~勉強会の御案内~
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おかげさまで、前回の記事投稿により総投稿記事数が1440に到達しました。また、以前に、年内での目標記事投稿数を1440と述べましたが、その目標には到達し、次はその目標を1445に更新しようと思います。
年内残り10日あまりにて5記事を追加投稿することは、そこまで困難とは感じられず、また、これまで書き続けている【架空の話】の続きも作成したいと考えています。
この【架空の話】ですが、直近投稿の「其の55」は、投稿後4日にしては、思いのほか多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
他方で、専門職大学の編入試験からKでのアパート探しまでを概ね時系列的に書いた、其の1~其の52から少し時間が進み、GW後、学科にて開催の「飲み方」について書いた「其の53」も、さきと同様、自身の作成記事としては多くの方々に読んで頂いていたことから、次回投稿の【架空の話】は、この「飲み方」(「其の53」)の先を書いてみようと考えています。
しかし同時に、いずれであれ、これらを更に今後、書き進めていくためには、実際に現地を訪れ自身の記憶を励起させるか、あるいは取材的に現地での見聞を更新する必要があるのではないかと思われましたが、現今状況下では、それは叶いませんので、今しばらくは現在の環境下にて書き続けてみようと思います・・。
また、その際に多少役立つと思われたものは、自身の歯科技工学校時代のノートであり、これは先日、本箱の中から探し出しました。
当時、2007年頃の私は、文系院の修士を修了した直後のためか、変に理屈っぽくなっており、一方で、自らの手があまり器用に動かないことに、苛立ちのようなものを覚え、焦燥感のようなものを抱いていました。しかし、そうであっても初めて見聞する歯科医療分野の知識は大変新鮮であり、特に歯科材料学(歯科理工学)は、それまで文系院にて取組んだ、主に紀南地域の地域性検討のための一要素として定めた弥生時代の青銅製祭器「銅鐸」の作成手法が、原理的には、歯科医療分野での合金製歯冠修復物(メタルクラウン)と同じであったことから興味を持ち、自分なりに色々と取組んだ結果、その分野での大学院に歯科技工士として進むことになりました・・。
現在では、こうした歯科技工士の方々がいらっしゃることは知っていますが、当時(2009年)はかなり珍しかったのではないかと思われます・・。あるいは巨視的に見ると、これは一つの社会実験であったのかもしれませんが、その意味においては、私は「失敗した試作機」と云えなくもないです・・(苦笑)。
しかし他方で、そうした背景を持つ人間(そこでは私が歯科技工士であるということは背景の一要素となる。)が、これまたヘンテコにもブログ記事の作成をどうにか5年以上続け、そしてまた、書籍からの抜粋記事が少なからずあるものの、どうにか1400記事程度まで作成出来ていることは、直接的な社会有用性にはあまり寄与していないのかもしれませんが、それでも、何らかの新たな可能性を社会に示唆しているのではないかと、自惚れではありましょうが提示し、主張してみたくもなるのです・・(笑)。
ともあれ、年内に1445記事まで到達出来ればと思います。
去る20201022投稿記事にて、入った古書店で声をかけられ、新型コロナウィルス感染症のため中止となった「神田古本まつり」のパンフレットを頂いたことを書きました。そして本日、それと関連があるとも思われる出来事があったため、以下にそのことを書きます。
本日は、番町在の、かねてよりお世話になっている先生のもとにお歳暮をお届けした後、年賀状印刷の依頼をしようと、夕刻頃、4年前と3年前にお願いしたことがある神保町界隈にある印刷屋さんを訪ねました。
店舗内に入り「すみません、以前にも年賀状印刷をお願いしたことがあるのですが・・」と言い切らないうちに「はい、鶴木さんでしょ。」と、受付けをされている、少しご年配の快活な感じの女性に云われました。
それを聞いて「ええ!覚えていたのですか?」と訊ねてみますと「ええ、注文された原版は残っていないかもしれませんが・・。」と少し恐縮されたような感じになりましたが、私が驚いたのは、3・4年前に注文した客のことを覚えておられたことです・・。
ちなみに、この印刷屋さん(1937年創業)は、そこまで暇なお店ではないようであり、私が店内にいた数分の間だけでも、他に二人ほど、入れ替わりで注文していた年賀状や印刷物を引き取りに来られていました(神保町界隈は印刷屋さんが多い。)。
くわえて同界隈の薬局でも類似した出来事があり、試供品の栄養ドリンク(おそらく数百円相当)も頂きました・・(これは地味に嬉しかったです。)。
私は幼稚園児の頃から神保町界隈は出入りしており、それなりに長い(30年以上)とは云えますが、しかし、ここに来て、そうした出来事が続くことは、面白くはあるのですが、同時にまた少し不思議な感じも受けます・・。
また、そのように考えてみますと、私が幼い頃から読書を好んでいたのは、そうした環境(幼い頃から神保町界隈に出入りしていた)にも因るのかもしれません。
