2021年6月27日日曜日

20210626 でたらめから始まり、因果律や法則そして物語などを見出すようになり大事になるもの・・

おかげさまで一昨日の投稿記事である「先日の「記事作成を継続する理由」と「新たなものに対する精神の開かれ」について・・」は、本日に至るまでに比較的多くの方々に読んだ頂くことが出来ました。これを読んで頂いた皆様どうもありがとうございます。

ともあれ、そこで述べた「好みの変化に象徴されるような感覚の変化」とは、やはり感性が柔軟である若い頃に、より多く自然に生じると云えますが、また一方で、ある程度の年齢に達し、そうした感覚が落着いたと自覚するようになってからは、敢えて意識して、そうした感覚を保持し続けるよう努めることが大事になってくるのではないかと思われるのです。

こうした感覚はある種、非合理的とも云える面をも含むため、成熟され、その人なりの最適化が為された、いわば「大人の感性」を持つ方々にとっては多少困難を伴うのかもしれませんが、しかしながら、国全体規模にて考えてみますと、これが近代以降の新興国であったという出自を持つ我が国の現代において、特に弱点であり、重要なことであるように思われるのです・・。

とはいえ、そうした感覚の保持とは、具体的には、世間にて「良い」評価を受けている諸感性に対し無条件に迎合するという態度ではなく、あくまでも、自分の感性や、ある程度体系化された考えに基づいた価値判断に拠ってこそ保持され、さらに進化していくものと考えます。しかしながら、そうであっても、おそらく、その当初の頃は、よく分かららずに、賭けのような感覚にて価値判断をしてしまっていることも多分にあると思われます。それでも、とにかく続けていくうちに、その中に何らかの因果律や物語のようなものを見出すことが出来るのではないかと思われるのです。

そして、この見出された因果律や物語を観念的な意味にて写実的に述べ、自他共への理解を深め、共有化するために極めて有効と思われるものが、我々人類が過去から受け継いできた様々な知見や教養であると思われます。その意味から、これらは、やはり人文社会科学分野での高等教育にて必要不可欠であると思われるのですが、さて如何でしょうか・・。

そういえば、以前にも書きましたが、ここ最近はまたスランプ気味であり、そこから本日も記事作成を躊躇していたのですが、どうにかこのあたりまで書き進めることが出来ました。そして、こうしたことを今しばらく続けていきますとキック・スタートのバイクのエンジンのように、また動き出してくれるのでしょうか・・。とはいえ、そうして「エンジンがかかった!」と思い、得意気になることもまた、これまでの経験から、あまり良い兆候とは云えませんので、出来るだけ客観的な態度にて自身の中で沸き起こる、想起される「流れ」の理解に努めたいと思います。そのように考えてみますと、これまでに投稿した記事そしてまた記事として引用した書籍の記述などは、さきの沸き起こる、想起される「流れ」に当座の形を与えるもの(依代)としては悪くなく、あるいは、これまた観念的な意味での、組み立て遊びに用いるレゴ・ブロックの一つのようなものとも云えるのかもしれません・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 



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2021年6月25日金曜日

20210625 中央公論新社刊 中公クラシックス 柳田国男著「明治大正史」世相篇 pp.181-184より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 柳田国男著「明治大正史」世相篇
pp.181-184より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600134
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600134

都市はいつの間にか驚くほど大きくなっていた。これでは大き過ぎると思うくらいの成長ぶりを示した。それでいて、その今までの役目が依然として単純であったのである。主としては消費の標準を示そうというのが、人も官府も一致しての計画であったけれども、以前と違うのは田舎から取り寄せて使おうとせずに、できるだけ自分の手で作って、兼ねて余分のものを地方にも頒とうとする企てにあった。国を動いて居るいっさいの産物も、いったんはここに集めて入用の分を止め、残りはその整理と配分とを此方の考えできめてやろうというのが、いわゆる経済都市の自ら任じた抱負であった。新しい交通系統はまずこれを支援したのである。

