もまた、それなりに面白いものがあると云えます。

書籍と云えば、先日アレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読了し、現在はまた、新たな著作を何冊か読み進めていますが、これらも読了に至るまでには、それなりに期間を要することが見込まれます。そして、そのうちの一つがまたトクヴィルによる著作なのですが、こちらもさきに読了したものと同様に興味深いものがあり、おそらく、多少難儀するでしょうが、どうにか読了にまで至ることが出来ると考えています。

そうしたこともあり、引用記事のネタは、更に増えていくわけですが、これに基本となる自らによる更新記事分(予定)を追加しますと、前述の来る6月22日に迎える当ブログ開設丸9年以降も、さらに1年間ほどは、ブログを継続することが可能であると考えます。そうしますと、未だ先のハナシではありますが、10年の継続も、そこまで困難ではないようにも思われてきます。

ネット情報によると、ブログ継続期間の割合は3年間で3%ほどとのことであり、現在の9年近くであっても長期間であり、さらに桁が異なる10年間となりますと、それなりに「頑張った」と云えるのではないかとも思われます・・。

そこから、当ブログ開設当初の頃を思い返してみますと、何人かの周囲の方々に勧められ、そのうちの一人の方から「修士論文で書いたことを整理して加筆修正や関連する文章を作成すれば、しばらくは継続出来ますよ。」とのアドバイスを頂き、実施したところ、たしかに当初の数カ月はそれでどうにかなり、さらに、それらを作成する過程で、また関連する題材が思い出されて、なかば備忘録としてブログにて引用記事を作成したところ、徐々に興に乗ったてきたのか、さらに、さきの方々との会話の様子などを対話記事として作成出来るようになり、今度は2016年のある時に、助走の後の離陸のように独白形式の文章を作成出来るようになっていました。そして、その後は紆余曲折やスランプを経て、どうにか現在に至っているのですが、そこから考えますと、2015年に頂いたアドバイスはかなり的確であったのだと云えます。このアドバイスをされた方とは、その後、現在に至るまで、年二回、お目に掛かる機会がありますが、直近のそうした機会に「あのアドバイスは良かったと思います。どうもありがとうございます。しかし、なぜ、そのようなアドバイスをされたのですか?」との主旨の質問をしたところ「いや、修士論文で書いたことは、その後の研究の基礎になりますからね。それに、修士論文は何といいますか、子供の頃からのその人の興味のエネルギーが詰っているものですから、その後、色々と迷った時に見返してみると、そこから色々なアイデアの種が見つかるのだと思います。」といったお返事を頂きました。

たしかに、このお返事には刺さるものがあり、当時、作成した修士論文は、稚拙ながらも私としては、それなりに努力を積み重ねたものであり、また、その題材のうちの一つであった銅鐸については、当ブログ当初での加筆修正などで思い出されたのか、現在に至るまで断続的にではあれ、これを題材として記事や引用記事の作成をしていますので、こちらも的確であったと云えます。そして、その記憶からはじまって次の鹿児島での記憶も励起され、それを題材として、ブログ記事を作成することが出来るようになったことは、当ブログのみならず、それを作成した自分にとっても、それなりに良い効果を持っていたのではないかと思われるのです。とはいえ、今しばらくは基本的に作成は休みますが、来る22日に当ブログ開始から丸9年になるまで、時々は更新したいと考えていますので、引続き、どうぞよろしくお願いいたします。そして、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


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2024年5月28日火曜日

20240528 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」pp.129‐131より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」pp.129‐131より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

野坂 昔の戦争はえらくロマンチックで、弾丸が飛んでも、敵はだれかわかるわけだけど、今のベトナムのナパーム弾もそうだろうけど、僕ら空襲のとき、雲の上から何か落ちてくる、どこからくるかわからない。どうにもならない。現代の戦争というのは、そういうものでしょう。それに入ってゆくためには、気違いになるための要素がないとだめでしょう。それが今の日本にはないと思う。剣道部のいかに先鋭的な人間だって、雲の上から何発もやられたら、とてもやりけれるものじゃないと思う。自分の恋人、女房、子供を守ろうという気持も、あの人たちにはないんじゃないですか。