他方で、それら読む書籍の主題となることが多いと云える、主に西日本の史跡(古墳など)などに関しては、それらを身体感覚に基づき感じ、楽しむことが、以前と比べ困難になってきたように思われるのです。自身としては、この感覚を再び強めて行きたいと願っております。そして、その具体的方法については、もう少し検討していきたいと思います。
Kに住むようになり早や一週間近くが過ぎた。入学式まではあと数日あり、また東京から送った引越荷物も無事に届き、それらの開封・整理を行い、どうにか生活出来る状態にはなった。この時季のKは既にして暖かく、日中、家電などの配置のための力仕事を行っていると、思いのほかに汗をかいてしまうほどであった。
部屋の片付けを行い、一人暮らしで初めての自炊を行ったが、その献立は納豆ご飯に豚汁といった至極質素なものであったが自身の作としては悪くなく、その献立の残りは翌日に持ち越されたが特にイヤだと思うこともなかった。
また、Kに発つ直前に父から教えてもらった遠い親戚を挨拶のため訪問しようと、その住所をグーグルマップにて調べると、現在地から徒歩や市電やバスを乗り継いで1時間ほどかかるとのことであった。
書かれた住所は診療所のようであり、そこに冠された苗字は私のそれと同じであった。市電とバスを乗り継いでK市内の郊外と云えそうな場所、地域の小中学校の近くに診療所はあり、個人事業としては決して小さくはなく、またそのすぐ近くには診療所が併設したと思しきデイケア施設や訪問看護ステーションがあった。
どうやら、この診療所は当地域では古い存在であるようで、デイケアからは元気そうな声が聞こえてきた。私は決して新しいとは云えない造作の診療所に入ると、受付窓口にいる女性に「すみません***と申しますが、***(同じ苗字)先生はいらっしゃいますでしょうか?と、父から預かった名刺を差し出して訊ねると、その女性は名刺を両手で受取り、しばらく怪訝そうな顔をした後「ああ、院長先生ですね。ちょっと待ってください。」と云って、さらに後ろにある事務方の机の間を通り、その途中で何か会話をしていたが、やがて事務室のドアから出て、私のいる待合ロビーまで来て、そのまま診療所玄関の右手にある階段で二階に通された。二階に上がると、消毒臭というのだろうか、いかにも病院らしい匂いがしてきて、さらに廊下には白衣を着た医療職と思しき方々が歩いていたが、私は古風にも「院長室」と書かれた部屋に通され、そこで待つようにと慇懃な調子で云われた。
この「院長室」はまさに前世代、いや、より精確には昭和後期の「院長室」といった趣が濃厚で、あるいは、ひと昔前のドラマに登場する医学部教授室といった感じであった。とはいえ、室内に置かれている調度品や絵画がそれなりに格式があり、品良く思われたため、時代遅れで悪趣味といった感じは受けなかった。
やがて、さきとは別のスタッフの方がお茶を運んで来てくれて「院長先生はもうじき診察が終わって来ますので、もうしばらくお待ちください。」と云って去って行った。
さらにしばらく待っていると、やがてあまり身長が高くなく、どちらかといえばズングリした体型に白衣を着た、初老少し前、私の父とほぼ同年輩の精悍な感じの男性が入ってきた。この男性を見て直観的に思い出したのは、父と少し似たところがある沼津在住の親戚であり、肌の色合が何となく似ているように思われた。頭髪は額から後退気味であるものの整えられ、オシャレ感の乏しい銀縁の眼鏡をかけ、そして白衣の下には白のワイシャツを着て、ダークブラウンのニットタイを締めていた。おそらく毎日そのような感じであるのだろう。
院長はさきほど私が受付女性に渡した父の名刺を見て「ああ***さんの息子さんか。こっちの市民病院近くの新設の専門職大学に入るんだって・・。学部、いや学科はどこかね?」と訊ねてきた。
その感じは一種、鷹揚な快活さがあり、この後の経験で知ったことだが、開業医にはこうしたタイプは割合多いように思われる。
私はソファから立ち上がり、院長と相対していたが、この質問を聞くと「・・はい、あの口腔保健工学科というところでして、歯科技工士を養成するところです。」と若干緊張気味に返事をすると、院長は手振りで、私に座るように促され、そして自分も座り、おもむろに机上の電話機を取り、おそらく内線電話であろう相手に「ああ、私だが今日はここで昼食を摂るから、お弁当を二つこっちに持って来てくれないか?」と云い、さらに「あと、私にもお茶を持って来てくれないか?うん、それで良いよ、ありがとう。」と付け加えて受話器を置いた。
そのやりとりを見つつ、ボンヤリとキャビネットの上に置かれた木製彫刻に嵌め込まれた重厚な感じの置時計を見ると、丁度正午を15分ほど過ぎていた。
昼食時に訪問した非礼を詫びようと、少し口ごもると、院長はそれを制するように「うん、あの大学は最近出来て、ようやく去年あたりから卒業生が出るようになったのかな?私もあの大学の設置には少し働いたのだがね、まあ私が知っているのは看護学科だけかな?残念だが口腔だから歯科系の先生では知っているのはいないなあ・・。まあ、しかし、君のお父さんとは法事でこれまでに何度か会って、あと若い頃は会社の出張の時に会ったこともあるけれど、君はその息子さんかあ・・。と両手を組んで感慨深げにこちらを眺めた。