 ついで諸国の田舎から移って来た者も、一人としてこの計画に加担しておらぬ者がなかった。消費の緩急と適不適は土地ごとに不同であるにしても、これを総括して指導する者は大小の都市であった。個々の生産力との釣合いまでは考えられない。買うことはできなくとも欲しい品物は来て居る。これがわれわれの貧窮感を、第一次に痛烈ならしめたのである。都市は搾取者だという類の無理な憎しみが、処々に叫ばれたのもこの結果を見てからであった。町には産し得ない商品を農村が統制して、対抗して見ようとしたのも窮策であったが、これも多くの場合にはあべこべに利用せられて、結局は双方の弱い者だけの苦しみになって居る。町にはまた町の方で、最近袂を別って来た故郷人の無情を、怨もうとして居る者が多くなって来たが、この対立ばかりはどう考えても誤解であった。

 都市を総国民の力で支持して行こうということは、最初からの約束であったといってもよい。そのためにめいめいが故郷の余りの勤労を分けて、安んじてこれへ送り込んだのであった。現に国外に対しては今でもその建設と偉大なる膨張とを、自慢にしようとする者さえ多いのである。実際また都市を大きくし過ぎて支持に困難を感ずるということを、ただちに失敗と見るにはまだ早いかもしれない。村でも湊でも幾度かこういう階段を通って、弱って衰えてはまた改造せられてい居る。都市の新しい試みは彼らの思う存分であって、まだ一度も批評せられ牽制せられたことがないのである。住民には故郷の因縁ばかりなお深く、人を他人と見、その親愛の地を互いに無視し合う風は、近く出て来た地方人ほど盛んであった。つまりは相結び相知るの必要が、今はまだ十分に感ぜられていないので、改造もまた前進の途上にあるのである。

 そういう不用意なる大小の都市の間にも、早晩に生存のための競争が現れ来て居る。汽車がその大多数を連絡してしまうと、ただちに気づかれるのは町と町との間隔のあまりに短いということであった。単なる消費と分配の町ならば、そういくつもの中心は要らぬということになって、力のやや劣ったものが苦悶し始めた。一部は何らかの特殊生産を見つけて、新たに自分の領域を拓こうとして居るのだが、他の多くはむしろこのわずかな距離の差を利用しても隣を接する都市の繁華を奪い取ろうとする。模倣はこの趣旨から急激に行われて居るのである。以前の城下町などがそれぞれに持っていた気分はそのために破れ、特色ある周囲の風景と縁が切れても、いよいよもって多くの町はいずれか一つあれば沢山ということになり、競争は必死(至)に陥った。これに中央の商業が干与すると、いっそう速やかに地方旧市の矜持は崩壊するのであった。現在の彼らはその事業の中心を中央商品の取次ぎに置いて居る。自分で作り設けまたは保持して世に示そうとするものが、ことのほかに乏しくなって居るのである。人口がひとり非凡に増加するというだけで、日本の小都市ほど各自の文化を持たぬ都市は類が少ない。あるいは大学その他の学校をも争い取ったけれども、これとても単なる繁栄の刺激であったゆえに、それを自分のものとしては愛護していない。他の幾多の官庁・兵営、もしくは道路・鉄道の引張り凧に至っては、ことに見苦しい闘奪が多く、その惨劇は今もなお持続しているのである。

20210624 先日の「記事作成を継続する理由」と「新たなものに対する精神の開かれ」について・・

今回の記事投稿で総投稿記事数が1560に到達します。すると、余すところ40記事の投稿にて当面の目標としている1600記事に到達することになりますが、これも出来るだけ早くに達成したいと考えています。具体的には8月上・中旬迄の到達を目指したいところですが、ことは上手く運ぶでしょうか・・。