三島 僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだね。なぜ日本刀だけで負けると解って戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだったからだと思う。インテリゲンチャというのは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるかという分かれ目にぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。今のあなたの書いているものを読んで感じるのは、やっぱり片足はまだ生活者に突っ込んで、生活者の知恵と身体で体得したものを基礎にしているから、生活者のバイタリティと新鮮さがあると思う。あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは足りない何かが出てくる。そのときにはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければならなくなってくる。

野坂 敗北すると解ってる戦争をこっちから仕掛けるかどうかわからないけど、雲の上からB29が焼夷弾を落としていたとき、僕はなぜ逃げなければならないかを考えた。僕は鉄砲一挺もってたら、ただ逃げ回るんじゃなくて、雲の上めがけて撃ったと思う。そして相手が三島さんだったら、どんなにこっちが未熟でも、棒きれをもってたち向かうと思う。負けるとわかってもやる。しかし敵は飛行機で、こっちは無一物で、つまり一方的に被害者の立場でしょう。こっちから仕掛けるなら別だけど、あの場合は逃げるしかなかった。ほんとに鉄砲でもあったら、岩かげにひそんで、B29のガソリン・タンクめがけて引金を引いたと思う。それがたとえ、どんなに実際上無意味な行為でもね。

三島 僕もあのときは高座の海軍の工場にいたけど、艦載機が飛んできて機銃掃射をやられて、こっちは何ももっていないしね、あの時代の恐怖感ていうものは、今も残ってる。残ってるから、抵抗したいという気持もある。淋しい話だね。



20240527 景文館書店刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「魔法使いの弟子」pp.29‐32より抜粋

景文館書店刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「魔法使いの弟子」pp.29‐32より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907105053
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907105051

神話は、芸術、学問、政治に満足することのできなかった人の意のままに今なおなっている。愛はそれだけで一つの世界を作りあげるのだが、この世界の周囲に対しては何も影響を与えずにいる。逆に、愛の体験のおかげで周囲の世界に対する明晰さと苦しみが増しさえする。つまり愛の体験のおかげで、腐敗した社会に触れて生じる不快感がどんどん高じていき、むなしい印象も疲れるほどに大きくなっていく。次々試練にあって心を打ち砕かれてしまった人に、唯一神話だけが、豊かな生を送り返す。人々が集う共同体へと広がっていく豊かな生をイメージしてこの人に送り返すのだ。唯一神話だけが、肉体にまで入って人々を結合させ、彼らに同じ期待を抱くように要求する。神話とは、どの踊りにもある、あの勢いのことだ。神話は実在をその〈沸騰店〉へ高める。悲劇的な情動によって、実存は自分の聖なる内奥に近づけるようになるのだが、神話はまさにそのような悲劇的な情動を実存に伝達する。というのも神話は、ただ単に、運命の神々しい形象であるばかりでなく、この形象が移される世界、つまり共同体のことでもあるのだから、神話は、共同体から切り離すことができない。神話は共同体の一部になっている。儀式の場において、共同体は神話の王国を所有ことになるのだ。民衆は祝祭の騒ぎのなかで神話への合意を表明し、その合意は神話を生の人間的現実にしている。だからこそ神話はただのフィクションとは違うのだ。神話はたしかに寓意ではある。しかし、もしも人が、この寓意を踊って根底から突き動かす民衆を目撃し、寓意がその民衆の生きた真実になっているのをまざまざと目にしたならば、この寓意をフィクションとは正反対の地点に位置づけるようになるはずだ。自分たちの神話を儀式においてとことん所有しようとしない共同体は、もはや暮れゆく生の真実した所有していない。逆に共同体が生き生きとしてくるのは、存在したいという共同体の意志が、その共同体の内奥の実存を形象化している神話のひとかたまりの偶然を活性化するとき、このときにほかならない。それゆえ、一個の神話は、ひとつの全体的存在が分裂してできたばらばらの諸断片と同じだとはどうにもみなせないのである。一個の神話は、総合的な実存と連帯している。一個の神話は、総合的な実存の感性的な表現なのだ。