入学後しばらく経ち、GWも終わり、ようやく異郷の地での新たな学生生活にも慣れてきたある日、顎顔面解剖学の講義の後、休み時間に次の教養科目講義の準備をしていると、後ろから「今週の金曜日にクラスの皆で「飲み方」をしようと思うのだけれど、参加しますか?」とクラスメートが訊ねてきた。
その後ろの少し遠巻きに、さらに何人かのクラスメートが、この様子をそ知らぬ風で窺っているようであったが、当時の私としては、そうした集まりに呼んでもらえること自体がどうにも嬉しく「ええ、金曜日は空いていますので参加できます。」とほぼ間を置かずに返事をすると「ええ、分かりました。じゃあ、詳細はまた後でお知らせしますので・・。」と云い、去って行った。
小規模な大学での二年次編入とは、さきの一年の間に既にグループや、ある程度フィックスされた学生同士の交友関係などが出来上がりつつあるところに途中から入るわけであり、くわえて私の場合、多くの同期学生とは年齢が四つほど離れ、さらに利用できるような地縁も殆どないことから、入学当初は、自身の持つK独特の苗字からか、わずかに話しかけて来られる方々もいたが、しばらく経ち、私が余所者であることが周知になると、私は学科内で少し浮いた存在となっていることに気が付いた・・(笑)。
とはいえ、元来私はあまり好んで友達を作ろうとする性分でもないことから、そのままのいわば膠着した状態にて、この時期まで来たわけである・・。
さて、その日の講義が全て終わり、学生等が三々五々帰って行くなか、さきほど訊ねてきた同期の方が「あの、さきほどの「飲み方」のハナシですが、今週金曜日にT文館の「***」というお店で18:30開始の予定です。***さんは編入された新入生ですので支払いは結構です。」と、四つ程年下と思われる同期の方に告げられて少し困ってしまった。「あの、もちろん参加したいとは思うのですが、自分の分の会費はお支払いしたいのですが、それは可能でしょうか?」と訊ねてみたところ、彼女はしばらく考えてから「・・そうですか、分かりました。それは可能ですが、通常の会費の半額の1500円ということでお願いします。」とのことであった・・。こうしたやりとりから、そこまで杓子定規で頭が硬いわけではないようであり、他方で、そうしたことを考え、差配しようとする二十歳(はたち)そこそこの女性の実行力には少し頭が下がった・・。
GW後にして梅雨前、5月下旬のKの気候は充分に暖かく、日によっては夏を思わせることもあり「飲み方」の当日は、講義後に一度帰宅し着替えてから市電でT文館に向かった。この日も良い陽気であったため、少し色落ちしたネイビーのチノ生地のショーツの上に細いブルーのストライプが入った白シアサッカー地の半袖プルオーバーボタンダウンシャツを着て、その上にベージュ色のこれまた少し色褪せたラルフ・ローレンのチノ生地のブルゾンを羽織り、靴はネイビーのサッカニーのジャズを履いて行った。また、久々に帽子を被ることにした。それはあまりつば広でない、ベージュコットンのブーニーハットであった。
集合時間少し前に「飲み方」会場の全国チェーンの飲み屋さんの前に着くと、既に半数ほど集まっていた。私は多少遠慮気味にそちらの方に行くと、先日訊ねてきた同期の方が「ああ、もう大分集まってきましたので「お店の中に入ってください。」と云ったところです。」と話しかけてきた。
たしかに皆、会場のお店の中に入って行っているところであったが、こうして、その様子を傍から眺めてみると、彼等彼女等はいかにも若く、どうも高校生の様にも見えるように思われた・・。
どうしたわけか、ここ最近、当ブロガーにて作成している【架空の話】に書かれている内容に関する、具体的には自身の本当の出自であるとか、家族構成あるいは経歴などについてのご質問を頂くことが度々あります。とはいえ、それらのご質問全てが【架空の話】を読んで頂いたことによるものであるとも云えないため、もちろん、それらご質問に対しては自身に基づいて返答させて頂いています。
しかし他方で、それらのご質問のうちの幾らかは【架空の話】を読んで頂いたことによるものとも十分に考えられます。また、そうしますと、これまでに作成した【架空の話】は、ある程度、真に迫っていたとも云えるのかもしれません・・(笑)。
以前にも書きましたが、この【架空の話】では、未だkでの在住期間すら始まっておらず、またそれは、自身のKでの記憶のうちのほんのごくわずかであると云えます。そしてまた、それを時系列順に書き進めて行くことは、思いのほかに大変であるように思われるため、今後の【架空の話】の書きぶりについては、これまで通り時系列順に述べていくよりも、印象深い複数の出来事をある程度の期間を掛けて書き連ね、そして、後日、それらを時系列順に配置し直し、そして配列され全体となった文章の書きぶりについて随時調整していくのが適当であるのではないかと考えました。
これも、実際に行ってみないと、上手くそのように進むかは分かりませんが、とりあえずしばらくの間は、この手法を試みていきたいと考えています。