さて、先日の投稿記事にて「記事作成を継続する理由」について「鹿児島在住時(2009~2013)の経験・記憶」が強いと述べましたが、たしかに、これがなければ、ブログを書き続けようとは思わず、また、そうした踏ん切りもつかなかったと云えます。

また、それ以前の和歌山在住期間も、その準備期間と考えれば同様ではあるのですが、そこでは比較的順調にことが運び、鹿児島在住時でのような衝撃的と云える出来事はなかったことから「書き続ける理由」として考えますと、そこでの経験や記憶は、ありがたいことではあるのですが、大過なく幸せであったのだと云えます・・。

しかし、であるからといって「再び鹿児島在住時のような経験をしてみたいか?」と問われますと「それはご遠慮願いたいです・・。」となります。他方で、比較的明瞭にそうした価値判断、自意識を持つようになりますと(不思議なことに)それに付随し「新たなものに対する精神の開かれ」が損なわれていくといった感覚を覚えるようになるのです。

昨今の私の場合、それは新たに手に取り、読む書籍の分野から、そうした感覚を得るわけですが、そうであっても、それまで全く知らなかった分野の書籍を理解しながら読むことは、何れにしても困難な作業であると云え、そうした場合、以前にも書きましたが、既知の分野を基軸として、新たな分野の記述がある書籍へと徐々にスライドしていくといった方法が有効であると考えています。

とはいえ、この方法は何も私が発見したものではなく、文系の師匠との会話にて、しばしば読んだ、もしくは読んでいる書籍が話題となり、そうした経験が蓄積した結果、自然と会得したものであると云えます。おそらく、そうしたことは、能動的に書籍を見つけて読む習慣のある方でしたら、ごく自然に行っているようにも思われますが、他方で、書いておいて悪いこともないと思われますので、ここに記しておきます。

また、さきの「新たなものに対する精神の開かれ」とは書籍のみに対して有効というわけでなく、その他についても同様であると私は考えています。

鹿児島に渡る以前、私は歌手の松*聖子について、全盛期を知らないこともあり、その歌全般を何やら「ダサい」ものと思っていましたが、鹿児島在住の最後の年である2013年のたしか3月のはじめ頃、町なかで偶然に流れていたその歌声にいたく感動し、それ以来から聴くようになったという経験があります・・。

調べてみたところ、松*聖子は九州(福岡県久留米市)のご出身であり、それは、九州島の一部である鹿児島に馴染んできていた当時の私にとっては、必然的ではないにしても、理解は出来る感覚の変化であったのだと考えています。ともあれ、そうしたことは科学的に説明することは困難ではあるものの、やはり、各人各様なりに、似たような経験はあるように思われます。また、そうした経験とは、思いのほかに大事なことであると思われるのですが、さて如何でしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2021年6月23日水曜日

20210623 朝日新聞出版刊 松本仁一著「カラシニコフⅡ」pp.170-172より抜粋

朝日新聞出版刊 松本仁一著「カラシニコフⅡ」

pp.170-172より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4022615753

ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022615756

 旧ソ連は1974年、口径5.4ミリのカラシニコフ「AK74」を開発した。NATO(北大西洋条約機構)が口径を小さくしたのにあわせた動きだ。銃の基本構造はまったく変わらない。しかし弾丸が軽くなり、兵士一人がより多くの弾丸を携行できるようになった。日本の自衛隊の銃も、「豊和64式」は7.6ミリ口径で「89式」は5.6ミリだ。

 AK47とAK74の違いは口径の大きさなのである。AK74の弾丸は一個3.4グラムと、AK47の半分以下だ。これまで200発しか携行できなかったとすれば、倍の400発持てるようになるのである。「自動小銃のスプレー的使用」の時代に適応した改良だった。