 神話は、儀式の場で生きられると、真正の存在をはっきり開示するようになる。というのも、儀式として生きられた神話では、生が、ベッドの上で裸になった愛する女に劣らず恐ろしくもまた美しく現れるからである。聖なる場所の暗がりは実在の現存を抑えこんでいて、恋人たちが閉じこもる寝室よりももっと息苦しい。ただし、聖なる場所で認識に差し出されるものは、寝室の場合と同様に、実験室の学問とは無関係なのだ。人間の実存は、聖なる場所に案内されると、運命の形象に出会う。それは偶然の気まぐれによって固定化された形象だ。学問が定義する決定法則は、生を構成する幻想のこの遊びとは正反対のところに存在している。この遊びは、学問から遠ざかり、芸術の諸形象を生み出す錯乱と重なりあう。しかし、芸術は、人間を抑圧する真なる世界の優越性、究極的現実性を認めているのに対して、神話の方は人間の実存の中へ、ある力のようになって入っていく。力自身が王国となって、下位の現実に従属を求めている、そんあ力のようになって人間の実存の中へ入っていく。

2024年5月27日月曜日

20240526 今後2200記事まで到達出来た後のことについて

中華人民共和国が23日より台湾(中華民国)独立派の頼清徳新総統就任に対する圧力として、台湾海峡および台湾島東側の海域において台湾攻撃を想定した大規模な軍事演習を実施し、また、その演習区域から遠くないところに我が国固有の領土である与那国島があることを知り驚かされました。

そして、ほかの原因もあってか少し体調を崩してしまい数日間ブログ記事の作成を休止しました。以前述べた当面の目標では「今月中に2200記事到達を目指す。」としましたが、これは、さきのような体調不良があっても、どうにか達成可能であると思われるため、今しばらくは引続き記事作成を継続します。

しかし、実際に目標である2200記事に到達することが出来ましたら、またしばらくの間、記事作成を休止したいと考えています。しかし、それはしばらくの期間、記事作成を全くしないのではなく、具体的には、週一程度の作成頻度にて、しばらく継続したいと考えています。

一方、昨年10月のパレスチナのイスラム教原理主義組織ハマースによるイスラエル領土への越境奇襲攻撃を端緒としてはじまったパレスチナ・イスラエル戦争もまた、経過や背景をの理解が困難であり、それ以前からの第二次宇露戦争もほぼ同様あったことから、露軍の侵攻からここ2年ほどは、それら出来事の関連書籍を読むことが多かったと云えますが、後日、2200記事まで(どうにか)到達することが出来ましたら、そうした書籍の読書からしばらく離れて、また、スマホも書面も(出来るだけ)眺めない日をしばらく過ごしたいと考えています。

というのも、2022年の宇露戦争以来からのPCでの動画視聴や、スマホを日常的に用いるなかで、目が疲れたのか、書籍を読む際の文字への焦点が以前と比べて合いにくくなってしまい、ここ最近はそれが慢性化してしまったのではないかと思われます。そうしたこともあり、引用記事の作成も以前と比べて億劫に感じられたことは、我が事ながら少しショックでした。

おそらく、そうした身体的な要因があったり、あるいは重なることによっても、こうした活動への意欲が多少は削がれるとも思われますので、2200記事まで(どうにか)到達することが出来ましたらブログ記事の作成を休止し、あるいは書籍も我が国の古代史関連の著作をまた読んでみたいと考えています。