 口径が小さくなった分、敵に与える打撃が落ちたという意見がある。心臓や頭部に当たらないかぎり、相手は死なないからだ。

 しかし茨城県にある自衛隊武器学校で、幹部の一人は、今の戦争では小口径の方が効果的なのだといった。

 「口径の大きい弾丸は力が強く、即死の率が高い。逆に腹部などに当たると貫通してしまって大きな損害にはならない。小さい弾丸は力が弱いため即死率は低い。軽いため腹部などに入っても貫通せず、体内で回転して周囲の臓器をずたずたに破壊する。当然、痛みはひどい」

 撃たれた味方兵士が死んでしまった場合、部隊は戦闘行動を続けることができる。遺体はあとで収容すればいい。しかし重傷を負ったら後送しなければならない。一人を後送するのに、かついだり抱えたりで三人ほどの同僚の手がかかる。一個分隊を約十人として、一人が負傷したら、本人をづくめて四人が戦線から離脱することになる。戦闘能力は半分近くに落ちてしまう。

 痛みで泣き叫ぶので、周りの兵士は気になって放っておくことができない。かならず後送することになる。「弾丸が小さいというのは、本当は残酷なことなのです。」とその自衛隊幹部はいった。

2021年6月22日火曜日

20210622 丸6年間のブログ記事作成を通じて「記事作成を継続する理由」から・・

本日、2021年6月22日にて当ブログを開始してから丁度丸6年となります。これは日数にしますと2190日程度となり、それに対し、これまでの総投稿記事数は凡そ1550ですので、これを均しますと、この6年間、10日のうち7日は、新たな記事投稿を行ってきたことになります。

とはいえ、そこからの自覚や感慨といったものはほぼ皆無であり「とりあえず本日は6年間の達成記念日であることから、記事作成を行わなければ・・」といったスタンスにて、先ほどから記事作成を開始した次第です。

さきに述べたように、これまで凡そ1550記事投稿してきましたので、次なる当面の目標は1600記事と定めていますが、これまでの記事投稿頻度から考えますと、約2カ月程度で到達出来る目途が立つと云えます。

即ち、来る8月の後半・末頃には1600記事に到達することが見込まれることになりますが、未だに「達成出来る」といった自信はなく「まあ、またしばらくは書き続けよう・・」といった昂揚感とはほど遠い感慨がわずかに湧いてくるのみと云えます・・(苦笑)。

しかしながら、また他方で「これまでどうにか続けることが出来ているのだから、記事作成を継続する理由がなくならない限りは、どうにか1600記事までは到達出来るのではないか・・」と思っている自分もいます・・。

さて、ここで出ました「記事作成を継続する理由」ですが、これは当ブログにて度々書きましたが、ここ最近においては「記事作成の中で感じる、何やら不思議とも云える偶然や同時代性をもう少し明らかにしてみたい。」といった欲求が比較的強いと云えますが、さらに、その根源にある理由については、さらに以前の鹿児島在住時(2009~2013)の経験・記憶が強くあるように思われます・・。

人は異郷に住むと、それだけで心身に相当のストレスが負荷されると聞きますが、おそらく、あの在住期間が、そうしたストレスと対峙し、それを自分のエネルギーに変換することが出来た最後の時期であったように思われるのです。

いや、あるいは鹿児島の場合、年齢・性別などにあまり関係なく、訪れ住んだ人間の「生」の燃焼度を必然的に高めてしまう「何か」があるのかもしれませんが・・。

また、師匠も同様の御意見を述べられていた記憶があります。ともあれ、在住期間にそうした体験を経ますと、その後、その地域を(少なくとも)バカする、変に見下げることはなくなり、あるいは(その地域を)全く知らなかった頃の無関心に近い意味での平常心とは異なる次元での平常心にて、その地域のことを眺め、考えることが出来るようになると思われるのです・・。

そして、この視座から、現在の我が国にて見られるさまざまな意見のやり取り、議論などを見聞きしますと、さきに述べた「全く知らなかった頃の無関心と近似するような平常心」が「良いもの」とされているのではないかといった感じを受けることが度々あります。