そういえば、以前にも当ブログにて述べたことではありますが、私は季節が夏に向かうと、どうしたわけか、我が国の古代史についての著作を読みたくなってくるようです。その傾向の淵源について考えてみますと、これもまた、以前に述べた南紀での生活にあると思われます。そもそも、私が古代史関連の著作を初めて購入したのは南紀への転勤以前の札幌市在住の頃であり、立ち読みから購入したまでは良かったのですが、その大半を理解することが出来ませんでした。しかし他方で当時、文系の師匠からの影響で、ポール・ケネディによる「大国の興亡」上下巻など、ある程度は「読み応え」がある著作を読み、内容もある程度は理解出来ていると自覚し始めた頃でしたので、そこでもまたショックを受けて、その著作は本箱の奥にしまわれて南紀への転勤を迎えることになりました。そこからは、これまで何度か述べている通りではありますが、しかし、そこで面白いと思われたことは、南紀での日常生活で、神域として囲われてはいるものの、目に着く処に開口して草生した横穴式石室の小円墳といったものがごく普通に存在していたことです。そこから「これは一体何だろう・・?」と思うようになり、また当時の仕事がホテルのフロント係ということもあり、それについての説明文なども読みましたが、それでもイマイチよく分からなかったため、関連する初心者向けの書籍などを何冊か購入して読み、部分的にはボンヤリと理解出来たと思われましたが、それでも、全体としてはよく分からないままで年が経過して、今度は東京への転勤となりました。

現在こうして思い返してみますと、この南紀在住の頃より本格的にテレビを視聴しなくなり、他方で、これまでに専攻したことのない分野の著作を日常生活での内発的な興味本位にて分からないままで書籍を読み続けたことが、意外と、その後に活きたのではないかと思われるのです。

とはいえ、現在でも我が国の古代史については、やはり知らないことの方が多いのでしょうが、それでも、南紀在住の晩春や初夏の頃、時にはスコールのような激しい雨音が外に聞こえる環境のなかで、古代史関連の著作を分からないなりに熱心に読んでいた時期(当時はインターネットで検索するといった習慣もまだ定着していませんでした。)があったからこそ、その後、大学院で自らの専攻として能動的に勉強することが出来たのではないかと思われるのです。そうした視座から考えますと、現在のよう暖かくなってきますと、私はその当時の理解出来た感覚を再び取り戻そうとして、その準備として、この分野への興味が再活性化するのではないかとも思われるのですが、私の場合については、やはり、その背景に南紀での生活があると考えます。そして、南紀あるいは紀州については、また別の機会にも述べてみたいです。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年5月26日日曜日

20240525 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.97-99より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.97-99より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121507150
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121507150

世界は重苦しい傾向にある。社会は分裂し、かつ閉鎖的になってきた。そのことは、英国のEU離脱を決めた英国民投票を含む、各国の投票結果として表れている。だから、私は米大統領選でトランプ氏が勝つと予想した。この傾向は今後も続く。

 トランプ氏の勝利に失望する人々がいるが、トランプ氏は民主的に選出された。米国の民主主義は機能している。

 しかし「米国第一」を強調するトランプ氏は、開かれた社会や国際主義に対する脅威である。ナショナリズムの台頭という脅威だ。

 今日の世界は一九一〇年頃の世界と比較できる。当時も科学技術は進歩し、民主主義は機能し、グローバル化が進行していた。世界は民主的で満ち足りた発展を手にすることも可能だったはずだが、閉鎖的なナショナリズムの台頭が野蛮を生み落とした。二度の世界大戦だ。今日の世界も自らを閉ざそうとしているように見える。

 私の考える二〇一七年の最大の脅威は日米と中国の紛争だ。トランプ氏はロシアを友、中国を敵と見なしている。

 南シナ海で人工島を建設する中国の動き、核・ミサイル開発を強行し続ける北朝鮮の動きなどを加算すると、アジアは爆発寸前の状況にある。東シナ海と南シナ海で起こりうる全てのことが心配だ。大きな危険がそこにある。もし将来、日米と中国が戦争に至る事態になれば、世界戦争に拡大するだろう。そうならないように私たちは今、脅威の存在をしっかりと知っておく必要がある。

 軍事的な火種はこの他に五つ。ロシア対ウクライナなどの旧ソ連領、インド対パキスタン、中東、アフリカ中央部、そしてイスラム過激派組織「イスラム国」。「イスラム国」はイラクで支配地域を失うかもしれないが、リビアなど別の国で新たなる支配地域を得るに違いない。

 そして更なるテロが起きる。並外れた数の難民・移民が発生する。世界は緊張をはらみ、不安定になる。

 だが「世界の警察官」はいない。米国はオバマ政権時代にその役回りから降りている。「アラブの春」の後に軍事クーデターの起きたエジプトに介入せず、化学兵器を自国民を使用したシリアのアサド政権をたたかなかった。米国は既に世界から手を引きつつあるのだ。私は二〇〇六年に米国が撤退する世界に警鐘を鳴らしたが、現実のものになりつつある。

2024年5月21日火曜日

20240520 混迷する国内外の情勢と未来への不安

2020年初頭から本格的に感染拡大が始まった新型コロナウィルス感染症に始まり、2022年2月からの第二次宇露戦争、そして翌23年10月にイスラム教原理主義組織ハマースによる奇襲攻撃を契機として勃発したパレスチナ・イスラエル戦争は、なおも収束することなく今なお続いています。くわえて、その期間の世界各地では、クーデターによる政権の転覆、あるいは内戦状態の継続、元首の暗殺(未遂も)そして地震、台風などの天災などが相次ぎ、それ以前と比べて世界情勢が不安定化してきていると云えます。

そして、この世界情勢から、普段、そうしたことに(そこまで)強い興味・関心を抱かなかった私をも注視せざるを得なくなり、また、皮肉なことであるのか、情報収集のために視聴していた海外報道動画から英語を学ぶ機会にもなりました。正直なところ、当初、私も「そこまで長い期間(1年以上)戦争は続かなないだろう」とタカを括っていましたが、東欧での戦争は既に2年以上が経過し、侵攻以来、世界情勢はさらに不安定化して、既存の国際秩序に対する挑戦とも見受けられる出来事も世界各地で頻発していると云えます。そこから、わずか3年ほど未来の世界も、それがどのような様相になっているのかを予測することは困難と云えますし、また、その予測され得る未来には、我が国にとって嬉しくない出来事も含まれますので、なおのこと未来について考えることが躊躇されます・・。

そうしたことから、たしかに昨今の世界情勢は、おそらく、私がもの心がついてから、もっとも厳しい状況にあると云え、さらに国内においても政界、財界、マスコミ、芸能界などでの不祥事が明るみになり、それらに対する信頼が大きく揺らぎ、そして、それが以前のように戻ることは相当困難であろうと思われます。

そして、さきの厳しい世界情勢よりも、新型コロナ禍以来、国内で明らかになった不祥事による混乱の方が、自らの日常感覚とも接点があるように思われ、あるいは、それらの多くは、以前から燻っていたものでもあり、ここに来て、火薬庫での火事のように次々と誘爆を起こしているといった観があります。

今後、それらがどのようなカタチで収束して、さらに新たな価値観が形成されていくのかは、興味深いところではあるのですが、しかしながら、世界情勢は前述のとおりであるため、様相としては「鬼の居る間の洗濯」であるように思われます。そして、こうした状況を我が国の歴史を遡り検討してみますと、近いところで、19世紀半ば過ぎからの幕末期が似ているのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、幕末期では幸運なことに、日本以外の地域にて欧米列強間の植民地獲得などをめぐる紛争があり、あるいは国内で市民戦争があったりと、我が国のみに列強の武力が集中することはなかったため、外国からの大きな干渉を受けずに、何度か国際的な危機もあったものの政治体制を明治新政府にリフォームすることが出来て、どうにか近代国家として進むことが出来たのではないかと思われます。

その意味では、現在の方が危機としては深刻であると思われます。悲観的な見方をしますと、これから先、2030年に至るまでに、外国からの攻撃により、太平洋戦争以来の規模での人的被害が我が国になければ、それはかなり大きな僥倖と云えるのではないかと思われます。

と悲観的なことを書いてしまいましたが、これが杞憂であればと強く願います。また、それに加えて、こうした、いわば内憂外患の時期であるからこそ、次の時代フェーズにて我が国が実力を示し、出来るだけ良い国際的地位に立つためにも、教育、特に高等教育に注力することが、とても大事であるのではないかと考えます。

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