そしてまた、ここにおいても、一昨日投稿の引用記事にあった「すべての社会改革のためには「予め知ってかからねばならぬ歴史が多く、それが今日はまだ荒野のままに置かれている」のだから、その「歴史の知られざる巻々」を明らめることにより、国民の「予言力」を培養することに集中されていた。」へと結節するものがあるように思われるのです・・。

おそらく、アニメ・マンガ的なものを基盤とした二次創作・シミュラークルとは、比較的容易に多数創作することが出来るのだと思われますが、しかし、そこで創造された一連の「系」は、ゲーテが述べた戯曲と小説の違いにおける戯曲のように、速やかに終局に向っていく性質があり、またそれは、国民の「予言力」に寄与することも乏しいように思われ、さらに、そうした事態を我々国民も深層では望んでいるようにも思われますが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 



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ISBN978-4-263-46420-5

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2021年6月20日日曜日

20210620 株式会社岩波書店刊 中島岳志[編]「橋川文三セレクション」pp.379-381より抜粋

株式会社岩波書店刊 中島岳志[編]「橋川文三セレクション」pp.379-381より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002572
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002572

柳田の学問が日本の歴史的科学の中で示した比類のない長所にもかかわらず、それは究極のところ「国民共同の疑問」の提起と組織化とにおいて、やはり大きな弱点をあらわさねばならなかった。その反省は、何よりも敗戦に際して彼の記した幾つかの文章の中に明らかに示されている。

「始めて私が東北大学の講義に、民俗学の現代性ということを唱導したときには、時代は我々の生活上の疑問を抑え付け、極度にその提出を妨碍している際であった。大きな幾つかの国の問題には、予め堂々たる答えが準備せられ、人がどういうわけで是非とも殺し合わねばならぬか、何故に父母妻子を家に残して、死にに行かねばならぬかというような、人生の最も重大な実際問題までが、もう判りきっていることになっていた。

第一に自分はそうは考えられぬのだがということが言えない。誰もがそうだから是には背こうとする者が無い。寧ろ心の底から其気になってしまって、涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった。こう各自の自由な疑問を封じてしまわれてはかなわぬと、思うような事ばかりあの頃は周囲に多かった。

そういうまん中に於いて、なお民俗学は現代の科学でなければならぬ。実際生活から出発して、必ず其答えを求めるのが窮極の目的だと、憚らず説いたのは勇敢だったとも言われようが、白状するならば私はやや遠まわしに、寧ろ現世とは縁の薄い方面から、問いはいつかは答えになるものだという実例を引いていた。

従って又気楽な学問もあるものだというような印象ばかり与えて、国の政治上の是ぞという効果は挙げ得なかった。なんぼ年寄りでも、是は確かに臆病な態度であったが、しかし実際又あの頃は今とちがって、ただ片よった解決ばかり有って、国民共同の大きな疑いというものは、まだ一向に生まれてもいなかったのである。」

このとき柳田は73歳の老齢であった。この言葉の表面には、敗戦にともなう痛切な自己批判の調子といったものはみられない。むしろ戦中の己の姿勢を苦笑まじりに弁明しているという軽い調子さえ感じられる。人に己れの態度の弁明を迫られているものというより、その権威を追及されることのない長老的傍観者の自戒にすぎないようにも感じられる。しかし、それは表面だけの印象にほかならないのではないか。

 「日本人の予言力は既に試験せられ、全部が落第ということにもう決定したのである。是からは蝸牛の這うほどの速力を以て、まずその予言力を育てて行かねばならぬのだが、私などはただ学問より以外には、人を賢くする途は無いと思っている。即ち到底急場の間には合わないのである。」

「ところが私は年をとり、力やや衰え、志は有っても事業がそれに追付かず、おまけにこの時代の急転に面して、用意のまだ甚だ不足だったという弱点を暴露した。」

これはまず傷心の言葉として受取られる。これらの言葉の背景には、日本近代のほとんど半世紀に即して、その期間の根本的課題を自ら選びとることによって、前人未到の学問を築き上げたものの労苦と抱負とが横たわっている。しかもそのすべてが、敗戦による大転形期において、他の多くの学問とさして変わりばえのない無力さを暴露しなければならなかった。というよりも、柳田の努力のすべては、他の多くの文化諸科学が国民生活の実情に冷淡であり、しきりに演繹的な空中楼閣の建造のみに専心しているのにあきたらず、すべての社会改革のためには「予め知ってかからねばならぬ歴史が多く、それが今日はまだ荒野のままに置かれている」のだから、その「歴史の知られざる巻々」を明らめることにより、国民の「予言力」を培養することに集中されていた。

したがって、いまその予言力の喪失が嘆かれていることは、何よりもまず己れの民俗学についてでなかればならなかった。これはほとんど悲劇といってよいであろう。柳田は戦争中、ある青年の出征に際し、日章旗に「未来を愛すべきこと」と書いて与えている(昭和19年10月5日の記)。柳田が固陋な現状維持者でないことは幾度も述べたとおりだが、しかも彼は、その愛すべき未来に関して、その青年に、必ずしも明確な見通しを与えることはできなかった。その格率の実践的解決は、いわば青年たちの模索に委ねられざるをえなかったのである。

2021年6月18日金曜日

20210618 株式会社 光人社刊 光人社NF文庫 比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」 pp.299-300より抜粋

株式会社 光人社刊 光人社NF文庫
比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」
pp.299-300より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4769820631
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769820635

 (復員)船にのって、はじめて味噌汁を配給された。内地の味であった。

野戦では塩汁がつづいた。そのときは、となりで醤油汁を飲んでいるのを、匂いだけをかいでうらやましくて仕方がなかった。病院では、醤油汁であった。現地人のつくった味噌は、似て非なるもので、ショーガを漬けて食うぐらいにしか使えなかった。

 味噌汁の身は、乾燥野菜ではあったが、なんともいえない美味であった。だから、元気なヤツは、もっともっと食いたかったであろう。

 それに金鵄(タバコの名、むかしのバット)をもらった。これが現地タバコに比較すると、とんでもなくニコチンが強く、一本吸っただけで、目がくらくらし、気持がわるくなった。

 便所は、舷の外に張り出してあり、その作り方も仮設であるので、なんともあぶなっかしい。連続した便所の床には、大きな樋のようなものが通っており、一方から海水がポンプでジャージャー流れていた。常続水洗便所である。

 嵐になって、大きく舟がゆれ、雨風がひどく、舷側にぶつかる波しぶきが、たたきつけるように上がるときには、便所ごと海に流されそうで、とてもこれに乗って用をたす気にはならなかった。

 台湾沖を通過するとき、その嵐にあった。さすがに、このときばかりは、蚊帳をかついで船倉に逃げこんだ。舟は大きくゆれて、大部分の者は船酔いになり、それでなくても衰弱した病院船の乗客には、相当こたえたと思う。航海は約十日であった。

 入港地は、神奈川県の久里浜であった。港について、一晩、碇泊した。検疫のためであったと思う。

 その夜、殺人事件が持ち上がった。人の話を聞いてみると、殺されたのは軍医で、殺したのは、鍼医であった。なんでも、その鍼医は下士官で、その軍医の下ではたらいてきたが、軍医からつねづね、鍼などで病気は治らない。鍼医は医者ではない、とばかにされたり、いじめられたのを恨み、寝ているところを、頸動脈を刃物で切って殺したのだそうだ。

 寝首をかかれるとは、まさにこのことで、内地の山を見ながら死んだ軍医も気の毒なはなしだが、それまでの階級をかさにきて、部下をいじめたのがタネだったのは、これも運命か、自業自得の結果だったが、船に警察官が上がってきて、犯人をつれていった光景を思い出す。